20250510

石牟礼道子全集不知火別巻

昨年の1月に思い立っている。すぐ実行に移したので、ほぼ1年半掛けた事になる。石牟礼道子全集不知火の全巻読破を成し遂げた。

全集編纂後の作品や対談は、既に読んでいるので、石牟礼道子さんの作品は、全て読破した事になる。


振り返って胸に迫ってくるのは、やはり石牟礼道子という作家は、並の書き手ではないなという実感だ。

全作品を通して感じるのは、どの作品も最初の1行が鋭いという事だ。物語世界に引き込む力は勿論の事、作品全体を照射するような、強い光を放っているのだ。

それに続く文章は、どれも美しく深く、入り口でぐいと引き込まれた私たちは、作品世界に安心して身を委ねる事が出来る。

後は石牟礼道子の言霊に導かれるままに、揺蕩っていると、自然に真実に辿り着く事が出来る。

世には、石牟礼道子というと『苦海浄土』という評価がなされているように思う。別段間違ってはいないだろうが、それだけの作家ではないと言う事が分かった。

常に市井の民の視点を忘れる事なく、西郷隆盛や高群逸枝を通して、近代の落とし忘れ去って来た物を、そっと掬い上げる。その作業を全生涯を賭けて、成し遂げた作家だったのだと分かる。

それ故、石牟礼道子が魂と言う時、そこには魂が宿るのだと思う。

全集で読んだ事は、大きな意味があったと感じている。それぞれの作品は、その作品単体として完成しているが、その作品を巡って書かれた、夥しいエセー群を併せ読んだお陰で、ようやく分かった事も多い。例えば高群逸枝の伝記の題名が何故『最後の人』なのかと言ったような事。

全作品を読破して、感ずるのはこれが終わりではないのだと言う事だ。むしろようやく出発点に立つ事が出来たと言う感覚の方が強い。

私はまた、石牟礼道子を読むだろう。そして、そのようにして読んだ時、ようやく分かる『苦海浄土』があるだろうという予感が、強い信念のように存在しているのを、確かに感ずるのだ。

全作品を読破する度に感ずる思いが、また胸に押し寄せている。また特別な作家がひとり増えた。

20250425

ガザ日記

月に1冊ずつでも、パレスチナ関係の本を読むようにしている。

それは彼らに加害する西側に属する者として、人間らしく生きる為の一縷の矜持を保とうとする、私の悪足掻きのひとつなのだと思う。


本書『ガザ日記ージェノサイドの記録』は、そんな私の読書歴の中でも、パレスチナの、ガザの現実を、リアルに、そして厳しく突きつけてくる、特別な1冊になった。

著者のアーティフ・アブー・サイフは、ガザ地区のジャバリア難民キャンプ出身の作家で、パレスチナ自治政府の文化相として、通常ヨルダン川西岸地区のラマッラーに住んでいるが、たまたま息子を連れてガザを訪問中にイスラエルの爆撃が始まり、そのまま3ヶ月近くガザに閉じ込められ、親戚や友人たちと共に、ジェノサイドの恐怖を体験することとなった。

本書はその3ヶ月の間の、1日も欠落がない貴重なジェノサイドの記録である。

苦しく、辛い読書になった。

1日分の日記を読む。そこには余りに酷い記述が満ちている。彼等は真に死と隣り合わせに生きている。1日分を読み終える。余りの衝撃に、私は本を閉じる。暫く休む。一日の記載が終わったという事は、著者が眠ったと言う事だ。そして、本が続いていると言う事は、明日があるという事だ。著者と共に、私も休む。読んでいて、2日分の記述を連続して読む事は、遂になかった。

ガザのジェノサイドの犠牲者の数を、私は知っている。そして、その中に子どもの占める数も、また知っている。けれど、それらの人々が、どのような日常(と言って良いのかどうか)を送っているのか、何を体験し、何を感じているのかを知ることは無かった。

それは想像を絶するものだった。

自分が生きているのかどうかが不確かな日常。それはもはや日常とは呼べないだろう。

自分が何かを考えている。だがそれはただ単に、死んでいる事に気付かずに、彷徨っている幽霊の思考なのではないか?その様な疑問を感じざるを得ない状態を、彼等は生きている。

