20241118

美術の物語

B5サイズで688ページ。かなりの大型本だ。だがこれでも削りに削った結果だと言う。

先史時代から現代に至る迄の美術の歴史が網羅されている。しかし本の題名は『美術の歴史』ではなく、『美術の物語』だ。この辺りから著者エルンスト・H・ゴンブリッチのこだわりが垣間見える。文章はシンプルで簡素。だが内容は決して媚を売っておらず、かなり高度な思索が綴られている。添えられている美術品の写真は、どれも厳選されたものらしく、美しく、そして個性的だ。


世界史と美術に関する知識量の豊富さには、とことん驚かされる。そして、それを他者に分かり易く伝える技術にも感心させられる。

著者の頭の中にある膨大な知識が、よほどきちんと整理されているのだろう。

更に感心するのは、こうした西洋人が書く世界史物は、ヨーロッパに限定されがちなのだが、著者の視野がイスラム、中国、そして日本に迄及んでいる事だ。

この様にして、著者の美術史は、正しい意味で世界史となる。

著者は、美術の歴史物語を編むに当たって、まず事実を丹念に記述して行く。制作された時代、作者、そしてその時代背景。著者の見解はその延長上に置かれている。それは、事実の記載と極めて整合性を持つ為、読者に自然に受け入れられる様に配慮されている。

読者は本書を読む事によって、美術史の全体像を、極自然に獲得する事が出来る。

図版と本文の調和は、本書の特筆すべき魅力のひとつだろう。厳選された図版は本文で、要領良く説明されており、読者は紹介された美術品を、本書を読む以前より、遥かに詳しく鑑賞することが可能になっている。

人類は、その歴史が始まる頃から常に、美しいものを生み出して来た。その歩みは途絶える事を知らず、現代もまた、数多くの美術品を生み出し続けている。

だが、この様に人類の美術史という物語を概観してみて、現代の芸術家の誰が、未来の美術にその名を残すかは、誰にも分からないのではないかという感想を持った。

ゴッホの同時代人には、ゴッホが後の世で、これ程高く評価されるとは、想像も出来なかっただろう。

また、美術の様式についても、これから先どの様なものが出現するのかは、予想不能な事柄なのだろう。

各時代で、芸術家たちは、一寸先だけ見えていて後は闇の状況を、全力を挙げて生きて来た。凡庸な私たちは、それらの結果を後になって知り、芸術作品を堪能する恩恵に浴する事が出来る。

或いは本書の目的は、美という永続的な営みが、常に完成と限界の狭間で身悶えするように行われる予想不能な営為である事を、そっと指し示すところにあるのではないだろうか?

だが一方で、21世紀という現代が、『美術の物語』という書物を、纏めるべき時代だという事実にも気付かされる。例えば、これから先、平面絵画の巨匠は、現れないだろう。

本書を読んで、私は先史時代から現代に至る、様々な芸術を、心ゆく迄味わい尽くしたいという欲求に突き動かされている。何と言っても、現代は、それが可能な時代なのだから。

20241106

なぜガザなのか

読んでいて、身体がガタガタと震え出すのを堪えるのに必死だった。夢中で、怒りと自責の念に駆られながら、一気に読み切ってしまった。サラ・ロイ『なぜガザなのかーパレスチナの分断、孤立化、反開発』だ。


最初、しくじったかと思った。冒頭の序論「本書の位置付けと概要」で、本書は同じくサラ・ロイ『ホロコーストからガザへ』の続編にあたると書いてあったからだ。

『ホロコーストからガザへ』は、2009年に出版されている。その時から気になってはいたのだが、未読である。

だが、繰り返しこそ避けられているが、前著の概要は、本書でも触れられており、未読をそれ程気にする事なく、読む事が出来た。むしろ今現在、ガザに対するイスラエルの攻撃がヒートアップしている事などを考えると、『なぜガザなのか』を先に読んでしまった事は、タイムリーだったという気もしている。だが、勿論これは『ホロコーストからガザへ』を読まない事を意味しない。出来るだけ早く読もうと思っている。

