20250713

魚が存在しない理由

4年前、キャロル・キサク・ヨーンの『自然を名づけるーなぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』を読んでいた。だから本書『魚が存在しない理由ー世界一空恐ろしい生物分類の話』の「オチ」はあらかじめ知っていたと言える。

最先端の分類学である分岐学では、魚類という分類項目は存在しないのだ。

本書はその魚類の分類に一生を賭けて生きた、デイヴィッド・スター・ジョーダンの伝記である。


一見、とても魅力的な男であると感じる。

ルイ・アガシに師事し、生物分類に取り組んだ。特に彼の専門は魚類だった。

分類学の責務は、系統樹の形を解き明かし、この地球の混沌に秩序をもたらすこと。全ての動物や植物のつながりを整理して、生命の地図を作るのだ。

彼は、新種の魚を探して世界中を回った。何年も何十年も、辛抱強く彼は取り組んだ。ジョーダンの時代に判明していた魚類のうち2割は、彼と助手たちが発見したものだ。1000種ほどの新種を捕まえ、命名し、銅製の標本タグにその名前を刻印し、標本と共にエタノール入りの瓶に沈めておいた。ところが1906年の春、ジョーダンの輝かしきガラス瓶コレクションを崩壊させる大地震が起きる。カリフォルニア地震である。

瓦礫の中に立つジョーダン。自身のライフワークが台無しになった事実の前に立ち尽くす科学者は、ところが意外な反応をした。彼は諦めなかったのである。絶望もしなかった。

恐るべき強靭な精神力である。

それだけではなく、彼には信じがたい程のやり抜く力も持ち合わせていた。

このままであれば彼は尊敬に値する偉人と看做されてもおかしくなかった。

だが、彼の分類学には、ひとつの大きな目標があった。

それは師アガシから受け継いだものでもあった、生物の階級分けとも言えるものだった。

生物は下等なものから上等なものに階層分け出来る。ジョーダンはそれを解明する為に分類学に打ち込んでいたのだ。

行き着く先は自ずから決まっていたようなものだ。

優生思想。彼はそれに嵌りこんでしまう。

大学で、理系の学生のかなり多くが、優生思想に染まるのを、私はどれだけ残念に思って来ただろうか。

問題は、ジョーダンが彼の業績に基づいて、社会の中でそれなりの地位に付いていたということだ。

彼はアメリカで、ナチス・ドイツより遥かに先に、優生思想に基づく施策を実行していた。

デイヴィッド・スター・ジョーダンが、後世に名を残せなかったのは、主にこれがその理由だろう。

強い意志と、強靭な実行力と、やり抜く力を持ち合わせていた彼は、むしろそれ故に偉人として君臨することは出来なかったのだ。

そして彼がその一生を捧げた魚類の分類学は、分岐学の隆盛により、魚類という分類項目ごと消え去る運命にあった。

彼は、幸福だったのだろうか?

本書はそうしたジョーダンの人生を、軽やかなタッチで、鮮明に蘇らせる。ルル・ミラーというサイエンスライターの出現は、本書が示す明らかな朗報だと私は確信する。

20250627

カンタさんの古代桜とB29

最初、著者の半生記なのだろうかと思った。

だが読み進めるうちにすぐにそうではないと理解した。著者は自分の想像力を駆使して、小説を創作している。その事を理解して、読み返してみると、小説が持つリアリティに驚かされた。


名前を出しても良いだろう。

著者の三嶋寛さんは今年86歳。戦争を記憶し、語る事の出来る最後の世代だ。

Webを通して知り合い、著者が参加している同人誌を、1年に4回贈って下さっている。私はそれをいつも楽しみにしており、受け取るとすぐ著者の文章を読む事を習いとして来た。

忙しさにかまけて、感想を述べる事もせず、非礼の限りを尽くして来たが、それでも嫌な素振り一つせず、贈り続けて下さった。

その三嶋寛さんが本を出す。その事を知ったのは、彼のブログを通じての事だった。

読みたい!

切実にそう思った。

だが、情けない事に、私にはその書籍を購入する資金がない。

図書館にリクエストしてみよう。ぼんやりと、そう思案していた。

それが何という事だろうか!