それはつまり、「我思う故に我有り」の、デカルトの「真理」が通用しない日常なのだ。

イスラエルの攻撃に論理はない。動いているものは猫でも狙撃する。

ガザの人々の眠りは、覚醒の保証のない眠りだ。寝ている時に攻撃されたら、永遠に醒める事はない。朝の目覚めは、当たり前の事ではなく、ただ単に良かった運の結果なのだ。

著者は書く。

戦争下では、目覚めてからの数分間がもっとも緊張する。起きるとすぐに携帯電話に手を伸ばし、大切な人たちが誰も死んでいないことを確認する。しかし日が経つにつれ、何を読まされるのか不安になり、携帯電話に手を伸ばすのを躊躇するようになる。携帯電話を手に取る勇気の出ない朝もある。いつかは悪いニュースが飛び込んでくる。

本書を読むのに、結局5日間掛かった。読み終えた瞬間、私は強烈な充実感と無力感という、矛盾した感情に、激しく撃ち倒された。

今、ガザで起きている事は恐ろしい。だが、もっと恐ろしいのは、世界がガザに慣れてしまっているという事だ。

20250414

知の考古学

意味が凝縮している。フーコーの文章を読む時、その事を強く感じる。しかもその意味は藤の樹の様に硬く捩れあい、巨大な塊を形成している。

私たちはその塊をどうにかして解(ほぐ)し、咀嚼する事が可能な程度に解体する作業を、最初にしなければならない。

それがフーコーを読むという事だ。

それはフーコーの言葉をそのまま読むという事ではない。

フーコー独自の言い回しを、一旦そのまま受容れ、その後に私自身の言葉に翻訳して行く。意味の解体と同時に、その作業も並行して行わなければならない。


本書『知の考古学』を読解する過程で、私はまたもその作業に専念しなければならなかった。

ミシェル・フーコーは、絶えず自己からの脱却を試み、繰り返し続けた思想家だと思う。

『知の考古学』は『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』を産み出して来た自らの方法論を、一旦解体し、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する為に書かれている。

フーコーにとって、その作業は一寸先だけ見えていてその先は闇の空間を、全速力で疾走する様な、知的冒険だっただろう。

フーコーの言葉を読むという事は、その冒険を私たち自身も追体験する作業でもある。

当然の様に、その過程では、一旦読んだ文章を再読し、先の読めないフーコーの言葉を繰り返し咀嚼する事が必須になる。

それは確かに苦行だが、それを繰り返し、少しずつ読み進めるうちに、ふと後ろから強烈な光が差して、その先の風景が見えて来る瞬間がある。

大抵の場合、それは瞬間的な出来事であり、その光は再び闇に包まれてしまう。

だが、それは他の思想家では味わう事の出来ない、強烈な快感である。

フーコーが一瞬腑に落ちるのだ。

フーコーは難解であり、その文章を読む事は苦渋に満ちている。

だが、一旦味わった光の瞬間を再び味わいたくて、私はフーコーを読む。

フーコーを辞められない理由はそこにある様な気がする。

20250412

種の起源

思わぬ基本文献を、私は読んでいない。

あれほどスティーヴン・ジェイ・グールドやリチャード・ドーキンスを読み漁っていながら、今日までチャールズ・ダーウィンの『種の起源』を読んでいなかった。

これは明らかに怠慢だ。

今日(2025年4月12日)ようやく読み終える事が出来た。


実はこの本は、もう少し前に読む心算でいた。

本を買ったのは、光文社古典新訳文庫から出たばかりの2009年の事だ。

まるまる16年、『種の起源』は本棚に眠っていた事になる。

写真を見ると分かるが、腰巻きや背表紙は陽に焼けて褪色している。


『種の起源』は、それほど難しい本ではない。対象は専門家ではなく、あくまでも一般読者である。

薄い本では決してないが、本来ダーウィンはもっと厚い体系的な本を書く心算でいたらしい。『種の起源』はあくまでも要約なのだ。

それでも私はそのヴォリュームに恐れをなして、本を手に取るのを躊躇っていた。躊躇い続けていた。

図書館から借りて来た本も読み終え、1週間程隙間時間が出来た。これを利用して、ついに読む事にした。

さすが光文社古典新訳文庫から出ているだけあって、訳が読み易い。昔八杉竜一訳のものを読んだ時は、その文章の長さに圧倒され、遂に挫折した記憶がある。

この渡辺政隆訳は、本人も書いているが。本来延々と続くダーウィンの文章を適当に、短く切り、それを繋げて行く書き方になっている。

それでもダーウィンの議論は、微に入り細に入り、全方位からの反論を想定して書かれている為、スルスルと読めて行く文章ではない。

選ばれている用語が比較的易しいので、それに助けられながらどうにか内容を理解して行く事が出来た。

ダーウィンはビーグル号航海で、「変化を伴う由来」(ダーウィンは進化という用語を避け、この呼び名を使用している)の発想を得てから、『種の起源』を書き始める迄22年間もの間、構想を寝かせていた。

