20220131

進化理論の構造I読了

大きな出来事があった。その影響でただですら進まない読書がまるまる2週間空白となった。本を読み、音楽を聴くそんな日常が戻った後も、中断していた『進化理論の構造』に戻れるのか、かなり気を揉んだ。だが熱中して読んでいた本は、記憶にも深く刻み込まれていたようで、何とか中断していた箇所からの読書を続ける事が出来た。

そして先日1月29日、ようやくスティーヴン・ジェイ・グールド『進化理論の構造I』を読み切る事が出来た。

双極性障碍を病む私は、達成感を得にくい体質になっている。何かを成し遂げても、満足感がなく、苦痛だけが残る事が多い。だが、流石に今回は一山越えたという達成感が押し寄せるのを十分に感じる事が出来た。


日記によると、『進化理論の構造I』を読み始めたのは昨年の12月25日。1ヶ月以上の時間を費やしてしまった事になる。

2017年の年末から4ヶ月掛けて、ハンナ・アーレント『新版全体主義の起原』を読破した事がある。今回はそれに続く大著への挑戦になっている。

同時期に本書を読んでいた三中信宏さんによると、この本は読み手を選びまくっていると言う。私にこの本を読む資格があるかどうかは、甚だ心許ないが、進化論に関しては、それなりに熱心に学び、悩んで来たという自負はある。本に書いている事を拾い集め、精一杯の力で、何とか付いて行く事は出来るだろう。

とは言え、何と言っても今はただ第I巻を読み切ったと言うことに過ぎない。Iは808ページあり、IIは1,120ページある。

まだ山で言えば五合目にも達していない段階なのだろう。

だが、気分は盛り上がっている。Iを読み終えた余韻も醒めぬうちだが、休息を挟む事なくIIを読み始めている。

IIはまた幾つもの急所・難所に満ち溢れているだろう。

ここに来て、COVID-19の変種オミクロン株が凄まじい勢いで拡がり、その煽りを受けて図書館が休館に追い込まれている。だが、訊いてみると貸し出し・返却はどうにかこうにか出来るようだ。連続して継続で借り出せるように、この本の所蔵先として県立長野図書館を選んでいる。もう一度延長手続きは済ませている。だが、後1、2回程度の延長では済むまい。暫くは借り出しも本書に絞って、本書に集中したいところだ。

前半を読んだところだが、もう既に私のダーウィニズムに対する誤解が幾つも、この本によって暴露されている。後半も幾つもの思い違いや勘違いに気付く事が出来るだろう。

進化論を本格的に学び始めてもう半世紀ほどが過ぎるが、まだまだ学ばなければならない事はごまんとある。厳しいと感じるが、同時にちょっと嬉しい気持ちもある。

20220104

Rocks of Ages

本棚に『時間の矢・時間の環』があり、本代が浮いた話は既に書いた。

私はこの事の本質を間違って解釈しているようだ。

もし『時間の矢・時間の環』を買うとしたら、とんでもない金額の本代を支払わなければならない。だが、この事は別に私に臨時収入があったという意味ではない。私はここのところを大きく間違って解釈している。

気が大きくなってしまったのだ。

スティーヴン・ジェイ・グールドの最後のエッセイ『ぼくは上陸している』が刊行されたのは2011年の事だった。私はすぐにそれを入手し、読んだ。読みおわっった後、これでスティーヴン・ジェイ・グールドの新刊は読む事が出来ないのだと考え、無性に寂しい思いをした事を覚えている。

だが、ここに来て、『進化理論の構造』が訳された。

まだ読んでいないグールド本があるのだ!

