20150813

『属国』

特別に新しいことを言っている訳ではない。
タイトルの「属国(Client State)」は70〜80年代に掛けて政権の中枢にあった後藤田正晴の2003年の発言から採ったものであるし、副題のAmerican Embraceはジョン・ダワーの有名な著作『敗北を抱きしめて』を引いている。

2008年の作品だ。その後日本は大きな変革の渦(またはその予感)に巻き込まれた。

古びてしまっている記述や、予測が現実との食い違いを見せている部分も多く見られる。

だが作品としては全く古びていない。当時の状況下でここまで出来るのかと感心する程、現在の日本及び日本を取り巻く状況を見事に予言している箇所に満ちている。

その為この本を読むことで腑に落ちる物事の多さに驚かされる。

ガバン・マコーマックの『属国─米国の抱擁とアジアでの孤立』だ。


この本では当時まだ生々しい記憶だった小泉純一郎の評価と批判にかなりの紙面が割かれている。

自民党をぶっ壊すと勇ましいかけ声と共に時代を作った小泉内閣だったが、彼がやったことはそのかけ声に値する変革だったのだろうか?

彼は郵政改革を旗印に選挙を戦ったが、その郵政改革とはそれ程迄に当時の日本に於いて重要な課題だったのだろうか?

むしろそれを重要視していたのは保険事業で日本への参入を狙っていたアメリカだったのではないか?

つまり小泉純一郎はアメリカの要求を第一に考え、それに応えるべくして多様なパフォーマンスを繰り広げていたのではないだろうか。

そしてそれ故に日本というアイデンティティを保つべく、ナショナリズムを前面に打ち出す必要性も感じていた筈だ。

だからこそ靖国への参拝にあれ程こだわったのだ。

かたや神道の価値観を守るナショナリストを演じ、かたやワシントンを喜ばせ忠誠を尽くしたいと熱望する指導者の下、日本のアイデンティティはひき裂かれてずたずたになっている。
日本はアジアに属する国であることは間違いないだろう。しかし、アジアに於いて特別な優れた国であるという偏見に毒された指導者は(そして国民は)アジアの国であるよりもアメリカに属する国であることを選択してしまっている。
 日本は大嵐に翻弄されたような20世紀の体験から、世界の超大国と同盟した時にもっともうまくゆくという教訓を得た。─同盟相手は最初の20年間が英国で、最後の50年間は米国だ。こうした同盟を結んでいるあいだ日本は安全と繁栄を享受したが、その谷間になった30年間は外交的に孤立し、結局戦争と荒廃が日本にもたらされた。したがって日本としてはコストがいかにかかろうとも国際的孤立だけは避けなければならない。だからこそ、世界に君臨する帝国に補助金を支払っても、日本にとってそれは十分採算にあう─こうした考えが日本人の安全保障観の深層にまで根を下ろし、冷戦が終わって安全保障をめぐる状況が本質的に変化しても、日米関係を再検証するなど、論外であった。
この様に日本が米国の属国であるという「色眼鏡」を掛けることによって、数多くの現象が説明可能になる。

多くの国民が反対し、地元沖縄からは強烈な拒否に出会っても、辺野古に基地を作ることを頑として変更しないのは何故なのか?

またこれも多くの国民の反対を押して、何故原子力発電所にこだわり続けるのか?

更に何故、憲法の改正にあくまでも固執し続けるのか?

これらは恰も皆日本国内の問題であり、それを推し進める原動力は日本の中のナショナリズムであるかのように語られる。

だがこの本の中でこれらは全て米国の要求である事が明らかにされる。

こうした「改正」は自主憲法を制定して1946年の「米国」モデルを「日本」モデルに変更することだとよく言われるが、そのじつ自民党の憲法草案には、米政府の利益と要求が1946年に負けず劣らず反映されている。したがって、自主憲法制定は外国政府の指示に従って外国の利益のために行われるものであり、また国民の権利を制限し国家権力を強めるという点で例のない改正案である。

この本の末尾に今日我々に求められているものは何かが示されている。

地球を救うことである。

その為にこそ日本人の想像力、知恵、寛大さなどを最大限に「動員」すべきなのではないだろうか?

