20231028

男同士の絆

長い間積読状態にあった本をようやく読んだ。

クラスの男女比がほぼ1:1だったのは中学まで。高校は女子を受け入れ始めたばかりで、クラスに3人。大学・大学院は理系を選んだので更に女子は少なくなった。まさに男塊の中で過ごしていた私にとってホモソーシャルという概念は、必要にして欠くべからざるものだった。だが、興味を強く持っていても、イギリス文学にそれほど精通している訳でもなく、どことなく難しそうな佇まいに、今迄手をこまねいていた。


著者イヴ・K・セジウィックの『男同士の絆─イギリス文学とホモソーシャルな欲望』は、シェイクスピアからディケンズに至るイギリス文学の古典を題材に、「ホモソーシャル」概念を、私たちにとって使用可能にしてくれる、画期的な著作だ。

著者はこの著作の前に『クローゼットの認識論』という著作を発表しており、本作は、その続編という位置付けで良いと思う。

緻密な議論である。

ホモソーシャル概念は、検索したり伝え聞いていた範囲で理解していたものでほぼフォローできていた。その概念が、イギリス古典文学の中で、どの様に具体的に展開されているかを、微に入り細に入り論証して行く。

ホモソーシャルは同性間の人間関係の事を言い、本書では特に男性同士の連帯と絆に着目し、類似の概念とも誤解されるホモセクシャルとも異なり、女性のパートナーのいる異性愛者の男性間の絆を指す。

しかし、セジウィックの力点はそこを超え、女性をパートナーとする男性のホモソーシャル関係が、実は男性間の絆を引き裂きかねない女性を嫌悪し、排除することで成立し、政治的欲望に貫かれている事を指摘するに至っている。本書は男性優位体制批判の本でもある。

と、同時に濃密な男性間の友情関係は時として男性同性愛関係と混同されかねない。そこで男性同性愛者は、このホモソーシャル・クラブからは排除される。「ホモソーシャル連続体」はかくして女性嫌悪(ミソジニー)と男性同性愛嫌悪(ホモフォビア)によって支えられる事になる。女性のパートナーを持つ異性愛の男性たちは、女性を恐れ、女性交換によって男性秩序を維持しているのであり、しかもそれは同性愛嫌悪と連動しているのである。

この洞察は、男性中心社会の強制的異性愛体制のからくりを暴き、また女性差別批評(フェミニズム)と同性愛差別批評(ゲイ批評)の合体として、新たな批評(クイア批評)を用意した点で画期的だ。

本書の衝撃は、副題に言う「ホモソーシャルな欲望」にある。つまり「ホモセクシャル」とは一線を画した、非エロスの大勢であるはずの「ホモソーシャル」関係の中に、著者は「欲望」を発見する。友情が同性愛と区別出来ない可能性を見るのだ。

エロスとしての同性間の友情。これについては、同性愛ではない男女でも容認するだろう。また一方で、友情の純粋さや精神性を汚すものとして、エロス+友情関係に「パニクってしまう」者も多い。

著者の言う「ホモセクシャル・パニック」は自己の同性愛的要素を認知した衝撃から、同性愛差別と抑圧が生まれる過程を見事に記述している。

20230922

敗北を抱きしめて

必読の書と言えるだろう。

言わずと知れたジョン・ダワーの第二次世界大戦後の日本を描いた歴史書である。以前この本は持っていたのだが、引っ越しに伴い売却してしまって、今回改めて図書館で借り、紐解いてみた。増補版とあるが、文章に取り立てて変更はなく、画像類の差し替えがある程度のものらしい。


読んでみて強く感じたのは、私と言う人間が、まごう事ない戦後の子だという事実だ。思想・信条、そしてちょっとした趣味・嗜好に至る迄、戦後という文脈の下に照らし出して読み解かねば、十分な解釈は不可能だという事を思い知った。

私は時の政府が「もはや戦後ではない」と宣言した、丁度その年に生まれている。その様に宣言しなければならない程、日本はまだ戦後の真っ只中に居たという事なのだろう。それもその筈だ。その年は敗戦からまだ10年と経っていない。

