妙な時間に寝てしまった。お蔭で妙な時間にBlogを書き初めている。妙に宙ぶらりんな気分だ。
最近、この宙ぶらりんという状態は意外に大切なのではないかと思い始めた。
拙速な答えを出すくらいならば、宙ぶらりん状態に耐えている方が遥かに生産的だ。…生産的か?
人間にとって宙ぶらりん状態で耐えているというのは結構厳しいものがある。
肉親が重い病気を患って入院していると、例えば、その病気が癌であれば癌の本を夢中で貪り読む。何らかの答えが欲しいのだと思う。だが、大抵本には答えは書いてない。ただ、傍らに佇むしかない自分に耐えられず、病気を放ったらかしにして病気の本を読んでいるだけだ。
ならば、病んでいる人のそばに佇んで、宙ぶらりんの状態のまま看病を続けていた方が良い。これは自分自身に対しても当て嵌まる。
今日も、宙ぶらりんな日だったので、仕方なく仕事をする。
仕事時間が過ぎたら本を読む。
mixiに的外れなコメントを書く。
殆ど外に出なかった。
外に出た時、久し振りに遠くの山々が見えた。今迄雲に隠れていたのだが、その雲が上がると絵の具が塗られたようにくっきりと境を作って、見えていなかった所の白が濃くなっている。
衛星画像ではほんの小さな雲なのだが、その小さな雲は、確実にひとつ深い冬を伝える。
何故、部屋から見ないのか?
暖房費を節約する為にカーテンを閉め、防寒具を着込んで仕事をしているからだ。我ながら情けない状態だと思う。世の中ではこれを引き蘢りと言う。実際にそうだと思う。否定出来ない。
その内に、宙ぶらりんと寒さに耐えられず、布団の中に潜り込んでしまった。寝転がって本を読もうと思っていたのだが、寒くて手を出す気になれない。で、妙な時間に眠り込んでしまった。
宙ぶらりんは意外に大切だと書いたが、それはその状態を耐えて初めて言える事だとつくづく感じた。耐えられなければ単なる怠惰な状態に変貌する。
2 件のコメント:
面白い指摘ですね。
「愛する」ということについて似たようなことを考えたことがあります。
教会に熱心に通っていた頃、「愛さ」なくてはいけないという思いが強かった。
そこで「愛する」ために、何をすればいいのか、というのが問題になります。行為として愛を示そうとすればするほど、その行為のための行動、自己満足の行動となり、反対に人を追い詰めることにもなりました。クリスチャンには往々にしてある傾向だと思います。でも、関係って絶えず「愛さ」なくてはいけないという強迫観念によって駆り立てられるものではなく、ただそこにいる、時間を共にするといったことの中から立ち上がるものだし、何もしていない多くの時間があって行為が意味を持つのですよね。これは、社会的な「正義」に関しても言えるのでしょう。
「捜す者は見いださない。しかし捜さない者は見いだされる」という言葉を最近知りました。
またまた放置するところでした。先程「男を病む」にコメントをお返ししたばかりで、気紛れにリロードしなかったら気が付かないところでした。
>Jasmineさん
愛するという行為は、全くの自発的な行為でなければ意味がない。わたしはそう思っています。けれど実際にはそれをまた杓子定規に実行しようとすると、社会生活を送る事が困難になってしまう。
具体的には単なる浮気性として妙な噂だけが立つ。
…それ以前に多くの人の警戒心だけを募らせ、孤独になるだけか?わたしの場合。
宙ぶらりんってーのは結構大切だなぁ…と思い始めたのは、誰のどの本が切っ掛けだったのか判然としないのが、これまた宙ぶらりんなのですが、精神医学や心理学の本を読み続けている中での出来事でした。
精神医学や心理学も科学なので、きちんとした答えを出す目的で本は書かれている筈なのですが、何故こんな事になったのか自分でもよくわかりません。
ただ、宙ぶらりんのまま放置しておく、もう少し当たりのいい言葉で言えばペンディングしておくという態度も、意外と科学の世界でよく行われている事だと思います。
よく分からないけど拘らずにやり過ごしてしまおう。
そんな事の方が日常の中では多い。
そのうち、運が良ければいつの間にか答えが言葉以前の形で自分の中に存在しているのにびっくりする事があります。
>「捜す者は見いださない。しかし捜さない者は見いだされる」
この言葉は至言ですね。
愛されたくて無我夢中だった時には殆ど孤独でした。
貪るような愛の探し方をしなくなってから、少しずつ他の人とコミュニケーション出来るようになって来たかも知れません。
恋愛でも仕事でも「こんなにわたしが…」では周りが疲れてしまいます。
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