だが、伊達に沈黙していた訳ではなかった。その事が、『種の起源』の議論を読んでいると分かる。

『種の起源』はダーウィンの長いセルフディベートの果てに書かれた要約なのだ。

ダーウィンは彼の学説への反論を、あらゆる角度から想定し、それに対して丁寧に再反論している。おおよそ全ての議論が、『種の起源』の中に織り込まれているのではないだろうか。

それはダーウィンの学説を理解するためには、それだけの議論が必要だったという事だ。

『種の起源』を読んでみて、この要約は、かなり誤解されているという事が分かった。

ダーウィンは『種の起源』の中で引用や注釈を避け、図の使用も可能な限り控えている。

唯一図を使ってあるのは、生物が「変化を伴う由来」を経て変化して行く過程とは、限りなく枝分かれして行く分岐の連続であるという事を示すもので、その考えを何度も繰り返し強調している。

だが、ダーウィンの学説への反発は、人類は猿から変化したものだという誤解だった。

これは『種の起源』発表直後の当時の反応だったのだがどうだろう?今もそれ程変わっていないのではないだろうか?ヒトは猿から進化したと思っている方がどれほど多い事か。

『種の起源』を読み終えた時、私は深い感動を覚えた。

それは、とても一人の人間の頭脳から編み出されたものとは思えない、一種荘厳なカテドラルの様な思考の作品を読み終えたという満足感だった。

私はようやく進化論についての様々な本を読む資格が与えられたと感じている。

20250410

ネコはどうしてニャアと鳴くの?

正直に告白する。題名を見て、舐めていた。


図書館でこの本に実際に出逢い、まずその厚さに驚いた。

当初、もっと薄い本を想像していた。だがこの本は470ページもあるのだ。

だが、まだ題名に拘泥していた。また、この内容なのかと。

猫は人間に対して接する中で、そのニャアという鳴き方を学習した。

それは本だけでなく、TVやネットでも取り上げられている内容だ。

ところが読んでみると著者の探究はそこでは終わっていなかった。

おしゃべりで有名なあの猫は本当に猫に対してニャアとは鳴かないのか?原種のアフリカヤマネコは?

こうした掘り下げにより、今わかっている事とわかっていない事のディティールが明らかになって行く。

そこがこの本が幾多の「ネコ本」とは一味違う大きな魅力を形作っている。

その探究力と知識の深さには舌を巻いた。

扱われている内容も、猫の鳴き方だけに留まらず、その他の猫の行動について、イエネコの起源についてなどついてなど途方もなく幅広い。

それらの話題を著者は決して衒学的に語らず、分かり易い言葉を選んで、語っている。

その為読者はその内容をバックグラウンドの知識を持っていなくても、理解し、楽しむ事が出来る。

著者のジョナサン・B・ロソスと言えばトカゲで有名な進化生物学者だった筈だ。

それがなぜ猫なのだろうか?

その答えは冒頭で明かされる。

猫が好きなのだ。

猫好きが猫好きに対して猫について語る。留まるところを知らない内容になるのも宜なるかなである。

それはそれで楽しい。

楽しんでいるうちに、私たちは猫について、従来の認識を変える事が出来る。

それがこの本の最大の魅力である。

この本を読み終えると、今迄の数倍猫好きが昂じている自分を発見するだろう。

そして、猫を通して、他の様々な事についても、新たな発見がある筈だ。

この本はだから、世界の見方を変える本であるとも言える。

20250326

ヘーゲル(再)入門

難解なヘーゲルの文章を、丁寧に説き起こしてある。なので、例えヘーゲルの訳文が分からなくても、筆者の説明を急がず慌てず読む事で、ヘーゲルを一通り理解する事が可能となっている。


