20220222

読書とは何か

 「謝辞」で詳しく述べられている様に、本書は昨年出された『読む・打つ・書く』の子孫本と位置付けられている。私は『読む・打つ・書く』を昨年の7月に読んでいる。なので良心の呵責なく、本書に取り掛かる事が出来た。


だが、読み始めてすぐ、顔面を痛打されるような思いに出くわされることとなる。いきなり陶淵明の漢詩、雜詩其一が出て来るのだ。しかもその漢詩には真逆とも取れる2種類の和訳を当てられている。

読むという行為には大きな”落とし穴”があると私が言ったのはまさにこれだ。「歳月不待人」という漢文をたとえ私たちが読み下せたとしても、そのほんとうの意味や背景まで読み解けたわけではない。ほんのわずかな部分(一句5字)だけを見て、性急に全体(5字×2×8行×6行=60字。の意味を理解しようとすると、前に指摘された思わぬ”落とし穴"にはまってしまうことがある。すでに読み終えた部分からまだ読み終えていない全体について何かを推論することはつねにまちがいを犯すリスクを背負っている。

文字が読めたとしても、本を読んでいる事にはならないという事の例として、陶淵明の漢詩は使われているのだ。

ところが著者の三中信宏さんは読書とはつねに「部分から全体への推論(アプダクション)」であると主張している。

本の読み手は、既読の部分を踏まえて未読である本全体に関する推理・推論をたえまなく問い続ける。その推理・推論の対象である”全体”とは、その著書から読み取れる著者の主張を解釈することだったり、ある著者が依拠する知識全体を包括的に理解することだったりするだろう。

三中さんは本を選ぶ際、陥りがちな効率主義を注意深く避けている。本書は世にはびこる「読書効率主義」とは正反対のベクトルを志向するという。私に異論はない。望むところだ。

お手軽に知識を得る道はまちがいなく”地獄”に通じている。

私もそう思う。

本は広大な文字空間である。それを一望のもとに見わたすことは、それがとりわけ分厚い大著や専門書を手に取る時、読者はいま読み進んでいる部分が全体の中のどのあたりの位置を占めているのかに気をつけるよう心がけると、途中で挫折したり予期せず遭難したりするリスクを減らせるのではないか。そう三中さんは仰っている。

その例としてチャールズ・ダーウィンの『種の起源』が取り上げられている。

私にとって嬉しかったのは、遥か昔紹介されて(その時の紹介者も三中信宏さんだったと記憶している)以来行方不明になっていたベン・フライによる『種の起源』のインフォグラフィックのリンクが示されていた事だ。

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(1)

ベン・フライによる『種の起源』各版の加筆修正プロセスの可視化(2)

このインフォグラフィックによって私は『種の起源』は各版によって、全く違う本と言って良い程書き替えられていた事を知った。

三中さんはインゴルドを引きつつ、読書は狩りであると表現する。

狩猟者としての読書を遂行するに当たって、三中さんはその読書のチャートとなるべく、目印或いは痕跡としてのノードを残す事を勧めている。

本のマルジナリアにあれこれ書き込んだり、備忘のための付箋紙を貼り付けたりする行為だ。

圧倒的な極貧に喘いでいる私は、現在本を買う事を禁じられている。本は専ら図書館を利用して工面している。なのでマルジナリアにメモを書き込む事は出来ない。印字が剥がれる恐れもあるので、付箋紙も利用しない。しかし昔購入しておいたブックダーツという薄い金属製のクリップをページに挟む。これをするかしないかによって、その読書の質は大きく違って来る。読書にノードは必須なのだ。

更に三中さんはこれらのノードを互いに結びつける連鎖として、「チェイン」、階層構造を示す「ツリー」、そしてより複雑な「ネットワーク」を提唱する。

これによってひとつひとつの断片だったノードが、まとまりを持った体型とみなす事が出来る様になる。

ここを起点として三中さんは続く章を用いて、読書に関わる様々な大技・小技を紹介して下さる。例えば

(1)一歩ずつ足元を見て先を進む

(2)ときどき休んで周囲を見回す

(3)備忘メモをこまめに書き残す

どれも非常に参考になる態度だ。

更に自己加圧ナッジとして、twitterを使った読書メモを公開している。

このtwitterを使った自己加圧ナッジは、今読んでいるスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を三中さんがお読みになっている時目撃し、大変参考になった。

