20220328

進化生物学

恐ろしい程高い密度を保った本である。進化生物学に関する情報が、この一冊の本の中に凝集されている。

加えて、図表や参考、コラムが充実しており、それを読み解くだけでもかなりの集中力と根気を必要とした。


本来ならばこの本を教科書にして、1年くらい掛けて解説付きでじっくりと取り組むべきなのだろうが、図書館から借りた本には返却期限がある。泣く泣く急ぎ足でざっと通読した。

しかし、急ぎ足で読めたのは、前にスティーヴン・ジェイ・グールドの『進化理論の構造」を読破しておいた事が大いに助けとなった。進化論の概要が頭に入っていたので、ゲノミクスに関する記述も恐れずに読む事が出来たのだ。

進化論の歴史から、無機物から原子生命体が形成されるメカニズム、生命の誕生、真核生物の出現、多細胞化と有性生殖の獲得、生物の陸上進出、エボデボ(進化発生生物学)と言ったトピックスを著者は手際良くまとめ、丁寧に解説している。しかもその内容が新しい。どのトピックも現在の生命科学の最先端を紹介していると言って良い。

今迄、曖昧だった概念がこの本によって明確な輪郭を与えられた事例も多い。原始生命体の発生と粘土鉱物の関係も、具体的に開設されており、やっと納得出来る科学理論として、私の中に定着させる事が出来た。

個人的には、動物の陸上進出のきっかけとして、オウムガイによる捕食圧が関係しているという解説には大いに納得するところがあった。

今迄生物の陸上進出は、シアノバクテリアや藻類の働きによって大気中に酸素が増え、それが宇宙線によって分解・合成されてオゾン層が形成されることで陸上に到達する紫外線が激減し、陸上も生物の生存が可能になったとする解説ばかりで、なぜ陸上化しようとしたのかの解説には全く出会っていなかったのだ。

この本で一通り進化生物学をゲノミクスによって解明するとどの様なストーリーになるかを学んだ後、巻末で進化重要語集として進化年代表や基礎的な用語の解説が纏められているのも嬉しい配慮だ。曖昧な理解だった事がこれではっきりと再確認出来た。

残念なのは充実した参考文献が最後に紹介されているのだが、それがどれもNatureやScienceといった科学雑誌や原著論文で、それを手に入れる環境に私がいない事だった。それが出来ればこの本はもっと深く読み込む事が出来るだろう。

だが、この本によって進化生物学やゲノミクスに関しては、かなりアップデートすることが出来た。充実した読書体験が出来たと思う。特にエボデボの進展によってもたらされた最新の成果を知る事が出来た事がとても嬉しい。

20220316

聖母の美術全史

大きく出たなぁ!という感想がこの本を手にした最大の理由だ。何しろ「全史」だ。普通の厚さの2倍は優にあるとは言え新書だ。その新書1冊の題名に全史を謳う。その度胸の良さが気に入った。


だが読み始めて、知識量の多さに流石に舌を巻いた。更に、論ずるところの範囲も、西洋は勿論として、南米、アジア、日本と網羅されており、時代も古代から現代に至っている。伊達に全史と名打っている訳ではないなと納得した。

キリスト教の中で聖母マリアは特別な位置を占めている。神ではない。ただの人間だ。だがキリストを産んだ。その事によって、独自な聖性を帯びるようになった。キリスト教の布教に於いて、聖母マリアは更に特別な存在となった。世界各地には、それぞれ独自の女神信仰を持っていた。その女神信仰と聖母マリアが合体し、聖母マリアは各地で深い信仰を集める事になった。

聖母信仰は当初から像と共にあった。ヨーロッパでは5世紀に神の像を描いたイコンが現れているが、それより遥か以前に聖母像は現れていたらしい。それはローマ郊外にあるカタコンベに描かれていたものだ。聖母像がいつ成立したかは分かっていない。何しろキリストの弟子ルカが描いたという伝承を持つ聖母像も存在するのだ。

