20250827

「私」は脳ではない

還元主義が大流行りである。

人間を含めた生物の事であれば、遺伝子か脳に還元すれば型が付く。そうした論調が、世の中に溢れ返っている。

正直に告白すると、私も一時そうした時勢に相乗りしようとした事もある。だが、そうした考え方で物事を割り切って行くと、どこか心に隙間風が吹く。

どうしても何か見落としている感覚が残り、強烈な違和感に襲われて来た。

だが、それをどの様に表現したら良いのか分からないまま、漫然と過ごして来た。

そんな折、この本に出逢った。


この本は『なぜ世界は存在しないのか』と『思考の意味』に挟まれた、マルクス・ガブリエルの3部作の真ん中に当たる。

「私」という現象は、全てが脳に還元出来るものではないことを、理論的に説いている。

読者としては、一般の人々を想定しているらしく、書き方の手付きは柔らかく、ジャーゴンを用いた場合は必ずその解説を付けるなど、細かな心遣いがなされている。だが、

本書で採用するのは反自然主義の視点です。つまり、存在するすべてのものが実際に科学的に調査可能であるわけでも、物質であるわけでもない、という前提に立っています。

と表明がなされているところなどは、極めて挑戦的な本であるとも言える。

つまりマルクス・ガブリエルは唯物論に反旗を翻しているのだ。

それ故にだろうが、読書メーターなどでは、読む価値がない本と断言しているものもあったが、一読した限りでは、そう目くじらを立てる必要はないと感じた。

本書のクライマックスは、そうした反自然主義の表明にあるのではなく、全てを脳に還元するような見方から脱却することで、私たちはようやく自由や民主主義等の自己決定という精神の自由が擁護されるというところにあると私は思う。

現実的に私などは本書を読むことを通じて、様々な思い込みから解放され、心の有り様がかなり楽になるのを感じた程だ。

何よりも本書は、私が長年感じ続けた違和感に、ようやく言葉を与えてくれた本であると言えると思う。

20250822

オーウェルの薔薇

実はこの本、一度頓挫している。

2年半前に読み始め、1/3くらいで読むのをやめてしまったのだ。

理由は面白くなかったなのだが、他にも私はオーウェルとオーソン・ウェルズを取り違えており、話の脈略が分からなくなってしまった事がある。

オーソン・ウェルズの『市民ケーン』には、薔薇の蕾という「謎の言葉」がある。それが一向に出て来ないのに痺れを切らし、飽きてしまったというのが真相だ。

だが、今回読み始めて、この本がこれ程面白いのか!とびっくりする程だった。驚いたのはそれだけではなく、一度読んだ本ならば、エピソードのひとつくらい覚えているものなのだが、それが全く無かった事がある。

私は何を読んでいたのだろうか?


本書はジョージ・オーウェルの伝記である。と、そう言うのは早合点のようだ。著者レベッカ・ソルニットの断り書きによれば、本書はこれがすでに多く出されているオーウェルの「伝記」の書棚に付け加えられるものではなくて、彼が1936年に薔薇の苗木を自宅に植えたエピソードを「取っ掛かり」とした「一連の介入」だと言う。

確かに、オーウェルから完全に離れてしまうのではないが、関係のない事柄にしばしば話が飛ぶ。

そのような思考のそぞろ歩きを経て、小宇宙のような多彩な拡がりを見せながらも、一冊の本としての統一感は保たれているという、ソルニットの書きぶりの真骨頂がそこにはある。

そのそぞろ歩きは、化石燃料としての石炭(そこから更に脱線して描かれる石炭紀の描写は、並大抵の学習ではここ迄は無理と思われる程見事に纏まっている)と炭鉱労働。帝国主義や社会主義と自然。花と抵抗を巡る考察。現代の薔薇産業などを経て、未来への問いへとつながっている。