中学生の頃、現代国語を教えて下さった松岡先生は、授業の時、教科書の文章を各段落に分け、段落毎の要約を書かせるという作業をずっと繰り返し続けて下さった。最後の授業の時、先生は、これから先何冊も本を読むだろうが、やることは、今まで授業でやって来た事に尽きるとおっしゃっていた。その通りだと思う。

文章を各段落に分け、その段落に書かれている事を短かな言葉にまとめて、それを更に幾つかの段落をまとめたものに応用して行く。そうした地道な作業を繰り返して行くしか、本の内容を理解する方法はない。

三中さんの自己加圧ナッジも、それをtwitterを用いてやるという事であって、誰でもやる事は基本的に通じ合うものだという思いを深くした。

本書を通じて、三中信宏さんは、自分がどのようにして本と付き合って来たかを開陳して下さっている。それぞれの読み方は、全てを真似できるものではないが、大いに参考になった事は間違いない。

耳の痛い提言もあった。数式を言葉として読むように三中さんは指導していらっしゃる様だが、私は過去数十年の間、それを目指しながら未だに出来ずにいる事だからだ。だが、これも無闇に先を急がずに数式をじっくりと噛み砕きながら読めば、実践可能な事の様にも思える。機会を見つけて試みてみよう。

本の狩猟の仕方を解いてきたこの本も、第4章に至って、面白い方向に進路を取る。読まない事も読書だと言うのだ。

この本『読書とは何か』は当初『一期一会の読書術』と言う題名だった。この辺りの感覚は、少し本に親しんで来た者には、直感的に理解出来る筈だ。本との出会いはまさに一期一会の運命に似た出逢いそのものなのだ。読書家はその事を体験的に理解している。と言う事は、既に手元にあっても、その本との出逢いの時はまだ熟しておらず、もっと先である事もあると言う事だ。

それは取り逃した狩りなのかも知れないが、そうした狩りも世の中にはあろう。

私は図書館から借りたものの、読む機会を逃し、読まずに返却してしまった本を多く抱えている。それは図書館の貸し出しカードとして、手元に残っているが、毎月新しい本を予約するため、リベンジ出来たものは数を数えられる程しかない。まして今の様に読むのに数ヶ月を要する本を抱え込んでしまった時などは、読み逃した本だらけになる。県立・市立の両図書館から本を借りているが、1月の本は自分でもワクワクする程充実したものだった。だが、にも関わらず、その殆どを読まずに返却してしまった。そうした本は見逃した夢のように、記憶が身体に染み込む。そうした出逢いもまた現実としてあるのだ。

私がamazonで開いている仮想本屋の店名は蟻書房という。蟻が餌をひとつずつ巣に運び込むように、私も一度に一冊ずつしか本を読む事は出来ない。そうした自省を込めた心算だ。毎日、読んでみたい本は見つかる。私は図書館からそれを借りるべく、ノートにそれらを纏めている。もうそのノートも4冊目になった。当然の事ながら、本を読むスピードより、本を見付けるスピードの方が早い。読むべき本はどんどん溜まってゆく。

圧倒的に時間が足りない。

だが、何事にも言える事だが、焦りは禁物だ。

蟻書房発足の初心に常に帰って、一冊ずつ本を読む行為を繰り返してゆくしかなかろう。

その時私は、本に対し、どれだけ狩猟者の姿勢を保っていられるだろうか?

本書『読書とは何か』は、幾つもの本読みのヒントを示してくれたが、私に与えられた最大の指針はその事だった様に思える。

読書は探検であり、旅でもある。そして読書は常に狩りなのだろう。読書の世界は、ひとりでは尽きせぬ程広大だ。だが、読書は常に孤独な行為でもある。その孤独な行為を、本書はそっとしかししっかりと支えてくれる存在であるように、今は思えている。

20220207

ヒトの壁

何よりもまず、スティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造』を読み進めなければならない。これが今の所の至上命題だ。だが、現実にはこれに様々な邪魔が入る。

まず邪魔で仕方なかったのはSNSだ。特にFacebookとInstagramがいちいち邪魔をして来た。Facebookで同一の友人が100人もいたら即フォローでしょう。そんな投稿が目に入った。そういうものなのかと倣ってみる事にした。意外にも、これが矢鱈と多い。次から次へと友人申請を出さねば追いつかなくなった。あっと言う間にFacebookの友人が4.618人に膨らんだ。上限の5,000人に届こうとしている。これはやってられない。と慌てて友人申請を止めた。そうこうしている間にInstagramの投稿が溜まる。これも律儀に見に行く。これをやっていると、時間はズタズタに寸断され、まとまった読書の時間が取れなくなる。

