これもミヒャエル・ハネケ監督の作品。観る前から警戒していたが、それを上回る内容に、やはり衝撃を受けてしまった。
ヒロインは子どもの頃からピアニストになる為に、支配的な母親から厳格な管理と指導の下に置かれてきたエリカ。しかしコンサートピアニストになる夢は叶わず、ウィーン国立音楽院のピアノ教授を務めている。
この母親との関係がエリカの全てを決定づけているのだろう。娘への過剰な干渉、娘もそれに付き合ってしまう。明らかに共依存の関係が成立してしまっている。
そこから抜け出そうとするかのように、ポルノショップの個室でビデオを見るエリカ。しかしその観方が尋常ではない。瞬き一つせず見詰める。そしてゴミ箱からティッシュを拾い上げ、その匂いを嗅ぐ。
或いは他人の情事を覗き見しながら放尿する。
長年の抑圧は、彼女の性癖をここ迄歪めてしまったのだ。
性的な歪みを除いては、全てに於いて真面目で、感情を表に出すこともなく、鉄仮面のよう。
そんなエリカの前に音楽的な才能も豊かな工学部の青年ワルターが現れ、物語は動き出す。
生まれてこの方異性と付き合ったことがないエリカは、若く魅力的なワルターに求愛され、動揺する。母親の抑圧のせいで異性と付き合うことが「良くないこと」と思ったのかエリカはそれを拒む。
しかしワルターは諦めず、彼女が働くウィーン国立音楽院を受験し合格する。 ワルターはエリカと逢う為だけに音楽院に入ったのだ。
音楽院の学生の演奏会を控え、リハーサルが行われていた。エリカの生徒もピアノを弾くことになっていたのだが、その女生徒は極度に緊張していた。ワルターは緊張をほぐす為、優しく接する。
それを見ていたエリカは、嫉妬から女生徒のコートのポケットに割れたグラスの欠片を入れ、怪我を負わせてしまう。
騒ぎの中エリカはトイレに駆け込むが、ワルターが追ってきてエリカを抱きしめる。エリカは遂に拒むことをせず、キスを受け容れて口と手で性行為を行う。だがワルターが自分に触れることは許さず、微妙な雰囲気になって、その場は失敗する。
しかし、エリカが自分の思いを受け容れてくれたと思ったワルターは「次はうまくゆく」と前向きに捉える。
次の個人レッスンの時、ワルターは今後のふたりについて嬉しそうに提案をするが、エリカはただ手紙を渡す。これを読んでどうするか決めて欲しいと言う。
だがその夜、手紙を読まないままワルターはエリカの自宅に押しかける。
自室に閉じこもって母親を遠ざけ、ワルターに手紙を読むように言う。「顔を殴れ」「紐で縛れ」「尻を舐めろ」「全裸で顔の上に坐れ」などのマゾヒスティックな「ルール」の数々にワルターは幻滅してしまう。そのままエリカに蔑みの言葉を放ち、出て行く。
翌日、エリカはワルターの赦しを請う為、アイスホッケーをするワルターの元を訪ねる。どうしてここが分かったのか?と驚くワルター。エリカは以前、そっとワルターを尾行していた事があったのだ。強引に口で奉仕するエリカ。だが、嘔吐してしまい、さらに幻滅される。
消沈していたエリカの元を、突然ワルターが訪ねてくる。ワルターはエリカの「希望」通りに、母親を閉じ込め、顔を殴りながらエリカを犯す。ただ泣くばかりのエリカ。
恐らく手紙に書かれていた様なマゾヒスティックな「ルール」は、異性と付き合ったことがないエリカが、ポルノショップなどの情報を基に、膨らませた妄想だったのだろう。
だが現実は妄想とは違う。
現実の暴力は快感をもたらすものではなく、ただひたすらの恐怖をもたらすものだった。
演奏会当日、目元に赤い痣が残ったまま、エリカは出掛ける支度をする。鞄の中にそっとナイフを忍ばせて。
家族や生徒との挨拶を済ませながらも、ワルターを待つエリカ。だが演奏会直前に仲間と共に現れたワルターは、昨夜のことなど何事もなかったように明るく、爽やかに挨拶し、他の生徒と共に会場に入っていった。
黙って見送ったエリカは、鞄に忍ばせたナイフを取り出し、一瞬の鬼のような表情で、左胸に突き刺す。そして再び無表情に戻って、何事もなかったように演奏会場を後に、そのまま外に出て行ってしまう。映画は唐突にそこで終わる。
エリカは何もかもを投げ出したのだ。
母親はエリカに全てを捧げてきたようなことを言うが、実のところ娘をピアニストにするという自分の夢の為にエリカを使ってきただけだった。
エリカを愛していると言っていたワルターは、実のところ自分の欲望を満たすだけの為にエリカを使ってきただけだった。
そうした現状を受け容れてきたエリカだったが、恐らく彼女は自分を突き刺すことで、それらを受け容れてきた自分に決別したのだ。
自らの左胸を突き刺し、全てを投げ出した彼女の行為は、痛みを伴う自立の為の自傷だったのではないだろうか?
しかしミヒャエル・ハネケ監督はどうして、後味の良い、すっきりと観終わることが出来る映画を作ってくれないのだろうか?
20180601
20180530
『オマールの壁』
オマールは毎日命がけで壁をよじ登る。恋人ナディアに逢いに行く為だ。
オマールは2人の幼馴染タレクとアムジャドとともに、反占領の武装組織に所属している。さらにオマールとアムジャドはタレクの妹のナディアに思いを寄せているが、オマールはナディアと結婚の約束をし、パン屋で働いて結婚のためのお金をため、新居も用意している。ストーリーは3人の友情と、オマールとナディアとのラブストーリーを基調としている。
オマール、タレク、アムジャドの3人は夜、イスラエル軍陣地に向けて銃を発砲し、1人を殺害した。銃撃したのは、アムジャドである。この後、物語は動き出す。
オマールは襲撃事件の関連で、イスラエル秘密警察に捕まり、ラミ捜査官の尋問を受ける。オマールは拷問を受けても誰が銃撃したか口を割らないが、ラミ捜査官はオマールに、イスラエルに情報を流す「協力者=スパイ」になれば釈放すると誘う。ラミは3人のうちのリーダー格のタレクが主犯と考えている。オマールに「出してやるからタレクをおびきだせ」と誘う。オマールはラミの裏をかくつもりで誘いに応じて釈放される。

オマールはタレクとアムジャドにラミの計画を明かして、オマールがタレクをおびき出すふりをして、イスラエル軍を襲撃しようと作戦を練る。ところが、途中でイスラエル秘密警察に踏み込まれて、オマールはまた捕まり、ラミの元に連れていかれる。ラミはオマールがイスラエル軍を罠にかけようとしたことを知っており、「お前は信用できない」と激怒する。しかし、オマールは「もう一度、チャンスをくれ」といって、釈放される。ラミはオマールがナディアと恋人関係にあることを知っていて、「ナディアには秘密がある」と謎をかける。
オマールが釈放されて、ナディアに会いに行くと、みんながオマールのことをスパイだと思っているといい、自分にも近づかないでくれ、という。オマールはラミが自分とナディアとの関係を知っていることから、アムジャドがナディアのことをラミに話したと疑い、アムジャドに「何を話したのか」と問い詰める。すると、アムジャドは「ナディアを妊娠させた」という。