薔薇にはどこか特別なところがある。古くから人々を魅了し、多岐にわたる品種改良の歴史を経て世界中で身近な存在であり続けている。

それは文学や絵画音楽などの芸術において繰り返し採り上げられ、時に美そのものの象徴のようにも考えられて来た。

美しいもの、自然であるもの、それらは政治に対して超越的な価値を持つと考えられがちだ。だが本書を通してレベッカ・ソルニットが明らかにしているのは、薔薇は、そして自然は、政治的でもあり得るという事だ。

ソルニットのそうした思索は読者に驚きと衝撃を与えるが、それは同時に解放であり、覚醒でもある。

今まで、レベッカ・ソルニットという書き手は、どちらかと言うと苦手にしてきたが、その苦手意識からも、今回の読書体験で解脱出来た気がする。

今迄読み逃して来たものを、近いうちに再度読み返したい気分に駆られている。

20250812

薔薇の名前

遂に読んだ。読み切ってしまった。今、強烈な読後感に圧倒されている。

ウンベルト・エーコの代名詞とも言える小説『薔薇の名前』を読破した。

今住んでいる団地に引っ越して来る前、私はこの作品を所持していた。けれどその存在感に負けて、少し読み始めては敗退するを繰り返していた。

そのうちに、この作品を読むには、年齢が高くなり過ぎてしまった様な気分に支配され、読まないまま、図書館にあるという理由で、古本屋に売ってしまった。


今回、図書館から借りての読書となったが、この様な切っ掛けがなければ、そのままずるずると読まずに過ごしていた可能性が高い。

年齢が高くなってしまった事も、これは読んでいる最中に感じたのだが、逆に功を奏したと感じた。

この作品には、読者の歴史の知識、語学力、そして何より読書量を試して来る様な気配がある。幸いな事に、私は既に『デカメロン』も『神曲』も読んでいる。ウンベルト・エーコが仕掛けたトラップに、引っ掛かる事なく、逆にそれを味わいながら身をこなして行く事が出来た。これも長い事生きて来て、様々な経験を積み、読書体験もそれなりに重ねて来た事が生きたと感じた。


内容に関しては、触れずにおく。実際に読んだ方が、楽しめるし、下手に要約すると、この作品が、単なるエンターテイメントと誤解を招く結果に導きかねない。

この作品は映画にもなっており、そのBlu-rayは所持しているが、有体に言って、原作の方が圧倒的に良い。特にラストは原作と映画は全く逆の展開を有しているが、映画の終わり方は折角の世紀の名作を台無しにしていると感じる。

敢えて言えば、映画ではグレゴリオ聖歌を実際に聴く事が出来、その点は楽しめた。

『薔薇の名前』を読破し、長い間抱え込んでいた課題を、ようやく果たせた様な、爽やかな気分にも浸っている。

これから先も、何度も私はこの『薔薇の名前』を読むだろう。

20250805

方丈記

1日だけ、空きが出来てしまったので、すぐ読めるであろう薄さの『方丈記』を選んだ。

詩人蜂飼耳が、現代語訳に挑んだ光文社古典新訳文庫の版だ。

原典でも、『方丈記』は全文を読んだ事はない。有名な(有名過ぎるのだ)冒頭の部分と、そこから少しだけはみ出す範囲まで読んで、後は投げ出していた。

光文社古典新訳文庫の版も、いつの日か、原典と読み比べしてみようという興味から買ったもので、よもやそれだけを読む日がやって来ようとは、夢にも思った事が無かった。


しかし大それた事に挑んだものだ。誰もが知っていると言って良い『方丈記』を現代語訳するとは!

だが、読み始めてみると、訳者蜂飼耳は、あの原文に、正面から訳を挑んでおり、そしてそれはかなりのレベルで成功していると感じた。

『方丈記』と言えば無常だ。そのイメージに引かれ、私はどこかで鴨長明という人物が、達観した、自分とは遠い存在として捉えていた。

蜂飼耳は書く。

隠遁生活、無常観、と来ればすっかり達観した人物の綴った文章が『方丈記』なのだろうと、敷居の高い世界を思い描く人もいるのではないかと思う。しかし、『方丈記』と鴨長明の伝記的な内容から知られる事柄を併せて考えると、この人物が達観とはやや異なる境地に生きたことが見えてくる。