自分で始めた事とは言え、SNSは時間泥棒だとつくづく実感した。

メールが届く。市立長野図書館からだ。予約の準備が出来たと言う。見てみると養老孟司『ヒトの壁』だ。困ったな…。ひとり呟いた。


養老さんからは学生時代、解剖学を教えて貰った事がある。まだ知る人ぞ知る存在で、それ程売れてなかった頃だ。考え方や目の付け所に切れ味があり、没頭した。『形を読む』は地質の地層を読む作業に通じるところが多く、何度も読み返した。

講座が終わり、養老さんと接する機会は激減した。だが、私は一方的に養老さんの本を読み続けていた。

そのうちに『バカの壁』が出た。途端に超売れっ子になった。養老さんの実力からすれば、売れても不思議ではない。だが、こんなものがなぜ売れるんだ(東大出版会代表時代の養老さん自身の言葉)と呟いた。それ以前の本に比べたら、書いてある内容が薄く、毒にも薬にもならない。だが、売れると言うことは恐ろしい事で、養老さんの著作は、以後『バカの壁』の路線で行く事になった。昔からのファンならば、誰でも思うのだろうが、残念で仕方がない。

どうしよう。少し迷った。一度は諦めて、予約を保留にもした。だが図書館のHPを見てみるとその後の予約が36人もいる。今を逃したら今度いつ読めるか分からない。それにもしかしたら以前の鋭さが戻っている可能性もある。予約保留を解除し、借りて読む事にした。この辺りが図書館で本を読む事の泣き所だ。

先程読み終えた。以前の養老孟司には戻っていなかった。それどころか、書く事に対する切羽詰まった思いとか、緊張感が全く欠けている。どうしたのだろうか?その想いはあとがきを読んで解消された。

普段なら、言いたいことがたまって、それを吐き出すように本にするのだが、今回は珍しく日常生活と同時進行みたいな内容になった。たまったものがないから、そうなったのである。

なるほどそういう事か。妙に納得した。

COVID-19騒ぎで殆ど蟄居している養老さんに、編集者が書かせたのだろう。

文体はいつも通りだ。これは安心材料。だが、書かれている内容がいつも通りなのは残念な所だ、いつも同じ様な事を言っていると言う事だからだ。だが、だから売れている。そうした面も否定できない。

養老さんは良かったと総括しているようだが、大学を辞めた事は吉か凶か?養老さんの文章はいつもその時代に帰る。インプットの場が大学だったのだろう。それを辞めて、インプットの場がなくなった。そう思える。

今回はそれにCOVID-19に関する雑感が加わっている。それと愛猫まるの死。新たなインプットがそれだけだったのかも知れない。

だが、相変わらず良く本をお読みになっていらっしゃる。引用されている本について調べていたら、時間が食った。私は80歳になった時、これ程本を読んでいるだろうか?甚だしく心許ない。

この本に2日もかける必要があったのかどうか?そして、このように感想を纏める必要があったのかどうか?それは判じものである。

急いで『進化理論の構造』に戻らなければならない。明らかなのはその事と解剖学者養老孟司はもういないという事だけだ。

私の中で養老孟司は過去の人だ。

20220131

進化理論の構造I読了

大きな出来事があった。その影響でただですら進まない読書がまるまる2週間空白となった。本を読み、音楽を聴くそんな日常が戻った後も、中断していた『進化理論の構造』に戻れるのか、かなり気を揉んだ。だが熱中して読んでいた本は、記憶にも深く刻み込まれていたようで、何とか中断していた箇所からの読書を続ける事が出来た。

そして先日1月29日、ようやくスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造I』を読み切る事が出来た。

双極性障碍を病む私は、達成感を得にくい体質になっている。何かを成し遂げても、満足感がなく、苦痛だけが残る事が多い。だが、流石に今回は一山越えたという達成感が押し寄せるのを十分に感じる事が出来た。