アラブ社会の一部であるパレスチナでは、未婚の女性が妊娠すれば、家の恥として、親に殺されかねない。オマールはナディアを救うために、アムジャドとナディアを結婚させようとし、アムジャドを連れて、兄のタレクに掛け合う。激怒したタレクはアムジャドに銃を持ってなぐりかかり、2人はもみ合いになるが銃が暴発し、タレクが死ぬ。オマールはナディアの父親と会って、ナディアとアムジャドの結婚を仲介し、アムジャドには自分が貯金していたお金を渡し、「子供は月足らずで生まれた」ことにするよう忠告して、絶縁を宣言する。
2年後、オマールはアムジャドとの間で2児の母となったナディアと会う。オマールはナディアに子供について質問し、上の子が兄タレクの死後1年目に生まれたと聞いて、「月足らずで生まれたのではなかったのか」と聞き返す。ナディアは「いいえ、普通に生まれた」と答える。この答えで、アムジャドが「ナディアを妊娠させた」という言葉が嘘だったことを知り、オマールは衝撃を受ける。
ナディアは2年前のことについて、「私があなたをスパイだと疑ったから、あなたに嫌われたと思った。あなたが私を必要としている時に、あなたを見放した」と謝った。悲痛な表情のオマールはナディアに真相を明かさないものの、「私たちは信じられないことを信じてしまっていた。私もあなたを裏切っていた」という。
この後、オマールはイスラエルのラミ捜査官に電話して、「犯人が分かったから、拳銃を用意してくれ」と頼み、ラミと落ち合う。オマールはラミから銃の撃ち方を教えてもらった後、「サルの捕り方を知っているか」とラミに言った後、ラミを撃つ。
この「サルの捕り方を知っているか」という言葉が、ハニ・アブ・アサド監督が張り巡ら
した伏線と、それを解く鍵になっている。
「サルの捕り方」とは、映画の前半でオマールとタレク、アムジャドの3人が集まった時に、アムジャドが披露した逸話である。それはこんな話だ。
アフリカの猟師は野生のサルに砂糖を与えて、砂糖の味を覚えさせる。その後、地中に砂糖の塊を埋めて、手がちょうど入るくらいの穴をあけておく。サルは砂糖の臭いを嗅ぎつけて穴に手を突っ込む。そこへ猟師が来て、網でサルを捕まえようとするが、サルは猟師が来るのを見ても、砂糖をつかんだまま離そうとしないので、手が抜けずに、猟師に捕まってしまう。
話を聞いてタレクが「何のためにサルを捕まえるんだ」とアムジャドに問う。アムジャドは「奨学金を与えてスウェーデンに送るんじゃないか」と答える。
「奨学金を与えてスウェーデンに送る」というのは、ヨルダン川西岸であれ、ガザであれ、希望のないパレスチナから脱出することを望むパレスチナ人の若者の夢である。
オマールがラミを撃つのは、「私はサルではない」という意思表示である。オマールはイスラエルのスパイとして仲間を密告したわけでも、組織を裏切ったわけでもない。イスラエル軍に捕まり、全裸で天井からつるされて、尋問官から「誰が撃ったか言え」と問い詰められ、暴行を受けても、口を割らなかった。イスラエルにとってオマールは屈しない頑固な若者である。
しかし、結果的にはオマールはイスラエルの協力者に仕立て上げられている。イスラエルにとっての真の密告者であり協力者であるアムジャドを守り、ナディアとの結婚という彼の夢をかなえ、スパイでありながら、幸福な家族生活を送ることを可能にしたのは、ほかでもないオマールなのだ。オマールはイスラエルの利益のために働いているのである。
砂糖の味を占めて、罠にかかっても、砂糖から手を放さなかったというサルの逸話は、オマールに当てはめるとどうなるだろう。オマールにとっての「砂糖」とは何か? いろいろな見方があるだろうが、私は「名誉」だと考える。
オマールが命がけで守ったのは、仲間を売らなかった「自分の名誉」であり、「ナディアの名誉」である。アラブ社会では未婚の女性に男性との関係が知られると、「名誉が汚された」として女性は自分の家族から殺されることもある。「名誉殺人」である。オマールは自分とナディアの「名誉」をつかんだまま離さず、罠にかかってしまったのだ。ところが、ナディアの「不名誉な妊娠」が作り話だと分かって、自分が罠にかかっていたことを知る。
オマールとナディアの悲劇のラブストーリーのクライマックスにおいて、2人は互いの人間的な弱さに気づき、決定的にすれ違ってしまった運命と向き合う。その時、イスラエルの占領はもはやテーマではなくなり、困難な状況の下で、自分を見失ってしまう無垢な若者の姿が浮かび上がる。
ハニ・アブ・アサド監督がこの映画について「戦争ストーリーでなく、ラブストーリーだ」と語ったのは、そのような意味だろう。
オマールは2人の幼馴染タレクとアムジャドとともに、反占領の武装組織に所属している。さらにオマールとアムジャドはタレクの妹のナディアに思いを寄せているが、オマールはナディアと結婚の約束をし、パン屋で働いて結婚のためのお金をため、新居も用意している。ストーリーは3人の友情と、オマールとナディアとのラブストーリーを基調としている。
オマール、タレク、アムジャドの3人は夜、イスラエル軍陣地に向けて銃を発砲し、1人を殺害した。銃撃したのは、アムジャドである。この後、物語は動き出す。
オマールは襲撃事件の関連で、イスラエル秘密警察に捕まり、ラミ捜査官の尋問を受ける。オマールは拷問を受けても誰が銃撃したか口を割らないが、ラミ捜査官はオマールに、イスラエルに情報を流す「協力者=スパイ」になれば釈放すると誘う。ラミは3人のうちのリーダー格のタレクが主犯と考えている。オマールに「出してやるからタレクをおびきだせ」と誘う。オマールはラミの裏をかくつもりで誘いに応じて釈放される。

オマールはタレクとアムジャドにラミの計画を明かして、オマールがタレクをおびき出すふりをして、イスラエル軍を襲撃しようと作戦を練る。ところが、途中でイスラエル秘密警察に踏み込まれて、オマールはまた捕まり、ラミの元に連れていかれる。ラミはオマールがイスラエル軍を罠にかけようとしたことを知っており、「お前は信用できない」と激怒する。しかし、オマールは「もう一度、チャンスをくれ」といって、釈放される。ラミはオマールがナディアと恋人関係にあることを知っていて、「ナディアには秘密がある」と謎をかける。
オマールが釈放されて、ナディアに会いに行くと、みんながオマールのことをスパイだと思っているといい、自分にも近づかないでくれ、という。オマールはラミが自分とナディアとの関係を知っていることから、アムジャドがナディアのことをラミに話したと疑い、アムジャドに「何を話したのか」と問い詰める。すると、アムジャドは「ナディアを妊娠させた」という。
アラブ社会の一部であるパレスチナでは、未婚の女性が妊娠すれば、家の恥として、親に殺されかねない。オマールはナディアを救うために、アムジャドとナディアを結婚させようとし、アムジャドを連れて、兄のタレクに掛け合う。激怒したタレクはアムジャドに銃を持ってなぐりかかり、2人はもみ合いになるが銃が暴発し、タレクが死ぬ。オマールはナディアの父親と会って、ナディアとアムジャドの結婚を仲介し、アムジャドには自分が貯金していたお金を渡し、「子供は月足らずで生まれた」ことにするよう忠告して、絶縁を宣言する。
2年後、オマールはアムジャドとの間で2児の母となったナディアと会う。オマールはナディアに子供について質問し、上の子が兄タレクの死後1年目に生まれたと聞いて、「月足らずで生まれたのではなかったのか」と聞き返す。ナディアは「いいえ、普通に生まれた」と答える。この答えで、アムジャドが「ナディアを妊娠させた」という言葉が嘘だったことを知り、オマールは衝撃を受ける。
