20250326

ヘーゲル(再)入門

難解なヘーゲルの文章を、丁寧に説き起こしてある。なので、例えヘーゲルの訳文が分からなくても、筆者の説明を急がず慌てず読む事で、ヘーゲルを一通り理解する事が可能となっている。


大学時代、とある事情から、ヘーゲルとは壮絶な格闘をして来た。解説書も何冊か読んだ。だが、理解出来たかと言うと、甚だ心許ない。

あの頃の苦労はなんだったのだろうかと、脱力する程、本書が説くヘーゲル像は分かり易かった。

筆者がこの本で言いたい事は、従来のヘーゲル像の解体と新たなヘーゲル像の建設であると言う事が出来ると思う。

従来はヘーゲルと言えばまず弁証法であり、ヘーゲルは西洋近代哲学を完成させた偉大な哲学者だった。だが筆者はそれを、古い硬直化したヘーゲル像であると主張する。

それならば、それに代わる新しいヘーゲル像とは何かが求められる。

筆者はそれを「流動性」にあるとしている。

本書はその「ヘーゲル哲学の流動性」の感覚を掴むために、『精神現象学』と『大論理学』を例に、ヘーゲル哲学を理解するための「取っかかり」を提示して行く。

正直言って、従来より遥かに分かり易いとは言っても、対象はヘーゲルである。難しかった。だが、引用してあるヘーゲルの言説は、筆者が原文から独自に訳出したものであり、頻繁に、原語のドイツ語まで遡って説明してあるのが、とてもわかり易く、ありがたかった。大学時代悩んだ「定立」という語の意味を、今回初めて腑に落ちる形で理解する事が出来た。

だが、従来格闘して来た過去のヘーゲル理解が邪魔をして、新しいヘーゲル像に切り替えて行く事がなかなか出来ず、本書を読み解くのに時間を要した。

従来の正反合の硬直化した弁証法の理解から、それを流動と捉える新しい見方への切り替えも、なかなかスムーズに行うことが出来なかった。

本書は、余計なヘーゲル理解の邪魔が入らない、まっさらのヘーゲル初心者の方が、理解し易いのではないだろうか?

だが、筆者の行なっている、ヘーゲルの文章のパラフレーズの仕方は、何とか身に付ける事が出来たように思う。

大学を卒業してから、過去のヘーゲルとの格闘の苦しさの記憶から、ヘーゲルを避けに避けて来たが、今ならヘーゲルの文章を読み解く事が出来そうな気分になっている。

ヘーゲルという岳にも、また登ってみなければなるまい。

20250302

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコーの本を読まずに、ミシェル・フーコーについての本ばかり読んでいる。

今回読んだのは慎改康之『ミシェル・フーコーー自己から抜け出すための哲学』。この本に関しては、若干の因縁がある。


5年程前、県立長野図書館を訪れた際、新刊コーナーでこの本を見掛け、強く惹かれたのだ。だがその時は既に限度一杯の本を借りていた為、手に取らずに放置していた。それでもいつかこの本を読むだろうという予感は強くあった。

今回、遂に読んだ。

フーコーの言説は多岐に渡っている。それ故どこから手をつけて良いのか、酷く迷う。

この本は、そのフーコーの言説の変遷を、発表された書籍を順に取り上げ、簡潔かつ丁寧に解説してある。

但し読むスピードには注意を払った。読み飛ばすと理解不能になる。渋滞すると話の筋を見失う。幸い適当な緊張感を保ち、終わり迄読み通す事が出来た。

流石にミシェル・フーコーの翻訳を手掛けているだけあって、慎改康之さんのフーコー理解は深く、正解だと感じた。何しろあの『言葉と物』を理解できているのだ。それだけでも尊敬に値する。

最初副題の「自己から抜け出すための哲学」の自己とは、読者の事かと思って読み始めたが、すぐにフーコーの事であると理解出来た。

フーコーは自己の経験、研究、著作を通して、常に変貌し続けた哲学者だ。それ故、フーコーをどう読むかは、フーコー理解の深まりを決定付ける。油断したまま読み続けると思わぬしっぺ返しを受ける事になりかねない。