20150619

『原子・原子核・原子力』

著者の頭脳が恐ろしいほどに知的に整理されているのだろう。久し振りに自分の頭の中がすっきりと整理されてゆく快感を味わった。
山本義隆氏の最新刊『原子・原子核・原子力─わたしが講義で伝えたかったこと』だ。

この本は著者が務めている駿台予備校の千葉校で2013年3月、高校生、受験生、そして大学入学が決まった学生を対象に行った特別講義「原子・原子核・原子力」が元になっている。

高校卒業程度を相手にした本だと言うことで甘く見ていると痛い目に遭う。

数式がこれでもかとばかりに出て来るからだ。

しかし、それに恐れを成す必要もまたない。多くの数式が出て来るのは、実は丁寧に式を展開する段階から書かれているからだ。逃げずにひとつひとつ追ってゆけば確実に理解出来るように書かれている。

アリストテレスに迄遡って物質の物理学の歴史が描かれている。

著者の科学史に対する姿勢は実に謙虚だ。この辺りの学識の深さが現代物理学までの理解を体系的に押さえることを可能にしている。

19世紀に入って放射線の発見によって激変した化学・物理の世界を理解するためにニュートン力学に立ち戻る姿勢などにその懐の深さは表れている。平行して理解してゆくと、確かに分かり易いのだ。

私の原子物理の知識は主に受験対策で培われ、その後原発問題を理解するために様々な本を読んだ。その為かなり知識が雑多な物になっていたが、この本を理解する中で、それらの知識が互いに繋がりを持って体系的なものになってゆくのを感じた。


また著者は最新の問題に関しても従来の知識から提言を行っている。

放射線の光子性を述べる箇所。

「放射線が弱い」と言うことは、放射線の数が少ないということですが、しかしいくら「弱く」てもひとつひとつの放射線がきわめて大きなエネルギーをもっていることに変わりはありません。したがって「弱い放射線」であれ、危険性が0になることはありません。このことが、放射線の危険性について閾値がない、つまり強さがその値以下なら安全という値がない、ということの根拠と思われます。

この指摘は正しいと私には思えた。


知らなかった事実も多く書かれている。

しばしば核分裂はオットー・ハーンによって発見されたとされるが、ハーンはウランに中性子をぶつけたらバリウムが出てきたことを見出しただけで、それを核分裂と見抜いたのはリーゼ・マイトナーだと言う。

発見とはある事をただ目撃する事ではなく、あることをこれまで知られていなかったあることとして理解すること

この意味では実際の核分裂の発見者はリーゼ・マイトナーと言う事になるのだろう。

オットー・ハーンは核分裂の発見者としてノーベル賞を受賞しているが、リーゼ・マイトナーは貰えず、「ドイツのキュリー」となり損ねた。

何故もらえなかったのだろうか?リーゼ・マイトナーが女性だったからだろうか?


この本は原子物理学の教科書としても優れているが、真骨頂は原爆そして原発について語っているところにあるのだろう。

しばしば聞かれるリスクは何にでもあるという論法に対して著者は述べている。

どのような技術でも完全ではありえないから、事故の可能性はゼロではありません。航空機でも墜落の確率はゼロではありません。人は、飛行機に乗るとき、事故のリスク(危険性)がゼロではないにしても、そのことによって速く目的地に行けるというベネフィット(利得)を優先して搭乗を判断しているのです。しかしその議論はリスクとベネフィットの受け手が同一人物であることを前提としています。少なくとも万が一の事故による危険の及ぶ範囲がその技術の恩恵を蒙っている受益者とその周辺に限られる場合でなければ、このような議論は成り立ちません。

更に著者は原発の核のごみの問題や、ウラン鉱採掘に伴うリスクを論じている。

原発は長く見積もっても100年のエネルギー源。それに対し数100万年の核のごみの補完が必要とする。非合理きわまりない。

原発は理系の目を以てしても、非合理的で反倫理的な存在である事が分かりやすく解かれている。

原発の過酷事故を経験した現在の私たちが必要とする知識や考え方を、過不足無く極めて美しいまでに整理された形で網羅した本だと思う。

20150529

『香港バリケード』

2014年9月26日。香港の若者たちは中華人民共和国に対して立ち上がった。
只、普通の選挙を求める運動だった。中心となっていた学生たちは皆、非暴力を示すために両手を挙げて運動していた。
それに対し、警察は28日から何度も催涙スプレーや胡椒スプレーを使用し、武器を持たない一般市民を「鎮圧」しようとした。
警察側は1日で計87発の催涙弾が使用されたと公表している。
この動きを私は主にTVで「怖々と」見詰めていた。