従って、ジョン・ダワーのこの著作を、まさに私の事が書かれているという思いで、丹念にページを繰った。


よく調べられ、そして丁寧に練り込まれたジョン・ダワーの文章は、戦後の日米関係を中心に展開される。そして、添えられた画像もまた、戦後の日米関係を如実に照らし出す。

例えば有名な裕仁とマッカーサーが並んだ写真は、それが誰が勝者かを、端的に表す写真としてだけでなく、マッカーサーが裕仁と伴にある事を意味するものだと解釈される。

事実、マッカーサーが天皇を生かしたまま政治的に利用する方針を立てたのは、終戦後ごく早い時期だったらしい。

この方針によって日本は、戦争の最高責任者に責任を取らせないという、摩訶不思議なやり方で、戦後が始まったのだが、その影響は今も確実に響いている。

日本は第二次世界大戦後、アメリカに占領され、敗戦国として歩み始めた訳だが、それ故に、極めて幸福な占領時代を経験したと言って良いだろう。そしてその政策の下に幸福な民主主義社会の到来を夢見たのだ。

だが戦後世界は束の間の協力関係をすぐ終え、資本主義vs共産主義の対立関係が支配する情勢へと変化する。占領されていた日本は、その影響を少しは受けたが、直接巻き込まれる事なく、アメリカとの蜜月時代を過ごした。

まさに敗北を抱きしめて戦後をやり過ごしたのだ。

その中で幾つかの革命を抱きしめようとした者もあった。それは戦後の「上からの革命」の文脈の延長上に当然のように夢見られたものだったが、それを許すほど世界情勢は単純ではなかった。

現にその世界情勢に巻き込まれる形で、隣国ではいまだに南北に分断された形でしか、存在できていない。

現在世界情勢はまた、きな臭さを帯始め、その中で日本は敗戦を経験せずに凋落を迎えている。そうした時期に、この本を読めたのは幸福な出会いだった。

現在に至る迄というスパンで、時代を戦後という文脈の下に読み直す事が出来たからだ。確かな事は、戦後はいまだに続いていると言う事だ。

20230905

大規模言語モデルは新たな知能か

最初のうちは驚いた。

そして、こんな面白いおもちゃがあるか!とばかりに使い倒した。

ChatGPTの出現だ。

何を聞いても答えが返って来るのだ。それもかなり自然な対話の形式で。

だが、村野四郎の『惨憺たる鮟鱇』の冒頭に掲げられている「へんな運命がわたしを見つめている」と言うリルケ(とされている)の詩句が、どの詩からの引用なのかを問うたところ、ドウィノ悲歌第2部第1歌冒頭からの引用だと答えが返って来た辺りから、こりゃ答えを鵜呑みに出来ないなと、警戒しながら付き合い始めた。

リルケだったら一通り読んでいる。ドウィノ悲歌には第1部も第2部もなく、どの詩の冒頭にも、該当する詩句はない。その位の知識はあった。


本書を読んでみると、そうした、存在しない情報を作り出してしまう現象は幻覚(hallucination)と呼ばれ、大規模言語モデルの致命的な問題であり、一朝一夕には解決しないものらしい事が分かった。

重要な事は、機械を通じて常に真実にアクセスできるという考えは捨てて、完全には信用できない情報の中から有益なものを見つけ出す方法を確立する事だ。

だがこれは言うは易く、行うは難しである。大規模言語モデルが作り出す幻覚は、手が混んでおり、一流の専門家にも、本当かどうか区別が付かない程、正確に見えてしまうものがあるのだ。

提出された結果に、いちいち疑いを持ち、必ず裏を取る態度が必要だろう。

本書には、そうした大規模言語モデルが、どの様な経緯で開発されて来たもので、どんな仕組みで動いているのかと言った事柄から、大規模言語モデルとこれから、どう付き合って行ったら良いのか?と言った事柄までが、理路整然と語られている。