ナディアは2年前のことについて、「私があなたをスパイだと疑ったから、あなたに嫌われたと思った。あなたが私を必要としている時に、あなたを見放した」と謝った。悲痛な表情のオマールはナディアに真相を明かさないものの、「私たちは信じられないことを信じてしまっていた。私もあなたを裏切っていた」という。
この後、オマールはイスラエルのラミ捜査官に電話して、「犯人が分かったから、拳銃を用意してくれ」と頼み、ラミと落ち合う。オマールはラミから銃の撃ち方を教えてもらった後、「サルの捕り方を知っているか」とラミに言った後、ラミを撃つ。
この「サルの捕り方を知っているか」という言葉が、ハニ・アブ・アサド監督が張り巡ら
した伏線と、それを解く鍵になっている。
「サルの捕り方」とは、映画の前半でオマールとタレク、アムジャドの3人が集まった時に、アムジャドが披露した逸話である。それはこんな話だ。
アフリカの猟師は野生のサルに砂糖を与えて、砂糖の味を覚えさせる。その後、地中に砂糖の塊を埋めて、手がちょうど入るくらいの穴をあけておく。サルは砂糖の臭いを嗅ぎつけて穴に手を突っ込む。そこへ猟師が来て、網でサルを捕まえようとするが、サルは猟師が来るのを見ても、砂糖をつかんだまま離そうとしないので、手が抜けずに、猟師に捕まってしまう。
話を聞いてタレクが「何のためにサルを捕まえるんだ」とアムジャドに問う。アムジャドは「奨学金を与えてスウェーデンに送るんじゃないか」と答える。
「奨学金を与えてスウェーデンに送る」というのは、ヨルダン川西岸であれ、ガザであれ、希望のないパレスチナから脱出することを望むパレスチナ人の若者の夢である。
オマールがラミを撃つのは、「私はサルではない」という意思表示である。オマールはイスラエルのスパイとして仲間を密告したわけでも、組織を裏切ったわけでもない。イスラエル軍に捕まり、全裸で天井からつるされて、尋問官から「誰が撃ったか言え」と問い詰められ、暴行を受けても、口を割らなかった。イスラエルにとってオマールは屈しない頑固な若者である。
しかし、結果的にはオマールはイスラエルの協力者に仕立て上げられている。イスラエルにとっての真の密告者であり協力者であるアムジャドを守り、ナディアとの結婚という彼の夢をかなえ、スパイでありながら、幸福な家族生活を送ることを可能にしたのは、ほかでもないオマールなのだ。オマールはイスラエルの利益のために働いているのである。
砂糖の味を占めて、罠にかかっても、砂糖から手を放さなかったというサルの逸話は、オマールに当てはめるとどうなるだろう。オマールにとっての「砂糖」とは何か? いろいろな見方があるだろうが、私は「名誉」だと考える。
オマールが命がけで守ったのは、仲間を売らなかった「自分の名誉」であり、「ナディアの名誉」である。アラブ社会では未婚の女性に男性との関係が知られると、「名誉が汚された」として女性は自分の家族から殺されることもある。「名誉殺人」である。オマールは自分とナディアの「名誉」をつかんだまま離さず、罠にかかってしまったのだ。ところが、ナディアの「不名誉な妊娠」が作り話だと分かって、自分が罠にかかっていたことを知る。
オマールとナディアの悲劇のラブストーリーのクライマックスにおいて、2人は互いの人間的な弱さに気づき、決定的にすれ違ってしまった運命と向き合う。その時、イスラエルの占領はもはやテーマではなくなり、困難な状況の下で、自分を見失ってしまう無垢な若者の姿が浮かび上がる。
ハニ・アブ・アサド監督がこの映画について「戦争ストーリーでなく、ラブストーリーだ」と語ったのは、そのような意味だろう。
20180528
『アンネ・フランク』
映画の冒頭で、この映画はメリッサ・ミュラーによる伝記とカーク・エリスの調査に基づいて造られた映画であることが述べられる。
実際よく調べられている。
ロバート・ドーンヘルム監督は事実としてのアンネ・フランクに拘ったのだろう。
アンネと言えば『日記』だがこの映画はこの十代の少女が日記に書かなかった事にも目を向けている。
アンネが日記と出会う以前のフランク家の様子や、日記が途絶えた後のアウシュビッツやビルケナウの収容所の実情も描かれている。
思わず目を背けたくなるような光景も否応なしに突き付けられる。救いはアンネが知的だと思えば夢見がちであったり、想像力豊かであったり、甘やかされていたり、生意気だったりと、ナチス占領下のオランダに暮らすユダヤ人という点を除けば、ほかの少女と何ら変わりはないことだ。
逆に言えば、それ故に第二次世界大戦で起きたユダヤ人虐殺という事実がどれ程むごいものであったかが際立つのだ。
映画の終わりで、『アンネの日記』は聖書に次ぐノンフィクションとなったことが語られ、しかし、アンネの物語は、あの時代に実際に起きた、幾多の物語のうちのひとつの例であることが述べられる。
そうなのだ。背後には何百万人のアンネが存在したのだ。
アンネの物語を過去のものとして捉える発想は、新たな過ちとなる可能性は、現在でも十分にあるのだろう。
それを繰り返さないこと。その為には何が起きたのか?なぜ起きたのか?どの様にして起こり得たのか?(ハンナ・アーレント『全体主義の起原』より)をきちんと知って行く必要があるのだろう。
この映画はレンタルで観たが、途方も無い過去に、私はなぜかこの映画を借りるリストの中に含めていた。なぜ、どの様にして、この映画を知って、選んだのだろう?もはやそれを知る鍵は失われているが、その頃の私の感性に、大いに感謝したい。
良くこの映画を選んでくれていたものだ。
実際よく調べられている。
ロバート・ドーンヘルム監督は事実としてのアンネ・フランクに拘ったのだろう。
アンネと言えば『日記』だがこの映画はこの十代の少女が日記に書かなかった事にも目を向けている。
アンネが日記と出会う以前のフランク家の様子や、日記が途絶えた後のアウシュビッツやビルケナウの収容所の実情も描かれている。
思わず目を背けたくなるような光景も否応なしに突き付けられる。救いはアンネが知的だと思えば夢見がちであったり、想像力豊かであったり、甘やかされていたり、生意気だったりと、ナチス占領下のオランダに暮らすユダヤ人という点を除けば、ほかの少女と何ら変わりはないことだ。
逆に言えば、それ故に第二次世界大戦で起きたユダヤ人虐殺という事実がどれ程むごいものであったかが際立つのだ。
映画の終わりで、『アンネの日記』は聖書に次ぐノンフィクションとなったことが語られ、しかし、アンネの物語は、あの時代に実際に起きた、幾多の物語のうちのひとつの例であることが述べられる。
そうなのだ。背後には何百万人のアンネが存在したのだ。
アンネの物語を過去のものとして捉える発想は、新たな過ちとなる可能性は、現在でも十分にあるのだろう。
それを繰り返さないこと。その為には何が起きたのか?なぜ起きたのか?どの様にして起こり得たのか?(ハンナ・アーレント『全体主義の起原』より)をきちんと知って行く必要があるのだろう。
