20230520

独裁者の料理人

著者ヴィトルト・シャブウォフスキもまた料理人である。

料理人が料理人について書く。それだけでも十分に意義のある仕事だと思う。だが料理人が相手にした人物たち。これが尋常ではない。

彼らは誰に料理を提供して来たか?それを挙げれば成程と思うだろう。

カンボジアのポル・ポト。イラクのサダム・フセイン。ウガンダのイディ・アミン。アルバニアのエンヴィル・ホッジャ。キューバのフィデル・カストロ。並べてみるまでもなく、彼らは錚々たる独裁者と呼ばれる存在である。


著者はスロバキア系ハンガリー人のペーテル・ケレシュ監督の『歴史の料理人」という映画を見て、頭の中でパッと閃いたと言う。

歴史の重要な瞬間に料理を作っていた人たちは歴史について何が言えるだろう。

サダム・フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後、何を食べたのか?その後、腹は痛くならなかったのか?二百万近いクメール人が飢え死にしかけていたとき、ポル・ポトは何を食べていたのか?フィデル・カストロは世界を核戦争の瀬戸際に立たせたとき、何を食べていたのか?そのうちだれが辛いものを好み、だれが味の薄いものを好んだのか?だれが大食漢でだれがフォークで皿をつつくだけだったのか?だれが血のしたたるビーフステーキを好み、だれがよく焼いたのを好んだのだろう?

今迄にこうした切り口で書かれた本が無かったのが不思議なほど、シンプルで魅力的なテーマだ。

かくして著者は大陸から大陸を渡り歩き、独裁者の料理人を探し出しては、インタヴューを試みる。

だが、その作業は、実際に行ってみると、著しい困難を伴うものだった。

まず、当の料理人が生きていなければならない。

食という生きてゆく上で欠かせない、基本的な営み。だが、その食を提供する相手が独裁者である場合、料理を作る事そのものが命懸けの作業となる。

上手くいって当たり前、それどころか、何人もの人間の命を救う事にも繋がる。だが、しくじったらどうなるか?答えは火を見るよりも明らかだろう。

料理人が生きていて、運よく出会えたとしても、相手が自分に、独裁者の料理人だった時代の事を語ってくれるかどうかは、これまた判じものだ。

命懸けの状態は、独裁者が去った後も続くものだ。

料理人が独裁者に仕えるようになった動機や独裁者との距離感は、それぞれに異なる。ある者は心酔から、ある者は恐怖から、独裁者に料理を提供していた。

料理を提供するという行為を通じて、独裁者に接してきた彼らは、独裁者の特殊な場面を目撃して来た者だ。逆に言えば、料理人が語る独裁者の像は、それ自体が唯一無二の、特殊な姿を描写している事になる。

そこで語られる独裁者の姿は、子ども帰りをしてしまったような、甘えと独断が横行する姿だ。

本書の原題はJak nakarmić dyktatora。日本語に訳すのが難しいが、直訳すれば『独裁者に食べさせる方法』となるそうだ。著者はこのタイトルに「私たちが独裁者を養う」という意味もかけている。と訳者芝田文乃さんは語る。

この本は世界に名だたる独裁者を狂言回しにし、登場する料理人、その話を引き出した著者、それらを見事に日本語訳した訳者たちが織りなす、重層的な織物のような本だと、私には感じられた。

良い読書体験が出来た。

20230513

ガウディの伝言

図書館から本を借りた日は、そのリストも作らずに眠りに着いた。

体調がすぐれなかったのだ。なので、読む本を選ぶ時にも、簡単に読めそうなものを選んだ。それがこの本だった。借りた本の中で、唯一の新書。これなら多少調子が悪くても楽に読めるだろうと踏んだのだ。

だがこの本、外尾悦郎の『ガウディの伝言』は、予想以上に面白かった。


この本を読む迄サグラダ・ファミリアに日本人が彫刻家として参加している事など全く知らなかった。それもかなり重要な部分を任されているらしい。それだけでも、深い興味を抱くのに、十分だった。

文章に力みは見られない。

歴史的な事業に、主体的に関わっている日本人。だが、にもかかわらず、その語り口はあくまでも淡々としており、自然体だ。

だが、その語る内容に目を配ると、驚くような事が語られている。

バルセロナのガウディの代表作、サグラダ・ファミリアには、以前から注目していた。異様とも言い得る造形。19世紀に建築が始まっていながら、未だに完成を見ないスケールの大きさ。どれを取っても、規格外なのだ。

