20230429

『人間の条件』

六文銭さんの勧めでハンナ・アレントの『人間の条件』を読んだのは、今から9年前、2014年6月の事だった。六文銭さんが送ってくださった読書ノートは簡潔的確にこの本を要約してあり、読書の大きな助けになった。だが志水速雄訳の『人間の条件』は所々意味の分からない日本語になっており、誤訳も多かった。その為この時は仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』を併読し、補助・指針とした。

この程牧野雅彦訳でハンナ・アレント『人間の条件』の新訳が出版された。私は迷う事なくそれを県立長野図書館にリクエストした。同時に牧野雅彦『精読アレント『人間の条件』』も出版されるという事だったので、それも同時にリクエストした。


両方の本を手にしたのは4月12日の事。今回も同時併読し、昨日28日に読了した。16日間掛かった事になる。

9年の時間差があったとは言うものの、牧野雅彦訳は志水速雄訳とは全く別の本のような感覚があった。それよりも嬉しかったのは、訳の隅々まで明確な日本語が貫かれており、私は牧野雅彦訳で初めてハンナ・アレント『人間の条件』を完全に読破したという実感を得る事が出来た。

前回、志水速雄訳の時は仲正昌樹『ハンナ・アーレント「人間の条件」入門講義』は必須で、これなくしては『人間の条件』を読み進める事も出来なかった印象があったが、今回の牧野雅彦『精読ハンナ・アレント『人間の条件』』は、的確な要約と溢れんばかりの引用・注釈に満ちてはいるものの、(当然の事ながら)誤訳の修正もなく、同時併読しなくても良かったと思えた。


それよりも役に立ったのは、昨年・一昨年と続けていた岩波『アリストテレス全集』全巻読破だった。

ハンナ・アレントの著作には、古典哲学からの引用が豊富に含まれており、ギリシア哲学の基本的な知識がなかった9年前は、その部分の読解にひどく難渋したのだった。

明確な日本語による訳と精読本、加えて六文銭さんの読書ノートと、最高の読書環境が与えられた今回の『人間の条件』。しかしそこはハンナ・アレントの書く文章だけあって、1回か2回の読解ではとても歯が立たず、4、5回読み返して、更に牧野雅彦『精読アレント『人間の条件』』にある引用でもう2、3回読み返すと言うのが今回の読書スタイルになった。

牧野雅彦訳ハンナ・アレント『人間の条件』は、志水速雄役ばかりではなく、森一郎訳ハンナ・アーレント『活動的生』もフォローされており、読解の大きな助けとなる仕組みになっていた。これを含めて、今後は牧野雅彦訳がハンナ・アレント『人間の条件』の新しいスタンダードになってもらいたいと願うばかりだ。

本の内容はとてもブログの範囲で語り尽くす事は出来ないが、科学技術の進歩は世界大戦の惨禍をもたらす一方で人間の活動領域を地球外にまで拡張し、「観照的生活」が後景に退くと共に「活動的生活」が前景化されると言う歴史の変化があった。これを「労働(labour)」、「仕事(work)」、「行為(action)」の絡み合いの中で人間の「世界からの疎外」がもたらされる様を描き出した論考と言えるのではないだろうか?

牧野雅彦訳でも、ハンナ・アレントの中盤から後半に掛けての迫力に満ちた論考は健在。従来の志水速雄訳でお読みになった方も、そして勿論未読の方にもこの本をお勧めしたい。

20230411

悪魔を憐れむ歌

 ローレンツ・イェーガー『ハーケンクロイツの文化史』に、詞の一部が引用されていた。すぐにYouTubeで探して聴いてみた。


ローリング・ストーンズの傑作のひとつ『悪魔を憐れむ歌-Sympathy For The Devil』だ。

ミック・ジャガーの歌声も魅力的だが、詞の良さに唸ってしまった。これは訳すしかない。


Please allow me to introduce myself

I'm a man of wealth and taste

I've been around for a long, long years

Stole many a man's soul and faith


And I was 'round when Jesus Christ

Had his moment of doubt and pain

Made damn sure that Pilate

Washed his hands and sealed his fate


Pleased to meet you

Hope you guess my name

But what's puzzling you

Is the nature of my game


I stuck around St. Petersburg

When I saw it was a time for a change

Killed the czar and his ministers

Anastasia screamed in vain


I rode a tank

Held a general's rank

When the blitzkrieg raged

And the bodies stank


Pleased to meet you

Hope you guess my name, oh yeah

Ah, what's puzzling you

Is the nature of my game, oh yeah


(woo woo, woo woo)


