昨年12月20日までIGさんの主催するClubhouseで”もちよる詩集”の会があった。参加者各々が自分の好きな詩を持ち寄り、朗読して、その日に世界でたったひとつの詩集を編もうという企画だ。初期の頃、私は日本の詩人の朗読もしていたのだが、石垣りんさんの『挨拶』で、他の方とダブり、しかも私の方が遥かに下手だったという現実を突きつけられた。それならダブらないものをと考え、外国の詩人の詩を私なりに翻訳して朗読する事にした。
詩を訳し始めたのは、ヘッセの詩が発端だった。彼の詩を、何とか原語で読みたくて、中学生の頃ドイツ語を学び始めた。幾つかは、過去のブログに翻訳したものを載せていた。
そこから徐々に拡げていって、英語やドイツ語からはみ出て、フランス語やスペイン語の詩も訳していた。
ドイツ語やスペイン語は、原文をただひたすら睨みつけ、趣味の辞書を手掛かりに、日本語に置き換える作業をしてゆけば、なんとか翻訳は出来たのだが、困ったのがフランス語だった。マラルメの詩集を取り寄せ、辞書と睨めっこして、何とか訳そうと格闘したのだが、全く歯が立たなかったのだ。文法が必要だった。
その日からNHKの「まいにちフランス語」を受講して、フランス語に挑む事3年。最初は舐めていたフランス語文法も、それがいかに難しいかを理解するところまで到達し、良い訳とは言い難いものの、形だけでもフランス語を日本語に置き換える事ができる様にはなれた。
フランス語は発音も難しく、朗読しようという気がまだどうしても起こらない。
”もちよる詩集”の会では、最初に原語で詩を朗読し、その後訳詞を読むという形を続けていた。続けるうちに欲が出て来る。過去のブログより良い訳を読みたくなったのだ。
基本、既存の訳を探し出して、それより良い訳を付ける事を自分に課していた。それはともすると思い上がりに繋がり、とんでもない魔界に足を踏み込む事になりかねない課題だった。だが、少なくともヘッセに関しては、臨川書店から出されている全集よりは、遥かに良い訳だという自負は持っている。
次第に自分に掛ける負荷がどんどん大きくなっていった。
訳は進まず、日程は着実に近づく。
もう、訳詞のストックは全くないという限界に近付いた頃、”もちよる詩集”の会は、最終回を迎えた。正直ほっとした。
その時は、またIGさんが会を復活させる日の為に、着々と詩を訳しておこうと決心はしたのだ。
それから3ヶ月が過ぎた。この3ヶ月の間、私は詩を全く訳していない。それどころか、詩を読む事もやめてしまっている。
“もちよる詩集”の会が行われていた頃、私の机の左側には、詩集の高い塔が出来ていた。最終回を迎えた頃、私はそれを全て、本棚に戻していたのだ。
これではいかんなぁ…。そう感じた今日、久し振りにリルケの詩集を本棚から取り出した。「オルフォイスに寄せるソネット」を読んだ。
やはり美しい。
週にひとつでは多過ぎるかも知れない。だったら月にひとつでも、着実に詩を訳す作業を復活させようと、心密かに決心した。
材料は幾らでもある。困ったらGutenberg Projectを開けば、古典は幾らでも転がっている。後はやるだけだ。
かつて、詩を一緒に訳していた友人もいた。”もちよる詩集”の会もあった。それが今は、完全に独りだ。だが地質学をやっている頃も、私は完全に独りだった。それが私の基本的な姿勢の筈だ。私なら出来る!
またブログにゲーテやヘッセやリルケ。そして出来るならアルチュール・ランボーやマラルメを力づくで訳して載せてゆこう。
詩を翻訳する事は、事実上の不可能に挑む事だ。詩は、他の言語に移し替え出来ない。それを十分私は知っている。私は訳す作業の必然として、海外の詩を読み、味わわなければならない。逆に言えばそれが出来るという事だ。
誰の為でもなく、私の為に訳すのだ。
それが趣味というものの醍醐味だろう。
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