意味が凝縮している。フーコーの文章を読む時、その事を強く感じる。しかもその意味は藤の樹の様に硬く捩れあい、巨大な塊を形成している。
私たちはその塊をどうにかして解(ほぐ)し、咀嚼する事が可能な程度に解体する作業を、最初にしなければならない。
それがフーコーを読むという事だ。
それはフーコーの言葉をそのまま読むという事ではない。
フーコー独自の言い回しを、一旦そのまま受容れ、その後に私自身の言葉に翻訳して行く。意味の解体と同時に、その作業も並行して行わなければならない。
本書『知の考古学』を読解する過程で、私はまたもその作業に専念しなければならなかった。
ミシェル・フーコーは、絶えず自己からの脱却を試み、繰り返し続けた思想家だと思う。
『知の考古学』は『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』を産み出して来た自らの方法論を、一旦解体し、伝統的な「思想史」と訣別し、歴史の連続性と人間学的思考から解き放たれた「考古学」として開示する為に書かれている。
フーコーにとって、その作業は一寸先だけ見えていてその先は闇の空間を、全速力で疾走する様な、知的冒険だっただろう。
フーコーの言葉を読むという事は、その冒険を私たち自身も追体験する作業でもある。
当然の様に、その過程では、一旦読んだ文章を再読し、先の読めないフーコーの言葉を繰り返し咀嚼する事が必須になる。
それは確かに苦行だが、それを繰り返し、少しずつ読み進めるうちに、ふと後ろから強烈な光が差して、その先の風景が見えて来る瞬間がある。
大抵の場合、それは瞬間的な出来事であり、その光は再び闇に包まれてしまう。
だが、それは他の思想家では味わう事の出来ない、強烈な快感である。
フーコーが一瞬腑に落ちるのだ。
フーコーは難解であり、その文章を読む事は苦渋に満ちている。
だが、一旦味わった光の瞬間を再び味わいたくて、私はフーコーを読む。
フーコーを辞められない理由はそこにある様な気がする。