三嶋寛さんは件の小説をも、私に贈って下さったのだ。

同人誌などで語る三嶋寛さんの文章は、彼が生きた時代を、生き生きと語る、まさに戦後の語り部であり、著者の文章から、戦後という時代を再考するのが、楽しみであった。

本を出すと聞いて、そのいつもの語り口を拡大したものを想像したのも無理はないと思う。

小説の基調には、勿論彼の半生が映し出されているのだろう。

おはなし。三嶋寛さんは自分の作品を、謙遜してそう呼んでいる。けれど、作品の持つリアリズムは、その語感を大きく上回っている。

この作品には、戦争というものに対する、重い反省と、著者の郷土に対する、深い愛情が描かれている。

内容の詳細は敢えて秘す。是非読んでみて頂きたいからだ。B29がいかにしてカンタさんの記憶に留まり、いかにして甦ったかの物語だとだけ、書いておきたい。B29は戦争の、薄墨桜は郷土のメタファーになっているのだろう。

この本には、中編の「カンタさんの古代桜とB29」の他に、掌編「路面電車の走る街で」が収録されている。こちらの語り口も見事だ。 

20250620

ajides

パロディーTシャツと呼ばれているのだそうだ。

もし、当時この言葉を知っていたら、或いは店のどこかにこの言葉が書いてあったら、私は確実に、そのTシャツを買っていただろう。

御徒町のアメ横の、怪しげな洋品店の店先に、それは展示されていた。


adidasのロゴそっくりに、魚が並べられている。そしてadidasの文字そっくりのフォントでajidesと書いてあった。鯵です。

見かけて思わず吹き出した。よく考えられている。

だが、そのTシャツと店の醸し出す怪しげな雰囲気に呑まれて、何だこのバッタもんは。と見切り、私はそのTシャツを買わなかった。

下宿に帰って来て、私は私の判断を、ひどく悔しがった。

買っておくべきだった!

この程、あのTシャツは幻ではなかったか?と、Webで検索してみた。すぐに見付かった。やはり実在したのだ。

何でもイチロー選手が着ていて、人気が出たらしい。彼は私のように貧乏ではない。買ったのだ。

今ならいつでもこのパロディーTシャツを入手出来る。

だが、そう思うと、私を悔しがらせた緊迫感が無くなってしまった。

いつでも手に入るなら、今でなくても良い。

それにイチロー選手の真似をしたと思われるのも、何だか癪だ。

私はajidesTシャツを買わないだろう。 

ただ、その存在を認知して貰えたらそれで良い。

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SNSにこの投稿を投げたら、よしさんという方から、ロゴが燃えているkajidesを買ったという指摘を受けた。

早速調べたところ、ajidesの頭にkを付けたkajides(火事です)というTシャツは実在する事がわかった。


いやはや、このパロディーTシャツ。どこ迄進化するのだろうか?

20250609

活動的生

母語で考えるとはいかなる事か。その事を考えさせられる1冊になった。

『人間の条件』は最初に志水速雄の訳で、そしてその後牧野雅彦の訳で読んだ。

今回読んだ『活動的生』は『人間の条件(Human Condition)』のドイツ語版『Vita activa』からの翻訳になる。訳者は森一郎。


英語版につきまとっていたある種の難解さが、ドイツ語版にはない。言語は極めてクリアで明晰だ。

そしてドイツ語版では、ハンナ・アーレントがいつにも増して饒舌である事にも気が付いた。

まさしくハンナ・アーレントは、歌うように、論文を書いている。

それこそが、普段ドイツ語で思考しているハンナ・アーレントがドイツ語で考えるという事の現われなのだろう。

だが、流石に論旨を十分に咀嚼し、理解するには、一行も読み飛ばす訳にも行かず、結局6日掛けて、ようやく読破する事が出来た。

生きている限り、人は何らかの活動を行う訳だが、それぞれの活動を行っている時、一体何をしているのか?その事を丁寧に、根気強く、ハンナ・アーレントは私たちに語りかけて来る。