I watched with glee

While your kings and queens

Fought for ten decades

For the gods they made


(woo woo, woo woo)


I shouted out,

"Who killed the Kennedys?"

When after all

It was you and me

(who who, who who)


Let me please introduce myself

I'm a man of wealth and taste

And I laid traps for troubadours

Who get killed before they reached Bombay


(woo woo, who who)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, oh yeah


(who who)


But what's puzzling you

Is the nature of my game, oh yeah, get down, baby


(who who, who who)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, oh yeah

But what's confusing you

Is just the nature of my game


(woo woo, who who)


Just as every cop is a criminal

And all the sinners saints

As heads is tails

Just call me Lucifer

'Cause I'm in need of some restraint


(who who, who who)


So if you meet me

Have some courtesy


Have some sympathy, and some taste


(woo woo)


Use all your well-learned politesse

Or I'll lay your soul to waste, um yeah


(woo woo, woo woo)


Pleased to meet you

Hope you guessed my name, um yeah


(who who)


But what's puzzling you

Is the nature of my game, um mean it, get down


(woo woo, woo woo)


詞を作ったのは、ミック・ジャガーとキース・リチャードとクレジットされている。これには諸説あるようだがここではクレジット通りにしておく。




ちょいと自己紹介させてください

このわたし ちょいと裕福な趣味人でして

ずっとずっと昔から あちらこちらに顔を出しては

そりゃもう多くの人間から魂と信仰を盗んでまいりました 


あのジーザス・クライストが

疑いに苛まれたときも そこらにおりました

きっちり仕組んで あのピラトのやつには

きっぱり手を洗わせ しかるべき運命をたどらせてやりました


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を


サンクト・ペテルブルクにもしばらくおりました

ちょうど時代は変化を求めておりましたから

皇帝(ツァーリ)とその大臣どもを殺してやりましたら

アナスタシアには悲鳴をあげられましたね


戦車に乗ったこともあります

わたしは将軍の姿でした

ちょうど電撃戦が激しさを増しており

そこいらの屍体の臭かったですな


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を


見ているだけで嬉しかったのは

みなさんの王と女王のお歴々が

100年にわたり争いを繰り広げたときのこと

戦いの大義は自分たちで作りあげた神でしたっけ


わたしはこう叫んだこともあります

「誰がケネディ家を殺したんだ?」

実のところを言えば

あれは あなたがたとわたしでやったことですよね


どうか自己紹介させてください

このわたし ちょっと裕福な趣味人でしてね

ちょいと罠をしかけてやったので あの吟遊詩人たちは

ボンベイに着く前に殺されてしまいました


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが


(おまえは誰だ)


ただ あなたを悩ませてしまうのは

そういう仕事をしているからなのです


(誰だ 誰だ おまえは誰だ)


ちょうど警官の誰もが犯罪者で

罪人が聖人であるのは

コインの裏表のようなもの

わたしのことはルシファーとお呼びください

少しは節度を持たねばなりませんからね


そんなわけで わたしと会うときは

どうかお手柔らかに

少しばかりの同情とご好意をいただければありがたい

ぜひ ご自慢の礼儀正しさを発揮してくださいよ

さもなくば みなさんの魂を滅ぼしてさしあげましょう


お会いできてうれしいですよ

我が名に見当をつけていただければよいのですが

ただ あなたがたを悩ませてしまうのは

わたしの仕事がらでして どうかご容赦を



ここで言われている悪魔とは誰の事だろう?ふとそれが気になった。

多分、悪魔とは我々自身とその愚かさを指しているのではないか?そんな気がする。

20230322

トランスジェンダー問題

LGBTという言葉が頻繁に使われるようになって、それ程歳月は経っていないだろう。最近はだんだん増えて、LGBTQ+と表記されるようになった。

差別はないがいいに決まっている。だが、正直言って、このLGBTQ+の問題は、頭を悩まされて来た。特にTつまりトランスジェンダーに関しては、なかなか態度を決めかねていた。

