ミシェル・フーコーの本を読まずに、ミシェル・フーコーについての本ばかり読んでいる。
今回読んだのは慎改康之『ミシェル・フーコーー自己から抜け出すための哲学』。この本に関しては、若干の因縁がある。
5年程前、県立長野図書館を訪れた際、新刊コーナーでこの本を見掛け、強く惹かれたのだ。だがその時は既に限度一杯の本を借りていた為、手に取らずに放置していた。それでもいつかこの本を読むだろうという予感は強くあった。
今回、遂に読んだ。
フーコーの言説は多岐に渡っている。それ故どこから手をつけて良いのか、酷く迷う。
この本は、そのフーコーの言説の変遷を、発表された書籍を順に取り上げ、簡潔かつ丁寧に解説してある。
但し読むスピードには注意を払った。読み飛ばすと理解不能になる。渋滞すると話の筋を見失う。幸い適当な緊張感を保ち、終わり迄読み通す事が出来た。
流石にミシェル・フーコーの翻訳を手掛けているだけあって、慎改康之さんのフーコー理解は深く、正解だと感じた。何しろあの『言葉と物』を理解できているのだ。それだけでも尊敬に値する。
最初副題の「自己から抜け出すための哲学」の自己とは、読者の事かと思って読み始めたが、すぐにフーコーの事であると理解出来た。
フーコーは自己の経験、研究、著作を通して、常に変貌し続けた哲学者だ。それ故、フーコーをどう読むかは、フーコー理解の深まりを決定付ける。油断したまま読み続けると思わぬしっぺ返しを受ける事になりかねない。
その意味で、本書に巡り会えた事は、私にとって幸運な事だと感じる。
フーコーの広大な言説世界を、この本は一望の元に展望する事を可能にしているのだ。
やっと私は、ミシェル・フーコーの全体像を、自分の物にする事が出来た。
だがそろそろ私の図書館行脚の三本柱のひとつであるミシェル・フーコーを、実際に読み始める時がやってきたようだ。
著者も言っている。
本書が果たしうるのはあくまでも、門の手前にいる読者を門のなかにいざなうという役割にすぎない。したがって、いかなる意味においてもここは足を止めるべき場所ではない。本書を読み終えるやいなや、読者がただちに門をくぐり、フーコー自身の言葉に耳を傾けるべく駆け出すことを切に願う。
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