20181217

2ヶ月

ひとりで行って来る事が出来た。

手術して、今日で丁度2ヶ月となる。その意味で日赤の受診日であった。
少し前ならば、日赤まで行くバスのバス停まで歩くことなど到底無理だと感じていた。けれど、この頃リハビリで歩いていて、何とか行けるのではないかと思い始めていた。

しかし天気予報は雨もしくは雪。やはり厳しいかなぁ…と弱気にもなっていた。

けれどいざ今日になってみると、空は雲ひとつない快晴。これはチャレンジするしかないなという気分にさせられた。

それでも10分間連続で歩くことは、試していなかった。途中で休むことも考えて、20分の時間を見て出発した。

何と言う事も無かった。杖はいざという時の為に携帯していたが、殆どなしでも行けそうな感じ。気になっていた坂も難なくクリア。結局、バスの出発時刻より10分も前に、バス停に辿り着いていた。

あれ程しつこく付きまとっていた右脚の違和感も、今はもう殆どなく、前より格段に速く歩くことが出来た。

どうしようもない程の難関に思えたバスの階段も、殆ど気にならない程のペースでクリアし、予定より1時間も早く日赤に辿り着く事が出来た。

受診の結果は極めて良好。先月の16日に救急外来で、診てもらって以来の受診だったが、血液検査の炎症の度合いも、既に正常値に戻り、あれは多分腸炎を引き起こしたのだろうという事だった。

細く、未発達だった右脚大腿骨も、薄らと新しい骨が出来つつある事をレントゲン写真は示しており、総じて順調な恢復が認められた。

次の受診日は3月18日の10:30から。その前にレントゲン写真を撮るので、10:00に日赤に着いていれば良いだろう。

それをクリアしたら、いよいよ本格的な社会復帰だ。

20181120

日赤復帰

これ程早く、また日赤のお世話になるとは思ってもいなかった。
話が多少尾籠な物となる。どうかお許し願いたい。

先駆は日赤から退院した2日後から始まっていた。昼、少し柔らかめの便が出た。

両股関節人工関節置換という大仕事に隠れて、余り大事とは考えもしなかったが、実は入院中にも一回、下痢と発熱(最高39.6度)があった。

その再来だと考えて、さほど重要視せず、その晩は寝た。

だが16日早朝、再び激しい下痢とかなりの発熱を記録した。退院からまだ2日しか経っていない。手術の傷が原因であれば、大事だ。

この不安は女房殿のみゆきさんにそのまま伝わり、3時台に電話し、車で日赤の救急外来を受診した。

そこでレントゲン、血液検査、検尿検査、CT、インフルエンザ検査、などなど様々な検査を受け、取り敢えずインフルエンザは陰性というお達しを頂いた。けれど発熱は顕著で39.2度を記録していた。

インフルエンザ検査は、掛かってからすぐには引っ掛からない事があるとのことで、4、5時間経ったら、もう一度近くのかかりつけの病院で検査を受けるようにという診断だった。

検査を終えかけたところに、手術を担当した関医師がやって来て、問診、触診。手術の傷には異常がないことを確認した。

受け始めた点滴を途中で辞めて、日赤から帰路に就いたのは8時過ぎ。取り敢えず経口保水液を大量に買い込み、自宅に帰ってきた。

実を言うと、日赤にいた頃の事は、私はあまり覚えていない。意識が朦朧とし、問いかけられた質問にも満足に答えられないでいたことは覚えていた。

そのまま自宅で寝、15:30過ぎに近くの宮沢医院に駆け込んだ。

どうにかインフルエンザとノロウィルスの疑いはシロになった。

では、何だったのだろうか?その事が気に掛かる。
単なる風邪という診断だったが、心の底で、日赤から出された痛み止めの薬の副作用を密かに疑っている。

入院中もそれが出ていた時に下痢と発熱があった。

現在、症状は緩和され、状態は取り敢えず安定している。一安心だ。

だが胃の調子が今ひとつしっくり来ず、四六時中胃が掴まれるような、違和感を抱えている。

いや〜、酷い目に遭った。

20181114

ただいま

コンピュータを置いてある部屋からは2本の鴨脚樹が見えるが、入院前、その葉はまだ青々としていた。今見ると、すっかり黄葉が進み、成長の早い左側の1本は、半分以上その葉を落としている。

