私は昨年の4月16日に『ダーウィン以来・上』を開いている。スティーヴン・ジェイ・グールドの進化論エセーの最初の巻だ。それから10ヶ月、図書館から毎月1作品2冊を借りて、読み進めて来た。昨日その最終巻『ぼくは上陸している・下』を読了した。スティーヴン・ジェイ・グールドのエセー集10作品20冊を、全て読破した事になる。
これらのエセー集を読むのは、初めてではない。日本語訳が刊行される度に、それを待つように購入して、貪るように読んでいた。今回は、全作品を、一気に通読する事に、主眼を置いていた。
2度目なので、もう目新しさはないだろうと予想していたのだが、新しい発見は十分にあった。中でも、進化論に対する私の誤解を、このエセー集によって幾つも正されたのは、有り難かったが、恥ずかしくもあった。もう20年以上も前に一度、それらの誤解から、解き放たれていた筈だったのだ。私は何度も同じ誤解に引き寄せられる傾向を持っていたのだろう。
私の進化論はダーウィニズムと言うよりむしろラマルキズムであって、それはもう100年以上前に、葬り去られた考え方なのだ。
スティーヴン・ジェイ・グールドは、取るに足りない様な些事に、いつも着目する。そこから世界を拡げていって、ダーウィニズム(と言うより総合説)がいかに妥当なものであるかを丁寧に論じてゆく。それがこれらのエセー集の醍醐味のひとつになっている。
そしてこれらのエセー集のもうひとつの醍醐味は、人物の評伝の巧さにあると思う。
今回も、何人もの科学者が、グールドの綿密な文献調査と語りによって、その全体像、魅力、教訓を明らかにされていた。
それらの対象人物に、グールドは限りない愛情を注ぐ。彼らをグールドは現在の視点、知識を基盤に評価する間違いを犯さない。グールドは常にその時代の人を評価するのに、その時代の視点に降りてゆく。
その度に私は、歴史を観るに当たって、取るべき重要な姿勢を教授された。
また、話の枕に使われる、オペレッタ、詩篇、評論の、守備範囲の広さにも、いつも驚愕させられる。並の蘊蓄ではない。凄じい知識量だ。
いつも残念に思うのは、グールドのエセーに度々登場するギルバートとサリヴァンのオペレッタを、私は全く知らないという事だ。知らなくても、それらのエセーを読むには差し障りはないが、知っていれば、グールドのエセーをもっと楽しめるだろうと想像するからだ。
スティーヴン・ジェイ・グールドの10作品20冊のエセー集を、かつて私は私蔵していた。それはこのブログにも書かれている。だが、引っ越しの際、手狭になる新環境に合わせて、図書館にある本は全て売ることにした。グールドのエセー集も手放した。苦渋の選択だった。その為、今回の再読で、図書館を利用する事になったのだが、どうなのだろう?本を持っていたら、私はこれらのエセー集を、一気読みで再読することはなかったのではないだろうか?
エセーの中で、グールドが前作を参照している箇所に出会う度に、私は呻吟した。その本が手元にないからだ。だが、それを除けば、グールドのエセー集を、全て持っていなくても、十分楽しめた。
スティーヴン・ジェイ・グールドは、このエセー集を2001年9月11日の事件で閉じている。それは、彼の祖父が「ぼくは上陸している」と記してから、ちょうど100年後の出来事であった。ミレニアムに合わせて、グールドがそのエセー集の連載を終了させる事は、事前から決められていた事であったが、グールド自身も、この終了の仕方は、全く予期していなかったものだったのではないだろうか?
『ぼくは上陸している・下』を読み終え、本棚に戻した時、私は言いようのない強い感慨に包まれた。取りも直さず、私はこれらのエセー集と10ヶ月という月日を共にしたのだ。
スティーヴン・ジェイ・グールドのエセーは、決して読み易いものではない。特に事前に進化論についてのある程度の知識と考えを持っていなければ、その読書は苦しいものになるだろう。スティーヴン・ジェイ・グールドは、決して片手間に、これらのエセーを書いているのではないからだ。彼は学術論文を書くのに匹敵する姿勢で、これらのエセー群を書いている。ひとつひとつのエセーが、まさに真剣勝負なのだ。
私は10ヶ月間、これらのエセー群とまともに格闘した。そして、その全てを読み終えた今、私はそれらの読書体験が、私の中で貴重な財産に変化しているのを、はっきりと感じるのだ。
私の中で、10作品20冊のエセー群は、確かな存在として、特別な本として、ずっしりとした重さを持ったものになって煌めいている。