20140701

『アクト・オブ・キリング』

観て、心地良い映画ではない。それは始めから分かっていた。だが、この映画は観なければならない。心の底でそう思い続けてきた。

今日ようやく観てきた。
1960年代、インドネシアで100万人規模の虐殺が起きた。

1965年9月30日深夜、スカルノ大統領派の陸軍左派がクーデター未遂事件を起こした。それを後に大統領になるスハルト少将(当時)が鎮圧。事件の黒幕は共産党とされた。これを切っ掛けに共産主義者やその疑いが掛けられた人々が虐殺されたのだ。

その後30余年にわたるスハルト独裁体制のもと、事件に触れることはタブーになり、加害者は訴追されていない。

当初オッペンハイマー監督は虐殺生存者を取材し、映画を作り始めたようだ。だが軍の妨害によってそれは中断せざるを得なくなったと言う。

そこでオッペンハイマー監督は逆に加害者を取材し、虐殺の再現を持ちかける。

「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか。」


するとスマトラ島メダン市で「1000人以上は殺した」と豪語する殺人部隊リーダーのアンワル・コンゴらが、喜々として大虐殺の方法を演じ始めたのだ。

更に驚くべき事に、彼らは非常に協力的ですらあった。

自ら出演者を仕切り、衣装やメークを考え、演出にも進んでアイデアを出す。

「俺たちの歴史を知らしめるチャンスだ」

殺人の方法についてアンワルは、「最初は殴り殺していたが、血が出すぎて面倒になる。だから針金を使うことにした」と説明。実際の虐殺現場を訪れ、被害者役の俳優の首に針金を巻き、笑顔で「こうやって締め上げるんだ」と語る。

合理的で後始末にも手間が掛からない方法を編み出したことに誇りすら抱いているかのようだ。


一方「9月30日事件」の背景には、米国など西側諸国の関与も指摘されている。

事件はスカルノ大統領の失脚とそれに続くスハルト大統領誕生のきっかけになり、以後インドネシアでは30年以上にわたる独裁体制に至る。

大虐殺を隠蔽するスハルト政権を西側は支援し続けた。冷戦時代に「反共」は都合のいいスローガンだった。


人間にとって悪とは何なのか?


オッペンハイマー監督は語る。

「政権を支持してきた日本などの国々に関係する問題だ。大虐殺は冷戦の産物だったのではないか。南の豊かな土地を支配するため、日本を含む先進国は政権を支援した。安い賃金と資源が魅力だった。自らの行為を正当化するため、反共の旗印を掲げたのだ」

しかし映画を撮り続ける中で、アンワルらの心理は少しずつ変化を見せ始める。

最初、映画を撮る共同作業は、殺人という行為の再現そのものであると同時に、演じることで殺人と距離を取る作業だった。

終盤、アンワルは「殺された1000人分の恐怖」を感じ取ることで心身に変化を来す。
その瞬間に私たちは途轍もない心の闇を垣間見ることになる。

「人が自分の見たくないものを、見ないようにするためにどうするか。うそを1枚ずつはがし、苦しさと痛みを発掘した。本物の自分と和解するためには、つらい真実と向き合わなければならないと思う」

オッペンハイマー監督はそう語る。

20140626

『チョコレートドーナツ』

この私が思わず泣いてしまった。

泣ける映画という言い回しは好きではない。だが、この映画の場合には肯定的に敢えて使いたい。

愛を描いた映画である。

それは男女の恋愛でもなければ、所謂家族愛でもない。

だが人が人を互いに大切に思い、人の為に奔走する姿は、観る者に大きな感動を残す。その姿が確実に描かれている。
1979年のカリフォルニア。まだマイノリティに対する風当たりはとても強かった時代、シンガーを夢見ながらもショーダンサーで日銭を稼ぐルディ、正義を信じながらも、ゲイであることを隠して生きる弁護士のポール、母から見放されて育ったダウン症の少年マルコ。その3人が出会い、愛情を育む。彼らはすぐに共に暮らすようになる。まるで「家族」の様に。