3週間のつもりが1週間伸び、昨日ひと月振りに我が家に復帰した。

手術前は退院する頃には活発に動くことが出来るものと想像していたが、実際はそう簡単には行かず、まだ杖なしで歩くのにはかなりの無理が必要な状態だ。

画像は手術後の私の股関節。まだ歪みが残っていることが、この画像からもはっきりと読み取れる

生まれつき悪かった右の股関節は、骨盤が前に歪んでおり、大腿骨の発達も遅れていた為、手術には相当の困難があったようだ。

10月17日、手術当日。手術台に横たわり、タオルケットの下で全裸になり、酸素マスクを口に当てられて以後、記憶は途絶えた。

次の記憶は夢の中で『虹の彼方に』を聞きながら、その向こうから「終わりましたよ」と声を掛ける関医師の言葉を何とか理解することが出来たものだった。

右大腿骨は細く短い為、ステムを打ち込む時亀裂が入り、それを結束バンドのようなもので補完して、手術を終えたようだ。

手術後、右股関節が脱臼したとも聞いた。

その為か、強靱な左脚とひ弱な右脚という、以前からの関係は、手術後も続いた。現在も歩くと、右股関節が剥がれるような、ぎくしゃくとした違和感が続いている。

理学療法士の話では3ヶ月はこの違和感が続くようだ。

それを理解した上で、焦らずに兎に角転ばぬように歩き、リハビリに務めなければならないのだろう。

それ以外では輸血も自己血だけで済み、手術は概ね順調だったと言えるだろう。

退院して家に戻ってから、すぐにコンピュータを立ち上げたのだが、以前何と言う事もなくやっていた、様々な作業の手順を、なかなか思い出せない自分に焦りを感じた。

それだけ月日が経ったのだろう。

とりあえず、無事退院が出来た事を、報告したい。

ただいま。いま帰って来ました。

20181015

サイボーグになって来ます

久し振りの更新になる。久し振りでこう申すのも申し訳ないが、明日から3週間ほどWebから姿を消す。この更新は、その挨拶の意味合いが大きい。
 両股関節を人工関節に付け替える手術をする事になった。写真のようなものに置き換わると言う訳だ。

何の因果か、生まれつき右股関節が悪い。
騙し騙し使ってきたが、その歪みが左にまで及び、痛みを覚えるようになった。最初は状態の酷い右だけを人工関節に替える話だった。

だが日赤に行って具体的に話を進めてみると、痛みのある左を替えるという事になり始めた。痛みがあるのは左も右も同じだ。ならばこの際とばかりに両方を替えることを決意した。

直接命に関わる訳ではないが、大手術になる。

10歳の頃右を手術して、3ヶ月入院した。とてつもない暇と闘った。

その記憶があるので図書館からドストエフスキーなどをどっさり借りて、準備した。

だが、最近の整形外科は事情が異なって来ているようだ。

手術の翌日には動いて、リハビリに着手する。

理学療法士のまな板の上の鯉と化して、言われるがまま運動をやらされるようだ。読書三昧などは夢のまた夢という事になりそうだ。

自分がサイボーグになるようで、少し寂しい気分もある。

だが、生まれて初めて左右のバランスが整うのだ。これは大いに期待しなければ損と言うものだ。

昔の人工関節は、正座が駄目だったり、様々な制約があった。こんなのだったら手術しない方が良かったとも思ったと聞いていた。

だが、最近の人工関節は進んでいるようだ。運動の制約はないという。

自分の体がどこ迄改善されるのか、大いに期待が膨らんで行く。

何よりも嬉しいのは、右足の片足立ちが出来るようになることだ。

様々な代替医療を試しても来た。だがX線写真などを見ると、ちょっとした体の歪みという範囲を大きく超えている事が、素人目にも納得出来る。

進んだと言われる現代の整形外科に身を預けるつもりは出来ている。

人工関節の耐用年数は大体20年位だと言われている。年齢的にも、付け替えるのに最適なタイミングだろう。

サイボーグになりに行ってきます!それでは!!