私は欣喜雀躍した。

すぐに図書館にリクエストし、今それを読んでいる。

またスティーヴン・ジェイ・グールドの本を読める。これは私にとって何にも変え難い喜びだ。だが、ここ迄は要求していなかった。

『進化論の構造』はIとIIに分かれており、それぞれがまるで辞書のような分厚さを持っているのだ。まさに鈍器本と呼ぶにふさわしい本である。

しかもこれはスティーヴン・ジェイ・グールドの研究書であり、普段読んでいたエッセイとは趣が異なる。ただ巨大で分厚い本というだけではない。書かれている内容は、その密度がとんでもなく高いのだ。

巨大な本は遅々として進まず、今ようやく第2章の第3節を読み終えようとしている所だ。

本を読むのが遅い。その自覚はあったが、ここ迄来るとさすがに苛立って来る。

出来心で英語版WikipediaでStephen Jay Gouldを検索し、調べてしまった。

Wikipediaには彼の著作の一覧がある。

何と!まだ未訳の本があるではないか。

その中で、”Rocks of Ages”と題された本が妙に気に掛かった。副題はScience and Religion in the Fullness of Life。魅力的だ。


いい世の中になったもので、洋書もamazonで結構入手出来る。何しろ古書代数千円が浮いているのだ。気が大きくなっていた私は、思わずKindle本を買ってしまった。1,406円だった。

意外と安い。

貧乏なのを忘れて(何しろ気が大きくなっているのだ)私はそう思ってしまった。

いかんいかん。『進化理論の構造』を読まなければ。

気を取り直して、また今読んでいる本に戻った。

本の中にチャールズ・ダーウィンの『人間の由来』が出て来た。まだ未読だ。

図書館を調べてみる。

ない。

そうなると居ても立っても居られない気分になる。加えて、何しろ私は気が大きくなっているのだ。amazonを検索すると長谷川眞理子訳で、講談社学術文庫が出ている。これもKindle本がある。これも購入してしまった。上巻・下巻合わせて3,231円で買えた。

気が大きくなっているだけではなかった。私は遅々として進まない『進化論の構造』から逃避もしようとしていた。

次に日本語版Wikipediaでスティーヴン・ジェイ・グールドを検索した。参考文献にキム・ステルレニー『ドーキンスvs.グールド─適応へのサバイバルゲーム』が載っていた。これも図書館にない。これも購入。

購入した本は、あっと言う間に5,000円を超えようとしていた。

冷水を浴びたような気分になり、肝を冷やした。いくらなんでも散財が過ぎる。

慌てて、また『進化理論の構造』に戻った。

正気を取り戻してもKindle本は返品が効かない。どうしようもない。買ってしまったものは読むしかないだろう。

だが、買う時はスティーヴン・ジェイ・グールドの原文を味わえるのだ!と喜んでもいた私だったが、さて、Rocks of Agesとは何と訳したら良いものなのか?翻訳サイトで調べても埒が明かない事が分かっただけだった。果たして私はこの本を読む事が出来るのだろうか?

20220102

新・映像の世紀

昨年末にNHKプラスで『新・映像の世紀』を一気見した。

2016年に放送されたものの再編集版だ。NHKはよほどこの番組に自信があるのだろう。BSでも90分の再編集版を放送しているし、今回また地上波のNHKスペシャルで再放送された。

動画による記録が始まってから100年が経つ。映像は、その100年間を記録して来た。この100年とは、どのような100年だったのか?それを記録されて来た映像を振り返る事で検証しようというのが、この番組の骨子になっている。


最初に登場するのは第一次世界大戦だ。

この戦争は従来の戦争とは、全く別の戦争となった。科学が戦争に動員され、人間の尊厳を根こそぎ葬り去る破壊力を持った戦争だった。

そして、第一次世界大戦は、映像に記録された、最初の戦争でもあった。

映像は、その発端から展開、終結に至るまでを、丹念に振り返っている。

誰もが、ほんの数ヶ月で戦争は終わると思っていた。だが、複雑に入り組んだ同盟関係や新兵器の登場が、戦争を途方もなく長い、悲惨なものに変えた。

まさに100年の悲劇はここから始まったのだ。

ここから現在に至る迄の世界の実像を、映像は着実に記録して来た。

初めて見る映像が多かった。

初めて知る事も多かった。

「そうだったのか!」と何度も独り言を繰り返した。

編集された映像は、そのまま現代史となっていた。

NHKは毀誉褒貶が激しいテレビ局だ。だが、この番組を見る限り、NHKには良い番組を作る力は確実に残っていると判断して良いのではないかと思った。

この1世紀に何が起きたのか?何故起きたのか?を、映像は説得力を持って、記録して来たのだ。それは今迄信じて来た虚像を、根底から覆すものでもあった。

だが、ふと思う。その虚像もまた、映像によって作り上げられて来たものではなかったか?

