昨年の1月に思い立っている。すぐ実行に移したので、ほぼ1年半掛けた事になる。石牟礼道子全集不知火の全巻読破を成し遂げた。
全集編纂後の作品や対談は、既に読んでいるので、石牟礼道子さんの作品は、全て読破した事になる。
振り返って胸に迫ってくるのは、やはり石牟礼道子という作家は、並の書き手ではないなという実感だ。
全作品を通して感じるのは、どの作品も最初の1行が鋭いという事だ。物語世界に引き込む力は勿論の事、作品全体を照射するような、強い光を放っているのだ。
それに続く文章は、どれも美しく深く、入り口でぐいと引き込まれた私たちは、作品世界に安心して身を委ねる事が出来る。
後は石牟礼道子の言霊に導かれるままに、揺蕩っていると、自然に真実に辿り着く事が出来る。
世には、石牟礼道子というと『苦海浄土』という評価がなされているように思う。別段間違ってはいないだろうが、それだけの作家ではないと言う事が分かった。
常に市井の民の視点を忘れる事なく、西郷隆盛や高群逸枝を通して、近代の落とし忘れ去って来た物を、そっと掬い上げる。その作業を全生涯を賭けて、成し遂げた作家だったのだと分かる。
それ故、石牟礼道子が魂と言う時、そこには魂が宿るのだと思う。
全集で読んだ事は、大きな意味があったと感じている。それぞれの作品は、その作品単体として完成しているが、その作品を巡って書かれた、夥しいエセー群を併せ読んだお陰で、ようやく分かった事も多い。例えば高群逸枝の伝記の題名が何故『最後の人』なのかと言ったような事。
全作品を読破して、感ずるのはこれが終わりではないのだと言う事だ。むしろようやく出発点に立つ事が出来たと言う感覚の方が強い。
私はまた、石牟礼道子を読むだろう。そして、そのようにして読んだ時、ようやく分かる『苦海浄土』があるだろうという予感が、強い信念のように存在しているのを、確かに感ずるのだ。
全作品を読破する度に感ずる思いが、また胸に押し寄せている。また特別な作家がひとり増えた。