当初1日もあれば読破出来ると踏んでいたのだが、思いの外時間が掛かった。それは聖母像を描写するその筆致が詳細で、微に入り細に入り描かれる聖母像の形式を読み進めるのに手間が掛かったからだ。オディギトリア型とかエウレサ型とかブラケルニオティッサ型とか言われても、そう簡単に頭に入って来るものではない。なぜそう呼ばれるかの理由も、勿論説明されているのだが、その読解にもかなりの忍耐力が必要だった。

かと言って、この本は聖母像の聖性だけを描いている訳ではない。

反ユダヤ主義との絡みも一節を使って解説されている。中世にペストなどの災禍が起こるたびに、ユダヤ人は敵視され、井戸に毒を流したなどのデマが流れ、虐殺される事があった。「磔刑」や「嘆きの聖母」の主題も、しばしばその陰でキリストを処刑したユダヤ人への敵意を喚起するものとなった。その背景には、十字軍や戦争、ペストの流行や経済の衰退といった社会不安があった。ユダヤ人はキリスト教徒の敵とされ、こうした不安や不満の捌け口にされたのだ。

教会内の聖画や聖像は教義上では神を見る窓に過ぎないが、多くの信者にとっては、像自体に聖性が宿っており、生きている存在だった。その作者が問われることは少ない。奇跡を起こす聖母像の多くは、土に埋もれていた、樹木に隠れていた、海から引き揚げられたといった、その発見自体が奇跡として伝えられているものが多く、それが作者や制作時期よりも重要だった。

この辺りは例えば浅草観音が海から引き揚げられたと伝えられている事にも通じ、世の中の信仰とは、洋の東西を問わず似たところがあると感じさせられた。

日本にも教会があり、そこには聖母像が飾られている。そうした意味で、身近な存在と思えていた聖母像の歴史も、深く掘り下げてみると、意外な側面が多かったり、知らない事だらけだったりだという事をこの本を読む事で知らされた。

また、良い本に出会う事が出来た。

ただ載せられている図版がどれも白黒で小さく、図の判読に苦労させられたのは残念だった。出来れば新書ではなく、図もカラーで大きく載せられる大きな本だったらと思わざるを得なかった。

20220307

進化理論の構造

その本が私の部屋に来た時、それは登れそうにない山、渡れそうにない河のように厳然と聳えていた。そして読み始めてすぐ分かったのだが、その本はただ単に巨大なだけでなく、内容も難解と言って良く、展開されている議論の密度も途方もなく高かった。


著者スティーヴン・ジェイ・グールドは、この本を書くのに20年を要している。まさにライフワークと言って良い。そうした本が、それほど簡単にモノにできるとは思えないが、それにしても立ちはだかるハードルは、途方もなく高かった。

それでも何とか読む気になったのは、同時期に三中信宏さんがこの本をお読みになっており、twitterで次々と「自己加圧ナッジ」をあげ続け、それを更に自身のブログ「日録」で再録してくださった事が大きい。加えて氏の著書『読む・打つ・書く』、『読書とは何か』は、この『進化理論の構造』を読み進めるに当たって、貴重で有効な助言となった。特に目次を全体の中のどこを今読み進めているかの位置を確認するマップのように使うという示唆は、実に役に立った。

昨年12月25日にこの本を読み始めて、2ヶ月近くを費やしてしまった。実際に読み終えるまで、自分でも読み終える事が出来るとは実感出来なかった。実際、途中で何度も滑落しそうになったし、遭難も仕掛かったが、その度に『日録』と目次に戻っては自分のいる位置を確認出来た事が、この本を読むという登攀行為を成し遂げられた大きな要因と言って良い。三中信宏さんにはこの場を借りて、深くお礼を申し上げたい。お陰で『進化理論の構造』という大山脈の登攀に、何とか成功した。

その三中信宏さんも申しているように、この本は読者を選びまくっていると思う。進化論について深く学び、考え、悩んで来なかったら、そしてスティーヴン・ジェイ・グールドの本を何冊か読み続けて来なかったら、この本を読み続ける事すら不可能であったと思う。

とは言え、この本の概要をブログサイズで纏める事は、私の力量を遥かに超えた作業である。スティーヴン・ジェイ・グールド自身がこの本の冒頭で、要約を挿入しているが、それすらも47ページもあるのだ。