心が女だと言えば、ペニスがあっても女風呂に入れるのか?そう言った瑣末な問題に囚われていたのだ。

それだけに、この本ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題─議論は正義のために』の存在を知るや否や、私は迷う事なく図書館にリクエストした。この程手元に届き、今日3月21日にようやく読了する事が出来た。


期待を裏切らないだけではない。期待を遥かに超えた、良い本であった。

著者ショーン・フェイもトランスの人らしい。それだけに、トランスジェンダー問題に真正面から挑み、体系的・網羅的に論考を繰り広げている。その姿勢だけでも、好感が持てた。どの箇所を取っても、全く逃げている所がないのだ。

読み始めてしばらくして、健常主義(ableism)という言葉が目に止まった。「非障碍者優先主義」「健常者優先主義」「能力主義」とも訳されているようだ。

即ちIdeas for Good jpによると

エイブリズム(Ableism)とは、能力のある人が優れているという考えに基づいた、障害者に対する差別と社会的偏見を意味する。辞書には「障害(=他の人がすることが難しくなるような病気、怪我、状態)を持っていることを理由に不当な扱いを受けること(出典元:Cambridge Dictionary)」と記載されている。日本語では「非障害者優先主義」「健常者優先主義」、「能力主義」とも訳される。

エイブリズムの根底には、障害者は「治す」必要があるという前提があり、障害によって人を定義する考え方がある。エイブリズムは、人種差別や性差別と同様に、ある集団全体を「劣ったもの」として分類し、障害を持つ人々に対するステレオタイプや誤解、一般化などを含む。

これだ!と思った。私がありのままに生きようとする時、必ずと言って良いほど立ち現れ、劣等者の烙印を押して立ちはだかる敵。それが健常主義だ。この本のお蔭で、私は敵の名前をようやく知る事が出来たのだ。

私はトランスの人たちと同じ敵を有する、言わば仲間なのだと、その時理解出来た。

それからは、この本に対する親近感も増し、理解度も格段の差を持って、深く読み込む事が可能になった。

トランスの人たちを、自分の身近な存在として意識したのは、初めての事だった。

この本はトランスジェンダーの問題を、様々な局面から見つめ直している。

どんな存在なのか?どんな境遇に落とし込められているのか?どんな問題を抱えているのか?

それらが明らかになる度に、私の中からトランスの人たちに対する偏見が消えて行くのが分かった。それはトランスにまつわる(悪い意味での)神話が崩壊して行く過程だった。

巻末に、清水晶子さんの解説と訳者高井ゆと里さんの解題が付されている。これが実に有益だった。本書はイギリスのトランスジェンダーについて書かれている。だが、それはイギリス独自の問題だけを扱っているという意味ではなく、まさに日本のトランスジェンダー問題についても有効な論考である。その事が丁寧に説明されている。

この本が日本語によって丁寧に翻訳され、出版された事は、日本の読者にとって、実に幸運な事である。

そして忘れてはならない事は、この本はトランスの人たちだけに留まらず、トランス以外の人々に対して、届けられようとしている本であるという事だ。

この本は次のように始まる。

トランスジェンダーが解放されれば、私たちの社会全ての人の生がより良いものになるだろう。私は「解放」という言葉を使うが、それは「トランスの権利」や「トランスの平等」といった慎ましやかな目標では十分でないと考えているからである。

