20260515

エクソフォニー

日本語とドイツ語の間を軽々と越境し続ける作家、多和田葉子の様々な言語を巡る思い巡らし。

夢は日本語で見るのか、ドイツ語で見るのかと、良く質問を受けるらしい。著者はその質問に不快感を隠さない。

日本語が本物なのかドイツ語が本物なのかと、人を試す様な質問だからだ。

どちらでも見る様だ。それだけではなく、喋れもしないスペイン語やフランス語での夢も、頻繁に見ると言う。

一旦、母語から脱出すると、そう言うものなのかと、妙に納得出来た。


様々な言語に触れて来た。だが、海外に長く滞在する事がなかったので、どれもちっともモノにならない。

多和田葉子さんの様に、海外に拠点を構えて活躍する日本人には、強い憧れを抱いている。

この本には、母語の外に脱出すると言う事が、どう言う事なのかが、微に入り細に入り、詳しく述べられている。

それは日本語とドイツ語の間の関係に留まらず、他の様々な言語を例にとり、著者がそれ等とどのように関係を築いて来たのかを、具体的な例を引きながら、述べられている。

日本語と外国語の間を越境すると言うことは、例えば合わせ鏡の様に、両者を独特な感性で、眺める事を可能にする行為でもあるようだ。

例えば、松尾芭蕉の『奥の細道』のドイツ語訳を読んで、訳がおかしいのではないかとドイツに住む日本人に問われたりする。「月日は百代の過客にして」の月日がSonne und Mondと訳されているのだ。確かにおかしい。普通ならばそこで話は終わってしまう。だが多和田葉子さんは、この『奥の細道』のドイツ語訳は美しいと、暫く考えて思ったりする。中世の人間が「月日」と言った時、実際の太陽が出て沈み、月が出て沈む情景が、比喩としてでなく、具体的な生活感覚としてあったのではないかと、思い巡らしているのだ。

誤訳と思われるまでの直訳は、わたしたちを言葉の原点に立ち返らせ、言葉を比喩という老衰から救う役割を果たしてくれることがあるように思う。

この種の思い巡らしは、母語と外国語を越境し続ける事でしか、得られない感覚だと、私には思える。

その感覚は、彼女の文学観にまで及んでいる。

文学を書くということは、いつも耳から入ってきている言葉をなんとなく繋ぎ合わせて繰り返すことの逆で、言語の可能性とぎりぎりまで向かい合うということだ。そうすると、記憶の痕跡がたくさん活性化され、古い層である母語が今使っている言語をデフォルメするのかもしれない。

人は生まれた時、あらゆる言語を獲得する能力を持って生まれて来るのだと言う。だが、例えば日本語の環境で育ち始めると、6ヶ月程でlとrの区別をする能力が失われてしまう。つまりひとつの母語を獲得すると言う事は、他の言語を獲得する能力を失う事でもあるらしい。

私たちは、ある程度育ってから、他の言語を、再び学ぶ事に、妙な憧れを抱く。それは失われた能力に対しての、ある種のノスタルジーなのかも知れない。

母語から脱出する旅とは、どの様な旅なのかを、事細かく解説してくださった多和田葉子さんには、感謝の念を抑える事が出来ない。この本の読書体験を基に、これからも多和田葉子さんの作品を読解して行きたいと思わざるを得ない。

20260513

あじさしの洲/骨王

『あじさしの洲/骨王 小川国夫自選短篇集』

力みのない、奇を衒った表現も全くない、淡々とした日本語が綴られている。それでいながら、描かれている情景は鮮明で、独特の光沢を帯びている。

それが小川国夫の文学である。

私はこの本を読み始めて、一行目から、ぐいぐいと引き込まれる力を、感じざるを得なかった。

この本には、小川国夫が自ら選び抜いた、11の短篇が収められている。


どれがどれより優れているかとか、比較することは不可能だった。それぞれに、独自の魅力がある。

選ばれた作品はどれも、似通ったものはなかった。それぞれに独自の世界観を持ち、小川国夫という宇宙に散りばめられた星座の様に、輝いている。

ある作品には心中に引き込まれてゆく男女の情景が描かれ、ある作品には旧約聖書の世界が縦横無尽に展開されている。

しかし、読み終えて、作品のひとつひとつを振り返ると、そこには首尾一貫とした、小川国夫の色彩がある。そうした矛盾したような感想をなぜ抱くのか?いくら考えても、その謎は解けなかった。