やはり1989年の「六四天安門事件」の記憶が未だに鮮明なのだ。あの時のような「事件」が起きることだけは避けて欲しかった。

若者たちは催涙スプレーや胡椒スプレーを避ける為に雨傘を差し、ゴーグルやマスクを付け、レインコートを着て身を守った。

その姿に雨傘革命"Umbrella Revolution"の名称を与えたのはイギリスのインデペンデントの記事が最初だった。

その呼称はすぐに世界中に広まることとなった。
Wikipediaなどでは、この運動は現在進行形の扱いをされている。異論はない。

その雨傘革命の本が出ると聞いて、矢も盾も溜まらずすぐに取り寄せた。NEWSなどではつかめなかった事が、この本にはぎっしりと詰まっていた。

主要な著者である遠藤誉は物理学者らしい、徹底した論理的で実証的な筆致で、様々な背景や情報を調べ上げ、中華人民共和国の圧倒的な力と人類の運命を左右するその深刻な危機とを描き出している。

何よりも香港という場所がどの様なところであるのかが詳しく示されていたので、この運動の特殊性をやっと私は理解することが出来た。

それを説明するために遠藤はアヘン戦争迄遡って解説している。

香港はアヘン戦争によってイギリスのものとなったが、それが1997年7月1日中華人民共和国に返還される。

この時鉄の女サッチャーは鋼の意志を持つ男鄧小平に、事実上「ひれ伏して」いる。

この時の共同声明が今回の雨傘革命に「仕組まれて」いる。

香港が返還されるとき一国二制度が用意されたがその期間は50年。長いように感じるが、大陸の時間感覚からすれば一瞬と言っても過言ではない。

しかもその50年の間に徐々に一制度に変わるのか、50年後一気に変わるのかは中華人民共和国の出方次第だ。

今回、選挙の方法を巡って、中華人民共和国は一国二制度の一国の方を表に出してきた。

事実上中国寄りの人物しか選ばれないような制度を押し付けてきたのだ。

元々香港には中華人民共和国の圧政から逃げて来た者たちが多く住む。またどこかに逃げるだろう。誰もがそう予想した。

しかし、香港新世代は新しいメンタリティを獲得していた。

「僕はこの香港を変える。この運動が20年後の香港になる。僕たちは逃げない。ここに踏み止まって、香港人として生きる!」
香港新世代は初めて登場した「香港人」なのだ。彼らは既にどこかに逃げれば済むという感性を持った「難民」ではなく香港を「生まれ育った家」だと認識している。だから中華人民共和国に立ち向かったのだ。


この本は2部構成になっている。

本の過半を占める序章と第1部を遠藤誉が担当し、残りを深尾葉子と安冨歩のグループが担当している。このグループにはジャーナリストの刈部謙一氏、獨協大学の学部生の伯川星矢氏が参加している。

独立した章立てになっているが、著者等は本を作る中で綿密にコミュニケーションを取っていたらしい。


今回の雨傘革命は台湾にも大きな影響を与えた。つまりこの運動は香港に閉じる性格は持っていないと言えるだろう。
つまり雨傘革命は広くアジアに向かって拡がってゆく戦いであり、それは終わったのではなく、始まったところであると言えるのではないだろうか。

雨傘革命は日本では少なくともこの本を産んだ。
熱い、本だ。
それだけ熱い運動なのだろう。

20150508

『貧困襲来』

今迄の人生の中で金に縁があった例しがない。

学生時代は明確に私は住む部屋のあるホームレスだと実感していた。貧困はいつもすぐ脇にあった。けれど運が良いのだろうか、抜け出そうにも抜け出せないとされる貧困状態には辛うじて陥ることなく生きてきた。
けれどこのままでは近い将来確実に貧困に陥るだろう。全く人事ではなくこの本、湯浅誠の『貧困襲来』を手にした。

ゲラを読んだという方の「読み進めながら、驚き、悲しみ、怒り、憤り、恐怖を順番に感じました。」という言葉は実感だろう。だが、私はこの時期にこの本に巡り会えて、良かったと思っている。まだ間に合うという気持ちにさせてくれたからだ。なので感想の最後に僅かだが希望も感じたと付け加えたい。

本の中に繰り返し「溜め」という言葉が出て来る。当事者が浸かっている外からの衝撃を吸収する働きをしたり、エネルギー源として機能したりするものをそう呼んでいる。
貧困と単なる貧乏を区別するのはこの「溜め」のあるなしだという。私には何だかんだ言ってもこの「溜め」があったのだろう。

この本が書かれた2007年当時は、書かれ方で分かるように貧困は十分周知された事柄ではなかったようだ。だが現在TV等で貧困の文字を目にしない日は少ない。それだけ周知されてきたのでもあり、周知されざるを得ない程、貧困が広範になり、深刻化していると言う事でもあると思う。