トランスの人たちと共に手を取り合い、共に闘ってゆく事は、トランス以外の人たちの解放に、必ず繋がって行く事だろう。

20230302

最近詩を訳していない

昨年12月20日までIGさんの主催するClubhouseで”もちよる詩集”の会があった。参加者各々が自分の好きな詩を持ち寄り、朗読して、その日に世界でたったひとつの詩集を編もうという企画だ。初期の頃、私は日本の詩人の朗読もしていたのだが、石垣りんさんの『挨拶』で、他の方とダブり、しかも私の方が遥かに下手だったという現実を突きつけられた。それならダブらないものをと考え、外国の詩人の詩を私なりに翻訳して朗読する事にした。

詩を訳し始めたのは、ヘッセの詩が発端だった。彼の詩を、何とか原語で読みたくて、中学生の頃ドイツ語を学び始めた。幾つかは、過去のブログに翻訳したものを載せていた。

そこから徐々に拡げていって、英語やドイツ語からはみ出て、フランス語やスペイン語の詩も訳していた。

ドイツ語やスペイン語は、原文をただひたすら睨みつけ、趣味の辞書を手掛かりに、日本語に置き換える作業をしてゆけば、なんとか翻訳は出来たのだが、困ったのがフランス語だった。マラルメの詩集を取り寄せ、辞書と睨めっこして、何とか訳そうと格闘したのだが、全く歯が立たなかったのだ。文法が必要だった。


その日からNHKの「まいにちフランス語」を受講して、フランス語に挑む事3年。最初は舐めていたフランス語文法も、それがいかに難しいかを理解するところまで到達し、良い訳とは言い難いものの、形だけでもフランス語を日本語に置き換える事ができる様にはなれた。

フランス語は発音も難しく、朗読しようという気がまだどうしても起こらない。

”もちよる詩集”の会では、最初に原語で詩を朗読し、その後訳詞を読むという形を続けていた。続けるうちに欲が出て来る。過去のブログより良い訳を読みたくなったのだ。

基本、既存の訳を探し出して、それより良い訳を付ける事を自分に課していた。それはともすると思い上がりに繋がり、とんでもない魔界に足を踏み込む事になりかねない課題だった。だが、少なくともヘッセに関しては、臨川書店から出されている全集よりは、遥かに良い訳だという自負は持っている。

次第に自分に掛ける負荷がどんどん大きくなっていった。

訳は進まず、日程は着実に近づく。

もう、訳詞のストックは全くないという限界に近付いた頃、”もちよる詩集”の会は、最終回を迎えた。正直ほっとした。

その時は、またIGさんが会を復活させる日の為に、着々と詩を訳しておこうと決心はしたのだ。

それから3ヶ月が過ぎた。この3ヶ月の間、私は詩を全く訳していない。それどころか、詩を読む事もやめてしまっている。

“もちよる詩集”の会が行われていた頃、私の机の左側には、詩集の高い塔が出来ていた。最終回を迎えた頃、私はそれを全て、本棚に戻していたのだ。

これではいかんなぁ…。そう感じた今日、久し振りにリルケの詩集を本棚から取り出した。「オルフォイスに寄せるソネット」を読んだ。

やはり美しい。

週にひとつでは多過ぎるかも知れない。だったら月にひとつでも、着実に詩を訳す作業を復活させようと、心密かに決心した。

材料は幾らでもある。困ったらGutenberg Projectを開けば、古典は幾らでも転がっている。後はやるだけだ。

かつて、詩を一緒に訳していた友人もいた。”もちよる詩集”の会もあった。それが今は、完全に独りだ。だが地質学をやっている頃も、私は完全に独りだった。それが私の基本的な姿勢の筈だ。私なら出来る!

またブログにゲーテやヘッセやリルケ。そして出来るならアルチュール・ランボーやマラルメを力づくで訳して載せてゆこう。

詩を翻訳する事は、事実上の不可能に挑む事だ。詩は、他の言語に移し替え出来ない。それを十分私は知っている。私は訳す作業の必然として、海外の詩を読み、味わわなければならない。逆に言えばそれが出来るという事だ。

誰の為でもなく、私の為に訳すのだ。

それが趣味というものの醍醐味だろう。

20230228

マザーツリー

著者スザンヌ・シマードは、森の木を伐って生きる木こりの一族の末裔として生を受けた。その意味では、あらかじめ森に身を置く存在だったと言えるだろう。それは、森の秘密を、誰よりも身近に感じながら育って来たとも言えるのではないだろうか?