読み進めていて、重要と思われる箇所にノードとしてブックダーツを挟み込んでおいたが、それを要約し、纏めるだけでも、一冊の本になるだろう。

別の章でスティーヴン・ジェイ・グールドは書いている。

本書はダーウィニズムの前提を拡張し変更する試みであり、拡張された独特な進化理論を構築する試みである。新たな進化理論は、ダーウィニズムの伝統内とそのロジックの下に留まってはいるが、小進化の仕組みとその外挿方式がもつ説得力の埒外にある大進化の現象という広大な領域を説明可能なものとする。しかもそれは、そうした小進化の原理が原則として一般理論の完全な集成を必ずや構築するのだとしたら、偶発性による説明に割り当てられることになるはずのものなのだ。

この本の書名についても説明が必要だろう。本書では冒頭から、ミラノ大聖堂という建築物のメタファーが語られている。現在の大聖堂は、14世紀後半に建てられたゴシック様式の基盤に、後にバロック様式が加味され、さらに最後には、未完の建物の屋上に幾つものゴシック様式の尖塔がナポレオンの命令で建造された代物なのだ。

このアナロジーと本書の書名の関係についてもスティーヴン・ジェイ・グールドに語ってもらおう。

ダーウィン流のロジックの核心部分は、変更を受けないまま、進化理論全体の最重要項目であり続けている。しかし進化理論の構造自体は重要な変更を加えられており、拡張や追加や再定義を重ねることで別の新しいモノへと姿形を変えている(核心部分から太枝が四方八方に伸びている)。ようするに「進化理論の構造」は、たくさんの変更を抱えつつも論理的首尾一貫性を保ち続けている複合体であり、知的な作業として、永続的な探究と挑戦に値する対象なのである。

この本は、全体がダーウィンへの深いオマージュでもあると同時に、自然淘汰説と漸進説を根幹とするダーウィンの進化理論を拡張する試みということになる。リフォームの主眼は階層論の導入という構造的なものであり、階層ごとに異なる進化の仕組みを導入することで大進化を説明しようとする壮大な試みということになるだろうか。

本書を読み進める中で、私はダーウィンのロジックを数多く誤解していた事に気付かされた。その意味では私にとってこの本は進化論のよき解説書の役割も果たしてくれたと思っている。もう一度『種の起源』を初版と第6版で読み返さねばならないと感じている。

20220222

読書とは何か

 「謝辞」で詳しく述べられている様に、本書は昨年出された『読む・打つ・書く』の子孫本と位置付けられている。私は『読む・打つ・書く』を昨年の7月に読んでいる。なので良心の呵責なく、本書に取り掛かる事が出来た。


だが、読み始めてすぐ、顔面を痛打されるような思いに出くわされることとなる。いきなり陶淵明の漢詩、雜詩其一が出て来るのだ。しかもその漢詩には真逆とも取れる2種類の和訳を当てられている。

読むという行為には大きな”落とし穴”があると私が言ったのはまさにこれだ。「歳月不待人」という漢文をたとえ私たちが読み下せたとしても、そのほんとうの意味や背景まで読み解けたわけではない。ほんのわずかな部分(一句5字)だけを見て、性急に全体(5字×2×8行×6行=60字。の意味を理解しようとすると、前に指摘された思わぬ”落とし穴"にはまってしまうことがある。すでに読み終えた部分からまだ読み終えていない全体について何かを推論することはつねにまちがいを犯すリスクを背負っている。

文字が読めたとしても、本を読んでいる事にはならないという事の例として、陶淵明の漢詩は使われているのだ。

ところが著者の三中信宏さんは読書とはつねに「部分から全体への推論(アプダクション)」であると主張している。

本の読み手は、既読の部分を踏まえて未読である本全体に関する推理・推論をたえまなく問い続ける。その推理・推論の対象である”全体”とは、その著書から読み取れる著者の主張を解釈することだったり、ある著者が依拠する知識全体を包括的に理解することだったりするだろう。

三中さんは本を選ぶ際、陥りがちな効率主義を注意深く避けている。本書は世にはびこる「読書効率主義」とは正反対のベクトルを志向するという。私に異論はない。望むところだ。