何しろ相手は情報を扱う機械である。持っている知識量では、てんで敵わない事は明らかだ。だが、悪気はないもののたまに嘘をつく。更に厄介な事に、これも悪気はないのだが、差別的な発言もしれっと披露する。

そうした性格を持つ相手を、うまく活用しつつ付き合うにはどういう批判的な視点が必要なのか?いわゆるこちらの側のリテラシーと言う奴が、モロに問われる時代がやって来たと言う事なのだろう。

本書を読んで、大規模言語モデルと言うものは、突然出現した怪物ではなく、それまでの情報工学の文脈の延長上に開発された技術である事が分かった。革命的なのは未知のデータでも巧く予測できる様になることを汎化と呼び、汎化が出来る能力を汎化能力と呼ぶが、機械学習の最大の目標は、その汎化能力を獲得することにあるという事だ。

本書を読んで、大規模言語モデルもまた、ムーアの法則がもたらした、ひとつの結果である事が分かった。

どの様に過去の技術の歴史があり、どの方向に未来を描いているかも朧げながら分かった。本書を読んで、大規模言語モデルと言う謎の地を歩く、詳しい地図が与えられた様な気がした。これからの付き合い方が楽しみだ。

20230902

中世哲学入門

これを読書と呼んで良いのか迷う。

本書全体を通じて、中世哲学は難しいぞ!と、そればかりが書かれている。

2/3以上が用語の解説に費やされており、それらにもこの語は日本語には訳しにくいぞ!という、注意書きが必ずと言って良い程付けられている。

確かに難しい。それに加えて、文章には山内志朗氏独自の言い回しが多く、それに慣れるのに数日を要した。理虚的存在などと言われても、未だに何の事か腑に落ちない。


だが、著者が中世哲学に、真っ向から、極めて誠実に向かい合おうとしている事は伝わって来た。決して衒学趣味ではない。

中世哲学の最盛期は、今から800年程前だ。それだけ年月が経っていれば、言葉の使い方から、現在と異なっていたと考えた方が自然と言うものだ。それを敢えて現代語で書こうとすれば、その書き方が、従来と異なった物になる。

未だ影響力を持っていると言っても、神の存在を疑うのが当たり前の様な現在から、神が絶対的な存在感を持っていた時代の哲学を紐解いてどうする。そんな「悪魔の囁き」にも、何度か誘惑された。だが、歴史はその時代に立ち戻って、その時代の感性で読まなければ、理解には程遠い。その事は、今迄の読書で、深く学んで来た。

著者が本気ならば、こちらも本気で臨むだけだ。

新書にしては分厚い本書を、図書館の貸し出し期限を気にしながら、遮二無二読み進めた。どうにか、余裕を持って、読み終える事が出来た。

読んでいて、この分野の知識が、私には決定的に欠けていたと言う事実に気付かされた。カントは、最後の中世哲学の徒であったと言う。そう言われても、何の事か分からない。その程度にカントも理解出来ていなかったという事だろう。

読み終えて、何が分かったか?と問われても、答えに窮する。ただ、頭の中を、山内語で訳された、様々な用語が、励起状態の気体分子の様に、飛び交っているだけだ。

だが、ヨーロッパがイスラームに比べて、後進地域だった頃から、イスラームからアリストテレスなどの知識を逆輸入して、台頭してゆく過程で、中世哲学が極めて重要な位置を占めていた事は理解出来た。

