息をする為に、深い水底からあがいて水面を目指している。それがわたしがここでしている事の総て。
自分の生が無駄である事は、嫌という程自覚させられて来た。
つまりは無駄な人生をいかに有意義に過すか?それしかない訳だけれど、息苦しさの余り自分で自分の誇りを時折かなぐり捨てる。
少し前の、地中深く埋め込まれてしまった様な感覚からは抜け出す事が出来た。これは大きな前進だったと思っている。だが、当然の様に、抜け出した所は深い水底だった。
獲得した前進とは手足をばたつかせてあがく事が出来るという事。
時は急速に止まりつつあるが、この無駄な人生はそろそろ終わりの時を迎えるだろう。それをどの様に演出するか?それを考えなければならない時に、ようやくあがく事が出来る様になった。
時を動かす者の不在。その事実が重くのしかかる。その存在から自由になれている。そう思いなおすこともあるのだが、誇りの所在を見出せない。
科学は狭い。その事を感じる。それでよいのだとも思う。もはや「科学的」である事を理由に、ある言動を高く評価することは出来ない。
音楽や文学は広く、その事だけにすら、時に、感動を覚えてしまう程だ。だがわたしは何かを棄てられる程自由ではない。
ここでやろうとしている事は何?それを書き付ける事は無駄話だが、良い機会だ。その事を考えよう。
漱石は水面に辿り着く寸前に息絶えた。残念だが、偉大な事だと思う。
泡を、全世界だと、思わないようにしないとね。>じぶん
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