サラ・ロイは長年、ガザに注目し、ガザをフィールドに研究を続けている。その眼力は鋭く、的確である。本書はそのサラ・ロイの論文3本と、その翻訳を行なった日本の研究者3人の考察を収めたものだ。

パレスチナに関しては、日頃から意識的に、関心を抱いて来た。

世界史の矛盾が、集中的に現れている地域だと思う。現在ニュースで報じられている、イスラエルによる軍事侵攻だけではなく、日常的に展開されている占領状態、入植という名の侵略、ガザに対する包囲は、現代を生きる我々に突きつけられた、課題だ。

しかも、これは本書でも再三触れられている通り、日本は決して他人事ではなく、明らかに加害者の側に身を置いている。遠い中東の出来事ではあるが、とても無関心である事は許されない国際問題だと考えるからだ。

本書は、国際社会のパレスチナに対する態度の矛盾を、クリアに論じている。

私も、本書を読む事で、今回の軍事侵攻に対して、ヨルダン川西岸地区がなぜ沈黙を守っているのかを、ようやく理解する事が出来た。

だが、パレスチナに対して行われているイスラエルの支配は、とてもではないが、同じ人間として、これ程酷い仕打ちがなぜ許されているのかと、強い怒りを覚えずにはいられない。

サラ・ロイの分析で、西欧諸国ではなぜか高く評価されている所謂オスロ合意が、いかに欺瞞に満ちた政治であったか。西欧諸国はなぜパレスチナではなく、イスラエルの側に立とうとするのかなどが、鮮明に浮かび上がらされている。

間に挟み込まれる岡真理・小田切拓・早尾貴紀の考察は、では日本はどうなのかという問題を、容赦なく我々に突き付けて来る。

我々が現代に生きるとするならば、我々は何をどう考え、どう行動して行けば良いのか?

本書を読んで、その事を考えざるを得なかった。

ガザの犠牲者は4万人を超えた。その今本書はmustの論文だと、私は強く訴えたい。

20241026

性的人身取引

このブログで、本を扱う時は、その本を読んで貰いたいと願いながら書いている。しかし、今回採り上げるシドハース・カーラの『性的人身取引ー現代奴隷制というビジネスの内側』程、是が非でも読んで欲しいと願った事は、今迄に無かった。

読んで、気持ちが良くなる本ではない。むしろ現実の惨さに、思わず目を背けたくなるような内容だ。実際、私もこの本を読み始めて、一度、どうしても読み続ける事が出来なくなった。挫折したのだ。


今回意を決して読了に迄漕ぎ着ける事が出来た。この本を読むには、心の準備が必要だ。

著者シドハース・カーラは、世界中の現場に身を挺して飛び込み、危険を犯しつつ取材する事によって、セックスワークに携わる少女たちが、現代に蔓延る奴隷状態の中に投げ込まれた存在である事を明かにしている。

本書は、世界各国の実例を引きながら、その現代奴隷制がどの様に営まれているかを記述している。読んでいて気付くのは、少女たちをセックスワークに引き摺り込む手口が、世界のどの地域でも、まるで収斂進化を見ているように、相似形を成していると言う事実だ。

貧困に喘いでいる少女たちがそこから抜け出そうともがく、その意図に付け込んで、騙し、脅し、辱める事によって、セックスワークから抜け出せない様にする。

その手口は巧妙でまるで蜘蛛の巣の様に少女たちを絡め取って行く。

読んでいて、怒りと恐怖で、身体が震え出すのを、私は抑えられなかった。

この本の優れた点のひとつは、その現代奴隷制をなくす為の政治的な枠組みを、懇切丁寧に提案している事だ。少ないリスクと過大な需要がある。だから現代奴隷制は無くならない。ならばリスクを高め、需要を抑える方向に、社会の仕組みを作ってゆけば良い。