作品に描かれているのは、人々と自然の織りなす情景であり、その中で繰り広げられる、登場人物たちの素朴な行為だ。

だが、私たちはそこから、登場人物たちの細やかな心理を、確かに読み取る事が出来るのだ。

それぞれの登場人物たちは、まるで旧知の親友であるかのように、最初から親しげにそこに存在している。

従って、私たちは登場人物の行為の意味やその必然性を、何の疑問もなく、理解することが出来る。

彼等はまた彼女等は私が経験をした事もない境遇を生き、行為する。私たちはそれを後追いする事で、自らもまたその境遇、行為を経験したような世界に浸る。

小川国夫は彼の作品を読む事で、読者の人生の幅を大きく拡げてしまうような力がある。

不思議な作家だ。

20260502

ファウスト

面白い本は多いが、これ程の感動に包まれる読書体験は、人生の中でそう多くない。

ゲーテ『ファウスト』を、遂に読んだ。


今迄読んでいなかったのは、家にある本が柴田翔訳のもので、出来れば彼以外の訳で読みたいと思っていたからだ。

だが、図書館から借りた本は全て読み切ってしまった。この際と思い切りを付けて、彼の訳で読む決心を、この程固めた。

読み始めて、思ったより良い訳になっていると感じた。真剣にゲーテと向き合って訳している。


なんと言う恐るべき作品なのだろうか?!

読み終えて暫くの間放心してしまい、何も手に付かなかった。

柴田訳は上巻に第I部が、下巻に第II部が当てられている。第I部、第II部は、それぞれ独立しており、全く別の作品と言っても構わないものになっていると感じた。

第I部はファウストのメフィストとの契約までの物語が、比較的短い章立てで、軽快に進行してゆく。

芝居の脚本として書かれているが、台詞は全て韻文になっており、完成度の極めて高い詩が、延々と続いて行く筋立てになっている。

柴田訳は、その韻文の面にも可能な限り気を配り、工夫して訳されているが、詩の芳香は損なわれていない。

だが、脚本の軽快さに引き摺られたのか、ファウストの人生に対する飢餓感がもうひとつ上手く表現し切れておらず、その部分は残念だった。

第II部は一転して、超人的な力を得たファウストが、時空を超えて、ギリシア神話の世界に迄及ぶ壮大な冒険譚を展開する構成になっており、ゲーテが達し得た、高邁な人生観が存分に表現されている。

とても人間が書いたものに思えなかった。ゲーテがこの作品に費やした年月は60年に及ぶ。確かにそれだけの内容を持っている。或いはゲーテ自身がこの作品を完成させる為に、メフィストと契約を交わしたのではないかとすら思える程の、完成度の高い、奔放で壮大な想像力が、作品全体を覆い尽くし、遺憾無く発揮されている。

今回は読み切る事を主眼とした為、作品を深読みする事が出来なかったが、この作品は単に読み切るだけでは勿体無いと、読後感じた。私が『ファウスト』を読めたと感じるのはまだ先の事だ。私と『ファウスト』の付き合いは、これから始まるのだろう。そしてまた、ゲーテの音律を深く味わう為に、ドイツ語で読んでみたいという欲求を強く感じた。この作品には、それだけの時間を割く価値が充分にある。