長じてスザンヌ・シマードは、ブリティッシュコロンビア大学の森林学部で、森林生態学の研究を行う研究者となる。


彼女は研究を続ける中で、森の木々が根に宿る菌根菌のネットワークを通じて、炭素のやりとりをしている事に気付く。

それは、森の生態系が、競争の原理のみに従って、存在している筈だという、従来の見方を、根底から覆すものだった。

それは何を意味するのか?

森の木々は、ただ単に単独で、他と競走しながら生きているのではなく、互いに繋がり合いながら、共生して、助け合いながら生きている事を示す。

つまり、森の木々は、他とコミュニケートし、判断し、決定しながら生きているのだ。

即ち森の木々は、知性を持っている。

これは従来からの森の見方を根底から一変させる大発見だった。

しかしスザンヌ・シマードは、先住民たちが、その森の秘密を、既に知っていた事を知って驚く。森に棲む者は、森の秘密に気付かざるを得ないのだ。

それに気付いて行く過程は、本を読んでいて、震えが来る程熱く、感動的ですらある。

更に彼女は研究を進め、森の大きな木は、その子孫の木を、家族として認識している事を証明する。彼女はその大きな木をマザーツリーと呼ぶ様になる。

森はただ単に、沢山の木が集まったものではなく、マザーツリーを核として、複雑系とも言える張り巡らされたネットワークで繋がり合い、助け合う巨大なひとつの知性として存在している事を明らかにして行く。

本書は「森に隠された「知性」をめぐる冒険」という副題が付けられている。

彼女が森の秘密に気付いて行く過程は、知的冒険であると同時に、熊に襲われたり、傷だらけになって山々を駆けずり回る、真の冒険でもあった事が記されている。

そうなのだ。私も地質学を学ぶ過程で、さんざ山に籠った事があるので分かるのだが、フィールドサイエンスは、自らの身体を、もろに自然に晒し、向かい合う冒険の要素が、どうしても付き纏うのだ。

科学雑誌『Nature』は、彼女が発見した森のネットワークを「ウッド・ワイド・ウェブ」と名付ける。

コンピューターがケーブルや電波でつながっているのとは違い、森の木々をつないでいるのは菌根菌だ。古い大きな木がいちばん大きなコミュニケーションのハブ、小さな木はそれほど忙しくないノードであり、それらが菌類によってつながってメッセージをやり取りしている。

だが、彼女が森の見方を変革して行く過程は、必ずしも平坦なものではなかった。学会の古老との対立、離婚、そして自らの癌の発症。彼女の行手には幾重にも困難が待ち受けていた。

この本の感想として、科学ではないというものが幾つか散見された。確かに論文とは異なる文章ではある。だが、私は科学ではないという立場を取りたくない。それは、巻末に引用されている、夥しい参考文献のリストを読めば分かると考える。

彼女は、彼女の独断を本にしているのではない。彼女が辿り着いたのは、多くの共同研究者の成果を含んだ、科学者たちの共同作業の結果なのだ。参考文献をその表題だけでも読んでみれば、十分な程の否定可能性を帯びた記載である事が分かると思う。

ただ、スザンヌ・シマードが、この本に書いた事柄は、科学を超えたものを含んでいる事は確かだと思う。

科学的な論文に仕上げて行く上で、多くの気付きや発想を、無念の歯軋りを伴いながら削らざるを得ない現実がある事を私は知っている。彼女は、自分の中にある科学からはみ出すものを、この本の中に敢えて含ませたのだと思う。