簡単に纏めるとそう言う事になるのだろうが、それを現実に実践して行く為の方策を、著者は丁寧に、そして説得力を持って、提案している。

その部分を含めて、やはりより多くの人に、この本を読んで貰いたいと願って止まない。

先ず現実を知る事。それに敗北しない事。全てはそこからしか出発出来ないだろう。

20241021

19世紀ロシア奇譚集

学校教育では、美術では印象派が、文学ではリアリズムが幅を利かせている。19世紀のロシア文学と言えば、レフ・トルストイであり、ドストエフスキーであり、まるでそれ以外のジャンルは、芸術ではないかの如き勢いである。


本書、高橋知之編訳による『19世紀ロシア奇譚集』には、リアリズムの隆盛の影に追いやられ、忘れ去られてしまっていた作品たちが発掘され、収められている。

採り上げられた作家たちも、トゥルゲーネフ以外、全員初めて聞く名前ばかりで、読書も、新鮮な気分で進める事が出来た。

編訳者によると、これらの作品に影響を及ぼした要素として、「フォークロア」「西欧文学(ゴシック小説の受容・クリスマス物語と怪談)」「オカルティズム」があったと言う。

個々の作品に関しては、本書を読んで頂くのが一番だと思うので触れないが、総じて、とても楽しい読書体験になったと言うことは、是非報告させて頂きたいと思う。

どの作品にも、共通して非常に幻想的な雰囲気が通低音の様に響いている。その幻想的な雰囲気こそ、リアリズムが徹底的に排除して来たもの、そのものだと思うのだが、いざ、実際に読んでみると、独特の快感にそそられるものがある。

文学には、こうした「実際にはあり得ない事」を、実感を込めて味わわせてくれるという機能もまた、あったのではないだろうか?

リアリズムにある、重厚長大さこそないが、これらの作品には、巧みなプロットに思わず引き込まれてしまう快感が、十分過ぎる程存在する。

リアリズムを貶めようと言うのでは勿論ない。だが人間の想像力というものを考えた場合、それをリアリズムだけに閉じ込めてしまうのは、余りにも勿体無いと思うのだ。想像力にはリアリズムから思わずはみ出してしまう広大さが、多分あるのだ。

20241016

カノッサ

 S.ヴァインフルター『カノッサー「屈辱」の中世史」。原書は”CANOSSA-Die Entzauberung der Welt”。世界の脱魔術化と直訳出来るのだろうか?刊行後20年以上を経て尚読み継がれるロングセラーらしい。


カノッサの屈辱はその印象的な呼称と出来事から、高校生以上ならば誰でも記憶している西洋史上の出来事である。

だが、専門家の間では、番狂せ、奇襲、煙幕、茶番と様々な評価が入り乱れ、定説が定まらない出来事であるようだ。

この本は、それらの論争に、決着を付ける為に書かれている。

従来1076年から1077年1月に限られていたカノッサ事件を、その前史、後史を含めて捉えることによって、全体像の把握に成功している。

それだけに登場人物も高校教科書の様に、皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世に限られず、彼らを取り巻く様々な人物が入り乱れる。それらの人物相関関係を理解するだけでも困難を感じた。

だが、流石にカノッサ事件の描写は丁寧で、今迄知らなかった事実を数多く理解する事が出来た。

カノッサ事件は、それによって皇帝権を教皇権が凌駕するに至ったと言うような単純な出来事ではなく、その後ハインリヒ4世の逆襲あり、その後を継いだハインリヒ5世による裏切りありと、予想以上にドラマチックな展開を示したようだ。

皇帝と教皇の叙任権闘争は、その諸段階を理解する事が、歴史を素直に理解する上で、重要である事が分かった。

中世史に興味を抱く人にとってこの本は、当に必読の書と言えるだろう。

20240923

月曜か火曜

ヴァージニア・ウルフ本人の手によって選ばれた、唯一の短編小説集の復刻である。


本書に含まれた8つの短編には、いずれも邦訳があるが、8篇全てを一冊にまとめて収録した邦訳はこれまで出ていない。

更に本書は8篇を元の順番に並べ、初版で使われていたウルフの姉ヴァネッサ・ベルによる4枚の木版を、元の位置に相当するところに挿み、同じくベルによる表紙を扉絵にしている。