20260425

見えない都市

危うく通り一遍の読み方をしてしまう所だった。

作者はイタロ・カルヴィーノである。何かを隠しているに違いないと思い返し、読み直して、おぼろげながら、主題のようなものを掴み取る事が出来たと思う。

それでもまだやはり何か見落としているのではないかという思いが消えない。

イタリアの商人マルコ・ポーロが、フビライ汗に、自分が旅して見聞して来た55の都市について語るという設定で、物語は進む。


一見単なる『東方見聞録』のパロディーである。

いや、勿論そうした見立ても間違いではあるまい。55もの都市を想像するだけでも、気が遠くなる様な桁外れの想像力だ。

だが、それらの都市が、マルコ・ポーロが実際に見て来た都市なのか、空想なのかは明かされていない。

ヒントは、何気なく書かれたような台詞、都市の名前に隠されている。

都市の名前が、全て女性の名前になっている。まずその事に気が付いた。

そして、フビライ汗はマルコ・ポーロに

都市は全て似通っていると指摘する。

そうなのだ。語られる55の都市は、全てヴェネチアの変奏になっているのだ。

それらが記憶、欲望、死などの人間の内面を象徴する主題を11のカテゴリーに分けて映し出して揺蕩い、幻の様に存在している。

記載は極めて簡潔でありながら、強いイメージを伴っている。それ故、読む者によって解釈が変わる、余白が多い構成になっている。

マルコ・ポーロによって語られる都市とは、即ち人間であり、都市の様相は人間の持つ多彩な側面を暗示しているのだ。

その事を理解した上で、『マルコ・ポーロの見えない都市』を再読すると、そこにはイタロ・カルヴィーノの持つ、極めて深い美意識が貫かれている事に気付く。

この作品の核心は、都市そのものではなく、都市を語る事=世界を理解しようと試みる事にあると言って良い。

更に読みは進む。

この物語には、言葉が通じない状況でも、意味は伝わるのか?世界は本当にひとつの形で理解出来るのか?と言った、様々な問いが隠されている。

なにしろこの本自体が、読みを重ねる毎に、見えて来る主題が千変万化する構成になっているのだ。

この作品は、イタロ・カルヴィーノの他の作品同様、時を置いて、何度か再読する心算でいる。その時には、今回とは全く別の感想文を認(したた)める事になるだろう。楽しみだ。

20260420

侍女の物語

呪文の様な、或いは沈黙にも似た、言葉が続く。翻訳を通しても、私たちはそれが、途方もなく美しい言葉たちである事を知る。

衝撃的な作品を読んだ。

マーガレット・アトウッド『侍女の物語』がそれである。


いつもの様に、私はそれを図書館で借りて読んだ。

千切れたスピン。草臥れたページが、この本の履歴を物語っている。多くの、実に多くの読者に、この本は読まれて来たのだ。

物語が終わり、最後に付けられた、「歴史的背景に関する注釈」で、私たちは、語られて来たのが、ギレアデと呼ばれる、未来社会である事を知らされる。

そこで主人公は、奴隷の様な生き方を強いられている。

ギレアデでの生活に救いは無い。そして主人公オブフレッドたちはそこから抜け出す手立てを探す事すら諦めている様だ。

深い穴底で暮らすような生き様。僅かに、呼吸する事だけに自由が許されている様な閉塞的な空間。そこで、現在形で語られる物語を通して、私たちは主人公に、そっと寄り添う。

挟み込まれる幾つかの「夜」を乗り越え、最後の「夜」に辿り着いた時、私たちはそこで語られている未来が、私たちの生きる現実の世界にとてもよく似ている事にようやく気付く。

この物語に救いは無い。あるのはただ途方もない絶望感。だが、不思議にも、それはとても魅力的な物語になっている。

何故だろう?