それは同時に生きる事=活動する事の意義を、丹念に確認して行く事でもある。

その作業を通して、私たちは現代に生きるという課題を、どうにか達成する事が出来るのだろう。

その意味で『人間の条件』=『活動的生』は、人類が20世紀に到達した、貴重なメルクマールであると言う事が出来るのだろう。まさしく本書は、現代哲学の古典的名著であると言えると思う。

戸惑ったのは『人間の条件』で「仕事」と訳されていた語が、『活動的生』では「制作」と訳されている事だった。英語とドイツ語で使われている単語の意味が異なる事から発した相違なのだろうが、ハンナ・アーレントの主張を「仕事」で理解していた私には、飲み込むのに少し困難が伴った。

だが第六章「世界疎外の開始」から始まる、本書の結論に至る過程は、ドイツ語版ならではの迫力に満ちており、思わず感動してしまった。

3作品を通読して、やはりドイツ語からの本書が、私にはとても好感が持てた。

だが3作品の中で、『活動的生』が最も値段が高い。

20250510

石牟礼道子全集不知火別巻

昨年の1月に思い立っている。すぐ実行に移したので、ほぼ1年半掛けた事になる。石牟礼道子全集不知火の全巻読破を成し遂げた。

全集編纂後の作品や対談は、既に読んでいるので、石牟礼道子さんの作品は、全て読破した事になる。


振り返って胸に迫ってくるのは、やはり石牟礼道子という作家は、並の書き手ではないなという実感だ。

全作品を通して感じるのは、どの作品も最初の1行が鋭いという事だ。物語世界に引き込む力は勿論の事、作品全体を照射するような、強い光を放っているのだ。

それに続く文章は、どれも美しく深く、入り口でぐいと引き込まれた私たちは、作品世界に安心して身を委ねる事が出来る。

後は石牟礼道子の言霊に導かれるままに、揺蕩っていると、自然に真実に辿り着く事が出来る。

世には、石牟礼道子というと『苦海浄土』という評価がなされているように思う。別段間違ってはいないだろうが、それだけの作家ではないと言う事が分かった。

常に市井の民の視点を忘れる事なく、西郷隆盛や高群逸枝を通して、近代の落とし忘れ去って来た物を、そっと掬い上げる。その作業を全生涯を賭けて、成し遂げた作家だったのだと分かる。

それ故、石牟礼道子が魂と言う時、そこには魂が宿るのだと思う。

全集で読んだ事は、大きな意味があったと感じている。それぞれの作品は、その作品単体として完成しているが、その作品を巡って書かれた、夥しいエセー群を併せ読んだお陰で、ようやく分かった事も多い。例えば高群逸枝の伝記の題名が何故『最後の人』なのかと言ったような事。

全作品を読破して、感ずるのはこれが終わりではないのだと言う事だ。むしろようやく出発点に立つ事が出来たと言う感覚の方が強い。

私はまた、石牟礼道子を読むだろう。そして、そのようにして読んだ時、ようやく分かる『苦海浄土』があるだろうという予感が、強い信念のように存在しているのを、確かに感ずるのだ。

全作品を読破する度に感ずる思いが、また胸に押し寄せている。また特別な作家がひとり増えた。

20250425

ガザ日記

月に1冊ずつでも、パレスチナ関係の本を読むようにしている。

それは彼らに加害する西側に属する者として、人間らしく生きる為の一縷の矜持を保とうとする、私の悪足掻きのひとつなのだと思う。


本書『ガザ日記ージェノサイドの記録』は、そんな私の読書歴の中でも、パレスチナの、ガザの現実を、リアルに、そして厳しく突きつけてくる、特別な1冊になった。

著者のアーティフ・アブー・サイフは、ガザ地区のジャバリア難民キャンプ出身の作家で、パレスチナ自治政府の文化相として、通常ヨルダン川西岸地区のラマッラーに住んでいるが、たまたま息子を連れてガザを訪問中にイスラエルの爆撃が始まり、そのまま3ヶ月近くガザに閉じ込められ、親戚や友人たちと共に、ジェノサイドの恐怖を体験することとなった。