学校の手続きをし、初めて友達とともに学ぶマルコ。夢は叶うかに見えた。

だが幸福な時間は長くは続かなかった。

ありとあらゆる偏見と理不尽が3人を引き裂こうとする。

ゲイのカップルが子どもを育てている。悪影響があるに違いないという理由で。

ささやかな幸せを取り戻すために、ルディとポールは奔走する。

だが法律も彼らの味方ではなかった。


ルディはなぜマルコにそれ程の愛情を抱いたのだろうか?
その説明は映画のなかに殆ど無い。

けれどルディの姿を追ううちに、だんだんとその理由が分かってくる。

偏見や無理解に晒されて、彼はいかに孤独だったか。その孤独と同じ孤独をルディはマルコの中に見たのだろう。

3人が暮らすようになり、マルコに部屋が与えられる。自分の部屋に佇んでマルコは

「ここがぼくのうち?」と訊ねる。

「そうよ。」

そう答えるとマルコは泣き始める。嬉しいと言って。
そのシーンが上にあげた写真だ。


社会派ドラマという側面ももっているが、人間ドラマとしての深さとリアリティこそが胸を打つ。

マルコが好きだったもの。人形のアシュリー、ディスコダンス、ハッピーエンドのお伽話、そしてチョコレートドーナツ。


マルコはうちに帰ろうとしたに違いない。

公式サイト

最後に切々と歌い上げられる「I Shall Be Released」がとても印象的だ。

原題は「Any Day Now」

20140624

リルケ Komm Du...

ハンナ・アーレント『人間の条件』を読み始めた。

ハンナ・アーレントの主著のひとつであり、充実した本だ。読んだ方も沢山あるに違いない。

第7節「公的領域─共通なるもの」の注釈42でリルケの詩が引用されている。

志水速雄訳では原文が部分的にそのまま載せられているだけで全文もなければ訳もない。そこでWebと本棚の詩集から全文と訳を見つけ出した。紹介したい。

‘Komm Du...’

Komm du, du letzter, den ich anerkenne,
heilloser Schmerz im leiblichen Geweb:
wie ich im Geiste brannte, sieh, ich brenne
in dir; das Holz hat lange widerstrebt,
der Flamme, die du loderst, zuzustimmen,
nun aber nähr’ ich dich und brenn in dir.
Mein hiesig Mildsein wird in deinem Grimmen
ein Grimm der Hölle nicht von hier.
Ganz rein, ganz planlos frei von Zukunft stieg
ich auf des Leidens wirren Scheiterhaufen,
so sicher nirgend Künftiges zu kaufen
um dieses Herz, darin der Vorrat schwieg.
Bin ich es noch, der da unkenntlich brennt?
Erinnerungen reiß ich nicht herein.
O Leben, Leben: Draußensein.
Und ich in Lohe. Niemand der mich kennt.


来るがいい 最後の苦痛よ

来るがいい 最後の苦痛よ 私はお前を肯っている
肉体の組織のなかの癒やしがたい苦痛よ
嘗て精神のなかで燃えたように ごらん 私はいま燃えているのだ
お前のなかで。薪は久しく抗っていた
お前が燃やす焔に同意することに。
けれどもいま 私はお前を養い お前のなかで燃えている
私のこの世での穏和は お前の憤怒のなかで
この世のものならぬ冥府の怒りとなっている
全く純粋に なんの計画(プラン)もなく 未来からも解放されながら
私は苦悩の乱雑な薪の山のうえにのぼっていった
なかに無言の貯えがしまってあるこの心を代償に
このように確実に未来を購うことは 何処でもできはしない
いま 人目にたたず燃えている これがまだ私なのだろうか?
思い出を私はもってゆきはしない
ああ 生 生とは外にいることだ
だが 焔のなかにいる私 その私を知っている者は誰もいない

(放棄。これは嘗ての幼年時代の病気とは違ったものだ。幼い時の病気は一種の猶予期間であり、さらに成長するための口実であった。そこではすべてが叫び、ささやいていた。幼い時にお前を驚かしたものを、いまの病気のなかへ混合してはならない)
ヴァル=モンにて。恐らく1926年12月中頃のもの。最後の手帳のなかへ書き込まれた最後の詩。