科学者は何よりも先ず人間である。その人間としての存在が、科学からはみ出すものを持つのは、むしろ当然だと思う。

それ故に、この本は森の秘密を解き明かす科学書という存在を超え、スザンヌ・シマードという人間の、唯一性を含んだ、貴重な自叙伝ともなっている。

この本を読んで、そこにドラマチックなものを感じるとしたら、むしろそのはみ出すものを読み解くところにあるのだとも思っている。

私はこの本を読んで、森の見方を超えて、自然の見方自体が大きく音を立てて揺らぐのを感じた。私にとってこの本は、とても貴重な存在になると確信している。

20230226

りんごの湯

先月、1月24日に猛吹雪があった。まるでツルゲーネフの小説に出て来る様な地吹雪で、その荒れ様は、今迄に経験した事がないレベルだった。

その翌日、風呂を沸かそうと思って、風呂釜の点火を試みたのだが、全く点かない。それどころか、風呂釜の内部で、水音らしい雑音が鳴る。これは前日の猛風吹きで、風呂釜が凍ったのだと判断し、ガス屋さんを呼んだ。

どうやら同じ様な用件で、方々から悲鳴が寄せられているらしい。

その時は

「大丈夫です、ひと月と掛かるような事はありません」

との返事だった。

風呂釜の交換が決まった。

その日から、外湯巡りの入浴行脚が始まった。

最初のうちは、方々の温泉や公衆浴場を模索していたのだが、料金の安さと設備の充実振り、そして、浴場の広さという観点から、豊野温泉りんごの湯に、対象は絞られて行った。

長くて2週間という最初の展望は、虚しくも外れ、一昨日になってようやく3月1日に、新しい風呂釜が入るという話が決まった。

今日、2月26日、それが本当なら最後になる筈の、外湯巡りに行って来た。勿論、行ったのはりんごの湯だ。ひと月以上続いた事になる。


朝方は雪が降り、少し積もる様な天候だった。だが、その雪も次第に止み、りんごの湯に向かう頃には、青空も拡がり始めていた。

日曜日という事もあるのか、男湯はかなり混んでいた。(女湯はがら空きだった様だ)。女房殿は、やる事が沢山あると言っていたが、私はそれ程ない。身体を洗って、湯船に浸かるだけだ。

今日は、予てから決めてあったのだが、普段は入らない、露天風呂に浸かってみることにした。外気が浴場に入らないように、露天風呂への扉は二重になっている。その外につながる扉を開けると、外の冷たい寒気が肌を刺した。

案の定、露天風呂も混んでいた。だが入れない程ではない。浸かると身体は暖まり、頭は冷え、なかなか気持ちが良かった。そのうちに、枕のある寝て入る浴場も空き、そこに移動。横になって、空を見上げると、青空に白い雲が浮かび、どことなく春を感じさせる空が見えた。

落ち着いて辺りを見回すと、露天風呂にも時計がある事が分かった。15分を目処に露天風呂に入り、その後、また浴場の湯に浸かろうと決心した。

思えば、ここに通ったひと月余りの間に、色々な事があった。女湯で客が湯船の中で気を失い、救急隊が駆けつけた事もあった。

それらの日々も、過去になり、ここりんごの湯に来なくてはならない日も、今日が最後になる。露天風呂で、空を見上げながら、私はこのひと月余りの事を、どこか懐かしい思い出の様に、思い巡らしていた。

3月からは、家で入浴する日々が復活する。もう、朝からあたふたと入浴の準備に追われる事も無くなるのだ。私たちはもう、入浴難民ではない。それは便利な事。だが、温泉も偶には良いものだ。家で入浴する様になってからも、機会を見つけて、またりんごの湯に入りに来よう。私は密かにそう決めていた。

女房殿は、今日もまた、上がる約束の時間に5分遅れた。

20230106

ぼくは上陸している

私は昨年の4月16日に『ダーウィン以来・上』を開いている。スティーヴン・ジェイ・グールドの進化論エセーの最初の巻だ。それから10ヶ月、図書館から毎月1作品2冊を借りて、読み進めて来た。昨日その最終巻『ぼくは上陸している・下』を読了した。スティーヴン・ジェイ・グールドのエセー集10作品20冊を、全て読破した事になる。