サグラダ・ファミリアは市街戦で一度破壊され、ガウディが遺した貴重な図面類も焼失している。手掛かりは僅かに残されたミニチュアと写真のみ。そこからガウディの構想を読み取り、復元しながら建築作業は今日も続いている。

著者は、誰かから推薦された訳でもなく、このサグラダ・ファミリア建設の作業に、単身乗り込んで行ったようだ。

まず、その度胸の良さに驚く。

その作業の難しさ、歴史に残る重要性。それらを前にしたら、普通の人はビビる。思わず身を引いてしまう所だ。

だが著者はそれらを意に介さない。ただ己の情熱が指し示すところを目指して、石を刻む。

石を掘っていると「無」になる。そう著者は言う。その辺り迄は私にも理解出来る。人は大きな存在物を前にすると、自分を無にして臨まねば、その存在物に近付いて行く事も出来ない。

著者は石を刻み続ける行為を信じて、一歩一歩ガウディに近付いて行ったのだろう。

だが、その距離はいかほどだったのだろう?

寄る辺なき探究と創造。ガウディを理解出来るという自分への信頼。

それらが淡々とした語りの中で、しっかりと描写されている。

ガウディになるのではなく、ガウディと同じ物を見る。そう著者は言う。それが長年ガウディを探し続けて来た著者が辿り着いた境地だろう。そこに辿り着く迄、どれだけの紆余曲折があったのか?それは私には理解出来ない途方もない謎だ。

だが、著者外尾悦郎という存在があるお陰で、私たち日本人にも、その手掛かりが差し出されている。

この本中には、今迄知らなかったガウディの姿も描写されている。

私はこの本を読んで、サグラダ・ファミリアという存在物に、またひとつ大きな一歩を踏み出す事が出来たと確信している。

20230503

カティンの森のヤニナ

私が「カティンの森事件」を知ったのは21世紀になってからだ。かなり遅かった。

そのきっかけがJ.K.ザヴォドニーの名著『消えた将校たち─カチンの森虐殺事件』が先だったのか、アンジェイ・ワイダ監督の映画『カティンの森』が先だったのかは、今では確認のしようがない。

だが、この事件を知って、私は少なからず衝撃を受け、動揺し、以来事あるごとに「カティンの森事件」を知ろうと努めて来た。

本書を手に取ったのもそうした自分に課した義務の一環としての事だった。

『消えた将校たち』を注意深く読めば、その記載があったのだが、「カティンの森事件」の犠牲者の中にひとりだけ女性がいた。

彼女の名前はヤニナ・レヴァンドフスカ。所属はポーランド空軍であり、当時としても珍しい女性パイロットだった。

本書『カティンの森のヤニナ─独ソ戦の闇に消えた女性飛行士』はそのヤニナについて書かれた貴重なノンフィクションだ。


カティンの森事件とは、第二次世界大戦中にソ連の捕虜となっていた約22,000人とも25,000人とも言われるポーランド将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソヴィエト内務人民委員会(NKVD)によって虐殺された事件の総称である。

1943年4月下旬、当時はドイツ領となっていたスモレンスク近郊の森の奥深く、夥しい数の遺体が地中から掘り起こされたのだ。

カティンは現場近くの地名だ。事件現場はグニェズドヴォの方が距離的に近かったが、発音のしやすさや覚えやすさから、ドイツがこの虐殺事件を表すのに用いた。

命名の仕方からして政治的だ。この事件は徹底的に政治に利用された。

ソ連は殺害にドイツ製の銃弾を使用し、事件はドイツによるものと主張し、ドイツはソ連の犯行を主張した。ソ連がカティンの森事件をスターリン支配下のソ連の犯行である事を認め、ポーランドに謝罪したのは、ゴルバチョフによるグラスノスチ以降の事だった。

ナチスドイツによるユダヤ人虐殺に比べ、カティンの森事件が知られていないのは、戦時中イギリスやアメリカがドイツに対抗する手前、都合の悪いこの事件を徹底的に隠蔽した影響が未だ響いているのだろう。