20260414

大地の五億年

藤井一至『大地の五億年ーせめぎあう土と生き物たち』。

プレパラートを顕微鏡で覗き、僅かにピントをずらしてみる。そうすると同じプレパラートとは思えない程、多様な、変化に富んだ、思いがけない景色に出逢うことが出来る。

この本を読んで、同じような目眩き思いを体験出来た。


見ているのは地球であり、景色であり、日常である。けれど「土」にピントを合わせて、それらを観察している。

驚いた。

同じ日常が、これほど迄にかと思う程、普段とは違った景色に見えて来る。

大学で、土壌学の講座は受講していた。

なので、土壌学の基礎知識は、ある程度持っていた。だが、この本で体験出来た、土のミラクルワールドは、ついぞ体験した事のない魅力に溢れていた。

土は地球にしかない。

それは確かな、単純な事実。

だが、それを改めて大上段から振り下ろされるように語られると、今迄気付いていなかった事実を突き付けられているような、新鮮な驚きがあった。

その地球ですら、5億年前迄は、土は存在しなかった。

何故か?それは陸上に生物がいなかったからだ。

土は生物の揺籠であると同時に、生物は土の親でもある。生物が土を産み出しているのだ。

山ばかり歩いて来た。

だが、私の興味の対象にあったのは、まず岩石であり、次にそこで生きる動植物たちであった。土は、岩石を隠してしまう、むしろ邪魔な存在であり、私は、そして私たち地質屋はそれをはぎ取ってしまいたいという欲求すら抱いている。

土壌学も履修していながら、私は土に目を向ける事もなく、それを無視して、山を歩いていたのだ。

なので、映画や写真で、プリンス・エドワード島の赤い土を見ても、別段それを不思議にも思わず、当たり前の事として、見過ごしていた。

著者はそれを奇妙な事と喝破し、プレート・テクトニクスの仕業である事を見抜く。

本書には、かくの如く言われてみれば当たり前だが、今迄考えても見なかった事実に溢れかえっている。

読み終えて、最初に私が感じたのは、著者が、この本では、まだ語り切れなかった多くの事柄を抱えているのだろうな…という事だった。

それを裏付けるように、著者はその後も何冊も土壌の本を物にしている。

この本は、私の土に対する好奇心に、見事にヒットした。著者の他の本も、これからどんどん読んでゆく心算だ。

20260412

新Kindle

8日、amazonからメールがあった。

対象端末をお持ちのお客様へと題されたもので、それが私に当てはまるようだった。

2012年に日本で発売されたKindle端末のサポートを、2026年5月20日に終了いたしますとの事。

確かに私は2012年にKindleを買い、それを今迄使って来た。向こうにはそうした個人情報も、きちんと把握されているのだ。恐ろしいと言えば恐ろしい。

14年になる。

最近は、新しく電子書籍を購入しても、その表紙が表示されなくなって来ていた。

だが丁寧に使用して来たのだ。まだ本文を読むのに支障はない。充電もきちんと終了する。

あと数年は使うつもりでいた。

だが最後通牒は向こうからやって来た。

追加の電子書籍の購入、ダウンロードは出来なくなると言う。

続けて読むと、新たにKindleを購入する際に使える20%割引クーポンが付与されるとある。

これが区切りだ。そう思った。2割引で買えるとは、悪い話ではない。

amazonのサイトで端末を探し、Kindle Paperwhiteとカヴァー、保護フィルムがセットになっている商品を、その日のうちに選択した。

私はいざと言う時、決断が早い。

翌日注文。

翌々日の10日、夕刻に新Kindleは届いた。


端末を持って、最初にびっくりしたのは、その軽さだ。古い端末に比べ、一瞬で分かる程、明らかに軽くなっている。加えて、既に充電された状態で届いたのには驚かされた。

パスワードの入力に手間取りながらも、WiFiにちゃんと接続。

幾つかの設定をした後、ライブラリを呼び出した。

大丈夫、古い端末で欠けていた表紙も、ちゃんと表示されている。

次に驚いたのはその動作の軽さだ。

古い端末では、電子書籍を開く時など、一瞬の溜めがあったのだが、それがなく、実にキビキビと動いてくれる。流石に14年の進歩は伊達ではない。

サーヴィスはそれだけではなかった。

新端末が届いた時来たメールには、2,000円分の書籍割引クーポンが付与されていた。それにKindleを購入した時のポイントを加えれば、かなりの額になる。

夢は一気に膨らんだ。

気を落ち着かせる為に珈琲を淹れ、新Kindleで最初にした事は、リルケ詩集を開く事だった。