けれど本を手にする迄はその文章を読む事が出来ない。私の書評も少しは存在価値があろうと言うものだろう。
この所読む本に当たりが多い。今回のワイルド著・小尾芙佐訳による『幸福な王子/柘榴の家』も大当たりだった。
著者は勿論の事、訳者、解説者、編集者各人がそれぞれとても良い仕事をされているのが分かった。
訳者あとがきで小尾芙佐さんは意気込みを語っている。
ワイルドはこの童話集を子どもたちに話してきかせるため、そして繊細な心をもつ大人たちに読んでもらうために書いたといわれているが、ワイルドが意図するところは、あくまでも繊細な心をもつ大人たちのためということではなかったかと思われてならない。これを読みおえたとき、わたしの大人のこころが感じたままに訳してみたいという思いが湧いた。本来の童話という形から外れるかもしれないが、そこに秘められているもろもろを、わたしなりに世の大人たちに伝えたいとおごがましくも考えたのである。
そこに秘められているもろもろとは何だろうか?
仮に、ワイルドの童話集が子どものために書かれたものであるとするならば、これらの作品はこれ程迄に怪しい光を放ってはいなかったのではないだろうか?
もっとストレートに、身勝手を戒め、思いやりの大切さを説く、道徳的な教訓に即した童話として書かれたのではなかろうか?
ワイルドの童話にはそうした道徳的な教訓を説くという目的から、大きくはみ出す過剰な愛が描かれている。
そして人間にたいするセンチメンタルなペシミズムと失望と皮肉な絶望にみちみちている(St. Jhon Ervinem, Oscar Wild. S Present Time Appraisal, p.124. 1951)
子どもに読み聞かせるために書かれたとするならば、余りにも毒が効きすぎているのだ。
その毒は、また大人の鑑賞に堪えうる厚みと深さを物語に与えている。
ワイルドの童話は、そうした読みが可能になるだけの、批判的な視点を必要とする。それを獲得する以前の子どもには、読解の難しい作品群と言えるのではないだろうか?
翻訳でまず目に付くのは、外来語を主として用いられている漢字の多さだ。蒼玉(サファイア)、紅玉(ルビー)、燐寸(マッチ)、蛋白石(オパール)、馴鹿(トナカイ)、天鵞絨(ビロード)、仙人掌(サボテン)…など用例には事欠かない。
これらを漢字で表現する事によって、訳者は物語全体に、不思議なロマンティシズムを与える事に成功している。また、ワイルドの英文の格調高さを、日本語に移植する事にも成功しているように思える。
また、子どもを意識したですます調ではなく、常体を用いた事も、物語全体を締まりのある堅牢な構造の元にまとめ、凜とした美しさを演出することに成功している。
これが敬体で書かれたとするならば(そうした訳が従来殆どだったのだが)、物語はもっと安易なセンチメンタリズムに流れてしまっただろう。
この本の登場によって、ワイルドの格調高さを持った、大人のための童話集を、我々はようやく手に入れる事が出来た。この書評を書くに当たって、もう一度この本を読みかえしたのだが、そこには水晶のように硬質に輝く美しい文章があった。
読んでいて、この童話を通してワイルドは、何が言いたかったのだろうか?と戸惑う事も多かったが、再読してみて、何よりもこの本はワイルドが醸し出した美しさをまず感じ、味わう事が大切なのだと思い至った。
驚くべき美しさである。
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