更にカティンの森事件の犠牲者に女性がいた事は、殆ど知られていない。

著者小林文乃は、その手掛かりすら殆どないヤニナ・レヴァンドフスカについて知ろうと志し、現地取材を何度も繰り返し、事の真相に迫って行く。

ヤニナ・レヴァンドフスカはポーランドの歴史の中で唯一成功した蜂起として知られるウェルコポルスカ蜂起の最高司令官を務めたユゼフ・ドヴルブ・ムシニツキ将軍の娘として1908年4月22日、ロシア領の都市ハリコフで生まれた。ポズナン飛行クラブに入会し、ヨーロッパ初の高度5,000mからのパラシュート降下に成功した人物になった。

英雄の娘はこれまた英雄であった。

だがこの事が仇となり、彼女はソ連の手により、多くのポーランド人と共にカティンの森で虐殺され、埋められる結果となった。

殺された推定日は1940年4月22日。何とヤニナの32回目の誕生日その日だった。

ヤニナの11歳年下の妹、アグネシュカも殆ど同じ頃、ナチスの手により虐殺されている。

姉妹は姉がソ連の手により、妹がナチスドイツの手により虐殺されたのだ。

ソ連とドイツによって蹂躙され続けた国ポーランド。それを何よりも象徴する姉妹だったと言えるのではないだろうか?

カティンの森ポーランド人捕虜集団墓地にはヤニナのプレートが残っている。

ヤニナ・アントニーナ・レヴァンドフスカ、1908年ハリコフ生まれ、パイロット。1940年没。

プレートにパイロットと記されているのが、せめてもの救いとなるだろうか。

20230429

『人間の条件』

六文銭さんの勧めでハンナ・アレントの『人間の条件』を読んだのは、今から9年前、2014年6月の事だった。六文銭さんが送ってくださった読書ノートは簡潔的確にこの本を要約してあり、読書の大きな助けになった。だが志水速雄訳の『人間の条件』は所々意味の分からない日本語になっており、誤訳も多かった。その為この時は仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』を併読し、補助・指針とした。

この程牧野雅彦訳でハンナ・アレント『人間の条件』の新訳が出版された。私は迷う事なくそれを県立長野図書館にリクエストした。同時に牧野雅彦『精読アレント『人間の条件』』も出版されるという事だったので、それも同時にリクエストした。


両方の本を手にしたのは4月12日の事。今回も同時併読し、昨日28日に読了した。16日間掛かった事になる。

9年の時間差があったとは言うものの、牧野雅彦訳は志水速雄訳とは全く別の本のような感覚があった。それよりも嬉しかったのは、訳の隅々まで明確な日本語が貫かれており、私は牧野雅彦訳で初めてハンナ・アレント『人間の条件』を完全に読破したという実感を得る事が出来た。

前回、志水速雄訳の時は仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』は必須で、これなくしては『人間の条件』を読み進める事も出来なかった印象があったが、今回の牧野雅彦『精読ハンナ・アレント『人間の条件』』は、的確な要約と溢れんばかりの引用・注釈に満ちてはいるものの、(当然の事ながら)誤訳の修正もなく、同時併読しなくても良かったと思えた。


それよりも役に立ったのは、昨年・一昨年と続けていた岩波『アリストテレス全集』全巻読破だった。

ハンナ・アレントの著作には、古典哲学からの引用が豊富に含まれており、ギリシア哲学の基本的な知識がなかった9年前は、その部分の読解にひどく難渋したのだった。

明確な日本語による訳と精読本、加えて六文銭さんの読書ノートと、最高の読書環境が与えられた今回の『人間の条件』。しかしそこはハンナ・アレントの書く文章だけあって、1回か2回の読解ではとても歯が立たず、4、5回読み返して、更に牧野雅彦『精読アレント『人間の条件』』にある引用でもう2、3回読み返すと言うのが今回の読書スタイルになった。

牧野雅彦訳ハンナ・アレント『人間の条件』は、志水速雄役ばかりではなく、森一郎訳ハンナ・アーレント『活動的生』もフォローされており、読解の大きな助けとなる仕組みになっていた。これを含めて、今後は牧野雅彦訳がハンナ・アレント『人間の条件』の新しいスタンダードになってもらいたいと願うばかりだ。

本の内容はとてもブログの範囲で語り尽くす事は出来ないが、科学技術の進歩は世界大戦の惨禍をもたらす一方で人間の活動領域を地球外にまで拡張し、「観照的生活」が後景に退くと共に「活動的生活」が前景化されると言う歴史の変化があった。これを「労働(labour)」、「仕事(work)」、「行為(action)」の絡み合いの中で人間の「世界からの疎外」がもたらされる様を描き出した論考と言えるのではないだろうか?

