20250805

方丈記

1日だけ、空きが出来てしまったので、すぐ読めるであろう薄さの『方丈記』を選んだ。

詩人蜂飼耳が、現代語訳に挑んだ光文社古典新訳文庫の版だ。

原典でも、『方丈記』は全文を読んだ事はない。有名な(有名過ぎるのだ)冒頭の部分と、そこから少しだけはみ出す範囲まで読んで、後は投げ出していた。

光文社古典新訳文庫の版も、いつの日か、原典と読み比べしてみようという興味から買ったもので、よもやそれだけを読む日がやって来ようとは、夢にも思った事が無かった。


しかし大それた事に挑んだものだ。誰もが知っていると言って良い『方丈記』を現代語訳するとは!

だが、読み始めてみると、訳者蜂飼耳は、あの原文に、正面から訳を挑んでいる。そしてそれはかなりのレベルで成功していると感じた。

『方丈記』と言えば無常だ。そのイメージに引かれ、私はどこかで鴨長明という人物が、達観した、自分とは遠い存在として捉えていた。

蜂飼耳は書く。

隠遁生活、無常観、と来ればすっかり達観した人物の綴った文章が『方丈記』なのだろうと、敷居の高い世界を思い描く人もいるのではないかと思う。しかし、『方丈記』と鴨長明の伝記的な内容から知られる事柄を併せて考えると、この人物が達観とはやや異なる境地に生きたことが見えてくる。

恐らく蜂飼耳は、『方丈記』を訳していて、それが誰の為にも書かれたものではない事。強いて言えば鴨長明は、自分自身の為に『方丈記』を書いている事に気付き、自分も、誰の為でもなく、自分自身の為に『方丈記』を現代語訳すれば良いという境地に至ったのだろう

現代語訳はこなれている。多分相当言葉を吟味し選び抜かれたものであろうが、限界まで平易な、シンプルな日本語で、現代語訳『方丈記』は書かれている。

今回『方丈記』の全体像を読んで、びっくりしたのは『方丈記』という作品が、極めて短い作品であったという事実だ。

恐らく、400字詰め原稿用紙に換算すれば20数枚程度の分量だろう。

この事実を、私は長い間意識した事が無かった。

それ故、驚いた事に、この蜂飼耳版『方丈記』には、原典も付されている。

いつの日にかやってみようと思い描いていた、現代語訳と原典の比較も、今回心ならずも果たしてしまう事が出来た。

蜂飼耳はこうも書いている。

『方丈記』の味わいの深さと面白さを現代語の場に連れ出し、伝わるかたちにするにはどうすればよいか、一語一語と対話しながら考えた。鴨長明から見れば、私の試みなど、すべて余計なことかもしれない。だが、現代語へ置き換える行為の中ではじめて出会うことの出来た鴨長明がいたことは事実だ。何度も、はっとさせられた。

正直言って、私はまだこの境地には達していない。『方丈記』という名随筆の全体像を、ようやく概観することが出来たという地点に、やっとたどり着いたところだ。

どちらかと言うと、暇つぶしに読んでみた程度の読書だったが、この本は予想以上に深い内容を含んでいる。

この薄い本を、私はこれからも、何度も開き、私の『方丈記』との出会いを果たすまで、その旅は続くのだろう。

良い本を買っておいた。

20250803

テアイテトス

腰巻きに「プラトン哲学対話の最高峰!」と謳われている。まだ読んでない。

これは読まねばなるまいと、意を決して読み始めてみた。

老ソクラテスが、10代の天才数学者テアイテトスを相手に、「知識(エピステーメ)」とは何かについて、論じ合った哲学対話だ。

「知識」や「知」については、考えてみると、それが何かは、正面切って考えたことがない。話の流れが、どのようなものになるのか、深い興味を抱いて、本を開いた。


大まかな話の流れは、知識とは何かについて、テアイテトスが仮説を打ち出し、ソクラテスがそれを見事な手捌きで論駁してゆく、そのようなものになる。

途中、ソクラテスの産婆術に関する説明や、プロタゴラスの相対主義の否定など、普通であれば、それだけでも1冊の本に値する大問題が論じられており、その部分も大いに引き寄せられた。

テアイテトスはソクラテスを著名な哲学者として尊敬しており、ソクラテスはテアイテトスを将来有望な若者として認めている。この様な互いに一目置いた同士の議論は、側で聞いていても気持ちが良いものだ。

普段、SNSなどで、議論にもならない議論を読まされている身としては、その事だけでも、新鮮な驚きだった。気分が良くなる議論というものもあるのだ!

テアイテトスが打ち出す仮説も、それなりに説得力を持つ、十分に考え抜かれたものだ。だが、ソクラテスはそれが内に重大な内部矛盾を孕んだものである事を手際よく論じ、論駁して行く。テアイテトスはそれを素直に受け止め、より良い仮説を次々に提出してゆく。その両者の運動は、まさに弁証法そのものであると、私は感じた。

それ故に、両者の対話は結論に至る迄、最終的な解答を得ずに終わるのだが、不思議と取り残され感を感じる事なく、受け止める事が出来た。

本書は、訳も読み易い日本語になっており、注釈も適当に置かれている。更に、本編が終わった後に、訳者解説として、両者の議論を、プラトンの別の著作や、歴史的エピソードに迄守備範囲を広げ、再度確認する事が出来る仕組みになっており、議論の理解をより多面的に理解する事が出来た。

読み終えて、「最高峰!」の掛け声は、伊達ではなく、内容を裏切っておらず、両者の掛け合いを存分に楽しむ事が出来たと感じている。

何よりも、この本は面白い!