日記によると、『進化理論の構造I』を読み始めたのは昨年の12月25日。1ヶ月以上の時間を費やしてしまった事になる。

2017年の年末から4ヶ月掛けて、ハンナ・アーレント『新版全体主義の起原』を読破した事がある。今回はそれに続く大著への挑戦になっている。

同時期に本書を読んでいた三中信宏さんによると、この本は読み手を選びまくっていると言う。私にこの本を読む資格があるかどうかは、甚だ心許ないが、進化論に関しては、それなりに熱心に学び、悩んで来たという自負はある。本に書いている事を拾い集め、精一杯の力で、何とか付いて行く事は出来るだろう。

とは言え、何と言っても今はただ第I巻を読み切ったと言うことに過ぎない。Iは808ページあり、IIは1,120ページある。

まだ山で言えば五合目にも達していない段階なのだろう。

だが、気分は盛り上がっている。Iを読み終えた余韻も醒めぬうちだが、休息を挟む事なくIIを読み始めている。

IIはまた幾つもの急所・難所に満ち溢れているだろう。

ここに来て、COVID-19の変種オミクロン株が凄まじい勢いで拡がり、その煽りを受けて図書館が休館に追い込まれている。だが、訊いてみると貸し出し・返却はどうにかこうにか出来るようだ。連続して継続で借り出せるように、この本の所蔵先として県立長野図書館を選んでいる。もう一度延長手続きは済ませている。だが、後1、2回程度の延長では済むまい。暫くは借り出しも本書に絞って、本書に集中したいところだ。

前半を読んだところだが、もう既に私のダーウィニズムに対する誤解が幾つも、この本によって暴露されている。後半も幾つもの思い違いや勘違いに気付く事が出来るだろう。

進化論を本格的に学び始めてもう半世紀ほどが過ぎるが、まだまだ学ばなければならない事はごまんとある。厳しいと感じるが、同時にちょっと嬉しい気持ちもある。

20220104

Rocks of Ages

本棚に『時間の矢・時間の環』があり、本代が浮いた話は既に書いた。

私はこの事の本質を間違って解釈しているようだ。

もし『時間の矢・時間の環』を買うとしたら、とんでもない金額の本代を支払わなければならない。だが、この事は別に私に臨時収入があったという意味ではない。私はここのところを大きく間違って解釈している。

気が大きくなってしまったのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドの最後のエッセイ『ぼくは上陸している』が刊行されたのは2011年の事だった。私はすぐにそれを入手し、読んだ。読みおわっった後、これでスティーヴン・ジェイ・グールドの新刊は読む事が出来ないのだと考え、無性に寂しい思いをした事を覚えている。

だが、ここに来て、『進化理論の構造』が訳された。

まだ読んでいないグールド本があるのだ!

私は欣喜雀躍した。

すぐに図書館にリクエストし、今それを読んでいる。

またスティーヴン・ジェイ・グールドの本を読める。これは私にとって何にも変え難い喜びだ。だが、ここ迄は要求していなかった。

『進化論の構造』はIとIIに分かれており、それぞれがまるで辞書のような分厚さを持っているのだ。まさに鈍器本と呼ぶにふさわしい本である。

しかもこれはスティーヴン・ジェイ・グールドの研究書であり、普段読んでいたエッセイとは趣が異なる。ただ巨大で分厚い本というだけではない。書かれている内容は、その密度がとんでもなく高いのだ。

巨大な本は遅々として進まず、今ようやく第2章の第3節を読み終えようとしている所だ。

本を読むのが遅い。その自覚はあったが、ここ迄来るとさすがに苛立って来る。

出来心で英語版WikipediaでStephen Jay Gouldを検索し、調べてしまった。

Wikipediaには彼の著作の一覧がある。

何と!まだ未訳の本があるではないか。

その中で、”Rocks of Ages”と題された本が妙に気に掛かった。副題はScience and Religion in the Fullness of Life。魅力的だ。


いい世の中になったもので、洋書もamazonで結構入手出来る。何しろ古書代数千円が浮いているのだ。気が大きくなっていた私は、思わずKindle本を買ってしまった。1,406円だった。

意外と安い。

貧乏なのを忘れて(何しろ気が大きくなっているのだ)私はそう思ってしまった。

いかんいかん。『進化理論の構造』を読まなければ。

気を取り直して、また今読んでいる本に戻った。

本の中にチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』が出て来た。まだ未読だ。

図書館を調べてみる。

ない。

そうなると居ても立っても居られない気分になる。加えて、何しろ私は気が大きくなっているのだ。amazonを検索すると長谷川眞理子訳で、講談社学術文庫が出ている。これもKindle本がある。これも購入してしまった。上巻・下巻合わせて3,231円で買えた。