そして、これらの中世哲学の知識は、ドゥルーズやフーコーなど現代哲学を読み解くには必須の知識(特に存在論)らしい事にも気付けた。

著者によると、中世哲学の研究も、本書でようやく六合目に達した様なものだと言う。学問の深さは、素人には見通せない程に、深く険しい。

だが、その研究を、著者が愉しんで行っている事は、十分に伝わって来た。その愉しみ方に触れる事が出来、私も楽しかった。

学問には、ひとつの無駄もないのだ。

20230828

竹取工学物語

主に竹にフォーカスし、植物を土木工学者の眼で見たらどう見えるか?それを主題にしている。

身の回りに、竹製品は多い。溢れかえっているとすら言える。それだけ竹は「使える」素材だと言う事だろう。

だが、その竹の「使い易さ」とは一体なんだろうか?その事については、今迄余り深く考えた事が無かった。


動物は周辺の環境が嫌になれば、移動して場所を変える事が出来る。だが植物は一度根を張ってしまえばそこの環境に順応せざるを得ない。

その点に目を付けて、筆者は動物を「機械」構造物。植物を「土木」構造物と思っていると言う。動力があり、陸や空を移動する自動車や飛行機は機械構造物であるし、その場から決して動くことのない橋やトンネルは土木構造物だ。

そうした土木工学者の視点から見ると、竹を始めとする、植物は、その場に適応する為に、非常に合理的な形状を持っている事が分かる。

著者はその合理性を、幾つかの数式を交えて、理系の眼で考察する。

例えば、竹の維管束は、外側に密に分布しているが、この構造は、竹自身が、自らの身体を支える上で、実に見事な配列である事が分かる。

鉄筋コンクリートの様に二種類以上の異なる材料を組み合わせた構造を「複合構造」と呼ぶが、竹は正にその複合構造物以外の何物でもないのだ。

そして著者の眼は、竹を乗り越えて、他の植物にも向かう。

そこに見出せるのは、光を求めて身体を大きくする事に適応した、各種植物の実に見事な合理性だ。

生物の合理的な形態を模倣し、様々な形で応用するという、所謂「生物形態模倣」をバイオミメティックスと呼ぶ。私はその事を、この本から学んだが、それは、古くから様々な人工物に用いられてきた手法だろう。

そればかりではなく、本書から学んだ基本的な概念は多い。

断面2次モーメントなどは、今迄、聞いた事もない概念であり、それを理解するのには、多少の労力を必要としたが、著者の分かり易い説明によって、腑に落ちる所迄理解する事が出来た。

ちょっとその気になって見回せば、世界は謎に満ち溢れている。そしてその謎は、少しの工夫で、合理的に理解する事が出来る。

その事は、いつもの事ながら、私にとっては大きな驚きに満ちている。

本書と出会う事によって、世界の植物はそれぞれに合理的な形態を保っている事を知った。またひとつ、世界が新しく見えて来た。

20230826

レオナルド・ダ・ヴィンチの源泉

レオナルド・ダ・ヴィンチの作品についての、緻密な考察が繰り広げられている。

レオナルド・ダ・ヴィンチという人物は、幼少の頃から、何かと気になり続けて来た人物だ。だが、本書の著者田辺清氏程には、ダ・ヴィンチに関して、思い巡らしをしてこなかった。


田辺氏は、作品のひとつひとつに対して、その作品がダ・ヴィンチの真筆であるかどうか?作品に描かれている人物のモデルは誰か?と言った基本的な事柄についても、作品に残された走り書き、従来からなされて来た研究などを丁寧に採り上げ、具体的な論拠に基づいて、ひとつひとつ結論を導き出している。

著者の守備範囲は、ダ・ヴィンチの技法、様式から、様々な文学表現迄と、途方もなく広い。

論文の主題は多岐に渡るが、中でも著者の博士論文を元にした、レオナルド・ダ・ヴィンチの《自画像》についての、比較的長い論考が印象に残った。


有名な絵だ。

私はついぞ、この作品がダ・ヴィンチの自画像であるという事を、疑う事などして来なかった。だが、レオナルド・ダ・ヴィンチの研究者の間では、この作品はダ・ヴィンチの自画像なのかどうか?ダ・ヴィンチの手によるものなのかどうか?などは、長年疑問に付されていたテーマらしい。

作品の技法が、ダ・ヴィンチのものとするには、拙過ぎるというのだ。

そう言われてみると、この「赤チョークによる老人の絵」は素描として、《聖アンナと幼い洗礼者ヨハネを伴う聖母子像》などと比べると、描き方が荒い。

だが著者は、レオナルド・ダ・ヴィンチが老年に至って、その利き腕である左手が麻痺状態にあったという証拠を見出す。《自画像》に見られる拙さは、それ故の結果であると言うのだ。