お手軽に知識を得る道はまちがいなく”地獄”に通じている。

私もそう思う。

本は広大な文字空間である。それを一望のもとに見わたすことは、それがとりわけ分厚い大著や専門書を手に取る時、読者はいま読み進んでいる部分が全体の中のどのあたりの位置を占めているのかに気をつけるよう心がけると、途中で挫折したり予期せず遭難したりするリスクを減らせるのではないか。そう三中さんは仰っている。

その例としてチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が取り上げられている。

私にとって嬉しかったのは、遥か昔紹介されて(その時の紹介者も三中信宏さんだったと記憶している)以来行方不明になっていたベン・フライによる『種の起源』のインフォグラフィックのリンクが示されていた事だ。

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(1)

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(2)

このインフォグラフィックによって私は『種の起源』は各版によって、全く違う本と言って良い程書き替えられていた事を知った。

三中さんはインゴルドを引きつつ、読書は狩りであると表現する。

狩猟者としての読書を遂行するに当たって、三中さんはその読書のチャートとなるべく、目印或いは痕跡としてのノードを残す事を勧めている。

本のマルジナリアにあれこれ書き込んだり、備忘のための付箋紙を貼り付けたりする行為だ。

圧倒的な極貧に喘いでいる私は、現在本を買う事を禁じられている。本は専ら図書館を利用して工面している。なのでマルジナリアにメモを書き込む事は出来ない。印字が剥がれる恐れもあるので、付箋紙も利用しない。しかし昔購入しておいたブックダーツという薄い金属製のクリップをページに挟む。これをするかしないかによって、その読書の質は大きく違って来る。読書にノードは必須なのだ。

更に三中さんはこれらのノードを互いに結びつける連鎖として、「チェイン」、階層構造を示す「ツリー」、そしてより複雑な「ネットワーク」を提唱する。

これによってひとつひとつの断片だったノードが、まとまりを持った体型とみなす事が出来る様になる。

ここを起点として三中さんは続く章を用いて、読書に関わる様々な大技・小技を紹介して下さる。例えば

(1)一歩ずつ足元を見て先を進む

(2)ときどき休んで周囲を見回す

(3)備忘メモをこまめに書き残す

どれも非常に参考になる態度だ。

更に自己加圧ナッジとして、twitterを使った読書メモを公開している。

このtwitterを使った自己加圧ナッジは、今読んでいるスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を三中さんがお読みになっている時目撃し、大変参考になった。

中学生の頃、現代国語を教えて下さった松岡先生は、授業の時、教科書の文章を各段落に分け、段落毎の要約を書かせるという作業をずっと繰り返し続けて下さった。最後の授業の時、先生は、これから先何冊も本を読むだろうが、やることは、今まで授業でやって来た事に尽きるとおっしゃっていた。その通りだと思う。

文章を各段落に分け、その段落に書かれている事を短かな言葉にまとめて、それを更に幾つかの段落をまとめたものに応用して行く。そうした地道な作業を繰り返して行くしか、本の内容を理解する方法はない。

三中さんの自己加圧ナッジも、それをtwitterを用いてやるという事であって、誰でもやる事は基本的に通じ合うものだという思いを深くした。

本書を通じて、三中信宏さんは、自分がどのようにして本と付き合って来たかを開陳して下さっている。それぞれの読み方は、全てを真似できるものではないが、大いに参考になった事は間違いない。

耳の痛い提言もあった。数式を言葉として読むように三中さんは指導していらっしゃる様だが、私は過去数十年の間、それを目指しながら未だに出来ずにいる事だからだ。だが、これも無闇に先を急がずに数式をじっくりと噛み砕きながら読めば、実践可能な事の様にも思える。機会を見つけて試みてみよう。

本の狩猟の仕方を解いてきたこの本も、第4章に至って、面白い方向に進路を取る。読まない事も読書だと言うのだ。

この本『読書とは何か』は当初『一期一会の読書術』と言う題名だった。この辺りの感覚は、少し本に親しんで来た者には、直感的に理解出来る筈だ。本との出会いはまさに一期一会の運命に似た出逢いそのものなのだ。読書家はその事を体験的に理解している。と言う事は、既に手元にあっても、その本との出逢いの時はまだ熟しておらず、もっと先である事もあると言う事だ。