気が大きくなっているだけではなかった。私は遅々として進まない『進化論の構造』から逃避もしようとしていた。

次に日本語版Wikipediaでスティーヴン・ジェイ・グールドを検索した。参考文献にキム・ステルレニー『ドーキンスvs.グールド─適応へのサバイバルゲーム』が載っていた。これも図書館にない。これも購入。

購入した本は、あっと言う間に5,000円を超えようとしていた。

冷水を浴びたような気分になり、肝を冷やした。いくらなんでも散財が過ぎる。

慌てて、また『進化理論の構造』に戻った。

正気を取り戻してもKindle本は返品が効かない。どうしようもない。買ってしまったものは読むしかないだろう。

だが、買う時はスティーヴン・ジェイ・グールドの原文を味わえるのだ!と喜んでもいた私だったが、さて、Rocks of Agesとは何と訳したら良いものなのか?翻訳サイトで調べても埒が明かない事が分かっただけだった。果たして私はこの本を読む事が出来るのだろうか?

20220102

新・映像の世紀

昨年末にNHKプラスで『新・映像の世紀』を一気見した。

2016年に放送されたものの再編集版だ。NHKはよほどこの番組に自信があるのだろう。BSでも90分の再編集版を放送しているし、今回また地上波のNHKスペシャルで再放送された。

動画による記録が始まってから100年が経つ。映像は、その100年間を記録して来た。この100年とは、どのような100年だったのか?それを記録されて来た映像を振り返る事で検証しようというのが、この番組の骨子になっている。


最初に登場するのは第一次世界大戦だ。

この戦争は従来の戦争とは、全く別の戦争となった。科学が戦争に動員され、人間の尊厳を根こそぎ葬り去る破壊力を持った戦争だった。

そして、第一次世界大戦は、映像に記録された、最初の戦争でもあった。

映像は、その発端から展開、終結に至るまでを、丹念に振り返っている。

誰もが、ほんの数ヶ月で戦争は終わると思っていた。だが、複雑に入り組んだ同盟関係や新兵器の登場が、戦争を途方もなく長い、悲惨なものに変えた。

まさに100年の悲劇はここから始まったのだ。

ここから現在に至る迄の世界の実像を、映像は着実に記録して来た。

初めて見る映像が多かった。

初めて知る事も多かった。

「そうだったのか!」と何度も独り言を繰り返した。

編集された映像は、そのまま現代史となっていた。

NHKは毀誉褒貶が激しいテレビ局だ。だが、この番組を見る限り、NHKには良い番組を作る力は確実に残っていると判断して良いのではないかと思った。

この1世紀に何が起きたのか?何故起きたのか?を、映像は説得力を持って、記録して来たのだ。それは今迄信じて来た虚像を、根底から覆すものでもあった。

だが、ふと思う。その虚像もまた、映像によって作り上げられて来たものではなかったか?

映像は諸刃の剣なのだと思う。真実も映し出すが、虚構もまた成立させてしまう。

私たちは過剰な迄に溢れる情報に対するリテラシーを、しっかりと持ってゆかねばならないのだろう。そうでなければ、その情報を操る者に、一方的に踊らされるだけだ。

番組は最後に、現在という時代が、誰もが被写体であり、誰もが制作者であるような、新しい映像の世紀に入った事を宣言して終わっている。

誰もが、その諸刃の剣を手にしている時代なのだ。

20211231

時間の矢・時間の環はあった

 今住んでいる住宅に引っ越す時、私は膨大な量の本を処分した。持っていた本の2/3は売っただろうか?図書館にある本は全て売るを基本路線として、売った本はノートに纏めて整理した。今、そのノートを見ていると、私は何と魅力的な本を持っていたのだろうという感慨が押し寄せてくる。

だが、見ていて気が付いた。スティーヴン・ジェイ・グールドの名前がノートには見当らないのだ。

彼の本は殆どを持っていた。どうせ図書館に在庫があるに違いないと見越して、彼のエッセイ、学術書を売りまくった。敢えてノートには記さなかったのだ。

不安になって検索してみた。予想通りスティーヴン・ジェイ・グールドの本は殆ど図書館にある事が確かめられた。

だが、『時間の矢・時間の環』と『個体発生と系統発生』は県立にも市立にも在庫がない。少し焦った。

『個体発生と系統発生』は賞味期限切れであるという噂を耳にした事がある。だからこれはパスしても構わない。だが、『時間の矢・時間の環』はもう一度再読したい。

調べてみるとamazonにも在庫がなく、古書店で高値で取引されている事が分かった。大問題である。今、私には金銭的な余裕は全くない。とても手が出ない。

それとも思い切って買ってしまうか?