初版と異なっているのは、日本語に翻訳されているという事と、読みやすさを考慮して、「ある協会」と「書かれなかった小説」に改行を増やした点のみである。他の短編には新たな改行も加えられていない。

本書を一読して気付くのは、それぞれの短編が、現代にも通用するレベルで、高度に実験的な手法で書かれているという事だ。

そしてそれぞれの短編で、それぞれの新しい試みが施されている。

初版は、売れなかったらしい。恐らく、時代がヴァージニア・ウルフに追い付いていなかったのだろう。

今でこそ、ヴァージニア・ウルフは永遠のフェミニストとされているが、当時は、その面でも十分に評価されていたとは言い難い。

本書で、もうひとつ驚いたのは、訳者による、丁寧な解説が加えられている事だ。これは驚くべき充実ぶりを示す文章であり、これだけでも一冊の本として成立するだけの内容とヴォリュームを持っている。

ヴァージニア・ウルフをまだ読んでいない方にとっての、入門書としてのみならず、既にかなりの冊数をこなしている方にとっての発展の場としても、貴重な一冊となる事は間違い無いだろう。

ヴァージニア・ウルフが気になっている、全ての方にこの本をお勧めしたい。

20240830

捜査・浴槽で発見された手記

スタニスワフ・レムを知ったのは、いつの事だったのだろうか?

かなり前、まだ膨大な本を所有していた頃、私はスタニスワフ・レムの『高い城・文学エッセイ』を持っていた。これが発行されたのが、2004年の事なので、ほぼその頃から、彼を意識していた事になる。

けれど、気になっていながら、私は彼の本を放置したままにしていた。

その後引っ越しで本を整理しなければならなくなって、スタニスワフ・レムの本は図書館で読める事もあって、古本屋に売ってしまっていた。

以来彼の本は、頭のどこかに鎮座していたものの、読む機会を常に逸し、手に取ることが無かった。

ようやく読んだ。スタニスワフ・レムを知ってから少なくとも20年経って、やっと1冊読み終える事が出来た。


読んだのはスタニスワフ・レムコレクション第2期に含まれている『捜査・浴槽で発見された手記』だ。

期待通り、スタニスワフ・レムの小説は一筋縄では行かない、読み応えがあるものだった。

「捜査」にはメタ推理小説という、また「浴槽で発見された手記」には擬似SF不条理小説という売り言葉が付されている。

「捜査」は、死体が動き、そして消えるという謎の犯罪が描かれている。普通推理小説ならば、その謎に探偵が果敢に挑み、丁々発止と謎を解き明かすという展開になる。だがそこはレムの事。その様には筋が進んで行かない。捜査の責任を負ったスコットランド・ヤードのグレゴリー警部補が、真相の解明に乗り出すが、真犯人に繋がる手掛かりは見つからない。そのまま捜査は難航を極める。推理小説には謎が付き物だが、その謎が哲学的なものだったらどうなるのか?レムの読者への挑戦は、スリリングな展開を示す。

「浴槽で発見された手記」はまえがきがそのままひとつの独立したSFの体を成しており、そこから展開される手記もまた、不条理に満ちた複雑極まる筋をなぞる。

この「浴槽で発見された手記」を読んでいる間、私はそのノリに、どこかで出会った事があるような、懐かしさを感じていた。

読了後読んだ芝田文乃さんの解説によると、「浴室で発見された手記」は、ヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』を下敷きにして書かれているとの事だった。

『サラゴサ手稿』はつい最近全訳が出版され、読んだばかりだった。私は大いに納得した。

20年スタニスフワフ・レムを放置したのは、単なる偶然の事だったのだが、お蔭で順番通りに作品を鑑賞出来た事になった。

この本を読んで感心したのは、スタニスワフ・レムの作品世界の広大さ、多面性だった。とてもひとりの作家から紡ぎ出されたものとは思えない程、作品の質感は万華鏡の様な多彩さを持っている。

スタニスワフ・レムコレクションも第2期を終了させており、彼の作品を日本語で読める環境は十分に整っている。

またひとつ人生に楽しみが増えた。