20260216

恐竜学

記念碑的な論集である。

学部生だった頃、恐竜の研究が、進みつつあるのを、何となく感じていた。だが、その頃は、恐竜の研究に生涯を捧げる者も身近におらず、日本にも、恐竜研究者はさほど誕生していなかった。

その頃と比べると、隔世の感がある。


編者の小林快次さんは、言わば日本の恐竜研究者のスター的存在であり、現在に至る迄、牽引的な役割を一手に引き受けて来た。

この論集が出されたのは、日本人の手による恐竜研究の本が、そろそろ書かれても良い頃だと、感じられたからだと言う。それだけ、日本人の恐竜研究者の裾野が拡がって来ているのだろう。

日本での恐竜発見のニュースも、以前とは段違いに多くなっている。

だが、よもやここ迄研究が進んでいるとは思わなかった。

想像していたより、遙かに定量的、理論的、そして学際的に恐竜研究は進んでいた事を、この論集で思う存分知らされた。

第I部の「進化と歴史」でまず、度肝を抜かれた。

恐竜の分類と進化の過程が、実に詳細に、幅広く述べられているのだ。

恐竜類の系統樹も、詳細に、連続的に描かれていた。

その根拠も、想像していた定性的な推論によるのではなく、定量的、論理的に分類がなされていた。それが分かったのは、再読した後の事で、最初は、図に示された恐竜の種類を追うのに精一杯で、登場する恐竜の多さに溺れていた。

成程なと思わされたのは、鳥類も恐竜の進化と歴史の一部として記載されている事で、考えてみると当たり前の事なのだが、それが当たり前のように書かれている事に、時代を感じてしまった。

恐竜から鳥への進化の過程も、以前は始祖鳥に代表される、点的な描写だった事が、間を埋める標本の発見の充実振りから、線として追跡可能になっており、ひどく驚かされた。

研究の視野は、恐竜の生理・生態から色・姿勢の復元にも及んでおり、それが単なる想像ではなく、幅広い根拠と論理的な類推に裏付けられている事を知った。

それぞれの記載には、現在の研究の到達点と、今後の課題が付せられており、この分野が今後もっと発展してゆくものである事を、実感として理解出来た。

今回は都合3回読破したが、正直言ってまだ十分に理解出来たとは言い難いものを感じている。本来ならば手元に置いておきたい本だが、その資金がないので、今後も折を見て、図書館から借りて読んで行こうと思っている。

その価値が十分過ぎる程ある論集だ。

20260213

極右インターナショナリズムの時代

衆院選が右派の圧勝で終わった。流石にめげた。

だが、なぜそのような社会現象が起きたのか、そのところが全くわからなかった。

それ以前から図書館で、佐原徹哉の『極右インターナショナリズムの時代ー世界右傾化の正体』を借りていた。

ここに、知りたいことのヒントが書かれているかも知れない。そう感じた。

実は衆院選の前に一度読破している。だがその時は、書かれている事の細部に拘ってしまい、肝心の右傾化の正体がなんであるのかは、読み落としてしまっていた。

再読の必然性を感じた。


今回は前回の轍を踏まぬよう、大局観を見失わないように気を付けながら読んだ。

筆者は東欧史の専門家らしい。日本については分からないと、冒頭で述べている。余り期待し過ぎないほうが良いだろうと、心して読んだ。

だが、この時代、なぜ「右傾化」が世界的に進行しているのかという問題意識を持って書かれた本を、私は他に知らない。何かヒントはある筈だ。

ムスリム移民と西欧の衝突などが表立って書かれている。だが、ここに拘ると大局を見失うだろう。そもそもそのムスリム移民は、なぜ目立ち始めたのか?

そこに力点を置いて読んでみると、朧げながら、右傾化という亡霊の正体が見えそうな気がした。

国民国家の屋台骨が軋みを生じ始めているのだ。

なぜか?

その背景の一つとして、新自由主義が挙げられていた。これは単なる経済用語の範疇を超えて、世界の政治形態、文化、生活をも大きく変えようとしている。

移民はなぜ増えているのか、が少し見えそうな気がした。

新自由主義が国境のピントをぼやけたものに変えてしまい、それについてゆけない者達を、異郷に追いやっているのではないか?

日本でも、移民の問題は、選挙で多く語られた問題のひとつだった。移民を受け入れる側も、新自由主義についてゆけなくて、流れ込む異民族を、異物のようにしか感じられずにいるのだ。その「実感」に、右派は付け込み、勢力を伸ばす。その構図は、今回の衆院選でも、頻繁に見られた遣り口だったのではないか?

ならば自ら率先して、新自由主義者として生きる姿勢が望まれているのか?