これらのエセー集を読むのは、初めてではない。日本語訳が刊行される度に、それを待つように購入して、貪るように読んでいた。今回は、全作品を、一気に通読する事に、主眼を置いていた。

2度目なので、もう目新しさはないだろうと予想していたのだが、新しい発見は十分にあった。中でも、進化論に対する私の誤解を、このエセー集によって幾つも正されたのは、有り難かったが、恥ずかしくもあった。もう20年以上も前に一度、それらの誤解から、解き放たれていた筈だったのだ。私は何度も同じ誤解に引き寄せられる傾向を持っていたのだろう。


私の進化論はダーウィニズムと言うよりむしろラマルキズムであって、それはもう100年以上前に、葬り去られた考え方なのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドは、取るに足りない様な些事に、いつも着目する。そこから世界を拡げていって、ダーウィニズム(と言うより総合説)がいかに妥当なものであるかを丁寧に論じてゆく。それがこれらのエセー集の醍醐味のひとつになっている。

そしてこれらのエセー集のもうひとつの醍醐味は、人物の評伝の巧さにあると思う。

今回も、何人もの科学者が、グールドの綿密な文献調査と語りによって、その全体像、魅力、教訓を明らかにされていた。

それらの対象人物に、グールドは限りない愛情を注ぐ。彼らをグールドは現在の視点、知識を基盤に評価する間違いを犯さない。グールドは常にその時代の人を評価するのに、その時代の視点に降りてゆく。

その度に私は、歴史を観るに当たって、取るべき重要な姿勢を教授された。

また、話の枕に使われる、オペレッタ、詩篇、評論の、守備範囲の広さにも、いつも驚愕させられる。並の蘊蓄ではない。凄じい知識量だ。

いつも残念に思うのは、グールドのエセーに度々登場するギルバートとサリヴァンのオペレッタを、私は全く知らないという事だ。知らなくても、それらのエセーを読むには差し障りはないが、知っていれば、グールドのエセーをもっと楽しめるだろうと想像するからだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドの10作品20冊のエセー集を、かつて私は私蔵していた。それはこのブログにも書かれている。だが、引っ越しの際、手狭になる新環境に合わせて、図書館にある本は全て売ることにした。グールドのエセー集も手放した。苦渋の選択だった。その為、今回の再読で、図書館を利用する事になったのだが、どうなのだろう?本を持っていたら、私はこれらのエセー集を、一気読みで再読することはなかったのではないだろうか?

エセーの中で、グールドが前作を参照している箇所に出会う度に、私は呻吟した。その本が手元にないからだ。だが、それを除けば、グールドのエセー集を、全て持っていなくても、十分楽しめた。

スティーヴン・ジェイ・グールドは、このエセー集を2001年9月11日の事件で閉じている。それは、彼の祖父が「ぼくは上陸している」と記してから、ちょうど100年後の出来事であった。ミレニアムに合わせて、グールドがそのエセー集の連載を終了させる事は、事前から決められていた事であったが、グールド自身も、この終了の仕方は、全く予期していなかったものだったのではないだろうか?

『ぼくは上陸している・下』を読み終え、本棚に戻した時、私は言いようのない強い感慨に包まれた。取りも直さず、私はこれらのエセー集と10ヶ月という月日を共にしたのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドのエセーは、決して読み易いものではない。特に事前に進化論についてのある程度の知識と考えを持っていなければ、その読書は苦しいものになるだろう。スティーヴン・ジェイ・グールドは、決して片手間に、これらのエセーを書いているのではないからだ。彼は学術論文を書くのに匹敵する姿勢で、これらのエセー群を書いている。ひとつひとつのエセーが、まさに真剣勝負なのだ。

私は10ヶ月間、これらのエセー群とまともに格闘した。そして、その全てを読み終えた今、私はそれらの読書体験が、私の中で貴重な財産に変化しているのを、はっきりと感じるのだ。

私の中で、10作品20冊のエセー群は、確かな存在として、特別な本として、ずっしりとした重さを持ったものになって煌めいている。