それは取り逃した狩りなのかも知れないが、そうした狩りも世の中にはあろう。

私は図書館から借りたものの、読む機会を逃し、読まずに返却してしまった本を多く抱えている。それは図書館の貸し出しカードとして、手元に残っているが、毎月新しい本を予約するため、リベンジ出来たものは数を数えられる程しかない。まして今の様に読むのに数ヶ月を要する本を抱え込んでしまった時などは、読み逃した本だらけになる。県立・市立の両図書館から本を借りているが、1月の本は自分でもワクワクする程充実したものだった。だが、にも関わらず、その殆どを読まずに返却してしまった。そうした本は見逃した夢のように、記憶が身体に染み込む。そうした出逢いもまた現実としてあるのだ。

私がamazonで開いている仮想本屋の店名は蟻書房という。蟻が餌をひとつずつ巣に運び込むように、私も一度に一冊ずつしか本を読む事は出来ない。そうした自省を込めた心算だ。毎日、読んでみたい本は見つかる。私は図書館からそれを借りるべく、ノートにそれらを纏めている。もうそのノートも4冊目になった。当然の事ながら、本を読むスピードより、本を見付けるスピードの方が早い。読むべき本はどんどん溜まってゆく。

圧倒的に時間が足りない。

だが、何事にも言える事だが、焦りは禁物だ。

蟻書房発足の初心に常に帰って、一冊ずつ本を読む行為を繰り返してゆくしかなかろう。

その時私は、本に対し、どれだけ狩猟者の姿勢を保っていられるだろうか?

本書『読書とは何か』は、幾つもの本読みのヒントを示してくれたが、私に与えられた最大の指針はその事だった様に思える。

読書は探検であり、旅でもある。そして読書は常に狩りなのだろう。読書の世界は、ひとりでは尽きせぬ程広大だ。だが、読書は常に孤独な行為でもある。その孤独な行為を、本書はそっとしかししっかりと支えてくれる存在であるように、今は思えている。

20220207

ヒトの壁

何よりもまず、スティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を読み進めなければならない。これが今の所の至上命題だ。だが、現実にはこれに様々な邪魔が入る。

まず邪魔で仕方なかったのはSNSだ。特にFacebookとInstagramがいちいち邪魔をして来た。Facebookで同一の友人が100人もいたら即フォローでしょう。そんな投稿が目に入った。そういうものなのかと倣ってみる事にした。意外にも、これが矢鱈と多い。次から次へと友人申請を出さねば追いつかなくなった。あっと言う間にFacebookの友人が4.618人に膨らんだ。上限の5,000人に届こうとしている。これはやってられない。と慌てて友人申請を止めた。そうこうしている間にInstagramの投稿が溜まる。これも律儀に見に行く。これをやっていると、時間はズタズタに寸断され、まとまった読書の時間が取れなくなる。

自分で始めた事とは言え、SNSは時間泥棒だとつくづく実感した。

メールが届く。市立長野図書館からだ。予約の準備が出来たと言う。見てみると養老孟司『ヒトの壁』だ。困ったな…。ひとり呟いた。


養老さんからは学生時代、解剖学を教えて貰った事がある。まだ知る人ぞ知る存在で、それ程売れてなかった頃だ。考え方や目の付け所に切れ味があり、没頭した。『形を読む』は地質の地層を読む作業に通じるところが多く、何度も読み返した。

講座が終わり、養老さんと接する機会は激減した。だが、私は一方的に養老さんの本を読み続けていた。

そのうちに『バカの壁』が出た。途端に超売れっ子になった。養老さんの実力からすれば、売れても不思議ではない。だが、こんなものがなぜ売れるんだ(東大出版会代表時代の養老さん自身の言葉)と呟いた。それ以前の本に比べたら、書いてある内容が薄く、毒にも薬にもならない。だが、売れると言うことは恐ろしい事で、養老さんの著作は、以後『バカの壁』の路線で行く事になった。昔からのファンならば、誰でも思うのだろうが、残念で仕方がない。