大学時代、とある事情から、ヘーゲルとは壮絶な格闘をして来た。解説書も何冊か読んだ。だが、理解出来たかと言うと、甚だ心許ない。

あの頃の苦労はなんだったのだろうかと、脱力する程、本書が説くヘーゲル像は分かり易かった。

筆者がこの本で言いたい事は、従来のヘーゲル像の解体と新たなヘーゲル像の建設であると言う事が出来ると思う。

従来はヘーゲルと言えばまず弁証法であり、ヘーゲルは西洋近代哲学を完成させた偉大な哲学者だった。だが筆者はそれを、古い硬直化したヘーゲル像であると主張する。

それならば、それに代わる新しいヘーゲル像とは何かが求められる。

筆者はそれを「流動性」にあるとしている。

本書はその「ヘーゲル哲学の流動性」の感覚を掴むために、『精神現象学』と『大論理学』を例に、ヘーゲル哲学を理解するための「取っかかり」を提示して行く。

正直言って、従来より遥かに分かり易いとは言っても、対象はヘーゲルである。難しかった。だが、引用してあるヘーゲルの言説は、筆者が原文から独自に訳出したものであり、頻繁に、原語のドイツ語まで遡って説明してあるのが、とてもわかり易く、ありがたかった。大学時代悩んだ「定立」という語の意味を、今回初めて腑に落ちる形で理解する事が出来た。

だが、従来格闘して来た過去のヘーゲル理解が邪魔をして、新しいヘーゲル像に切り替えて行く事がなかなか出来ず、本書を読み解くのに時間を要した。

従来の正反合の硬直化した弁証法の理解から、それを流動と捉える新しい見方への切り替えも、なかなかスムーズに行うことが出来なかった。

本書は、余計なヘーゲル理解の邪魔が入らない、まっさらのヘーゲル初心者の方が、理解し易いのではないだろうか?

だが、筆者の行なっている、ヘーゲルの文章のパラフレーズの仕方は、何とか身に付ける事が出来たように思う。

大学を卒業してから、過去のヘーゲルとの格闘の苦しさの記憶から、ヘーゲルを避けに避けて来たが、今ならヘーゲルの文章を読み解く事が出来そうな気分になっている。

ヘーゲルという岳にも、また登ってみなければなるまい。

20250302

ミシェル・フーコー

ミシェル・フーコーの本を読まずに、ミシェル・フーコーについての本ばかり読んでいる。

今回読んだのは慎改康之『ミシェル・フーコーー自己から抜け出すための哲学』。この本に関しては、若干の因縁がある。


5年程前、県立長野図書館を訪れた際、新刊コーナーでこの本を見掛け、強く惹かれたのだ。だがその時は既に限度一杯の本を借りていた為、手に取らずに放置していた。それでもいつかこの本を読むだろうという予感は強くあった。

今回、遂に読んだ。

フーコーの言説は多岐に渡っている。それ故どこから手をつけて良いのか、酷く迷う。

この本は、そのフーコーの言説の変遷を、発表された書籍を順に取り上げ、簡潔かつ丁寧に解説してある。

但し読むスピードには注意を払った。読み飛ばすと理解不能になる。渋滞すると話の筋を見失う。幸い適当な緊張感を保ち、終わり迄読み通す事が出来た。

流石にミシェル・フーコーの翻訳を手掛けているだけあって、慎改康之さんのフーコー理解は深く、正解だと感じた。何しろあの『言葉と物』を理解できているのだ。それだけでも尊敬に値する。

最初副題の「自己から抜け出すための哲学」の自己とは、読者の事かと思って読み始めたが、すぐにフーコーの事であると理解出来た。

フーコーは自己の経験、研究、著作を通して、常に変貌し続けた哲学者だ。それ故、フーコーをどう読むかは、フーコー理解の深まりを決定付ける。油断したまま読み続けると思わぬしっぺ返しを受ける事になりかねない。

その意味で、本書に巡り会えた事は、私にとって幸運な事だと感じる。

フーコーの広大な言説世界を、この本は一望の元に展望する事を可能にしているのだ。

やっと私は、ミシェル・フーコーの全体像を、自分の物にする事が出来た。

だがそろそろ私の図書館行脚の三本柱のひとつであるミシェル・フーコーを、実際に読み始める時がやってきたようだ。

著者も言っている。

本書が果たしうるのはあくまでも、門の手前にいる読者を門のなかにいざなうという役割にすぎない。したがって、いかなる意味においてもここは足を止めるべき場所ではない。本書を読み終えるやいなや、読者がただちに門をくぐり、フーコー自身の言葉に耳を傾けるべく駆け出すことを切に願う。