その意味で、本書に巡り会えた事は、私にとって幸運な事だと感じる。

フーコーの広大な言説世界を、この本は一望の元に展望する事を可能にしているのだ。

やっと私は、ミシェル・フーコーの全体像を、自分の物にする事が出来た。

だがそろそろ私の図書館行脚の三本柱のひとつであるミシェル・フーコーを、実際に読み始める時がやってきたようだ。

著者も言っている。

本書が果たしうるのはあくまでも、門の手前にいる読者を門のなかにいざなうという役割にすぎない。したがって、いかなる意味においてもここは足を止めるべき場所ではない。本書を読み終えるやいなや、読者がただちに門をくぐり、フーコー自身の言葉に耳を傾けるべく駆け出すことを切に願う。

20250210

枯木灘

決して、中上健次を舐めていたのではない。そのような大それた事はとても私には出来ない。

だが、さほど厚くないこの本を手に取って、1日か2日あれば読み切れるだろうと算段していた。


その甘い見積もりは、最初に本を開いた時に、脆くも崩れ去った。昔の文庫本の様に、活字がやけに小さいのだ。

これは長編だ。その時私は覚悟を決めた。

読み始めてみると、その濃密で力強い文体で語られる文章自体の持つ迫力に引き摺られる様に、中上健次の物語世界にぐいぐいと引き込まれた。

しかし困難はまだあった。

登場人物がとても多く、その関係が実に複雑なのだ。

巻末に付いている人物相関図を、いちいち参照しなければ、筋を追う事すら出来ない状態だった。

その為、最初は1日に15ページから20ページを読むのが精一杯だった。人間関係が、一通り頭に入ってからは、読むスピードも上がり、中上健次ワールドにどっぷり浸る事が出来る様になった。

結局、まるまる4日間かけて、『枯木灘』の世界を縦横に彷徨い歩いた。

体力のある作家だ。その意味では日本人離れしているのかも知れない。だが。その彼が語る物語世界は、土の匂いのする、極めて土俗的な世界である。

どちらかと言うと、アカデミズムの世界を彷徨って来た私とは、異なる世界に生きた人物なのだと感じた。

中上健次は、故郷である紀伊半島に、強いこだわりを持った作家である。紀伊半島は良く歩いた。だが私の紀伊半島は四万十層群が露出する、地質学的に興味深い場所であり、同じ紀伊半島でも、中上健次が見る、男と女が絡み合い、蠢く地方とは、全く別世界である様に感じる。

私の紀伊半島が世界に開かれた場所であるのに対して、中上健次の紀伊半島は、半島性がもたらす、閉塞的な、閉ざされた世界である。

その知らない世界を、私は中上健次を読む事で、生きる事が出来る。

中上健次を読む意味を、私そこに見出す。

『枯木灘』に登場する人物達は。決して正しく生きようとはしていない。けれどとてつもなく逞しい。石牟礼道子の書く方言は、そこに美しさを感じたが、中上健次の書く方言は、どこまでも力強い。言葉の持つ美は、様々な煌めきを放つ。

物語後半、私は確かに『枯木灘』の世界に強く感動していた。

未だに、どこに感動したのか巧く表現することが出来ない。だが、私は確かに『枯木灘』の登場人物達に共感していたのだ。

中上健次と言う作家に、暫く拘ってみようと思っている。次に何を読むのかは、まだ決めていない。

『枯木灘』の世界は、地獄の様に煮えたぎっていた。

20250201

アーレントと赦しの可能性

「反時代的試論」と名打たれている。

「あとがき」でも触れられているが、これはニーチェの『反時代的考察』へのオマージュだろう。

ハンナ・アーレントの著作の翻訳も手掛けている、森一郎氏の時代論である。


恐らく、第一部第一章にある「アーレントのイエス論」を、世に出したいという意図から編まれた論集だろう。非常に意欲的で、魅力的なハンナ・アーレント論になっている。

敢えてニーチェの反時代的を引いたのは、著者の時代に流されまいとする意志を反映しての事だと思う。

第三部第六章の「テロリズム・革命精神とその影─テロリズムの系譜学」には、テロリズムを全否定してよしとする、現在の論調に、敢然と立ち向かう姿勢が貫かれている。その論調は、読む者を、時代に迎合してしまいがちな日常から引き剥がし、古代ギリシアから連綿と続く、哲学の文脈の上で、立ち止まって考えるという行為へと、誘(いざな)っている。

立ち止まって考える事は、この文章読解して行く際にも必要だ。夥しい言葉たちが、この論集では省略され、省かれていると感じる。論に飛躍と思われる箇所が多数あるのだ。

だが、その省略された言葉たちを、各文章から丁寧に推察し、補って行く作業を厭わなければ、これらの論は。決して飛躍したものではなく。十分に考察され、練られた議論である事が納得出来る。