そうとも言えないと、私は感じる。

新自由主義の波に乗り、そこで成功を収めている人たちを見ると、どれもどこか歪んでいて、とてもじゃないが、好きになれそうにない人たちばかりだ。

新自由主義を超えて、それに替わりうる、政治・経済形体の模索が、今、最も必要とされている事なのではないか。

その事だけが、やけにはっきりと見えて来た。

一度目の読書では見落としていた記述もクローズ・アップされて見えて来た。

極右とリベラルの連合体は、移民排斥と労働者の権利の削減で利害を同じくし、それはグローバル資本主義の利害と一致している。グローバル化新自由主義規範の内在化によって、世界全体で階層分化が進んでいるため、経済が成長すれば誰もが豊かになれるというのは幻想に過ぎなくなり、人権と民主主義が経済発展の前提だとする中間層と富裕層を結びつけてきたリベラリズムの理念も説得力を失ったが、それに代わって、自由と権利を特定の集団だけに限定し、それ以外を切り捨てる極右の思想の方が、システムの存続に好都合なイデオロギーになったのだ。それが右傾化の正体である。

欧米では、リベラルが極右に擦り寄る現象が進んでいると言う。日本でも、代表選を終えたばかりの中道改革連合が、憲法9条の改正もあり得ると発言している。私はそこに相似形を見る。

世の中の右傾化を、ただ単に訳の分からないもの、不気味なものとして見ている限り、私たちの生活はどんどん破壊されてゆくだろう。

それに代わりうる未来像の模索もまた、すでに始まっている様に、そこはかとなく見えて来ているのが、この本を2回読破した私には、せめてもの希望だ。

20260204

薔薇の名前完全版

既に旧版は読んでいる。その時も図書館から借りて読んだ。

この度完全版が出ると聞いて、取るものも取りあえず、図書館にリクエストを出した。だが不安もあった。県立・市立共に旧版が既にあるのだ。買ってもらえるのだろうか?

どうにか買って貰えるようだと分かって、その時は欣喜雀躍した。

この程借りて来て、今日(2月4日)上巻・下巻共読み終えた。


やはり、圧倒された。

読んでいて、旧版の記憶が意外と残っている事に驚いた。それと比べると、構成構想には変化はないものの、相当手がが加えられている事が分かった。

完全版は十分に読む価値のある版だった。細かなところ迄、気を配ってあって、完成度が、旧版より、遙かに高いのだ。


嬉しいのは、いつか読む心算でいた「『薔薇の名前』覚書」が、巻末に添えられていた事だ。ウンベルト・エーコの創作の秘密が、本編を読んですぐ明らかにされるのだ。ファンにとって、これ程嬉しい事はない。

読んでいて、旧版で気が付かなかった事にも、多数気が付いた。作者はこんな所まで、気を配って、創作しているのかと、何度も驚かされた。

無論、読書量の不足から、まだ気が付いていない仕掛けも多数あるに違いない。それを思うと、やはり悔しさが滲む。

何よりも、キリスト教の教義を全くと言って良い程理解していない事が悔やまれる。

だが、そうした事を悔しがれる程、今回は読解できたのだと思えば、少しは気が休まると言うものだろう。

『薔薇の名前』は、今回の読書体験で、より一層、私にとって大切な本になった。

20260109

奴婢訓

参った。

明日10日に、図書館に本を返しに行く。それまでにと思いつつ、三木卓の書いた北原白秋の伝記を読んでいたのだ。だが、それは今日9日の朝7時には読み終えてしまった。

突然空いた空白の時間に私は狼狽えた。本棚を眺め回す。その時このスウィフトの『奴婢訓』が目に留まった。薄い。これなら1日で読めそうだ。

そうなのだ。私はこの本を、内容ではなく、未読の薄い本であるという理由だけで選んだのだ。


読み始めてすぐ、この本は素直な気分で読むことが不可能な本である事が理解出来た。

素直な気持ちで書かれた本ではない。

表向きは使用人に対して贈る、人生訓の振りをしている。だがそこに展開されるのは、一筋縄では括れない、手の込んだ、容赦ない皮肉、逆説、諧謔の嵐だった。

スウィフトは、最初よくあるタイプの人生訓を説く本を書く心算だったらしい。

けれど書き始めてすぐ、捻りに捻った形の方が、本来の目的を達成出来ると思い付いた様だ。

これでもか!と言う勢いで、奉公人が主人に対して、いかに狡賢く立ち回れるか、どうすれば責任を免れる事が出来るかが、記されている。

私が主人ならば、この様な本を読む奉公人は御免被りたいところだ。

流石『ガリヴァ旅行記』の作者スウィフト。その面目躍如のとんでもない奇書だ。

だがどうだろう。自分が奉公人であるとしたら、この本に書かれている姿勢で、勤め上げた方が、主人という権力に対して、敢然と立ち向かい、自己を貫く事が出来るとも言えるのではないだろうか?