映像は諸刃の剣なのだと思う。真実も映し出すが、虚構もまた成立させてしまう。

私たちは過剰な迄に溢れる情報に対するリテラシーを、しっかりと持ってゆかねばならないのだろう。そうでなければ、その情報を操る者に、一方的に踊らされるだけだ。

番組は最後に、現在という時代が、誰もが被写体であり、誰もが制作者であるような、新しい映像の世紀に入った事を宣言して終わっている。

誰もが、その諸刃の剣を手にしている時代なのだ。

20211231

時間の矢・時間の環はあった

 今住んでいる住宅に引っ越す時、私は膨大な量の本を処分した。持っていた本の2/3は売っただろうか?図書館にある本は全て売るを基本路線として、売った本はノートに纏めて整理した。今、そのノートを見ていると、私は何と魅力的な本を持っていたのだろうという感慨が押し寄せてくる。

だが、見ていて気が付いた。スティーヴン・ジェイ・グールドの名前がノートには見当らないのだ。

彼の本は殆どを持っていた。どうせ図書館に在庫があるに違いないと見越して、彼のエッセイ、学術書を売りまくった。敢えてノートには記さなかったのだ。

不安になって検索してみた。予想通りスティーヴン・ジェイ・グールドの本は殆ど図書館にある事が確かめられた。

だが、『時間の矢・時間の環』と『個体発生と系統発生』は県立にも市立にも在庫がない。少し焦った。

『個体発生と系統発生』は賞味期限切れであるという噂を耳にした事がある。だからこれはパスしても構わない。だが、『時間の矢・時間の環』はもう一度再読したい。

調べてみるとamazonにも在庫がなく、古書店で高値で取引されている事が分かった。大問題である。今、私には金銭的な余裕は全くない。とても手が出ない。

それとも思い切って買ってしまうか?

かなり悩んだ。

だが、本を売る時、入念に図書館の検索はした記憶がある。万が一と言う事もある。

意を決して、探してみる事にした。以前の1/3になったとは言え、それでも持っている本は余りに多い。

本棚には前後2段に本が入れられている。表面に出ているのは新書か文庫本が多い。単行本はその後ろにある。

片端から表面の本をどかしてみて、裏側の単行本をチェックしてみた。

何と!あるではないか!


自分で自分を褒めたくなった。スティーヴン・ジェイ・グールドの『時間の矢・時間の環─地質学的時間をめぐる神話と隠喩』は2段に積んである文庫本の後ろで、ひっそりとその出番を待っていた。私は奇跡的にこの本を売らずにとっておいたのだ。

踊り出したい気分に包まれた。双極性障害の影響で、鬱々と過ごしている事が多い私には、滅多にない事だ。

自然淘汰による変化を基本に据える進化論にとって、膨大な地質学的時間は重要な鍵を握る概念だ。その時間をテーマに思考を重ねた本書は、スティーヴン・ジェイ・グールドの著作の中でも、重要な著作だと言えるだろう。

これで今読んでいる『進化理論の構造』との格闘に専念できる。思う存分もがき苦しもう。

20211230

Clubhouseその後

殆ど行かなくなった。

僅かに笹沼弘志さんが時々開いてくれる法学の議論を聞きに行くだけで、全くと言って良い程発言はしていない。

この夏、女房殿のみゆきさんが定年退職を迎えた。全く仕事をしなくなった訳ではないが、在宅時間は桁外れに増えた。その影響が大きい。同じ部屋にふたりでいると、おいそれと音声SNSをするのに気が引ける。やはり発言を聞かれたくないのだ。

Clubhouseで発言しているうちに、実生活と微妙に異なるClubhouse人格が作られてしまった。見栄を張っている訳ではないが、物事にはモノの弾みと言うものがある。

