20251211

賢治と鉱物

加藤禎一+青木正博『賢治と鉱物ー文系のための鉱物学入門』

美しい本だ。


それは装丁が美しいだけにとどまらず、中身の鉱物の写真に至る迄、徹底的に美しさに貫かれている。

文系のためのと謳われている。だが、鉱物の記載は本格的だ。元素記号や晶系などの用語が、何の説明もなしに使われている。

しかも、賢治が作品に用いた鉱物について、実によく調べられている。例えば、ガスタルダイトとインデコライトという項目がある。

私は地質学を専攻してきた。だがガスタルダイトなどという鉱物は、見た事も聞いたこともない。賢治の作品を読み解く上でも、この鉱物の正体は、長い間謎であったらしい。

それが写真付きで紹介されている。

これは宮沢賢治の作品を鑑賞する際にも、実に有難い手助けをしてくれる本なのではないだろうか?

鉱物の色をキーとして、青、緑、黄色、赤、白、黒の6章に分けられて記載されている。

賢治は空の色などを鉱物を喩えとして、作品中で描写している事が多い。

この分け方は理に適っている。

図書館で借りた。けれど読んでいるうちに、どうしても欲しくなった。この本に引用されている賢治の作品を、読み解きたくなったのだ。

その意味ではこの本は、理系のための賢治入門とも言えるのではないだろうか?

無論、この美しい本を、写真もろとも手元に置いておきたい欲求もある。

20251106

ガザ 欄外の声を求めて

凄いものを読んでしまった。その思いに打ち倒されるように、読後、暫く立ち上がれなかった。


パレスチナのイラストレーター、ジョー・サッコによる漫画である。けれど、これを漫画と呼んでしまうのには、かなり大きな抵抗がある。

それ程軽いものではないからだ。

ジョー・サッコは、その優れた丁寧な筆致によって、ガザが置かれている現状を、他のどんな表現手段を用いるより以上に、リアルに描き出す事に成功している。

それは人物をアップで描いている時(それも極めてリアルなのだが)にも、現れているが、人々を群像として描く時に、驚くべき表現力を発揮している様に思える。

例えばガザの住民を校庭に集めているシーンなどで、遠近法によって、群衆が捉えられるのだが、遠くに坐っている小さな人物像に至るまで、その個性、特徴を、丁寧に描き込む事で、その群衆が、ひとりひとりのパレスチナ人である事を、否応なしに読む者に伝えて来る。

それ故に、その群衆は、イスラエル人によって、個性ある者として扱われず、物の様に扱われている事が、極めて理不尽な現実である事を伝えて来る。そう、10月9日以前から、パレスチナ人はイスラエル人によって、その様に扱われて来たのだ。それが唯一の現実である。

私たちはこの本を読む事で、ガザに於けるジェノサイドが、10月9日の報復によって開始されたのではなく、それよりも遥か以前から、ガザのパレスチナ人が人を人と思わないような扱いをされて来た事を、知る事が出来る。

私たちには、イスラエルがなぜ、パレスチナ人に対し、あれ程酷い事が出来るかを、簡単に想像する事は困難だ。

だがこの本を読む事で、私はようやくそれを理解する事が可能になった様に思う。

イスラエル人は常に、パレスチナ人の生殺与奪の権利を握っていた。今回のジェノサイドは、その権利をちょっと現実的に、実行してみただけの事なのだ。

断言出来る。この漫画本には、何よりもリアルなガザが存在する。

20251005

ショスタコーヴィチ

亀山郁夫『ショスタコーヴィチー引き裂かれた栄光』

辛辣な題名だが、著者亀山郁夫はショスタコーヴィチに、限りない愛情を込めて、この本を執筆している。


その偏愛の蜘蛛の巣を、払い除けながら読んだ為、非常に時間が掛かった。

私はショスタコーヴィチを好んで聴く方ではない。彼の音楽に付き纏う一種の騒々しさが神経に障るからだ。

だが、にも関わらず、ショスタコーヴィチは常に、気に掛かる存在だった。

本書の中でショスタコーヴィチは革命家の血筋を引き、音楽の才能に恵まれた少年として登場する。

運命は、ここから始まっている。

人民の希望の結晶として始まったロシア革命。そしてソヴィエトロシア。それがどのような経路を歩んだのかは、既に多くの文献で知られている。

その中で芸術家として生きて行く事は、まさにそれ自体が峻厳な綱渡りだっただろう。

ショスタコーヴィチは音楽家として成功し、ソヴィエトロシアに生きる芸術家としても成功している。

どのようにそれがなされたのか?

