20241026

性的人身取引

このブログで、本を扱う時は、その本を読んで貰いたいと願いながら書いている。しかし、今回採り上げるシドハース・カーラの『性的人身取引ー現代奴隷制というビジネスの内側』程、是が非でも読んで欲しいと願った事は、今迄に無かった。

読んで、気持ちが良くなる本ではない。むしろ現実の惨さに、思わず目を背けたくなるような内容だ。実際、私もこの本を読み始めて、一度、どうしても読み続ける事が出来なくなった。挫折したのだ。


今回意を決して読了に迄漕ぎ着ける事が出来た。この本を読むには、心の準備が必要だ。

著者シドハース・カーラは、世界中の現場に身を挺して飛び込み、危険を犯しつつ取材する事によって、セックスワークに携わる少女たちが、現代に蔓延る奴隷状態の中に投げ込まれた存在である事を明かにしている。

本書は、世界各国の実例を引きながら、その現代奴隷制がどの様に営まれているかを記述している。読んでいて気付くのは、少女たちをセックスワークに引き摺り込む手口が、世界のどの地域でも、まるで収斂進化を見ているように、相似形を成していると言う事実だ。

貧困に喘いでいる少女たちがそこから抜け出そうともがく、その意図に付け込んで、騙し、脅し、辱める事によって、セックスワークから抜け出せない様にする。

その手口は巧妙でまるで蜘蛛の巣の様に少女たちを絡め取って行く。

読んでいて、怒りと恐怖で、身体が震え出すのを、私は抑えられなかった。

この本の優れた点のひとつは、その現代奴隷制をなくす為の政治的な枠組みを、懇切丁寧に提案している事だ。少ないリスクと過大な需要がある。だから現代奴隷制は無くならない。ならばリスクを高め、需要を抑える方向に、社会の仕組みを作ってゆけば良い。

簡単に纏めるとそう言う事になるのだろうが、それを現実に実践して行く為の方策を、著者は丁寧に、そして説得力を持って、提案している。

その部分を含めて、やはりより多くの人に、この本を読んで貰いたいと願って止まない。

先ず現実を知る事。それに敗北しない事。全てはそこからしか出発出来ないだろう。

20241021

19世紀ロシア奇譚集

学校教育では、美術では印象派が、文学ではリアリズムが幅を利かせている。19世紀のロシア文学と言えば、レフ・トルストイであり、ドストエフスキーであり、まるでそれ以外のジャンルは、芸術ではないかの如き勢いである。


本書、高橋知之編訳による『19世紀ロシア奇譚集』には、リアリズムの隆盛の影に追いやられ、忘れ去られてしまっていた作品たちが発掘され、収められている。

採り上げられた作家たちも、トゥルゲーネフ以外、全員初めて聞く名前ばかりで、読書も、新鮮な気分で進める事が出来た。

編訳者によると、これらの作品に影響を及ぼした要素として、「フォークロア」「西欧文学(ゴシック小説の受容・クリスマス物語と怪談)」「オカルティズム」があったと言う。

個々の作品に関しては、本書を読んで頂くのが一番だと思うので触れないが、総じて、とても楽しい読書体験になったと言うことは、是非報告させて頂きたいと思う。

どの作品にも、共通して非常に幻想的な雰囲気が通低音の様に響いている。その幻想的な雰囲気こそ、リアリズムが徹底的に排除して来たもの、そのものだと思うのだが、いざ、実際に読んでみると、独特の快感にそそられるものがある。

文学には、こうした「実際にはあり得ない事」を、実感を込めて味わわせてくれるという機能もまた、あったのではないだろうか?

リアリズムにある、重厚長大さこそないが、これらの作品には、巧みなプロットに思わず引き込まれてしまう快感が、十分過ぎる程存在する。

リアリズムを貶めようと言うのでは勿論ない。だが人間の想像力というものを考えた場合、それをリアリズムだけに閉じ込めてしまうのは、余りにも勿体無いと思うのだ。想像力にはリアリズムから思わずはみ出してしまう広大さが、多分あるのだ。

20241016

カノッサ

 S.ヴァインフルター『カノッサー「屈辱」の中世史」。原書は”CANOSSA-Die Entzauberung der Welt”。世界の脱魔術化と直訳出来るのだろうか?刊行後20年以上を経て尚読み継がれるロングセラーらしい。


カノッサの屈辱はその印象的な呼称と出来事から、高校生以上ならば誰でも記憶している西洋史上の出来事である。

だが、専門家の間では、番狂せ、奇襲、煙幕、茶番と様々な評価が入り乱れ、定説が定まらない出来事であるようだ。

この本は、それらの論争に、決着を付ける為に書かれている。

従来1076年から1077年1月に限られていたカノッサ事件を、その前史、後史を含めて捉えることによって、全体像の把握に成功している。

それだけに登場人物も高校教科書の様に、皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世に限られず、彼らを取り巻く様々な人物が入り乱れる。それらの人物相関関係を理解するだけでも困難を感じた。

だが、流石にカノッサ事件の描写は丁寧で、今迄知らなかった事実を数多く理解する事が出来た。

カノッサ事件は、それによって皇帝権を教皇権が凌駕するに至ったと言うような単純な出来事ではなく、その後ハインリヒ4世の逆襲あり、その後を継いだハインリヒ5世による裏切りありと、予想以上にドラマチックな展開を示したようだ。

皇帝と教皇の叙任権闘争は、その諸段階を理解する事が、歴史を素直に理解する上で、重要である事が分かった。

中世史に興味を抱く人にとってこの本は、当に必読の書と言えるだろう。