20180822

暑の戻り

ついこの間、たかだか5日前に23.8℃の最高の気温を記録していた。その日は北海道大雪山系の黒岳で初雪が降った。翌朝の4:08には13.4℃の最低気温を記録した。

このまま秋になってしまうのではないかとすら思えた。少なくとも暑さのピークは過ぎ去ったと確信してもいたのだ。

天気予報は颱風がふたつ、連続して近付いてきていることを伝えていた。少し暑くなるかな?と思った。

けれどここ迄とは夢にも思わなかった。

昨日室温が33.9℃迄上昇した。やけに蒸すな…と感じたのだ。そう思うのも無理はなく、14:28に37.7℃の最高気温を記録していた。今季最高気温だった。

全国でも8位タイの記録だった。

なまじ涼しい期間を過ごしていたことも拙かった。身体は心地よい気温にはすぐ順応する。暑さのカウンターパンチをもろに喰らい、自分が熱中症ぎりぎりの体調である事を自覚した。

寒の戻りという言葉なら知っている。けれど今経験しているこの高温は何と表現したら良いのだろうか?暑の戻り。そう表現するしか無いではないか。


そして今日、ついに2日連続で今季最高気温を更新した。15:30に38.5℃を記録。

1994年の8月16日に38.7℃という記録がある。これが観測史上最高の値になっている。それにあと0.2℃に迫る気温だったのだ。

窓際はベランダからの輻射熱で近寄りがたく、部屋を吹き抜ける風も熱風だった。

遂に我慢の限界を超え、エアコンのスイッチに手が伸びた。

長野と言えば、日本でも指折りの避暑地のイメージがあるのではないだろうか?
しかし、長野の現実はこうなのだ。
盆地特有の大きな寒暖差。それが夏にはもろに高温となって襲いかかる。

むしろ沖縄の方が海洋性の気候で寒暖差が少なく、最高気温も33℃程度で過ごし易い。

こうなったら厳しい現実をありのままに受け容れ、長野から沖縄へ避暑に行く事も考えた方が良い。


しかし、夕方になるとさすがに気温は下がり、窓からも涼しい風が入る。これが長野の良いところだ。

夜も30℃を超えるようなことは、まずない。

20180815

カンテラ日誌を廃棄!

知った瞬間、カッとなった。次にどうしようもない無力感に襲われた。

富士山測候所の40冊以上の『カンテラ日誌』を、東京管区気象台が廃棄していたのだ。

富士山測候所 日誌を廃棄 68年間つづった貴重な40冊(毎日新聞)

日誌の存在は、中島博さんが子ども向けに書かれた本『カンテラ日記』や、志崎大策さんの『富士山測候所物語』で知っていた。

それだけに、日誌が持つ貴重な価値も、十分に認識していた。

このニュースを教えてくれたguriko_さんはtwitterに

こういうニュースがすごく怖い。文化に対する鈍感さ。資料に対する鈍感さ。これってやばいと思う

とコメントしている。

同感だ。

日誌には、富士山頂に地震計が設置される以前の、有感地震の記録もあった。それらも永久に失われたのだ。

日誌の廃棄という愚行の背景には、気象庁が持つ、計測機器以外の記録(データ)に対する、病的とも言える軽視の姿勢があるように思えてならない。

世界的に見ても、貴重な資料だった。
それを単なるゴミとしか見ることが出来ない東京管区気象台の職員の想像力。と言うよりその欠如には、もはや呆れることしか出来ない。

職員は全く録っておこうという気さえなかったのだろう。どこかの博物館なり、国会図書館なりに依頼するとか、保管先を確保しようと思えば、いくらでも道はあった筈なのに。

それにしても処分の方法が異常だ。溶解とある。ただ単にゴミとして出した訳ではないらしい。まるでこの資料がこの世にあってはならないとでも言う様な、猟奇的な執念すら感じる。通常の方法なのだろうか?

いずれにせよ、すべてはもう手遅れなのだ。
もう誰も『カンテラ日誌』を読むことは出来ない。

20180805

りりっ。コオロギが啼いた

最初空耳かと思った。

注意しているとやはりまた啼いた。りりっ。

ひと啼き。ふた啼き。確かに啼いている。

部屋の前には、大きな叢がある。
そこで啼いているのだろう。

2年前の今日の日付の日記には、赤とんぼを見た事が書かれていた。
そうした時期なのだ。

長野市は今日、37℃を超えた。今季の最高気温を更新した。明日もまだ暑いらしい。

だが季節がひとつ、確実に進んだのだ。