この映画はレンタルで観たが、途方も無い過去に、私はなぜかこの映画を借りるリストの中に含めていた。なぜ、どの様にして、この映画を知って、選んだのだろう?もはやそれを知る鍵は失われているが、その頃の私の感性に、大いに感謝したい。
良くこの映画を選んでくれていたものだ。
20180525
『ノー・マンズ・ランド』
ダニス・タノヴィチ監督の映画を観るのは2作目だ。
カメラワークもカット・構成もしっかりと手慣れており、前に観た『鉄くず拾いの物語』の、いかにも拙い手つきが、意図的な反演出志向に基づいて選択されたものだったことが、改めて確認出来た。
『ノー・マンズ・ランド』はボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争が深刻だった1993年当時の戦場を舞台にしている。
ボスニア軍の交代要員8人は、闇に紛れて前線へ移動していた。しかしその日は霧が深く、兵士たちは道に迷ってしまう。
夜が明け視界が開けると、彼らはセルビア陣地に入り込んでいた。
セルビア軍の容赦ない攻撃により6人は即死状態だったが、チキとツェラは中間地帯にある無人の塹壕付近まで逃げる。しかし砲撃によりチキは塹壕の中へ、ツェラは塹壕の外に吹き飛ばされる。
セルビア陣営の老兵と新人兵のニノは偵察を命じられ、塹壕へ向かう。塹壕内ではチキが生き残っており、2人の様子を伺っていた。老兵は塹壕内にジャンプ式の地雷を埋め、その上に意識のないツェラを寝かせる。地雷はツェラを動かすと爆発する仕組みになっていた。
チキは隙を狙って2人を銃撃する。老兵は即死したが、ニノは生き残る。チキはニノを裸にして塹壕の外で白いシャツを振らせる。セルビア軍はニノがどちらの兵士かわからないまま砲弾を打つ。
その音でツェラが意識を取り戻す。しかしツェラを救うには背中の下の地雷を処理してもらうしか方法がない。
チキとニノは互いを牽制し合いながらも、協力してこの状況を打開することにする。今度は2人で裸になって外で白いシャツを振る。両陣営は対応に苦慮し、国連防護軍に連絡する。
連絡を受けた国連防護軍フランス兵のマルシャン軍曹はサラエボ本部のデュボア大尉から上官と相談するので待機するよう命じられるが、命令を無視してすぐに動き始める。まずは両陣営の検問所へ銃撃しないよう要請に行く。
デゥボラ大尉はソフト大佐に相談するが、大佐は防護軍の任務は人道援助であり国連決議が出ないと何もできないと苛立つ。つまり面倒なことには関わるなということだった。
現場のマルシャン軍曹はすでに塹壕まで行き、チキたちと接触していた。しかし本部は地雷処理班の出動を拒否し、すぐに帰れと命令する。軍曹はせめてチキとニノを連れて帰ろうとするが、チキはツェラを見捨てないと言い張り、防護軍と行こうとしたニノの足を撃つ。ニノがいなくなるとセルビア軍から攻撃される可能性があるためだ。防護軍は結局3人を塹壕に残して帰ってしまう。
帰ってきたマルシャン軍曹をテレビカメラとリビングストン特派員が待ち構えていた。テレビ局は無線のやり取りを傍受しており、国連は彼らを救助しないのかと詰め寄る。彼らを助けたいと思っている軍曹はこの状況を逆手に取り、上官に再度3人の救出を願い出る。
テレビではボスニアの中間地点で数名が立ち往生しているというニュースが流され、動かざるをえなくなったソフト大佐はヘリで現場へ向かう。さらにデュボア大尉も現場へ赴き、ドイツ兵の地雷処理班が呼ばれる。防護軍と多くのマスコミが中間地帯に移動する。
塹壕内のニノは足を撃たれたことに腹を立て、ナイフでチキを刺し殺そうとする。ニノは防護軍に取り押さえられるが、2人の憎しみの感情はマックスに達していた。
ツェラの下にある地雷を確認したドイツ兵は、このタイプの地雷は一度仕掛けると処理が出来ないと言う。マルシャン軍曹たちが途方に暮れている中、ソフト大佐がヘリでやってくる。話を聞いた大佐はマスコミに向けて作業をするフリだけすればいいと指示する。
チキとニノの見張りを命じられていた若い兵士は、騒ぎに気をとられ2人から目を離す。その隙を狙ってチキは銃を拾いニノを撃とうとする。チキは殺到してきたマスコミに向かって“お前らはみんな同類だ、俺らの悲劇がそんなに儲かるのか”と怒りをぶつける。ニノは兵士の銃を奪いチキを撃とうとして、チキに撃ち殺され、チキは兵士に射殺されてしまう。
大佐は地雷処理が終了したと大尉に芝居をさせ、防護軍を引き揚げさせる。さらにマスコミに対して改めて記者会見をすると約束して、彼らを退去させる。マルシャン軍曹も最後には諦め、塹壕内の身動きの出来ないツェラだけが取り残される。
この映画は笑いとメッセージを両立させるという、映画では決して容易ではないことを実現している。
諷刺される対象は四者ある。まず互いに敵を罵倒しつつ慌てふためく両軍2組が皮肉られる。
次いで国連という組織のほとんど存在論的な欺瞞が思い切りあてこすられる。
ここで国連上層部はひたすら世評をおそれていて、メディア対策のために中間地帯への救助出動を許可し、またそれを恣意的に取り消す。
最後にニュースメディアが嘲笑される。かれらも視聴者の反応と局内での評価に隷従し、取材後はもはやニュース価値がないと考えて塹壕のなかを確認しないまま引き上げてしまう。
人びとが戦場から去ったあと、塹壕では兵士ツェラだけがたった一人、除去不能の地雷を背に敷いて横たわったまま取り残されている。もはや誰も彼を助けることはない。世界の愚かしさに向けて叩きつけたメッセージは明確だった。
こうして、わかったふうなことを言っている私も、「世界の愚かしさ」の中に含まれているのだ。勿論。そしてそれが故に、この映画を観て、とても混乱している。
カメラワークもカット・構成もしっかりと手慣れており、前に観た『鉄くず拾いの物語』の、いかにも拙い手つきが、意図的な反演出志向に基づいて選択されたものだったことが、改めて確認出来た。
『ノー・マンズ・ランド』はボスニア・ヘルツェゴヴィナの紛争が深刻だった1993年当時の戦場を舞台にしている。
ボスニア軍の交代要員8人は、闇に紛れて前線へ移動していた。しかしその日は霧が深く、兵士たちは道に迷ってしまう。
夜が明け視界が開けると、彼らはセルビア陣地に入り込んでいた。
セルビア軍の容赦ない攻撃により6人は即死状態だったが、チキとツェラは中間地帯にある無人の塹壕付近まで逃げる。しかし砲撃によりチキは塹壕の中へ、ツェラは塹壕の外に吹き飛ばされる。
セルビア陣営の老兵と新人兵のニノは偵察を命じられ、塹壕へ向かう。塹壕内ではチキが生き残っており、2人の様子を伺っていた。老兵は塹壕内にジャンプ式の地雷を埋め、その上に意識のないツェラを寝かせる。地雷はツェラを動かすと爆発する仕組みになっていた。
チキは隙を狙って2人を銃撃する。老兵は即死したが、ニノは生き残る。チキはニノを裸にして塹壕の外で白いシャツを振らせる。セルビア軍はニノがどちらの兵士かわからないまま砲弾を打つ。
その音でツェラが意識を取り戻す。しかしツェラを救うには背中の下の地雷を処理してもらうしか方法がない。
チキとニノは互いを牽制し合いながらも、協力してこの状況を打開することにする。今度は2人で裸になって外で白いシャツを振る。両陣営は対応に苦慮し、国連防護軍に連絡する。
