1日だけ、空きが出来てしまったので、すぐ読めるであろう薄さの『方丈記』を選んだ。
詩人蜂飼耳が、現代語訳に挑んだ光文社古典新訳文庫の版だ。
原典でも、『方丈記』は全文を読んだ事はない。有名な(有名過ぎるのだ)冒頭の部分と、そこから少しだけはみ出す範囲まで読んで、後は投げ出していた。
光文社古典新訳文庫の版も、いつの日か、原典と読み比べしてみようという興味から買ったもので、よもやそれだけを読む日がやって来ようとは、夢にも思った事が無かった。
しかし大それた事に挑んだものだ。誰もが知っていると言って良い『方丈記』を現代語訳するとは!
だが、読み始めてみると、訳者蜂飼耳は、あの原文に、正面から訳を挑んでいる。そしてそれはかなりのレベルで成功していると感じた。
『方丈記』と言えば無常だ。そのイメージに引かれ、私はどこかで鴨長明という人物が、達観した、自分とは遠い存在として捉えていた。
蜂飼耳は書く。
隠遁生活、無常観、と来ればすっかり達観した人物の綴った文章が『方丈記』なのだろうと、敷居の高い世界を思い描く人もいるのではないかと思う。しかし、『方丈記』と鴨長明の伝記的な内容から知られる事柄を併せて考えると、この人物が達観とはやや異なる境地に生きたことが見えてくる。
恐らく蜂飼耳は、『方丈記』を訳していて、それが誰の為にも書かれたものではない事。強いて言えば鴨長明は、自分自身の為に『方丈記』を書いている事に気付き、自分も、誰の為でもなく、自分自身の為に『方丈記』を現代語訳すれば良いという境地に至ったのだろう
現代語訳はこなれている。多分相当言葉を吟味し選び抜かれたものであろうが、限界まで平易な、シンプルな日本語で、現代語訳『方丈記』は書かれている。
今回『方丈記』の全体像を読んで、びっくりしたのは『方丈記』という作品が、極めて短い作品であったという事実だ。
恐らく、400字詰め原稿用紙に換算すれば20数枚程度の分量だろう。
この事実を、私は長い間意識した事が無かった。
それ故、驚いた事に、この蜂飼耳版『方丈記』には、原典も付されている。
いつの日にかやってみようと思い描いていた、現代語訳と原典の比較も、今回心ならずも果たしてしまう事が出来た。
蜂飼耳はこうも書いている。
『方丈記』の味わいの深さと面白さを現代語の場に連れ出し、伝わるかたちにするにはどうすればよいか、一語一語と対話しながら考えた。鴨長明から見れば、私の試みなど、すべて余計なことかもしれない。だが、現代語へ置き換える行為の中ではじめて出会うことの出来た鴨長明がいたことは事実だ。何度も、はっとさせられた。
正直言って、私はまだこの境地には達していない。『方丈記』という名随筆の全体像を、ようやく概観することが出来たという地点に、やっとたどり着いたところだ。
どちらかと言うと、暇つぶしに読んでみた程度の読書だったが、この本は予想以上に深い内容を含んでいる。
この薄い本を、私はこれからも、何度も開き、私の『方丈記』との出会いを果たすまで、その旅は続くのだろう。
良い本を買っておいた。