その具体的な経緯を、本書は忌憚のない筆致で、淡々と暴いて行く。

それは決して、綺麗事では済まされない重く分厚い現実の中のドラマだった。

天才ショスタコーヴィチ。しかし彼はそうした存在である前に、過酷な運命に翻弄される、一市民だったのだ。

20250909

少女たちの戦争

優れた文集である。

この本は、1941年12月8日の太平洋戦争開戦時に、満20歳未満だった女性たちによるエッセイを、著者の生年順に収録したものだ。その数は総勢27名に上る。


そのうち最年長は1922年5月生まれの瀬戸内寂聴さんで当時19歳。最年少は1938年6月生まれの佐野洋子さん当時3歳。

1931年9月に満州事変があり、1937年7月には日中戦争が始まり、1945年8月15日迄15年戦争が続いた。

彼女たちが物心ついた時にはすでに日本は戦時下だった訳だ。

非日常が日常となった日々の中で、幼少期・青春期を送った彼女たちは何を思い、どう過ごしたのか。それが時に戦争をはみ出す記載の中に、生き生きと綴られている。

それらを読み進めてゆくうちに、私はいつの間にか彼女らの語りに、すっかり気を取られてしまった。

それは、事実が持つ重さでもあっただろう。

今年、戦後80年を迎えた。

戦争を体験した人の数は、どんどん少なくなって行く。そんな中で、上梓されたこの文集は、その戦争の、貴重な記録でもあると思う。

中央公論新社は良い仕事をした。

20250827

「私」は脳ではない

還元主義が大流行りである。

人間を含めた生物の事であれば、遺伝子か脳に還元すれば型が付く。そうした論調が、世の中に溢れ返っている。

正直に告白すると、私も一時そうした時勢に相乗りしようとした事もある。だが、そうした考え方で物事を割り切って行くと、どこか心に隙間風が吹く。

どうしても何か見落としている感覚が残り、強烈な違和感に襲われて来た。

だが、それをどの様に表現したら良いのか分からないまま、漫然と過ごして来た。

そんな折、この本に出逢った。


この本は『なぜ世界は存在しないのか』と『思考の意味』に挟まれた、マルクス・ガブリエルの3部作の真ん中に当たる。

「私」という現象は、全てが脳に還元出来るものではないことを、理論的に説いている。

読者としては、一般の人々を想定しているらしく、書き方の手付きは柔らかく、ジャーゴンを用いた場合は必ずその解説を付けるなど、細かな心遣いがなされている。だが、

本書で採用するのは反自然主義の視点です。つまり、存在するすべてのものが実際に科学的に調査可能であるわけでも、物質であるわけでもない、という前提に立っています。

と表明がなされているところなどは、極めて挑戦的な本であるとも言える。

つまりマルクス・ガブリエルは唯物論に反旗を翻しているのだ。

それ故にだろうが、読書メーターなどでは、読む価値がない本と断言しているものもあったが、一読した限りでは、そう目くじらを立てる必要はないと感じた。

本書のクライマックスは、そうした反自然主義の表明にあるのではなく、全てを脳に還元するような見方から脱却することで、私たちはようやく自由や民主主義等の自己決定という精神の自由が擁護されるというところにあると私は思う。

現実的に私などは本書を読むことを通じて、様々な思い込みから解放され、心の有り様がかなり楽になるのを感じた程だ。

何よりも本書は、私が長年感じ続けた違和感に、ようやく言葉を与えてくれた本であると言えると思う。

20250822

オーウェルの薔薇

実はこの本、一度頓挫している。

2年半前に読み始め、1/3くらいで読むのをやめてしまったのだ。

理由は面白くなかったなのだが、他にも私はオーウェルとオーソン・ウェルズを取り違えており、話の脈略が分からなくなってしまった事がある。

オーソン・ウェルズの『市民ケーン』には、薔薇の蕾という「謎の言葉」がある。それが一向に出て来ないのに痺れを切らし、飽きてしまったというのが真相だ。

だが、今回読み始めて、この本がこれ程面白いのか!とびっくりする程だった。驚いたのはそれだけではなく、一度読んだ本ならば、エピソードのひとつくらい覚えているものなのだが、それが全く無かった事がある。

私は何を読んでいたのだろうか?