(富士川英郎訳)

20140526

『帰ってきたヒトラー』

同じ作品を2回採り上げることになった。
髭が原語の題名になっている。なのでこの表紙のまま翻訳されるとは思っても見なかった。

ドイツ語版は読むのに3ヶ月くらい掛かった。かなり苦労した。その理由は、彼ヒトラーが使う古色蒼然としたドイツ語を始めとして、頻発する方言に手を焼いたのだ。

この表紙ならば翻訳されるまで待てば良かったと思う。

だが、やはりこれまた頻発する駄洒落が苦労して訳されているのを読んで共感の笑いを笑うことが出来た。苦労した甲斐はあったというものだ。

ドイツ語版の感想は1年以上前のエントリEr ist wieder daに書いてある。この文章を私は「慎重な訳が望まれる」と結んでいる。

軽快な、テンポの良い、リズム感に溢れた翻訳になっている。

ドイツ語で読んだ当時はかなり危険な本と感じた。愛されたヒトラーを描いているからだ。危うさはやはりある。だがこの軽快さならば許されるのではないかと感じた。

ドイツ語も実はこうした軽快なリズムなのかも知れない。時間が掛かったので重さを感じてしまったのだろうか。

或いは日本の状況が本気で危うくなってきているので、この本の危険性に麻痺してしまったのかも知れない。

冒頭に置かれた「本書について」という文章にはこう書かれている。

読者は同時にわずかな後ろ暗さを感じるはずだ。最初は彼を笑っていたはずなのに、ふと気が付けば、彼と一緒に笑っているからだ。ヒトラーとともに笑う─これは許される事なのか?いや、そんなことができるのか?どうか、自分でお読みになって試してほしい。この国は自由なのだ。今のところはまだ─。

作者ティムール・ヴェルメシュの意図はこれに尽きるだろう。

現代に復活したヒトラーは実に感じが良く、魅力的なのだ。そして交わされる会話の殆どが勘違いで成り立っていることにも現されるように、強運にも恵まれている。

彼は瞬く間に現代に順応し、成功してゆく。

そして最後に実に危険な台詞をスローガンとして吐くのだ。

「悪いことばかりじゃなかった」

ここに辿り着いて、私たちは私たちの笑いが凍り付くのを感じるだろう。



ハンナ・アーレントを読むために、そして読むうちに、ヒトラーと彼の行いに関する知識は自然に身に付いた。それがこの小説を読むとき実に役立った。

そしてかつてのヒトラーとその「一味」の所業を悪魔のようなナチスの所業として理解していては、決して正しい理解に辿り着かないことも学んだ。

『イェルサレムのアイヒマン』に示されたように、悪は陳腐で凡庸な形で立ち現れたのであり、この作品『帰ってきたヒトラー』が示すように、彼ヒトラーは魅力的で人に愛されうる質を(多分)持っていたのだ。


「訳者あとがき」でこの小説の原題Er ist wieder daが1966年にドイツで大流行した歌のタイトルからとられたものである事を知った。

これだ


翻訳された日本語版の本は1日で読めた。

20140511

『アル中病棟』

その緻密な観察眼に驚いた。

前作『失踪日記』はこの『失踪日記2 アル中病棟』への序章に過ぎなかったのではないか。そう思わせるほど充実した作品に仕上がっている。
私は今ではもう一滴も呑まなくなっているが、若い頃は激しく呑んでいた。なのでアル中への恐れは人並みに持っている。
それでも(と言うよりそれだからこそ)『アル中地獄(クライシス)』 や本作を読むと身の毛がよだつ。決して人事ではないのだ。

それにしても実に客観的に物語にしているものだと感心する。

恐らく思い出したくないような体験でもあっただろう。ギャグ漫画家の性なのだろうか?一歩も二歩も引いた立ち位置からアル中病棟を冷静に観察し、描いている。

これ程自覚的に生きることが出来るならば、アル中なんぞ簡単に克服出来るのではないかとも思うのだが、そうは行かないのがアル中のアル中たる所以なのだろう。恐ろしい病気だ。