牧野雅彦訳でも、ハンナ・アレントの中盤から後半に掛けての迫力に満ちた論考は健在。従来の志水速雄訳でお読みになった方も、そして勿論未読の方にもこの本をお勧めしたい。

20230411

悪魔を憐れむ歌

 ローレンツ・イェーガー『ハーケンクロイツの文化史』に、詞の一部が引用されていた。すぐにYouTubeで探して聴いてみた。


ローリング・ストーンズの傑作のひとつ『悪魔を憐れむ歌-Sympathy For The Devil』だ。

ミック・ジャガーの歌声も魅力的だが、詞の良さに唸ってしまった。これは訳すしかない。


Please allow me to introduce myself

I'm a man of wealth and taste

I've been around for a long, long years

Stole many a man's soul and faith


And I was 'round when Jesus Christ

Had his moment of doubt and pain

Made damn sure that Pilate

Washed his hands and sealed his fate


Pleased to meet you

Hope you guess my name

But what's puzzling you

Is the nature of my game


I stuck around St. Petersburg

When I saw it was a time for a change

Killed the czar and his ministers

Anastasia screamed in vain


I rode a tank

Held a general's rank

When the blitzkrieg raged

And the bodies stank


Pleased to meet you

Hope you guess my name, oh yeah

Ah, what's puzzling you

Is the nature of my game, oh yeah


(woo woo, woo woo)


I watched with glee

While your kings and queens

Fought for ten decades

For the gods they made


(woo woo, woo woo)


I shouted out,

"Who killed the Kennedys?"

When after all

It was you and me

(who who, who who)


Let me please introduce myself

I'm a man of wealth and taste

And I laid traps for troubadours

Who get killed before they reached Bombay


(woo woo, who who)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, oh yeah


(who who)


But what's puzzling you

Is the nature of my game, oh yeah, get down, baby


(who who, who who)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, oh yeah

But what's confusing you

Is just the nature of my game


(woo woo, who who)


Just as every cop is a criminal

And all the sinners saints

As heads is tails

Just call me Lucifer

'Cause I'm in need of some restraint


(who who, who who)


So if you meet me

Have some courtesy


Have some sympathy, and some taste


(woo woo)


Use all your well-learned politesse

Or I'll lay your soul to waste, um yeah


(woo woo, woo woo)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, um yeah


(who who)


But what's puzzling you

Is the nature of my game, um mean it, get down


(woo woo, woo woo)


詞を作ったのは、ミック・ジャガーとキース・リチャードとクレジットされている。これには諸説あるようだがここではクレジット通りにしておく。




ちょいと自己紹介させてください

このわたし ちょいと裕福な趣味人でして

ずっとずっと昔から あちらこちらに顔を出しては

そりゃもう多くの人間から魂と信仰を盗んでまいりました 


あのジーザス・クライストが

疑いに苛まれたときも そこらにおりました

きっちり仕組んで あのピラトのやつには

きっぱり手を洗わせ しかるべき運命をたどらせてやりました


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を


サンクト・ペテルブルクにもしばらくおりました

ちょうど時代は変化を求めておりましたから

皇帝(ツァーリ)とその大臣どもを殺してやりましたら

アナスタシアには悲鳴をあげられましたね


戦車に乗ったこともあります

わたしは将軍の姿でした

ちょうど電撃戦が激しさを増しており

そこいらの屍体の臭かったですな


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を


見ているだけで嬉しかったのは

みなさんの王と女王のお歴々が

100年にわたり争いを繰り広げたときのこと

戦いの大義は自分たちで作りあげた神でしたっけ


わたしはこう叫んだこともあります

「誰がケネディ家を殺したんだ?」

実のところを言えば

あれは あなたがたとわたしでやったことですよね


どうか自己紹介させてください

このわたし ちょっと裕福な趣味人でしてね

ちょいと罠をしかけてやったので あの吟遊詩人たちは

ボンベイに着く前に殺されてしまいました


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが


(おまえは誰だ)