その違いを指摘されると、どうにも気恥ずかしい。

音声SNSで見知らぬ人たちと話し合うより、まずは身近なみゆきさんとコミュニケーションを計りたい。

だが、それだけがClubhouseに行かなくなった理由ではない。

空いている時間は読書に充てたい。その意識が強い。図書館から月に10冊本を借りて、それを読み切る事にしている。

私は本を読むのが遅いほうだ。なので月に10冊の本を読破するだけでも、かなりの努力を必要とする。それだけで精一杯なのだ。

SpotifyをPremiumに引き上げたのも大きい。主に古楽を聴いている。耳はそちらに使いたい。

それに、Clubhouseで立ち上げられるroomに、さほど魅力を感じなくなった事も、大きく影響している。

雑談が多い。元々雑談を楽しめる方ではない。喋る事がどうにも苦手だ。なので発言は常に力一杯頑張る事になる。小一時間音声SNSで発言していると、それだけで疲れ果ててしまう。おわっった後は少しの間、何も手に付かなくなる。時のコストパフォーマンスが私にはかなり低いものになってしまうのだ。

体力・気力をフル回転して、得るものはそれ程多く無い。そうなるとどうしても音声SNSに食指が動かなるなる。

音声SNSは、そこを自分の居場所と認識出来る人が入り浸る。私はそうした態度に違和感を覚える。聞いているうちにどうしようもなく白けてしまうのだ。

またClubhouseの特徴として、若い人が圧倒的に多く、相手を否定する事を、強く嫌う傾向がある。私はこれにどうしても馴染めない。還暦を過ぎた私には、Clubhouseは似合わないのだ。

巧く行っている時には、Clubhouseにようやく見つけた自分に合ったSNSという感覚を抱いた事もあった。だがその時期はもう遠く去ってしまったようだ。

自分ひとりの時間がまた持てるようになったら、Clubhouseにもまた戻る事があるかも知れない。だが、今はその時ではない。

私とSNSの相性はそれ程良いものではない。

20211224

ヴィネガー・ガール

よもや読み切れるとは思っていなかった。

図書館から今回の本を借りていられるのも今日までだ。アン・タイラーの『ヴィネガー・ガール』はかなり厚い。これより薄い本でもっと手間取っていた。読み切れなくても読める範囲まで読んでみようと思い、あまり急ぐ事なく読んでいた。

薄い本は論文だった。小説なのでそれより遥かに読み易い。だがこれなら今日中に読めるのではないかと思い始めたのは第10章を過ぎた辺りからだった。


解説の北村紗衣さんによると、この本の原作であるシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』はシェイクスピアの数ある作品の中で、最も問題のある作品だと言う。確かに若書きで、かつ差別的だ。Washingtonpostのインタビュー記事Anne Tyler loathes Shakespeare. So she decided to rewrite one of his plays.によると、作者アン・タイラーはシェイクスピアが嫌いで、特に『じゃじゃ馬ならし』は別格で大嫌いだと言う。それ程嫌いならば、書き直してしまえというのが、この本が書かれた動機らしい。

成る程、重要な場面で僅かに痕跡は残されているものの、本書にシェイクスピアの原作の片鱗もない。作者も編集者もいい度胸をしている。よくぞここ迄壊し切ったものだ。

舞台はボルティモア、ヒロインのケイトは大学をドロップアウトしてプリスクールで働いており、ぶすっとして感じの良くない女性だが、原作のキャタリーナに比べるとぶっ飛んだところは少なく、スティーヴン・ジェイ・グールドを好む、ユーモアセンスのある、実にまともな市民だ。むしろ研究者である父親のルイスの方が相当な変人だ。奇妙な習慣を二人の娘に押し付けており、さらに日常生活はケイトに頼りっ切りで全く自立出来ておらず、極めて問題のある親だ。

原作に出て来る強制結婚は、外国籍である優秀な研究者ピョートルのヴィザを獲得すべく、雇い主であるルイスがケイトに偽装結婚を勧めるという現代的な展開に変わっている。ケイトは最初、猛烈な拒否反応を示すが、流される様なかたちで協力することになってしまう。