連絡を受けた国連防護軍フランス兵のマルシャン軍曹はサラエボ本部のデュボア大尉から上官と相談するので待機するよう命じられるが、命令を無視してすぐに動き始める。まずは両陣営の検問所へ銃撃しないよう要請に行く。
デゥボラ大尉はソフト大佐に相談するが、大佐は防護軍の任務は人道援助であり国連決議が出ないと何もできないと苛立つ。つまり面倒なことには関わるなということだった。
現場のマルシャン軍曹はすでに塹壕まで行き、チキたちと接触していた。しかし本部は地雷処理班の出動を拒否し、すぐに帰れと命令する。軍曹はせめてチキとニノを連れて帰ろうとするが、チキはツェラを見捨てないと言い張り、防護軍と行こうとしたニノの足を撃つ。ニノがいなくなるとセルビア軍から攻撃される可能性があるためだ。防護軍は結局3人を塹壕に残して帰ってしまう。
帰ってきたマルシャン軍曹をテレビカメラとリビングストン特派員が待ち構えていた。テレビ局は無線のやり取りを傍受しており、国連は彼らを救助しないのかと詰め寄る。彼らを助けたいと思っている軍曹はこの状況を逆手に取り、上官に再度3人の救出を願い出る。
テレビではボスニアの中間地点で数名が立ち往生しているというニュースが流され、動かざるをえなくなったソフト大佐はヘリで現場へ向かう。さらにデュボア大尉も現場へ赴き、ドイツ兵の地雷処理班が呼ばれる。防護軍と多くのマスコミが中間地帯に移動する。
塹壕内のニノは足を撃たれたことに腹を立て、ナイフでチキを刺し殺そうとする。ニノは防護軍に取り押さえられるが、2人の憎しみの感情はマックスに達していた。
ツェラの下にある地雷を確認したドイツ兵は、このタイプの地雷は一度仕掛けると処理が出来ないと言う。マルシャン軍曹たちが途方に暮れている中、ソフト大佐がヘリでやってくる。話を聞いた大佐はマスコミに向けて作業をするフリだけすればいいと指示する。
チキとニノの見張りを命じられていた若い兵士は、騒ぎに気をとられ2人から目を離す。その隙を狙ってチキは銃を拾いニノを撃とうとする。チキは殺到してきたマスコミに向かって“お前らはみんな同類だ、俺らの悲劇がそんなに儲かるのか”と怒りをぶつける。ニノは兵士の銃を奪いチキを撃とうとして、チキに撃ち殺され、チキは兵士に射殺されてしまう。
大佐は地雷処理が終了したと大尉に芝居をさせ、防護軍を引き揚げさせる。さらにマスコミに対して改めて記者会見をすると約束して、彼らを退去させる。マルシャン軍曹も最後には諦め、塹壕内の身動きの出来ないツェラだけが取り残される。
この映画は笑いとメッセージを両立させるという、映画では決して容易ではないことを実現している。
諷刺される対象は四者ある。まず互いに敵を罵倒しつつ慌てふためく両軍2組が皮肉られる。
次いで国連という組織のほとんど存在論的な欺瞞が思い切りあてこすられる。
ここで国連上層部はひたすら世評をおそれていて、メディア対策のために中間地帯への救助出動を許可し、またそれを恣意的に取り消す。
最後にニュースメディアが嘲笑される。かれらも視聴者の反応と局内での評価に隷従し、取材後はもはやニュース価値がないと考えて塹壕のなかを確認しないまま引き上げてしまう。
人びとが戦場から去ったあと、塹壕では兵士ツェラだけがたった一人、除去不能の地雷を背に敷いて横たわったまま取り残されている。もはや誰も彼を助けることはない。世界の愚かしさに向けて叩きつけたメッセージは明確だった。
こうして、わかったふうなことを言っている私も、「世界の愚かしさ」の中に含まれているのだ。勿論。そしてそれが故に、この映画を観て、とても混乱している。
20180524
『隠された記憶』
映画を観始めてしばらくしてから、この映画は単純に筋を追うだけでは、間違った観方になってしまうと気付き、居住まいを正した。
一見、心理サスペンス映画のような気がする。
出版社に勤める妻アンヌと息子ピエロと共に、成功した人生を送るテレビキャスター、ジョルジュの元に、奇妙なビデオが送りつけられる。それは、ジョルジュの自宅を外から長時間にわたって隠し撮りしたものだった。
最初は単なる悪戯だと思っていたジョルジュだったが、その後もビデオは送りつけられる。血を吐く子どもの絵と共に。
同じ絵は身の回りの人々にも送りつけられる。
繰り返される不気味な出来事に、次第に不安を募らせる夫婦。
3度目のテープには、走る車の中からジョルジュの実家を映した映像と共に首を斬られた鶏の絵が添えられていたことから、ジョルジュは心の奥深くに封印し、すっかり忘れていた「過去の罪」を思い出す。
40年以上前の1961年、ジョルジュが6歳だった頃、使用人として働いていたアルジェリア人夫婦がアルジェリア独立運動のデモに参加して亡くなる。ジョルジュの両親は遺された息子マジッドを養子にすることを決めるが、それがどうしても嫌だったジョルジュは、マジッドを騙して鶏を殺させるなどして凶暴で残酷な子供であるかのように見せかけ、両親に告げ口してマジッドが施設に送られるように仕向けていたのだ。
テープに写されていた映像に導かれてマジッドの住む団地にやって来たジョルジュはマジッドを厳しく問いつめるが、マジッドは何も知らないと言う。マジッドは本当に何も知らない様子なのだが、ジョルジュはマジッドによる脅迫だと決めつけ、彼を激しく脅す。ところが、その様子を隠し撮りした映像がアンヌだけでなく、ジョルジュの職場の上司にも送りつけられたことで、ジョルジュはますます精神的に追いつめられて行く。
更に息子ピエロが行方をくらます事件が起きる。マジッドが誘拐したと思い込んだジョルジュは警官を連れてマジッドの部屋に押し掛ける。しかし、ピエロは母アンヌの不倫に怒って友人の家に黙って泊まっていただけだった。
そんなある日、ジョルジュはマジッドに呼び出される。マジッドはジョルジュを部屋に入れると、ビデオとは何の関係もないと言い、自ら喉を切って自殺してしまう。激しいショックでその場を逃げ出したジョルジュだったが、アンヌに事情を話して警察に届ける。
それからしばらくして、マジッドの息子がジョルジュの職場に押し掛ける。自分は悪くないと取り乱すジョルジュを前に、マジッドの息子は、自分がビデオとは関係がないこと、ジョルジュのせいで施設送りとなった父マジッドが苦労して自分を育ててくれたことを語ると共に、ジョルジュが心の中に疾しいものを抱えていることを鋭く指摘する。
ピエロの学校の出入り口を遠くから写した映像が流れる。そこにはマジッドの息子とピエロが親しげに何かを話している様子が写っていた。
ここで映画は唐突に終わる。
単純に考えればピエロとマジッドの息子の共犯だったと思わせるようなエンディングだ。仮にそうだとしても心理サスペンスとして立派に成立する。
しかし、それ程この映画は単純なのだろうか?ミヒャエル・ハネケ監督はそれ程「素直な」監督だろうか?
ラストシーンは、映画を観ている我々に送りつけられたビデオなのではないか?ふと、そう思って合点が行った。
では、送られて来た数々のビデオ映像は誰が撮ったのか?
最初のシーンでビデオを見ながら主人公の言った言葉がヒント、いや、答えだ。
あの時、主人公は妻に向かってこう言った。
「どこにも盗撮用のカメラなんかなかったし、車の窓越しの撮影でもない」と。
では、その状況下であの映像を撮影する事が出来る人間とは誰か?