どうしよう。少し迷った。一度は諦めて、予約を保留にもした。だが図書館のHPを見てみるとその後の予約が36人もいる。今を逃したら今度いつ読めるか分からない。それにもしかしたら以前の鋭さが戻っている可能性もある。予約保留を解除し、借りて読む事にした。この辺りが図書館で本を読む事の泣き所だ。

先程読み終えた。以前の養老孟司には戻っていなかった。それどころか、書く事に対する切羽詰まった思いとか、緊張感が全く欠けている。どうしたのだろうか?その想いはあとがきを読んで解消された。

普段なら、言いたいことがたまって、それを吐き出すように本にするのだが、今回は珍しく日常生活と同時進行みたいな内容になった。たまったものがないから、そうなったのである。

なるほどそういう事か。妙に納得した。

COVID-19騒ぎで殆ど蟄居している養老さんに、編集者が書かせたのだろう。

文体はいつも通りだ。これは安心材料。だが、書かれている内容がいつも通りなのは残念な所だ、いつも同じ様な事を言っていると言う事だからだ。だが、だから売れている。そうした面も否定できない。

養老さんは良かったと総括しているようだが、大学を辞めた事は吉か凶か?養老さんの文章はいつもその時代に帰る。インプットの場が大学だったのだろう。それを辞めて、インプットの場がなくなった。そう思える。

今回はそれにCOVID-19に関する雑感が加わっている。それと愛猫まるの死。新たなインプットがそれだけだったのかも知れない。

だが、相変わらず良く本をお読みになっていらっしゃる。引用されている本について調べていたら、時間が食った。私は80歳になった時、これ程本を読んでいるだろうか?甚だしく心許ない。

この本に2日もかける必要があったのかどうか?そして、このように感想を纏める必要があったのかどうか?それは判じものである。

急いで『進化理論の構造』に戻らなければならない。明らかなのはその事と解剖学者養老孟司はもういないという事だけだ。

私の中で養老孟司は過去の人だ。

20220131

進化理論の構造I読了

大きな出来事があった。その影響でただですら進まない読書がまるまる2週間空白となった。本を読み、音楽を聴くそんな日常が戻った後も、中断していた『進化理論の構造』に戻れるのか、かなり気を揉んだ。だが熱中して読んでいた本は、記憶にも深く刻み込まれていたようで、何とか中断していた箇所からの読書を続ける事が出来た。

そして先日1月29日、ようやくスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造I』を読み切る事が出来た。

双極性障碍を病む私は、達成感を得にくい体質になっている。何かを成し遂げても、満足感がなく、苦痛だけが残る事が多い。だが、流石に今回は一山越えたという達成感が押し寄せるのを十分に感じる事が出来た。


日記によると、『進化理論の構造I』を読み始めたのは昨年の12月25日。1ヶ月以上の時間を費やしてしまった事になる。

2017年の年末から4ヶ月掛けて、ハンナ・アーレント『新版全体主義の起原』を読破した事がある。今回はそれに続く大著への挑戦になっている。

同時期に本書を読んでいた三中信宏さんによると、この本は読み手を選びまくっていると言う。私にこの本を読む資格があるかどうかは、甚だ心許ないが、進化論に関しては、それなりに熱心に学び、悩んで来たという自負はある。本に書いている事を拾い集め、精一杯の力で、何とか付いて行く事は出来るだろう。

とは言え、何と言っても今はただ第I巻を読み切ったと言うことに過ぎない。Iは808ページあり、IIは1,120ページある。

まだ山で言えば五合目にも達していない段階なのだろう。

だが、気分は盛り上がっている。Iを読み終えた余韻も醒めぬうちだが、休息を挟む事なくIIを読み始めている。

IIはまた幾つもの急所・難所に満ち溢れているだろう。

ここに来て、COVID-19の変種オミクロン株が凄まじい勢いで拡がり、その煽りを受けて図書館が休館に追い込まれている。だが、訊いてみると貸し出し・返却はどうにかこうにか出来るようだ。連続して継続で借り出せるように、この本の所蔵先として県立長野図書館を選んでいる。もう一度延長手続きは済ませている。だが、後1、2回程度の延長では済むまい。暫くは借り出しも本書に絞って、本書に集中したいところだ。