世に溢れるテロリズムへの皮相的な批判に於いて、そのテロリズムという語が、いかに無思考なまま流されているものであるのかが。はっきりと目に見えてくる。

通読して感じるのは。森一郎氏が、彼が訳したハンナ・アーレント『人間の条件』ドイツ語版の翻訳『活動的生』を、いかに大切なものとして扱っているかという事だった。

本論を通底して流れている意図は、本論をきっかけとして、『活動的生』を読んでもらいたいというところに、本音があるのではないかと読んだのは。穿った考えに過ぎるだろうか?

だが、第一部「赦し」、第二部「労働」、第三部「テロリズム」と深められていった思考が、第四部「出生」で、いきなり失速していってしまったように感じたのは。私の偏見だろうか?単なる科学技術批判(または悲観)に堕してしまっている様に、私には感じられた。この段で、本書が閉じられているのは。本書の深刻な弱点になっていると感じるのだ。

20250108

山とも庵が!

本郷駅の近くにあるその店を、私たち夫婦は大変贔屓にしていた。

何か事あると、またはなくても、その店が提供する美味しい蕎麦を食べに、足繁く通っていた。

予感はあったのだ。女房殿が車でその店の前を通り掛かっても、店が開いていないと言う様になったのだ。

今日(25年1月8日)確かめてみようと、その店の公式サイトを開いてみた。

すると12月5日付けの記事として、

10月末日を以て閉店しました。という報せを受け取った。

その店の名は山とも庵という。このブログでも取り上げた事があったと思う。


写真は山とも庵公式サイトから借用した。クリックで拡大出来る。

その店で、蕎麦を大根おろしの汁だけを付けて食べる食べ方も教わった。偶に食べる胡桃だれ蕎麦は絶品だった。

最近は弱点だった天ぷらも美味しくなり、この先も山とも庵と共に、この地で生きてゆくのだろうと、なんの不安もなく思っていた。

あの美味しい蕎麦をもう二度と食べられないのかと思うと、胸を掻きむしりたくなるような、残念さを覚える。

初期の頃は天せいろ蕎麦を頼むのが常だった。本山葵を小さなおろし金で擦って食べる趣向を凝らした蕎麦だった。それがメニューから消えても、暫くの間(かなり長い間だった)は、頼むとそれを出してくれた。

蕎麦好きの友に食べさせたくて、山とも庵の蕎麦を、九州博多に迄届けてもらったこともあった。

心残りは、きのこソムリエの資格を持つ女将さんが作るきのこ蕎麦を、遂に一回も食べる事がなかった事だ。

COVID-19は、地域経済に、消え様のない傷跡を残した。

昨年は戸隠そばの代表的存在だった大久保西の茶屋も潰れた。

食品関連の店は、個人事業主を中心に、壊滅状態だ。後に残るのは、それ程美味しくもないチェーン店ばかりだ。

中でも、この山とも庵の閉店は、大きなショックを私に与えた。知った時は頭がクラクラした。

55年に渡って、この地に根付いていた名店が消えるのだ。

それ程外食をする方ではない。するとしたら店はとことん選ばせて頂く。だが、その選んだ店がどんどんなくなってゆく。新年早々、寂しい報せを聞いた。

20241203

天湖

今回で、この小説『天湖』を読むのは2度目になる。丁度10年前、同じ『石牟礼道子全集不知火第12巻』で読んでいた。10年前読み終えた日が、今回の読み始めの日となる巡り合わせだった。

かなり感動した事を覚えている。内容も覚えていた心算だった。

それ故、今回の石牟礼道子読破計画の中で、この巻は飛ばそうかとも思った。

だが、丁度10年を経て、今回はどう感じるのかにも興味があり、図書館から借りて来ることにした。


ところがどうした事か、読み始めてみると、そこに展開されているのは、10年前の記憶とは、全く別の、極めて新鮮に読める小説だった。

覚えているシチュエーションと同じ場面がそこにはある。そしてそれは私の魂を浄化し、とんでもない高みに誘(いざな)ってくれるものである事も同じだった。だが、今回は、それに加え、単にそれだけの小説ではない、もっと深い世界が展開されていた。