それは、本作『隠された記憶』という映画のカメラマンである。
盗撮ではなく、この映画の為に撮っているのだから気がつくとか気がつかないとかのレベルではない。
すでに、ここでハネケ監督お得意のメタ構造になっている。
オープニングカットとラストカットに映画のクレジットが乗っかっているのはそのせいなのだ。
結局、犯人とはハネケ監督であり、同時にそれを観る我々である。
すなわち、我々観客が望んでいるモノ(=本作ではビデオテープに写っている他人の生活)は覗き見だ。
現代にあふれるメディアやマスコミ、それを求める人々に対しての強烈な皮肉でもあるのだ。
夫婦の職業がマスコミなのはもちろん計算されての事である。
ふだん、人の生活を覗き見る側にいる人間が覗き観られる側に立つとどうなるのかを意地悪く描写している訳だ。
さすがハネケ。意地の悪さ天下一品である。
音楽はない。
一見、心理サスペンス映画のような気がする。
出版社に勤める妻アンヌと息子ピエロと共に、成功した人生を送るテレビキャスター、ジョルジュの元に、奇妙なビデオが送りつけられる。それは、ジョルジュの自宅を外から長時間にわたって隠し撮りしたものだった。
最初は単なる悪戯だと思っていたジョルジュだったが、その後もビデオは送りつけられる。血を吐く子どもの絵と共に。
同じ絵は身の回りの人々にも送りつけられる。
繰り返される不気味な出来事に、次第に不安を募らせる夫婦。
3度目のテープには、走る車の中からジョルジュの実家を映した映像と共に首を斬られた鶏の絵が添えられていたことから、ジョルジュは心の奥深くに封印し、すっかり忘れていた「過去の罪」を思い出す。
40年以上前の1961年、ジョルジュが6歳だった頃、使用人として働いていたアルジェリア人夫婦がアルジェリア独立運動のデモに参加して亡くなる。ジョルジュの両親は遺された息子マジッドを養子にすることを決めるが、それがどうしても嫌だったジョルジュは、マジッドを騙して鶏を殺させるなどして凶暴で残酷な子供であるかのように見せかけ、両親に告げ口してマジッドが施設に送られるように仕向けていたのだ。
テープに写されていた映像に導かれてマジッドの住む団地にやって来たジョルジュはマジッドを厳しく問いつめるが、マジッドは何も知らないと言う。マジッドは本当に何も知らない様子なのだが、ジョルジュはマジッドによる脅迫だと決めつけ、彼を激しく脅す。ところが、その様子を隠し撮りした映像がアンヌだけでなく、ジョルジュの職場の上司にも送りつけられたことで、ジョルジュはますます精神的に追いつめられて行く。
更に息子ピエロが行方をくらます事件が起きる。マジッドが誘拐したと思い込んだジョルジュは警官を連れてマジッドの部屋に押し掛ける。しかし、ピエロは母アンヌの不倫に怒って友人の家に黙って泊まっていただけだった。
そんなある日、ジョルジュはマジッドに呼び出される。マジッドはジョルジュを部屋に入れると、ビデオとは何の関係もないと言い、自ら喉を切って自殺してしまう。激しいショックでその場を逃げ出したジョルジュだったが、アンヌに事情を話して警察に届ける。
それからしばらくして、マジッドの息子がジョルジュの職場に押し掛ける。自分は悪くないと取り乱すジョルジュを前に、マジッドの息子は、自分がビデオとは関係がないこと、ジョルジュのせいで施設送りとなった父マジッドが苦労して自分を育ててくれたことを語ると共に、ジョルジュが心の中に疾しいものを抱えていることを鋭く指摘する。
ピエロの学校の出入り口を遠くから写した映像が流れる。そこにはマジッドの息子とピエロが親しげに何かを話している様子が写っていた。
ここで映画は唐突に終わる。
単純に考えればピエロとマジッドの息子の共犯だったと思わせるようなエンディングだ。仮にそうだとしても心理サスペンスとして立派に成立する。
しかし、それ程この映画は単純なのだろうか?ミヒャエル・ハネケ監督はそれ程「素直な」監督だろうか?
ラストシーンは、映画を観ている我々に送りつけられたビデオなのではないか?ふと、そう思って合点が行った。
では、送られて来た数々のビデオ映像は誰が撮ったのか?
最初のシーンでビデオを見ながら主人公の言った言葉がヒント、いや、答えだ。
あの時、主人公は妻に向かってこう言った。
「どこにも盗撮用のカメラなんかなかったし、車の窓越しの撮影でもない」と。
では、その状況下であの映像を撮影する事が出来る人間とは誰か?
それは、本作『隠された記憶』という映画のカメラマンである。
盗撮ではなく、この映画の為に撮っているのだから気がつくとか気がつかないとかのレベルではない。
すでに、ここでハネケ監督お得意のメタ構造になっている。
オープニングカットとラストカットに映画のクレジットが乗っかっているのはそのせいなのだ。
結局、犯人とはハネケ監督であり、同時にそれを観る我々である。
すなわち、我々観客が望んでいるモノ(=本作ではビデオテープに写っている他人の生活)は覗き見だ。
現代にあふれるメディアやマスコミ、それを求める人々に対しての強烈な皮肉でもあるのだ。
夫婦の職業がマスコミなのはもちろん計算されての事である。
ふだん、人の生活を覗き見る側にいる人間が覗き観られる側に立つとどうなるのかを意地悪く描写している訳だ。
さすがハネケ。意地の悪さ天下一品である。
音楽はない。
20180518
『パラダイス・ナウ』
また中東が荒れている。またアメリカのせいだ。
トランプがエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転したことに対して、それに抗議するデモ隊とイスラエル軍の衝突が続いている。現時点で生後8ヶ月の幼女を含むガザの民62名が死亡している。
14日はイスラエル建国によって70万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大惨事)」から、丁度70周年にあたり、その節目の日にパレスチナでは、米国とイスラエルへの憎悪が更に高まっている。
国連でも激しい意見の応酬があった。
このイスラエルによるガザへの無差別攻撃を受けてUPLINKはハニ・アブ・アサド監督の『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』を緊急無料配信。ナクバとパレスチナの現状に対する理解を求めている。
『パラダイス・ナウ』を観た。
日本軍による特攻が、現在の自爆テロに影響を与えていないと言えば、嘘になるだろう。その意味で、自爆テロ発祥の地である日本で、この映画を見なければ、自爆テロの理解が出来ないというのも皮肉な話だ。
特攻も自爆テロも、本質的に外道だと、私は思う。けれどならば何故、そうした行為が止まないのか?それに対する答えは、まだない。
映画は、自爆テロをする側パレスチナの視点で描かれている。自爆テロ実行に至る48時間を丹念に追い、実行役はテロの前日をどう過ごすのかをリアルに描いて、その論理と心情を説得力のある形で、差し出している。
と言っても、自爆テロを賛美している訳ではない。むしろハニ・アブ・アサド監督の立場は自爆テロに批判的だ。
もう一度問う。ならば何故そうした行為が止まないのか?
それを理解する為には、そこに追い込まれて行く若者の行為と論理にそっと寄り添ってみる必要もあるのではないか?
