今回で、この小説『天湖』を読むのは2度目になる。丁度10年前、同じ『石牟礼道子全集不知火第12巻』で読んでいた。10年前読み終えた日が、今回の読み始めの日となる巡り合わせだった。
かなり感動した事を覚えている。内容も覚えていた心算だった。
それ故、今回の石牟礼道子読破計画の中で、この巻は飛ばそうかとも思った。
だが、丁度10年を経て、今回はどう感じるのかにも興味があり、図書館から借りて来ることにした。
ところがどうした事か、読み始めてみると、そこに展開されているのは、10年前の記憶とは、全く別の、極めて新鮮に読める小説だった。
覚えているシチュエーションと同じ場面がそこにはある。そしてそれは私の魂を浄化し、とんでもない高みに誘(いざな)ってくれるものである事も同じだった。だが、今回は、それに加え、単にそれだけの小説ではない、もっと深い世界が展開されていた。
30年前にダムの建設によって水没させられた南九州山地の天底村に、祖父征人の遺骨を撒きにやって来た、琵琶を引き継いだ征彦。
村人たちは「夢に見るとは、天底のことばかり」と語り合い、どうやら夢と現が区別できない世界に生きている。
分からなさの渦の中にからめとられてゆく
様にして、征彦はおひなとお桃母娘による、巫女の跡継ぎの儀に立ち会い、神歌によって水底へと連れられて行く。
次第に
村と自分との潜在意識がひとつに溶けあってゆくのを実感
する征彦だったが、この小説はそれだけではなく、都会の青年の回復と古層への同一化の物語を、容易には成就させない世界でもあることが描かれている。その事に今回ようやく気が付いた。
そもそもおひな母娘は、河原に建てた小屋に住み、畏怖されつつも素性を怪しまれ、村の非常の役を務めても、日常の中では「それとなく遠ざけられている」位置にある者たちである。母娘が役目を引き継いだ、口のきけない巫女のさゆりは、ダム工事を推進し、懐を肥やした山師の仁平宅に火を放って殺した上でダムに身投げした。
さゆりもその育ての親のお愛も、元は流民であった。
この女たちは、紅をつけ、酒を飲み、一晩中踊って帰らない、男たちを寄せ付けない秘密の時間を持ち合っているのだという。
本書は共同体の内部にあることの不可避の違和を生きる女たちの系譜としても、読まれるべきなのだろう。
10年前は、とてもその事に気付けなかった。一体私は何を読んでいたのだろう?