本書はジョージ・オーウェルの伝記である。と、そう言うのは早合点のようだ。著者レベッカ・ソルニットの断り書きによれば、本書はこれがすでに多く出されているオーウェルの「伝記」の書棚に付け加えられるものではなくて、彼が1936年に薔薇の苗木を自宅に植えたエピソードを「取っ掛かり」とした「一連の介入」だと言う。

確かに、オーウェルから完全に離れてしまうのではないが、関係のない事柄にしばしば話が飛ぶ。

そのような思考のそぞろ歩きを経て、小宇宙のような多彩な拡がりを見せながらも、一冊の本としての統一感は保たれているという、ソルニットの書きぶりの真骨頂がそこにはある。

そのそぞろ歩きは、化石燃料としての石炭(そこから更に脱線して描かれる石炭紀の描写は、並大抵の学習ではここ迄は無理と思われる程見事に纏まっている)と炭鉱労働。帝国主義や社会主義と自然。花と抵抗を巡る考察。現代の薔薇産業などを経て、未来への問いへとつながっている。

薔薇にはどこか特別なところがある。古くから人々を魅了し、多岐にわたる品種改良の歴史を経て世界中で身近な存在であり続けている。

それは文学や絵画音楽などの芸術において繰り返し採り上げられ、時に美そのものの象徴のようにも考えられて来た。

美しいもの、自然であるもの、それらは政治に対して超越的な価値を持つと考えられがちだ。だが本書を通してレベッカ・ソルニットが明らかにしているのは、薔薇は、そして自然は、政治的でもあり得るという事だ。

ソルニットのそうした思索は読者に驚きと衝撃を与えるが、それは同時に解放であり、覚醒でもある。

今まで、レベッカ・ソルニットという書き手は、どちらかと言うと苦手にしてきたが、その苦手意識からも、今回の読書体験で解脱出来た気がする。

今迄読み逃して来たものを、近いうちに再度読み返したい気分に駆られている。

20250812

薔薇の名前

遂に読んだ。読み切ってしまった。今、強烈な読後感に圧倒されている。

ウンベルト・エーコの代名詞とも言える小説『薔薇の名前』を読破した。

今住んでいる団地に引っ越して来る前、私はこの作品を所持していた。けれどその存在感に負けて、少し読み始めては敗退するを繰り返していた。

そのうちに、この作品を読むには、年齢が高くなり過ぎてしまった様な気分に支配され、読まないまま、図書館にあるという理由で、古本屋に売ってしまった。


今回、図書館から借りての読書となったが、この様な切っ掛けがなければ、そのままずるずると読まずに過ごしていた可能性が高い。

年齢が高くなってしまった事も、これは読んでいる最中に感じたのだが、逆に功を奏したと感じた。

この作品には、読者の歴史の知識、語学力、そして何より読書量を試して来る様な気配がある。幸いな事に、私は既に『デカメロン』も『神曲』も読んでいる。ウンベルト・エーコが仕掛けたトラップに、引っ掛かる事なく、逆にそれを味わいながら身をこなして行く事が出来た。これも長い事生きて来て、様々な経験を積み、読書体験もそれなりに重ねて来た事が生きたと感じた。


内容に関しては、触れずにおく。実際に読んだ方が、楽しめるし、下手に要約すると、この作品が、単なるエンターテイメントと誤解を招く結果に導きかねない。

この作品は映画にもなっており、そのBlu-rayは所持しているが、有体に言って、原作の方が圧倒的に良い。特にラストは原作と映画は全く逆の展開を有しているが、映画の終わり方は折角の世紀の名作を台無しにしていると感じる。

敢えて言えば、映画ではグレゴリオ聖歌を実際に聴く事が出来、その点は楽しめた。

『薔薇の名前』を読破し、長い間抱え込んでいた課題を、ようやく果たせた様な、爽やかな気分にも浸っている。

これから先も、何度も私はこの『薔薇の名前』を読むだろう。