ただ あなたを悩ませてしまうのは

そういう仕事をしているからなのです


(誰だ 誰だ おまえは誰だ)


ちょうど警官の誰もが犯罪者で

罪人が聖人であるのは

コインの裏表のようなもの

わたしのことはルシファーとお呼びください

少しは節度を持たねばなりませんからね


そんなわけで わたしと会うときは

どうかお手柔らかに

少しばかりの同情とご好意をいただければありがたい

ぜひ ご自慢の礼儀正しさを発揮してくださいよ

さもなくば みなさんの魂を滅ぼしてさしあげましょう


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を



ここで言われている悪魔とは誰の事だろう?ふとそれが気になった。

多分、悪魔とは我々自身とその愚かさを指しているのではないか?そんな気がする。

20230322

トランスジェンダー問題

LGBTという言葉が頻繁に使われるようになって、それ程歳月は経っていないだろう。最近はだんだん増えて、LGBTQ+と表記されるようになった。

差別はないがいいに決まっている。だが、正直言って、このLGBTQ+の問題は、頭を悩まされて来た。特にTつまりトランスジェンダーに関しては、なかなか態度を決めかねていた。

心が女だと言えば、ペニスがあっても女風呂に入れるのか?そう言った瑣末な問題に囚われていたのだ。

それだけに、この本ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題─議論は正義のために』の存在を知るや否や、私は迷う事なく図書館にリクエストした。この程手元に届き、今日3月21日にようやく読了する事が出来た。


期待を裏切らないだけではない。期待を遥かに超えた、良い本であった。

著者ショーン・フェイもトランスの人らしい。それだけに、トランスジェンダー問題に真正面から挑み、体系的・網羅的に論考を繰り広げている。その姿勢だけでも、好感が持てた。どの箇所を取っても、全く逃げている所がないのだ。

読み始めてしばらくして、健常主義(ableism)という言葉が目に止まった。「非障碍者優先主義」「健常者優先主義」「能力主義」とも訳されているようだ。

即ちIdeas for Good jpによると

エイブリズム(Ableism)とは、能力のある人が優れているという考えに基づいた、障害者に対する差別と社会的偏見を意味する。辞書には「障害(=他の人がすることが難しくなるような病気、怪我、状態)を持っていることを理由に不当な扱いを受けること(出典元:Cambridge Dictionary)」と記載されている。日本語では「非障害者優先主義」「健常者優先主義」、「能力主義」とも訳される。

エイブリズムの根底には、障害者は「治す」必要があるという前提があり、障害によって人を定義する考え方がある。エイブリズムは、人種差別や性差別と同様に、ある集団全体を「劣ったもの」として分類し、障害を持つ人々に対するステレオタイプや誤解、一般化などを含む。

これだ!と思った。私がありのままに生きようとする時、必ずと言って良いほど立ち現れ、劣等者の烙印を押して立ちはだかる敵。それが健常主義だ。この本のお蔭で、私は敵の名前をようやく知る事が出来たのだ。

私はトランスの人たちと同じ敵を有する、言わば仲間なのだと、その時理解出来た。

それからは、この本に対する親近感も増し、理解度も格段の差を持って、深く読み込む事が可能になった。

トランスの人たちを、自分の身近な存在として意識したのは、初めての事だった。

この本はトランスジェンダーの問題を、様々な局面から見つめ直している。

どんな存在なのか?どんな境遇に落とし込められているのか?どんな問題を抱えているのか?

それらが明らかになる度に、私の中からトランスの人たちに対する偏見が消えて行くのが分かった。それはトランスにまつわる(悪い意味での)神話が崩壊して行く過程だった。

巻末に、清水晶子さんの解説と訳者高井ゆと里さんの解題が付されている。これが実に有益だった。本書はイギリスのトランスジェンダーについて書かれている。だが、それはイギリス独自の問題だけを扱っているという意味ではなく、まさに日本のトランスジェンダー問題についても有効な論考である。その事が丁寧に説明されている。

この本が日本語によって丁寧に翻訳され、出版された事は、日本の読者にとって、実に幸運な事である。

そして忘れてはならない事は、この本はトランスの人たちだけに留まらず、トランス以外の人々に対して、届けられようとしている本であるという事だ。

この本は次のように始まる。

トランスジェンダーが解放されれば、私たちの社会全ての人の生がより良いものになるだろう。私は「解放」という言葉を使うが、それは「トランスの権利」や「トランスの平等」といった慎ましやかな目標では十分でないと考えているからである。