前半を読んだところだが、もう既に私のダーウィニズムに対する誤解が幾つも、この本によって暴露されている。後半も幾つもの思い違いや勘違いに気付く事が出来るだろう。

進化論を本格的に学び始めてもう半世紀ほどが過ぎるが、まだまだ学ばなければならない事はごまんとある。厳しいと感じるが、同時にちょっと嬉しい気持ちもある。

20220104

Rocks of Ages

本棚に『時間の矢・時間の環』があり、本代が浮いた話は既に書いた。

私はこの事の本質を間違って解釈しているようだ。

もし『時間の矢・時間の環』を買うとしたら、とんでもない金額の本代を支払わなければならない。だが、この事は別に私に臨時収入があったという意味ではない。私はここのところを大きく間違って解釈している。

気が大きくなってしまったのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドの最後のエッセイ『ぼくは上陸している』が刊行されたのは2011年の事だった。私はすぐにそれを入手し、読んだ。読みおわっった後、これでスティーヴン・ジェイ・グールドの新刊は読む事が出来ないのだと考え、無性に寂しい思いをした事を覚えている。

だが、ここに来て、『進化理論の構造』が訳された。

まだ読んでいないグールド本があるのだ!

私は欣喜雀躍した。

すぐに図書館にリクエストし、今それを読んでいる。

またスティーヴン・ジェイ・グールドの本を読める。これは私にとって何にも変え難い喜びだ。だが、ここ迄は要求していなかった。

『進化論の構造』はIとIIに分かれており、それぞれがまるで辞書のような分厚さを持っているのだ。まさに鈍器本と呼ぶにふさわしい本である。

しかもこれはスティーヴン・ジェイ・グールドの研究書であり、普段読んでいたエッセイとは趣が異なる。ただ巨大で分厚い本というだけではない。書かれている内容は、その密度がとんでもなく高いのだ。

巨大な本は遅々として進まず、今ようやく第2章の第3節を読み終えようとしている所だ。

本を読むのが遅い。その自覚はあったが、ここ迄来るとさすがに苛立って来る。

出来心で英語版WikipediaでStephen Jay Gouldを検索し、調べてしまった。

Wikipediaには彼の著作の一覧がある。

何と!まだ未訳の本があるではないか。

その中で、”Rocks of Ages”と題された本が妙に気に掛かった。副題はScience and Religion in the Fullness of Life。魅力的だ。


いい世の中になったもので、洋書もamazonで結構入手出来る。何しろ古書代数千円が浮いているのだ。気が大きくなっていた私は、思わずKindle本を買ってしまった。1,406円だった。

意外と安い。

貧乏なのを忘れて(何しろ気が大きくなっているのだ)私はそう思ってしまった。

いかんいかん。『進化理論の構造』を読まなければ。

気を取り直して、また今読んでいる本に戻った。

本の中にチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』が出て来た。まだ未読だ。

図書館を調べてみる。

ない。

そうなると居ても立っても居られない気分になる。加えて、何しろ私は気が大きくなっているのだ。amazonを検索すると長谷川眞理子訳で、講談社学術文庫が出ている。これもKindle本がある。これも購入してしまった。上巻・下巻合わせて3,231円で買えた。

気が大きくなっているだけではなかった。私は遅々として進まない『進化論の構造』から逃避もしようとしていた。

次に日本語版Wikipediaでスティーヴン・ジェイ・グールドを検索した。参考文献にキム・ステルレニー『ドーキンスvs.グールド─適応へのサバイバルゲーム』が載っていた。これも図書館にない。これも購入。

購入した本は、あっと言う間に5,000円を超えようとしていた。

冷水を浴びたような気分になり、肝を冷やした。いくらなんでも散財が過ぎる。

慌てて、また『進化理論の構造』に戻った。

正気を取り戻してもKindle本は返品が効かない。どうしようもない。買ってしまったものは読むしかないだろう。

だが、買う時はスティーヴン・ジェイ・グールドの原文を味わえるのだ!と喜んでもいた私だったが、さて、Rocks of Agesとは何と訳したら良いものなのか?翻訳サイトで調べても埒が明かない事が分かっただけだった。果たして私はこの本を読む事が出来るのだろうか?