かなり悩んだ。

だが、本を売る時、入念に図書館の検索はした記憶がある。万が一と言う事もある。

意を決して、探してみる事にした。以前の1/3になったとは言え、それでも持っている本は余りに多い。

本棚には前後2段に本が入れられている。表面に出ているのは新書か文庫本が多い。単行本はその後ろにある。

片端から表面の本をどかしてみて、裏側の単行本をチェックしてみた。

何と!あるではないか!


自分で自分を褒めたくなった。スティーヴン・ジェイ・グールドの『時間の矢・時間の環─地質学的時間をめぐる神話と隠喩』は2段に積んである文庫本の後ろで、ひっそりとその出番を待っていた。私は奇跡的にこの本を売らずにとっておいたのだ。

踊り出したい気分に包まれた。双極性障害の影響で、鬱々と過ごしている事が多い私には、滅多にない事だ。

自然淘汰による変化を基本に据える進化論にとって、膨大な地質学的時間は重要な鍵を握る概念だ。その時間をテーマに思考を重ねた本書は、スティーヴン・ジェイ・グールドの著作の中でも、重要な著作だと言えるだろう。

これで今読んでいる『進化理論の構造』との格闘に専念できる。思う存分もがき苦しもう。

20211230

Clubhouseその後

殆ど行かなくなった。

僅かに笹沼弘志さんが時々開いてくれる法学の議論を聞きに行くだけで、全くと言って良い程発言はしていない。

この夏、女房殿のみゆきさんが定年退職を迎えた。全く仕事をしなくなった訳ではないが、在宅時間は桁外れに増えた。その影響が大きい。同じ部屋にふたりでいると、おいそれと音声SNSをするのに気が引ける。やはり発言を聞かれたくないのだ。

Clubhouseで発言しているうちに、実生活と微妙に異なるClubhouse人格が作られてしまった。見栄を張っている訳ではないが、物事にはモノの弾みと言うものがある。

その違いを指摘されると、どうにも気恥ずかしい。

音声SNSで見知らぬ人たちと話し合うより、まずは身近なみゆきさんとコミュニケーションを計りたい。

だが、それだけがClubhouseに行かなくなった理由ではない。

空いている時間は読書に充てたい。その意識が強い。図書館から月に10冊本を借りて、それを読み切る事にしている。

私は本を読むのが遅いほうだ。なので月に10冊の本を読破するだけでも、かなりの努力を必要とする。それだけで精一杯なのだ。

SpotifyをPremiumに引き上げたのも大きい。主に古楽を聴いている。耳はそちらに使いたい。

それに、Clubhouseで立ち上げられるroomに、さほど魅力を感じなくなった事も、大きく影響している。

雑談が多い。元々雑談を楽しめる方ではない。喋る事がどうにも苦手だ。なので発言は常に力一杯頑張る事になる。小一時間音声SNSで発言していると、それだけで疲れ果ててしまう。おわっった後は少しの間、何も手に付かなくなる。時のコストパフォーマンスが私にはかなり低いものになってしまうのだ。

体力・気力をフル回転して、得るものはそれ程多く無い。そうなるとどうしても音声SNSに食指が動かなるなる。

音声SNSは、そこを自分の居場所と認識出来る人が入り浸る。私はそうした態度に違和感を覚える。聞いているうちにどうしようもなく白けてしまうのだ。

またClubhouseの特徴として、若い人が圧倒的に多く、相手を否定する事を、強く嫌う傾向がある。私はこれにどうしても馴染めない。還暦を過ぎた私には、Clubhouseは似合わないのだ。

巧く行っている時には、Clubhouseにようやく見つけた自分に合ったSNSという感覚を抱いた事もあった。だがその時期はもう遠く去ってしまったようだ。

自分ひとりの時間がまた持てるようになったら、Clubhouseにもまた戻る事があるかも知れない。だが、今はその時ではない。

私とSNSの相性はそれ程良いものではない。