また著者は、ダ・ヴィンチの時代、及びやや時代が下った頃の文献から、ダ・ヴィンチの容貌を記したものを列挙する。

それらは《自画像》に見られる容貌と整合性がある。

それらを証拠として、著者は《自画像》のモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチ本人であると結論する。この辺りの議論の進め方は、極めて慎重であり、実証的だ。

この、議論に対する慎重さと、実証性は、他の論文にも共通する特徴だと読み取れる。それ故に、本書を通読した後に残る感動は、一種異様な迄の迫力を感じさせる。

本書の残念なところは、参照されている絵画、彫刻などの作品がいずれもモノクロである事だ。その為、私は作品の内、主要なものは、Webによる検索や、本棚にある画集を参照せざるを得なかった。

だが、本書は、論文にしては読み易く、お蔭で比較的短時間で読破する事が出来た。

読み終わって、レオナルド・ダ・ヴィンチという人物に対する姿勢を、改めて正す事が出来た充実感を感じている。

数多いダ・ヴィンチ論の中でも、質の高い論集だったと感じている。

20230824

カフカはなぜ自殺しなかったのか?

フランツ・カフカは結核で亡くなっている。自殺ではない。

考えてみると、これはとても意外で不思議な事だ。本書はその疑問を、カフカの日記や手紙を読解して行く事で、解き明かそうとしている。


カフカは何かと言うと、すぐに自殺を考え、口にしている。この事実は、私たちの持つ、カフカのイメージと、大変整合性を持っている。

彼は自殺する事を、常に意識しながら生きていたのだ。

本書のテーマははじめにに端的に記されている。

彼はどう生きて、なぜ自殺したいと思い、なぜ自殺しなかったのか?

カフカは周りの人々から、どの様に見られていたのだろうか?その疑問に、カフカの恋人ミレナはこう答えている。

あの人の本には驚かされます

でも、

あの人自身にはもっともっと驚かされます。

カフカの書いた本、例えば『変身』には、確かに驚かされる。朝、目が醒めたら虫になっていたという、最初の1行から、びっくりさせられる。しかもそれは、特別な出来事として描かれているのではなく、さも、当たり前の出来事の様に描かれているのだ。これに驚かされずに、どうしろと言うのか?

そうしたカフカの本以上に、カフカ本人にはもっと驚かされるのだと言う。どんな人物だったのか?

私たちは知らず知らずのうちに、この本の続きを読みたくなり、気が付いた時には、この本にどっぷりと引き摺り込まれている。

カフカの日記や手紙は、本人の願いとは裏腹に、残されているものは全て、今でも読む事が出来る。だが、それをする為には、全集と格闘しなければならず、しかもそれ故に、日記と手紙を別々に読まねばならない。

本書では、それらが年代別に並び替えられ、カフカの日記や手紙が持つ詩情を強調する為、分かち書きで紹介されている。

これはとても親切な事で、何よりもまず読み易い。

カフカはなぜ自殺しなかったのか?

その問いには、本書は、一定の結論には至っているが、明確には答えていない。微かに答えが仄めかされているが、明確なものではない。

その理由としても取り上げられている概念として、言語隠蔽というものが紹介されている。下手に言葉にする事で、言葉にする事が出来たものしか残らず、他の肝心なものが消え失せてしまうという意味だ。

言葉を用いて表現する者は、言葉に絶望していなければならないとも言っている。

この概念には、大きく肯けるところがある。

カフカは人生に絶望していた。だが、それ故に生きたとも言えるのではないだろうか?

自殺という則を、超える事を、敢えてしなかったのではないか?

この本は、カフカの生きた軌跡を追う事で、カフカをより理解する手掛かりを、読者に与えている。

カフカの日記や手紙、そしてカフカの研究書を、もっと読みたくなった。

或いはそれこそが、本書の狙い所なのかも知れない。