この映画はそう言っているように、私には思える。
舞台はイスラエル軍に包囲された西岸の町ナブルス。自動車の修理工場で働くサイードとハーレドは、先の見えない現状に苛立ちを募らせていた。独立運動の英雄の娘でモロッコからナブルスにやって来たスーハは、サイードに心を寄せるが、サイードとハーレドのふたりはパレスチナ過激派の自爆テロの実行役に選ばれる。
スーハは暴力的な闘争に反対しているが、彼女が唱える非暴力的な人権運動は、閉塞感に囚われたサイードたち下層階級の心を変えるに至らない。自爆テロ決行の日となり、ふたりはユダヤ人地区に潜入しようとするが、イスラエル軍に発見されかけ、攻撃は未遂に終わる。サイードは仲間とはぐれてしまう。
ハーレドは必死になって、サイードを探すが、その間、物語は二転三転する。
この映画ではパレスチナの占領地の現実が、これまでにない程正確に、丁寧に、そして誠実に描かれている。ハニ・アブ・アサド監督はパレスチナの人物ではあるが、映画で政治的な主張をするタイプではない。あくまでもこの映画を「主張ではなく説明」と解説している。
とは言え、この映画は色気が全くない訳ではない。主人公のパレスチナ人が仲間に用意される最後のご馳走の場面は、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』そのままの構図になっている。これは強烈な皮肉だ。あの絵の主人公は、ユダヤ人によって処刑されたイエス・キリストなのだから。
その他にも、テロリストデビュー(と同時に人生最後の1日)の日に「伝説のリーダー」と面会するが、そのリーダーは、思ったより遙かに小柄で普通の人だったというエピソード。身体に巻くテープの品質が悪かった件について語る場面。犯行声明のビデオを撮影するときに、周りの連中が立ち食いして緊張感をぶち壊しにしているシーンなど。いずれもそこはかとない気まずさ、滑稽感が漂っている。ハニ・アブ・アサド監督は聖戦の現実とはこんなものさと、自嘲的に呟いている様だ。
そうした丁寧な描写でサイードとハーレドを見ていると、いつの間にか彼らに同調している自分に気が付く。しかし彼らは自爆テロの実行役なのだ。その事に気付いて思わず慄然とする。
爆弾を背負ってイスラエルに突入するふたりは、狂信者でも何でもなく、どこの国にのいる、現状に不満を抱くただの破れかぶれな若者なのだ。そこに見える若さ故の破壊衝動には共感すら抱く事が出来る。だが、彼らは間違いなくテロリストなのだ。
日々イスラエルの攻撃に晒され、国土が入植によって蚕食され続けるパレスチナ。その現状を想像する事は、アメリカに守られているという日本では、難しい事なのかも知れない。けれど、一旦彼らの日常に寄り添ってみると、彼らも私たちの日常と地続きの、同じ現実を生きているのだと言う事に気付く。
テロリストは思ったよりも遙かに身近な存在なのだ。
この機会に、こうした映画を見せてくれたUPLINKの英断に、深い感謝を表したい。
トランプがエルサレムをイスラエルの首都と認め、米大使館を移転したことに対して、それに抗議するデモ隊とイスラエル軍の衝突が続いている。現時点で生後8ヶ月の幼女を含むガザの民62名が死亡している。
14日はイスラエル建国によって70万人のパレスチナ人が故郷を追われた「ナクバ(大惨事)」から、丁度70周年にあたり、その節目の日にパレスチナでは、米国とイスラエルへの憎悪が更に高まっている。
国連でも激しい意見の応酬があった。
このイスラエルによるガザへの無差別攻撃を受けてUPLINKはハニ・アブ・アサド監督の『パラダイス・ナウ』と『オマールの壁』を緊急無料配信。ナクバとパレスチナの現状に対する理解を求めている。
『パラダイス・ナウ』を観た。
日本軍による特攻が、現在の自爆テロに影響を与えていないと言えば、嘘になるだろう。その意味で、自爆テロ発祥の地である日本で、この映画を見なければ、自爆テロの理解が出来ないというのも皮肉な話だ。
特攻も自爆テロも、本質的に外道だと、私は思う。けれどならば何故、そうした行為が止まないのか?それに対する答えは、まだない。
映画は、自爆テロをする側パレスチナの視点で描かれている。自爆テロ実行に至る48時間を丹念に追い、実行役はテロの前日をどう過ごすのかをリアルに描いて、その論理と心情を説得力のある形で、差し出している。
と言っても、自爆テロを賛美している訳ではない。むしろハニ・アブ・アサド監督の立場は自爆テロに批判的だ。
もう一度問う。ならば何故そうした行為が止まないのか?
それを理解する為には、そこに追い込まれて行く若者の行為と論理にそっと寄り添ってみる必要もあるのではないか?この映画はそう言っているように、私には思える。
舞台はイスラエル軍に包囲された西岸の町ナブルス。自動車の修理工場で働くサイードとハーレドは、先の見えない現状に苛立ちを募らせていた。独立運動の英雄の娘でモロッコからナブルスにやって来たスーハは、サイードに心を寄せるが、サイードとハーレドのふたりはパレスチナ過激派の自爆テロの実行役に選ばれる。
スーハは暴力的な闘争に反対しているが、彼女が唱える非暴力的な人権運動は、閉塞感に囚われたサイードたち下層階級の心を変えるに至らない。自爆テロ決行の日となり、ふたりはユダヤ人地区に潜入しようとするが、イスラエル軍に発見されかけ、攻撃は未遂に終わる。サイードは仲間とはぐれてしまう。
ハーレドは必死になって、サイードを探すが、その間、物語は二転三転する。
この映画ではパレスチナの占領地の現実が、これまでにない程正確に、丁寧に、そして誠実に描かれている。ハニ・アブ・アサド監督はパレスチナの人物ではあるが、映画で政治的な主張をするタイプではない。あくまでもこの映画を「主張ではなく説明」と解説している。
とは言え、この映画は色気が全くない訳ではない。主人公のパレスチナ人が仲間に用意される最後のご馳走の場面は、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』そのままの構図になっている。これは強烈な皮肉だ。あの絵の主人公は、ユダヤ人によって処刑されたイエス・キリストなのだから。
その他にも、テロリストデビュー(と同時に人生最後の1日)の日に「伝説のリーダー」と面会するが、そのリーダーは、思ったより遙かに小柄で普通の人だったというエピソード。身体に巻くテープの品質が悪かった件について語る場面。犯行声明のビデオを撮影するときに、周りの連中が立ち食いして緊張感をぶち壊しにしているシーンなど。いずれもそこはかとない気まずさ、滑稽感が漂っている。ハニ・アブ・アサド監督は聖戦の現実とはこんなものさと、自嘲的に呟いている様だ。
そうした丁寧な描写でサイードとハーレドを見ていると、いつの間にか彼らに同調している自分に気が付く。しかし彼らは自爆テロの実行役なのだ。その事に気付いて思わず慄然とする。
爆弾を背負ってイスラエルに突入するふたりは、狂信者でも何でもなく、どこの国にのいる、現状に不満を抱くただの破れかぶれな若者なのだ。そこに見える若さ故の破壊衝動には共感すら抱く事が出来る。だが、彼らは間違いなくテロリストなのだ。
日々イスラエルの攻撃に晒され、国土が入植によって蚕食され続けるパレスチナ。その現状を想像する事は、アメリカに守られているという日本では、難しい事なのかも知れない。けれど、一旦彼らの日常に寄り添ってみると、彼らも私たちの日常と地続きの、同じ現実を生きているのだと言う事に気付く。
テロリストは思ったよりも遙かに身近な存在なのだ。
この機会に、こうした映画を見せてくれたUPLINKの英断に、深い感謝を表したい。
20180516
『鉄くず拾いの物語』
『うさこさんと映画』の中の映画評「0479. 鉄くず拾いの物語(2013)」が優れたレビューになっている。私がこの映画を知ったのもこのレビューからだった。映画を観た後再読し、改めてその的確な表現に感心した。
その冒頭の部分。
完璧だ。
映画を見始めて戸惑った。映像が美しくない。素人が撮ったような、何の演出も感じさせない画面が続く。