スウィフトの狙いも、あながちそこにあったのではないかとも、今では思ている。

20251211

賢治と鉱物

加藤禎一+青木正博『賢治と鉱物ー文系のための鉱物学入門』

美しい本だ。


それは装丁が美しいだけにとどまらず、中身の鉱物の写真に至る迄、徹底的に美しさに貫かれている。

文系のためのと謳われている。だが、鉱物の記載は本格的だ。元素記号や晶系などの用語が、何の説明もなしに使われている。

しかも、賢治が作品に用いた鉱物について、実によく調べられている。例えば、ガスタルダイトとインデコライトという項目がある。

私は地質学を専攻してきた。だがガスタルダイトなどという鉱物は、見た事も聞いたこともない。賢治の作品を読み解く上でも、この鉱物の正体は、長い間謎であったらしい。

それが写真付きで紹介されている。

これは宮沢賢治の作品を鑑賞する際にも、実に有難い手助けをしてくれる本なのではないだろうか?

鉱物の色をキーとして、青、緑、黄色、赤、白、黒の6章に分けられて記載されている。

賢治は空の色などを鉱物を喩えとして、作品中で描写している事が多い。

この分け方は理に適っている。

図書館で借りた。けれど読んでいるうちに、どうしても欲しくなった。この本に引用されている賢治の作品を、読み解きたくなったのだ。

その意味ではこの本は、理系のための賢治入門とも言えるのではないだろうか?

無論、この美しい本を、写真もろとも手元に置いておきたい欲求もある。

20251106

ガザ 欄外の声を求めて

凄いものを読んでしまった。その思いに打ち倒されるように、読後、暫く立ち上がれなかった。


パレスチナのイラストレーター、ジョー・サッコによる漫画である。けれど、これを漫画と呼んでしまうのには、かなり大きな抵抗がある。

それ程軽いものではないからだ。

ジョー・サッコは、その優れた丁寧な筆致によって、ガザが置かれている現状を、他のどんな表現手段を用いるより以上に、リアルに描き出す事に成功している。

それは人物をアップで描いている時(それも極めてリアルなのだが)にも、現れているが、人々を群像として描く時に、驚くべき表現力を発揮している様に思える。

例えばガザの住民を校庭に集めているシーンなどで、遠近法によって、群衆が捉えられるのだが、遠くに坐っている小さな人物像に至るまで、その個性、特徴を、丁寧に描き込む事で、その群衆が、ひとりひとりのパレスチナ人である事を、否応なしに読む者に伝えて来る。

それ故に、その群衆は、イスラエル人によって、個性ある者として扱われず、物の様に扱われている事が、極めて理不尽な現実である事を伝えて来る。そう、10月9日以前から、パレスチナ人はイスラエル人によって、その様に扱われて来たのだ。それが唯一の現実である。

私たちはこの本を読む事で、ガザに於けるジェノサイドが、10月9日の報復によって開始されたのではなく、それよりも遥か以前から、ガザのパレスチナ人が人を人と思わないような扱いをされて来た事を、知る事が出来る。

私たちには、イスラエルがなぜ、パレスチナ人に対し、あれ程酷い事が出来るかを、簡単に想像する事は困難だ。

だがこの本を読む事で、私はようやくそれを理解する事が可能になった様に思う。

イスラエル人は常に、パレスチナ人の生殺与奪の権利を握っていた。今回のジェノサイドは、その権利をちょっと現実的に、実行してみただけの事なのだ。

断言出来る。この漫画本には、何よりもリアルなガザが存在する。

20251005

ショスタコーヴィチ

亀山郁夫『ショスタコーヴィチー引き裂かれた栄光』

辛辣な題名だが、著者亀山郁夫はショスタコーヴィチに、限りない愛情を込めて、この本を執筆している。


その偏愛の蜘蛛の巣を、払い除けながら読んだ為、非常に時間が掛かった。

私はショスタコーヴィチを好んで聴く方ではない。彼の音楽に付き纏う一種の騒々しさが神経に障るからだ。

だが、にも関わらず、ショスタコーヴィチは常に、気に掛かる存在だった。

本書の中でショスタコーヴィチは革命家の血筋を引き、音楽の才能に恵まれた少年として登場する。

運命は、ここから始まっている。

人民の希望の結晶として始まったロシア革命。そしてソヴィエトロシア。それがどのような経路を歩んだのかは、既に多くの文献で知られている。

その中で芸術家として生きて行く事は、まさにそれ自体が峻厳な綱渡りだっただろう。

ショスタコーヴィチは音楽家として成功し、ソヴィエトロシアに生きる芸術家としても成功している。

どのようにそれがなされたのか?

その具体的な経緯を、本書は忌憚のない筆致で、淡々と暴いて行く。

それは決して、綺麗事では済まされない重く分厚い現実の中のドラマだった。

天才ショスタコーヴィチ。しかし彼はそうした存在である前に、過酷な運命に翻弄される、一市民だったのだ。