30年前にダムの建設によって水没させられた南九州山地の天底村に、祖父征人の遺骨を撒きにやって来た、琵琶を引き継いだ征彦。

村人たちは「夢に見るとは、天底のことばかり」と語り合い、どうやら夢と現が区別できない世界に生きている。

分からなさの渦の中にからめとられてゆく

様にして、征彦はおひなとお桃母娘による、巫女の跡継ぎの儀に立ち会い、神歌によって水底へと連れられて行く。

次第に

村と自分との潜在意識がひとつに溶けあってゆくのを実感

する征彦だったが、この小説はそれだけではなく、都会の青年の回復と古層への同一化の物語を、容易には成就させない世界でもあることが描かれている。その事に今回ようやく気が付いた。

そもそもおひな母娘は、河原に建てた小屋に住み、畏怖されつつも素性を怪しまれ、村の非常の役を務めても、日常の中では「それとなく遠ざけられている」位置にある者たちである。母娘が役目を引き継いだ、口のきけない巫女のさゆりは、ダム工事を推進し、懐を肥やした山師の仁平宅に火を放って殺した上でダムに身投げした。

さゆりもその育ての親のお愛も、元は流民であった。

この女たちは、紅をつけ、酒を飲み、一晩中踊って帰らない、男たちを寄せ付けない秘密の時間を持ち合っているのだという。

本書は共同体の内部にあることの不可避の違和を生きる女たちの系譜としても、読まれるべきなのだろう。

10年前は、とてもその事に気付けなかった。一体私は何を読んでいたのだろう?

20241118

美術の物語

B5サイズで688ページ。かなりの大型本だ。だがこれでも削りに削った結果だと言う。

先史時代から現代に至る迄の美術の歴史が網羅されている。しかし本の題名は『美術の歴史』ではなく、『美術の物語』だ。この辺りから著者エルンスト・H・ゴンブリッチのこだわりが垣間見える。文章はシンプルで簡素。だが内容は決して媚を売っておらず、かなり高度な思索が綴られている。添えられている美術品の写真は、どれも厳選されたものらしく、美しく、そして個性的だ。


世界史と美術に関する知識量の豊富さには、とことん驚かされる。そして、それを他者に分かり易く伝える技術にも感心させられる。

著者の頭の中にある膨大な知識が、よほどきちんと整理されているのだろう。

更に感心するのは、こうした西洋人が書く世界史物は、ヨーロッパに限定されがちなのだが、著者の視野がイスラム、中国、そして日本に迄及んでいる事だ。

この様にして、著者の美術史は、正しい意味で世界史となる。

著者は、美術の歴史物語を編むに当たって、まず事実を丹念に記述して行く。制作された時代、作者、そしてその時代背景。著者の見解はその延長上に置かれている。それは、事実の記載と極めて整合性を持つ為、読者に自然に受け入れられる様に配慮されている。

読者は本書を読む事によって、美術史の全体像を、極自然に獲得する事が出来る。

図版と本文の調和は、本書の特筆すべき魅力のひとつだろう。厳選された図版は本文で、要領良く説明されており、読者は紹介された美術品を、本書を読む以前より、遥かに詳しく鑑賞することが可能になっている。

人類は、その歴史が始まる頃から常に、美しいものを生み出して来た。その歩みは途絶える事を知らず、現代もまた、数多くの美術品を生み出し続けている。

だが、この様に人類の美術史という物語を概観してみて、現代の芸術家の誰が、未来の美術にその名を残すかは、誰にも分からないのではないかという感想を持った。

ゴッホの同時代人には、ゴッホが後の世で、これ程高く評価されるとは、想像も出来なかっただろう。

また、美術の様式についても、これから先どの様なものが出現するのかは、予想不能な事柄なのだろう。

各時代で、芸術家たちは、一寸先だけ見えていて後は闇の状況を、全力を挙げて生きて来た。凡庸な私たちは、それらの結果を後になって知り、芸術作品を堪能する恩恵に浴する事が出来る。

或いは本書の目的は、美という永続的な営みが、常に完成と限界の狭間で身悶えするように行われる予想不能な営為である事を、そっと指し示すところにあるのではないだろうか?

だが一方で、21世紀という現代が、『美術の物語』という書物を、纏めるべき時代だという事実にも気付かされる。例えば、これから先、平面絵画の巨匠は、現れないだろう。

本書を読んで、私は先史時代から現代に至る、様々な芸術を、心ゆく迄味わい尽くしたいという欲求に突き動かされている。何と言っても、現代は、それが可能な時代なのだから。