監督のダニス・タノビッチは語る。
何もかもが貧しく、汚れている。大きな谷一杯に廃品が積み上がるゴミ捨て場、鉄工所、コンビナート。全てが汚れている。実際、この国の状況は、戦時中よりひどいという。
ロマという少数者である事が、更に厳しい状況に彼らを追い込んで行く。ある日、妻セナダの身体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしなければ敗血症になり、死に至ることを宣告される。だが保険証がない。
多くのロマはナジフのように、子どもに教育を受けさせる為に、医療保障のない日雇いの仕事に就く事を余儀なくされている。保険証を持たない彼らが、治療を受けられるかどうかは、医者の善意によって、左右されているのだ。
手術代980マルク(約500ユーロ)が払えない。いわば5万円がない為に死んで行く事になる。ナジフは「分割で払わせてくれ」と看護師や医師に懇願するが、その願いは受け入れられない。夫ナジフはゴミ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体「子どもの地」を頼るものの事態は打開できない。時間が迫る。
ダニス・タノヴィッチ監督は言う。
夫ナジフは何とかセナダの妹から保険証を借りる事が出来た。他人の保険証を手にして診察室に入って行ったきりの妻セナダを、夫ナジフは椅子もない廊下で待ち続ける。幼い娘たちは退屈して遊び、騒ぎ、やがて静かになる。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫ナジフの不安げな横顔。
妻セナダが戻ってきた。再び一家揃った、生活が始まる。しかし、エンディングのここでも、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪を割り、抱えて、無言で戻る主人公を見送って、古い壁をじっと映して映画は終わる。
ダニス・タノヴィチ監督は、地元の新聞に書かれたセナダの記事を読んで、この事実を知った。このエピソードに怒りを覚えた監督は、数日後にナジフとセナダの暮らす村を訪ねた。ふたりに会った時の事を、監督はこう振り返っている。
ナジフやセナダをはじめ、彼らとともに暮らすロマ地区の人たちの協力によってこの映画は誕生した。映画に登場する殆ど全ての人たちは、実名で、実際の出来事で同じ役割を担った人たちだ。違う人だったのは、医者を演じた2人だけだったという。
今迄観た映画は、どれも美しい映像を見せてくれた。それが例えドキュメンタリーと呼ばれる分野でも演出はあった。私たちはそうした演出された美しい映画を見慣れている。けれどこの映画にはその、安心出来る美しさがない。
この映画は、腹を立てているのだ。現実の矛盾に、不条理に、そしてその醜さに。涙も、議論も、叫び声をも突き抜けて、もう何も残らない程深い場所から。
ダニス・タノヴィチ監督は、現実を語り直す作業を通じて、その現実の持つ醜さを、ありのまま突き付ける選択をしたのだ。そしてその選択は成功していると、私は感じる。
彼らはひとつの現実の手触りを、世界に伝えたのだ。
その冒頭の部分。
ひとつの実話をつうじて、紛争後のボスニア・ヘルツェゴヴィナの社会をえがく。美しさをかたくなに拒んだようなその映像のなかに、ありのままの光景をさし出そうとする無言の覚悟が浮かび上がる。主人公を演じるのも俳優ではない。鉄くず――あるいは屑鉄――を売って家族をやしなっている一人の男性で、かれはロマ族の妻をもつ夫として実際に自分たちの身に起きたことを再現していく。
完璧だ。
映画を見始めて戸惑った。映像が美しくない。素人が撮ったような、何の演出も感じさせない画面が続く。
監督のダニス・タノビッチは語る。
撮影には小さなキヤノンのカメラを使い、クルーも8人だけ。彼らにすれば、子供が回りで遊んでいるようなものだったと思う。この映画に必要なのは、ナジフとセナダの生活に入らせてもらうことだった。私たちはできるだけ彼らから見えない状態で撮影にあたった。季節は冬。雪交じりの凍てついた日々が続く。夫ナジフは仲間と共に廃車を手斧で壊し、鉄くずを選り分けて売り、100マルクほどの代価を受け取り、仲間と分け、妻セナダと幼い娘たちと食卓を囲む。
何もかもが貧しく、汚れている。大きな谷一杯に廃品が積み上がるゴミ捨て場、鉄工所、コンビナート。全てが汚れている。実際、この国の状況は、戦時中よりひどいという。
ロマという少数者である事が、更に厳しい状況に彼らを追い込んで行く。ある日、妻セナダの身体の中で胎児が死んでいて、ただちに手術をしなければ敗血症になり、死に至ることを宣告される。だが保険証がない。
多くのロマはナジフのように、子どもに教育を受けさせる為に、医療保障のない日雇いの仕事に就く事を余儀なくされている。保険証を持たない彼らが、治療を受けられるかどうかは、医者の善意によって、左右されているのだ。
手術代980マルク(約500ユーロ)が払えない。いわば5万円がない為に死んで行く事になる。ナジフは「分割で払わせてくれ」と看護師や医師に懇願するが、その願いは受け入れられない。夫ナジフはゴミ捨て場に鉄を拾いに行く。廃品の鉄は94マルクにしかならない。民間の支援団体「子どもの地」を頼るものの事態は打開できない。時間が迫る。
ダニス・タノヴィッチ監督は言う。
撮影当初は彼らがロマであることを意識はしていなかったのですが、制作していくうちに、もしセナダが青い瞳で金髪だったら扱われ方が違ったのではないかと考えるようになりました。そして、残念ながら答えはきっと『YES』だったと思いました。我々が考えなければならないのは、我々も違う場所に行けば少数民族になるかもしれないという事です。社会は、マイノリティの立場で見ると、全然違うものに見えるのです。
夫ナジフは何とかセナダの妹から保険証を借りる事が出来た。他人の保険証を手にして診察室に入って行ったきりの妻セナダを、夫ナジフは椅子もない廊下で待ち続ける。幼い娘たちは退屈して遊び、騒ぎ、やがて静かになる。時間の長さ。薄暗い光。疲れ果てた夫ナジフの不安げな横顔。妻セナダが戻ってきた。再び一家揃った、生活が始まる。しかし、エンディングのここでも、雪に埋もれた冬の村の美しさが映されることはない。薪を割り、抱えて、無言で戻る主人公を見送って、古い壁をじっと映して映画は終わる。
ダニス・タノヴィチ監督は、地元の新聞に書かれたセナダの記事を読んで、この事実を知った。このエピソードに怒りを覚えた監督は、数日後にナジフとセナダの暮らす村を訪ねた。ふたりに会った時の事を、監督はこう振り返っている。
この夫婦に温かく歓迎されていると感じました。この出来事を通常の映画にするには1年か2年かかかるということで、(プロデビューサーの)アムラと私は意見が一致し1度は諦めました。数日後、私は再び村に戻り、映画で自分たち自身を演じてくれないか、と彼らに提案してみたのです。
ナジフやセナダをはじめ、彼らとともに暮らすロマ地区の人たちの協力によってこの映画は誕生した。映画に登場する殆ど全ての人たちは、実名で、実際の出来事で同じ役割を担った人たちだ。違う人だったのは、医者を演じた2人だけだったという。
今迄観た映画は、どれも美しい映像を見せてくれた。それが例えドキュメンタリーと呼ばれる分野でも演出はあった。私たちはそうした演出された美しい映画を見慣れている。けれどこの映画にはその、安心出来る美しさがない。
この映画は、腹を立てているのだ。現実の矛盾に、不条理に、そしてその醜さに。涙も、議論も、叫び声をも突き抜けて、もう何も残らない程深い場所から。
ダニス・タノヴィチ監督は、現実を語り直す作業を通じて、その現実の持つ醜さを、ありのまま突き付ける選択をしたのだ。そしてその選択は成功していると、私は感じる。
彼らはひとつの現実の手触りを、世界に伝えたのだ。
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