本書はその3ヶ月の間の、1日も欠落がない貴重なジェノサイドの記録である。

苦しく、辛い読書になった。

1日分の日記を読む。そこには余りに酷い記述が満ちている。彼等は真に死と隣り合わせに生きている。1日分を読み終える。余りの衝撃に、私は本を閉じる。暫く休む。一日の記載が終わったという事は、著者が眠ったと言う事だ。そして、本が続いていると言う事は、明日があるという事だ。著者と共に、私も休む。読んでいて、2日分の記述を連続して読む事は、遂になかった。

ガザのジェノサイドの犠牲者の数を、私は知っている。そして、その中に子どもの占める数も、また知っている。けれど、それらの人々が、どのような日常(と言って良いのかどうか)を送っているのか、何を体験し、何を感じているのかを知ることは無かった。

それは想像を絶するものだった。

自分が生きているのかどうかが不確かな日常。それはもはや日常とは呼べないだろう。

自分が何かを考えている。だがそれはただ単に、死んでいる事に気付かずに、彷徨っている幽霊の思考なのではないか?その様な疑問を感じざるを得ない状態を、彼等は生きている。

それはつまり、「我思う故に我有り」の、デカルトの「真理」が通用しない日常なのだ。

イスラエルの攻撃に論理はない。動いているものは猫でも狙撃する。

ガザの人々の眠りは、覚醒の保証のない眠りだ。寝ている時に攻撃されたら、永遠に醒める事はない。朝の目覚めは、当たり前の事ではなく、ただ単に良かった運の結果なのだ。

著者は書く。

戦争下では、目覚めてからの数分間がもっとも緊張する。起きるとすぐに携帯電話に手を伸ばし、大切な人たちが誰も死んでいないことを確認する。しかし日が経つにつれ、何を読まされるのか不安になり、携帯電話に手を伸ばすのを躊躇するようになる。携帯電話を手に取る勇気の出ない朝もある。いつかは悪いニュースが飛び込んでくる。

本書を読むのに、結局5日間掛かった。読み終えた瞬間、私は強烈な充実感と無力感という、矛盾した感情に、激しく撃ち倒された。

今、ガザで起きている事は恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは、世界がガザに慣れてしまっているという事だ。

20250414

知の考古学

意味が凝縮している。フーコーの文章を読む時、その事を強く感じる。しかもその意味は藤の樹の様に硬く捩れあい、巨大な塊を形成している。

私たちはその塊をどうにかして解(ほぐ)し、咀嚼する事が可能な程度に解体する作業を、最初にしなければならない。

それがフーコーを読むという事だ。

それはフーコーの言葉をそのまま読むという事ではない。

フーコー独自の言い回しを、一旦そのまま受容れ、その後に私自身の言葉に翻訳して行く。意味の解体と同時に、その作業も並行して行わなければならない。


本書『知の考古学』を読解する過程で、私はまたもその作業に専念しなければならなかった。

ミシェル・フーコーは、絶えず自己からの脱却を試み、繰り返し続けた思想家だと思う。

『知の考古学』は『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』を産み出して来た自らの方法論を、一旦解体し、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する為に書かれている。

フーコーにとって、その作業は一寸先だけ見えていてその先は闇の空間を、全速力で疾走する様な、知的冒険だっただろう。

フーコーの言葉を読むという事は、その冒険を私たち自身も追体験する作業でもある。

当然の様に、その過程では、一旦読んだ文章を再読し、先の読めないフーコーの言葉を繰り返し咀嚼する事が必須になる。

それは確かに苦行だが、それを繰り返し、少しずつ読み進めるうちに、ふと後ろから強烈な光が差して、その先の風景が見えて来る瞬間がある。

大抵の場合、それは瞬間的な出来事であり、その光は再び闇に包まれてしまう。

だが、それは他の思想家では味わう事の出来ない、強烈な快感である。

フーコーが一瞬腑に落ちるのだ。

フーコーは難解であり、その文章を読む事は苦渋に満ちている。

だが、一旦味わった光の瞬間を再び味わいたくて、私はフーコーを読む。

フーコーを辞められない理由はそこにある様な気がする。