ラストに漫画家とり・みき氏との対談が載っている。非常に良い作品紹介になっている。単独で公開した方が良いと思っていたところ探したらネタバレなしのヴァージョンがWebに公開されていた。


1998年12月26日、漫画家吾妻ひでおは妻と息子に取り押さえられて、都内のA病院に入院した。精神科B病棟(別名アル中病棟)である。

そこに至る経緯はイントロダクションに描写されている。

恐ろしい。なんか恐ろしいね。恐ろしいと頭で考える自分の声すらも恐ろしいんだよね。

B病棟には多くの先客があり、また後からも次々と新しい入院患者がやってくる。吾妻はその全てに顔を与える。20人を超えるキャラクターが、生きた人間として動き回っているのだ。彼らにはそれぞれ強烈な個性がある。

最も強烈な印象を残すのは吾妻と同室になった浅野で、彼は片付けがまったくできず、さらには計画性がないので月の小遣いを支給されるとすぐに使ってしまう。金がなくなると、新しい入院患者に対して寸借詐欺を働くのである。さらに、夜中に病室の中で小便をする奇癖もあり、吾妻を困らせる。


その他、フルコンタクト空手の有段者で気性の激しい安藤や、自己中心的な性格の杉野、修道院上がりという謎めいた経歴を持つ御木本、患者から100円ずつせびっては貯金し○○○(と書かれているがおそらくソープ)に行く福留など強烈な個性の持ち主が揃っており、集団劇として読んでもおもしろい。これだけ多くの人間を出して、しかも読者を混乱させずに描き分けるのは困難な技であるはずだ。

入院患者たちのある者は無事に三ヶ月の満期で退院するが、いつまでも病院から出られない者もいる。問題を起こして途中退院する人あり、病院の外で飲酒して再入院してしまう人あり、彼らの人生は決して明るいものではない。
看護師の1人は言う。

「私たち看護師にとって一番うれしいのは、退院していった人達が次の週呑まずに通院してくれることです」

と。つまりそれくらい、「呑んでしまう」「行方不明になる」人間が多いということなのだろう。

作中にも書かれている。

統計によるとアルコール依存症患者は治療病院を退院しても1年後の断酒継続率はわずか20%、ほとんどの人は再入院もしくは死んだり行方不明になったり。

作中で(そして確実に現実でも)吾妻ひでおは無事退院する。

来たときはタクシーに押し込められてだったが、今度は病院からひとりでバスに乗り家へ帰る。

そこからのラスト3ページは恐らく漫画史に残る名シーンだ。

俯瞰で背後からと前方からのショットが一枚ずつ。周りの人びとは吾妻と無関係に日常を生きている。

そして突然視点が仰角に変わる。

広々とした空。

しかし開放感はない。

「不安だなー。大丈夫なのか? 俺……」

そう。私たちはこの広い空の下で、広すぎる世界を歩いて行かねばならないのだ。

20140510

『理性の暴力』

叢書・魂の脱植民地化の第5弾、古賀徹の『理性の暴力─日本社会の病理学』を読んだ。
図書館から借りてきたときにはこれを1日で読み、すぐにハンナ・アーレントやミシェル・フーコーに移行するつもりでいた。だが結果としてほぼ2週間をこれで費やしてしまった。

意欲作だと思う。

古賀さんはこの作品をミルフィーユと称している。「千枚の葉」を意味するお菓子の名前だ。

それは記述の重層性と共に記述している〈私〉にもまた言及しなければ不十分とする自己言及性の入れ子構造も意味している。

その為この本は本論とその後に続くP.S.と題された補論によって構成されている。

この本は凄まじい程の密度を持っている。その密度の高さが読解に時間が掛かった主な理由だ。
特に序論には手を焼いた。
繰り出される哲学用語の量にも脅かされたが、それによって記述される哲学的内容の豊富さは半端ではない。