ピョートルとの不本意な出会いを通して、どういう訳だか解放されて行ってしまうケイトの姿をユーモアを交えて描いたロマンチックコメディになっている。

集英社の「語りなおしシェイクスピア」シリーズでは、これまでに、マーガレット・アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団』と、エドワード・セント・オービンの『ダンパー メディア王の悲劇』が刊行されている。両作とも非常にシェイクスピアに詳しい作家が、たくさんシェイクスピアネタを盛り込んだ、割と濃いめの作品だ。一方『ヴィネガー・ガール』はこの二作に比べるとシェイクスピアを知らなくても楽しめるところが多く、むしろシェイクスピアが嫌い、『じゃじゃ馬ならし』が嫌い、といった人こそ気軽に楽しめる小説になっている。『ヴィネガー・ガール』が面白かったという方には、原作の戯曲を呼んで下さいとは言わない。本作と同じく『じゃじゃ馬ならし』が原作の映画『ヒース・レジャーの恋のから騒ぎ』やバーナード・ショーの『ピグマリオン』を手に取って見て頂きたい。どちらも本作の良い友達と言える作品だと思う。

20211221

ライティングの哲学

 読み始めの頃、この本のどこが哲学なのだろう?と思った。

書けない悩みを寄ってたかって吐露し合っている。それだけの内容で、深みに欠けると感じたからだ。だが、その悩みの吐露の中で紹介される様々な文筆用ソフトは役に立った。この文章もあらかじめWordflowyで概要を組み立ててから書かれている。


なぜその様に苦しみながら書くのだろう?と訝しく思えてくるほど苦しんでいる。職業にするほどなのだから、元は文章を書くのが好きだったのだろう。それがいつの頃からか苦行に変化する。それは文章を書く事を仕事にしたからだろうか?それとも別の理由があるのだろうか?

総じて、ものを作ることは、本質的には楽しい事だ。だが、楽しいだけの作業ではない事はよく理解出来る。より良いものを作り出したい。その思いが楽しい作業を苦行に変えるのだ。

子どもは喜んで、夢中になって絵を描く。だが、それを才能と勘違いした親が教室に通わせて、先生の指導の下に絵を描く様になると、純粋な喜びは失われる。絵を描く事を辞めてしまう子どもも多い。

それと同じ様に、自分の思いのまま書いていた文章が、読者のため、お金のためとなり、思うように書けなくなる瞬間がある。そこをどう突破するかが才能の分れ道なのだろうが、大抵の執筆者は書く事が苦しくなる。

この本はtwitterの書き込みをきっかけとして、4人の執筆者が集まり、書けない悩みを打ち明け合った「座談会その1」、それから2年が経過したのちに変化した執筆術を書き下ろした「執筆実践」、書き下ろされた原稿を読み合い熱論した「座談会その2」の全3部で構成されている。

挫折と苦しみ、断念、制約と諦め、悲惨な言葉が飛び交う。

この本に深みが出て来るのは「執筆実践」の辺りからだ。

互いに悩みを吐露し合う事で、悩み自体が相対化されるのか、執筆者はそれぞれ、別の仕方で次の次元に進んでいる。

だからだろうか。「座談会その2」は「快方と解放への執筆論」と題されている。執筆から離れるべきだという提案もなされる。執筆の執は我執の執だという名言付きでだ。

書くのであれば良い文章を書きたい。そうした執着が書く苦しみを産む。そうではなく、以前の書く楽しみを復活させたいのであれば、妙なプロ意識やエリート意識は捨て、執着から解放された場で文章を組み立てて行くべきなのだ。なんと言っても書かれなければそれは文章ではない。

「あとがき」で執筆者のひとり千葉雅也が書いているが、この本は、なかなか不思議な他に例がない本になっている。

ものをつくることの全てがここにあると言っても過言ではないと思う。これも同じ悩みを持つ者同士が寄ってたかって語り合った成果と言えるのではないだろうか?

ちゃんとしなければという強迫観念からの解放、生産的な意味でだらしなくなることを目指す

そうした境地に4人の執筆者は到達したのだと思う。

彼らは知らずして互いが互いに対して患者でありセラピストであるようなオープンダイヤローグを実践したのだと密かに思っている。