恐らく蜂飼耳は、『方丈記』を訳していて、それが誰の為にも書かれたものではない事。強いて言えば鴨長明は、自分自身の為に『方丈記』を書いている事に気付き、自分も、誰の為でもなく、自分自身の為に『方丈記』を現代語訳すれば良いという境地に至ったのだろう

現代語訳はこなれている。多分相当言葉を吟味し選び抜かれたものであろうが、限界まで平易な、シンプルな日本語で、現代語訳『方丈記』は書かれている。

今回『方丈記』の全体像を読んで、びっくりしたのは『方丈記』という作品が、極めて短い作品であったという事実だ。

恐らく、400字詰め原稿用紙に換算すれば20数枚程度の分量だろう。

この事実を、私は長い間意識した事が無かった。

それ故、驚いた事に、この蜂飼耳版『方丈記』には、原典も付されている。

いつの日にかやってみようと思い描いていた、現代語訳と原典の比較も、今回心ならずも果たしてしまう事が出来た。

蜂飼耳はこうも書いている。

『方丈記』の味わいの深さと面白さを現代語の場に連れ出し、伝わるかたちにするにはどうすればよいか、一語一語と対話しながら考えた。鴨長明から見れば、私の試みなど、すべて余計なことかもしれない。だが、現代語へ置き換える行為の中ではじめて出会うことの出来た鴨長明がいたことは事実だ。何度も、はっとさせられた。

正直言って、私はまだこの境地には達していない。『方丈記』という名随筆の全体像を、ようやく概観することが出来たという地点に、やっとたどり着いたところだ。

どちらかと言うと、暇つぶしに読んでみた程度の読書だったが、この本は予想以上に深く、多彩な内容を含んでいる。

この薄い本を、私はこれからも、何度も開き、私の『方丈記』との出会いを果たすまで、その旅は続くのだろう。

良い本を買っておいた。

20250803

テアイテトス

腰巻きに「プラトン哲学対話の最高峰!」と謳われている。まだ読んでない。

これは読まねばなるまいと、意を決して読み始めてみた。

老ソクラテスが、10代の天才数学者テアイテトスを相手に、「知識(エピステーメ)」とは何かについて、論じ合った哲学対話だ。

「知識」や「知」については、考えてみると、それが何かは、正面切って考えたことがない。話の流れが、どのようなものになるのか、深い興味を抱いて、本を開いた。


大まかな話の流れは、知識とは何かについて、テアイテトスが仮説を打ち出し、ソクラテスがそれを見事な手捌きで論駁してゆく、そのようなものになる。

途中、ソクラテスの産婆術に関する説明や、プロタゴラスの相対主義の否定など、普通であれば、それだけでも1冊の本に値する大問題が論じられており、その部分も大いに引き寄せられた。

テアイテトスはソクラテスを著名な哲学者として尊敬しており、ソクラテスはテアイテトスを将来有望な若者として認めている。この様な互いに一目置いた同士の議論は、側で聞いていても気持ちが良いものだ。

普段、SNSなどで、議論にもならない議論を読まされている身としては、その事だけでも、新鮮な驚きだった。気分が良くなる議論というものもあるのだ!

テアイテトスが打ち出す仮説も、それなりに説得力を持つ、十分に考え抜かれたものだ。だが、ソクラテスはそれが内に重大な内部矛盾を孕んだものである事を手際よく論じ、論駁して行く。テアイテトスはそれを素直に受け止め、より良い仮説を次々に提出してゆく。その両者の運動は、まさに弁証法そのものであると、私は感じた。

それ故に、両者の対話は結論に至る迄、最終的な解答を得ずに終わるのだが、不思議と取り残され感を感じる事なく、受け止める事が出来た。

本書は、訳も読み易い日本語になっており、注釈も適当に置かれている。更に、本編が終わった後に、訳者解説として、両者の議論を、プラトンの別の著作や、歴史的エピソードに迄守備範囲を広げ、再度確認する事が出来る仕組みになっており、議論の理解をより多面的に理解する事が出来た。

読み終えて、「最高峰!」の掛け声は、伊達ではなく、内容を裏切っておらず、両者の掛け合いを存分に楽しむ事が出来たと感じている。

何よりも、この本は面白い!