その為か序論を飛ばして読むことも奨められているのだが、敢えて読み切ったのは文章に秘められた訴求力に感じるところがあったからだ。

この判断は正解だったと読後に感じた。本を読む上で必要な大局観と言うのか、この本全体を貫く哲学的な方法論を意識しつつ読むことが可能になったからだ。

暴力を抑止する筈の理性が、

法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられている

そうした病理を現在の日本社会は抱えている。

この本はそうした状況を踏まえて、理性に対し理性による反省を試みている。

本の構成は

序論 ミルフィーユとしての記述
第一章 いじめの論理学
第二章 沖縄戦「集団自決」をめぐって
第三章 〈声〉を聞くこと─ハンセン病の強制収容
第四章 破壊のあとの鎖列─水俣の経験から
第五章 廃棄物の論理学のために
第六章 死刑場の設計
第七章 原子力発電の論理学
終章 鉄鎖を解く哲学の任務

ひとつひとつのテーマもかみ砕いて書かれていたら1冊の本になったであろう。

論考はカントやハンナ・アーレント、フーコーを引用しつつ、全体として「輸入の学」に留まらずこなされていると思う。

全てが成功しているとは思わないが、各テーマに潜む暴力としての理性を哲学の文脈に即し、そこからの脱却の可能性を丁寧に模索していると感じた。

だが、自らの不勉強さが残念で溜まらなかった。

この本を読む以前に読んでおかねばならなかった本が何冊もある。数冊はこの本と同時進行で目を通したが、やはり足りなさを感じる。エマヌエル・カントの『純粋理性批判』はその最もたるものである。無論おいそれと読解できる代物でないことは経験的に理解している。しかし、読解しておくことが必要だった。

しかし、理性の結晶である筈の哲学は、日本では典型的に植民地的な正確を有しており、解放のための学とはなっていない。

この本はそうした哲学を本来の位置に置き直す行為の一つとして理解出来る。この本に付きまとう一種の難解さは、そうした行為が常に試みとしてあった事実に由来しているのだろう。

投げかけられているのは、現代社会にあって、哲学するとはどういう意味を持つのか?社会の課題に立ち向かうとはどういう事か?そうした問題意識なのだと思う。

読み終わって、私は著者古賀さんの問いかけに、応えたいという衝動を強く感じた。

良い読書体験が出来たと感じている。

20140504

『家路』

Facebookで知った映画『家路』を観た。

願望だろう。

福島に帰り、そこで生きて行くという決意をする。それは現実には果たし得ない願望なのだろう。
だが、その願望は単純に語られたのではなく逃れ得ない現実が前提とされている。

そこにこの映画の深みはあるのだろう。
兄総一の罪を被り、もう二度と戻らない決心をして出た故郷に20年振りに次郎は帰ってきた。そこから物語は始まる。

その故郷は原発事故により居住禁止地域になっており誰もいない。

そこに中学の時の同級生北村が現れ、ふたりは建物だけが残り無人と化した思い出の地を巡る。

そこで次郎は明かす。

誰もいなくなったから、帰ってきた。

腹違いの兄という家族のなかで複雑な少年時代を過ごした彼にとって、故郷は生き易い地ではなかった。

それ故立ち入り禁止という現実なしでは、彼の帰郷はありえなかったことなのだ。


私もかつて、二度と戻らない決意をして故郷を離れ、現実に25年間戻らず、その後に帰郷した。なので主人公次郎の気持ちは良く理解出来ると思っている。


やがて彼の帰郷は兄総一の知るところとなり、次郎は母登美子と再会する。そこでふたりは、何事もなかったように稲の話を交わす。


次郎が母登美子を引き取り、居住禁止地域にある家で暮らし始め、登場人物はそれぞれの家路を辿り始め、家族は再生への道を歩み始めるのだが、この設定は余りにもファンタジックだ。

咎めに来た警官も温情をかけて何も言わず去る。

ありえない。


恐らくこの映画は福島の被災者に寄り添うことを第一目的に作られた映画なのだろう。

ファンタジーはファンタジックに描いて欲しかったが、ファンタジーを愉しむ余裕も必要なのかな?と少し感じた。

確実に福島を描いた映画ではある。

登美子を演じた田中裕子の演技が光る。