母語で考えるとはいかなる事か。その事を考えさせられる1冊になった。
『人間の条件』は最初に志水速雄の訳で、そしてその後牧野雅彦の訳で読んだ。
今回読んだ『活動的生』は『人間の条件(Human Condition)』のドイツ語版『Vita activa』からの翻訳になる。訳者は森一郎。
英語版につきまとっていたある種の難解さが、ドイツ語版にはない。言語は極めてクリアで明晰だ。
そしてドイツ語版では、ハンナ・アーレントがいつにも増して饒舌である事にも気が付いた。
まさしくハンナ・アーレントは、歌うように、論文を書いている。
それこそが、普段ドイツ語で思考しているハンナ・アーレントがドイツ語で考えるという事の現われなのだろう。
だが、流石に論旨を十分に咀嚼し、理解するには、一行も読み飛ばす訳にも行かず、結局6日掛けて、ようやく読破する事が出来た。
生きている限り、人は何らかの活動を行う訳だが、それぞれの活動を行っている時、一体何をしているのか?その事を丁寧に、根気強く、ハンナ・アーレントは私たちに語りかけて来る。
それは同時に生きる事=活動する事の意義を、丹念に確認して行く事でもある。
その作業を通して、私たちは現代に生きるという課題を、どうにか達成する事が出来るのだろう。
その意味で『人間の条件』=『活動的生』は、人類が20世紀に到達した、貴重なメルクマールであると言う事が出来るのだろう。まさしく本書は、現代哲学の古典的名著であると言えると思う。
戸惑ったのは『人間の条件』で「仕事」と訳されていた語が、『活動的生』では「制作」と訳されている事だった。英語とドイツ語で使われている単語の意味が異なる事から発した相違なのだろうが、ハンナ・アーレントの主張を「仕事」で理解していた私には、飲み込むのに少し困難が伴った。
だが第六章「世界疎外の開始」から始まる、本書の結論に至る過程は、ドイツ語版ならではの迫力に満ちており、思わず感動してしまった。
3作品を通読して、やはりドイツ語からの本書が、私にはとても好感が持てた。
だが3作品の中で、『活動的生』が最も値段が高い。