トランスの人たちと共に手を取り合い、共に闘ってゆく事は、トランス以外の人たちの解放に、必ず繋がって行く事だろう。

20230302

最近詩を訳していない

昨年12月20日までIGさんの主催するClubhouseで”もちよる詩集”の会があった。参加者各々が自分の好きな詩を持ち寄り、朗読して、その日に世界でたったひとつの詩集を編もうという企画だ。初期の頃、私は日本の詩人の朗読もしていたのだが、石垣りんさんの『挨拶』で、他の方とダブり、しかも私の方が遥かに下手だったという現実を突きつけられた。それならダブらないものをと考え、外国の詩人の詩を私なりに翻訳して朗読する事にした。

詩を訳し始めたのは、ヘッセの詩が発端だった。彼の詩を、何とか原語で読みたくて、中学生の頃ドイツ語を学び始めた。幾つかは、過去のブログに翻訳したものを載せていた。

そこから徐々に拡げていって、英語やドイツ語からはみ出て、フランス語やスペイン語の詩も訳していた。

ドイツ語やスペイン語は、原文をただひたすら睨みつけ、趣味の辞書を手掛かりに、日本語に置き換える作業をしてゆけば、なんとか翻訳は出来たのだが、困ったのがフランス語だった。マラルメの詩集を取り寄せ、辞書と睨めっこして、何とか訳そうと格闘したのだが、全く歯が立たなかったのだ。文法が必要だった。


その日からNHKの「まいにちフランス語」を受講して、フランス語に挑む事3年。最初は舐めていたフランス語文法も、それがいかに難しいかを理解するところまで到達し、良い訳とは言い難いものの、形だけでもフランス語を日本語に置き換える事ができる様にはなれた。

フランス語は発音も難しく、朗読しようという気がまだどうしても起こらない。

”もちよる詩集”の会では、最初に原語で詩を朗読し、その後訳詞を読むという形を続けていた。続けるうちに欲が出て来る。過去のブログより良い訳を読みたくなったのだ。

基本、既存の訳を探し出して、それより良い訳を付ける事を自分に課していた。それはともすると思い上がりに繋がり、とんでもない魔界に足を踏み込む事になりかねない課題だった。だが、少なくともヘッセに関しては、臨川書店から出されている全集よりは、遥かに良い訳だという自負は持っている。

次第に自分に掛ける負荷がどんどん大きくなっていった。

訳は進まず、日程は着実に近づく。

もう、訳詞のストックは全くないという限界に近付いた頃、”もちよる詩集”の会は、最終回を迎えた。正直ほっとした。

その時は、またIGさんが会を復活させる日の為に、着々と詩を訳しておこうと決心はしたのだ。

それから3ヶ月が過ぎた。この3ヶ月の間、私は詩を全く訳していない。それどころか、詩を読む事もやめてしまっている。

“もちよる詩集”の会が行われていた頃、私の机の左側には、詩集の高い塔が出来ていた。最終回を迎えた頃、私はそれを全て、本棚に戻していたのだ。

これではいかんなぁ…。そう感じた今日、久し振りにリルケの詩集を本棚から取り出した。「オルフォイスに寄せるソネット」を読んだ。

やはり美しい。

週にひとつでは多過ぎるかも知れない。だったら月にひとつでも、着実に詩を訳す作業を復活させようと、心密かに決心した。

材料は幾らでもある。困ったらGutenberg Projectを開けば、古典は幾らでも転がっている。後はやるだけだ。

かつて、詩を一緒に訳していた友人もいた。”もちよる詩集”の会もあった。それが今は、完全に独りだ。だが地質学をやっている頃も、私は完全に独りだった。それが私の基本的な姿勢の筈だ。私なら出来る!

またブログにゲーテやヘッセやリルケ。そして出来るならアルチュール・ランボーやマラルメを力づくで訳して載せてゆこう。

詩を翻訳する事は、事実上の不可能に挑む事だ。詩は、他の言語に移し替え出来ない。それを十分私は知っている。私は訳す作業の必然として、海外の詩を読み、味わわなければならない。逆に言えばそれが出来るという事だ。

誰の為でもなく、私の為に訳すのだ。

それが趣味というものの醍醐味だろう。