20250728

お許しいただければ

行方昭夫氏の編訳による続イギリス・コラム傑作選。続とあるように、正編も存在し、実はそれは本棚にある(これから読もうと思っている)。

正編同様、A.G.ガードナー、E.V.ルーカス、ロバート・リンド、A.A.ミルンの四氏によるエッセイ集だ。


末尾に出典が付されているが、これを読むと、これらのエッセイは2世紀も前に書かれたものである事が分かる。

全く古びていない。まるで今日の人々を観察して書かれたものの様にフレッシュなのだ。

それだけ、エッセイストの人間観察が、その本質をずばりと付いていて、人間というものはその部分で、さほど変化していないのだという事に気付かされる。

その観察眼は人間ばかりではなく、犬や猫などの動物、そしてステッキや傘などの無生物にも及んでいる。

本書では、各エッセイに続いて、編訳者行方昭夫氏の筆による「さらにお許しいただければ」という短い解説が付せられている。読者は各エッセイの見事さに感嘆の声を上げ、それに引き続いて解説で、よりエッセイを深いところで味わえる仕組みになっているのだ。

良いエッセイは美酒に準えられる事が多い。本書は上質なシャンパンの様な爽やかな飲み応えと、程良い酔い心地があり、それぞれの文章を、心地良く味わう事が出来た。

連日、猛暑が続く。強い陽射しに外出もままならず、部屋に閉じ篭もる日々に、有難いエッセイ集を得る事が出来た。

尚、既にお気付きの方も多いだろうが、本書に含まれているA.A.ミルンとは、あの『くまのプーさん』の作者と言った方が、通りが良いと思う。エッセイもモノにしていたとは知らずにいた。

20250719

イタリア食紀行

半日か、かかっても1日あれば読み終える事ができるだろう。最初、そう鷹を括っていた。ところが読み始めてみると、単にイタリア全土の食を紹介しているだけではなく、イタリアの歴史・地理・文化にも深く触れられており、採り上げられている情報量が半端ではなかった。

結局、読み終える迄2日半掛かった。


日本とイタリアの相似点、相違点が最初に述べられている。

どちらも細長い国だ。

だが日本は自国の郷土料理を大切にせず、食の均一化に直走ったが、イタリアは様々な制度・工夫を凝らして、郷土料理を大切にする道を選んだ。

その点を考慮すれば、食に纏わる歴史、地理、文化に大きく足を踏み込んでいる理由も理解出来る。

本書の構成はイタリアを、北イタリア・中央イタリア・南イタリア・島々に取り敢えず分け、それぞれの郷土料理の特徴を記載してゆく形を採っている。

その上で、郷土料理の伝統と文化を、グローバリゼーションに対抗しつつ、育ててゆく様々な工夫を紹介している。

そうした制度・工夫を知ると、日本がグローバリゼーションに対して、いかに無抵抗だったかが分かる。

どこに行っても、大体同じような味、同じような色の食材が出てくる。それにコンビニの流星、ネット販売の普及が追い風を吹かせる。

筆者は、イタリアの方針に賛意を示しているのだろう。読んでいて、イタリアの郷土料理の多様性に、私も羨ましさを感じざるを得なかった。

使われているオリーブオイルひとつ採っても、地域によって、千差万別なのだ。ましてやパスタの多様性は実に豊かで、500種類を超えていると言う。

翻って、今迄イタリア料理と一括して理解していた料理は一体何だったのだろうか?と言う事になる。

受験で、一応イタリアの歴史・地理は理解していた心算でいた。

だが本書を読んで、食を超えて、私が持っていたイタリア理解の底の浅さは計り知れないなという気分になった。

イタリアを知るという意味でも、本書は優れている。イタリアの食・歴史・地理・文化には、やたらと詳しくなった。