貧困はまさに社会問題として存在感を増している。貧困には五重の排除が成されているとされている。

1.教育課程からの排除
2.企業福祉からの排除
3.家族福祉からの排除
4.公的福祉からの排除
5.自分自身からの排除

頷ける。

にも拘わらず未だに自己責任論は根強い。その論調に乗る形で、これからはどしどし公的福祉は切り捨てられてゆくのだろう。

だからまずこれをいかにして無化してゆくかが生き方の技法として必要になってくる。

それを含んでこの本の最後には10の提案が成されている。

1.自己責任論とオサラバする
2.自分を排除しない
3.疑ってみる
4.調べる、相談する
5.計算する
6.ぼやく
7.はじける
8.つながる、群れる
9.攻める
10.変える

これらが簡単に出来る人間ならば、そもそも貧困には陥っていないとも言える。だが、簡単でなくてもやってみる価値は十分にある。出来なかったら。次は出来るようにするだけだ。その時の為に「もやい」のホームページをリンクに加えた。

20150418

『さらば、愛の言葉よ』

無意味なことをして来たのかも知れない。
しかし、私はそう思ってはいない。

日本最古の映画館と言われる長野相生座・ロキシーのプレミアム会員になっている。
会員券の更新があった。

どうせ行くのなら1本くらい映画を観てきたい。

で、選んだのがジャン=リュック・ゴダール監督の最新作『さらば、愛の言葉よ』だった。
ゴダールが3Dに挑戦した映画だと言うことだけは知っていた。だが、さすがに日本最古の映画館では2Dでしか上映していなかった。

この映画を2Dで観ることは殆ど意味がない。帰ってきて様々なサイトで評論を読むと軒並みそう書いてある。

つまりゴダール監督がこの映画で何をやりたかったかと言うと3Dの常識を覆すことだという辺りで見解はまとまっていたのだ。

異議は別にない。

娯楽の最終兵器のように扱われている3D映画を解体したい。そうした意気込みは2Dで観ても十分に伝わってきた。


恐ろしく引用が多用されている。

台詞だけでもフローベールの『感情教育』に始まり、ドストエフスキー、レヴィナス、サルトル、ボルヘス、リルケに、ジャック・デリダ。ハワード・ホークスに、フリッツ・ラング等々。それに加えて音楽もスラブ行進曲やベートーヴェンの第7などが繰り返し立ち現れては途切れる。

それに加えて斬新な映像がこれまた立ち現れては途切れる。

つまりこの映画は全体がコラージュなのだ。

そして3Dに加えて多重露出の映像も入る。

映画は2部構成になっており、それぞれよく似た容姿の女と男が出会い、すれ違い、ぶつかり合う。

よく似た二組の男女のよく似た物語。

つまりそこに主題があるように、私には思えた。


3Dが殆ど同じ画面の視差差を利用して画面を立体的に見せるのと同じように、この映画では殆ど同じ男女(そして犬)の物語の僅かなずれを見せる事によって、物語そのものを「立体的に」構成しようとしているのではないだろうか?

それは3Dを解体することによって得られる豪華な遊びだ。

その意味でこの映画を3Dで観ることが出来なかったのはくれぐれも残念だった。監督の施した遊びが殆ど味わえなかったからだ。
だが、2Dだったから気付けた主題だったようにも思えるのだ。

原題は"ADIEU AU LANGAGE"

直訳すると『さらば、言葉』という事になるのだろうか?

それにしてはコラージュされている言葉は豊潤だった。それを追っていると何も理解出来ずに映画を見終えてしまうことになりかねないのだが。

83歳になるジャン=リュック・ゴダール監督の若々しい意欲作だと思う。この映画を残して下さった事に最大級の賛辞を送りたい。

20150415

『サイコパス・インサイド』

この本も都合3回読み直す事になった。

私は心理の専門家でもなく、脳科学に従事している訳でも無い。門外漢だ。なので友人の臨床心理士にこの本を紹介し、専門家から見たらこの本はどう映るかを確認してから感想を述べようと狡いことを考えていたのだ。
そのうちに時間が経って本の記憶も薄れ、再読したのだが、図書館で借りていたため予約が入り、2度目は途中で中断せざるを得なくなった。

そして今回3度目の再読となった。

最初前回読んだところから読み直せば良いだろうと思っていたのだが、内容をすっかり忘れていたため、最初からの再読となった。

それで良かったと思う。読んだ記憶はあるものの、前回読んだ内容は全くと言って良いほど頭に入っておらず、実に新鮮な気持ちで読み進めることが出来た。それに、3度目でようやく脳科学や解剖学用語が頭に入ってきたのだ。やっと理解したのだと思う。

サイコパスの定義は未だ確立されていない。だが「芸術作品」のようにそれを語ることは出来る。

定義できない。だがそれと分かる。

多くの人びとはサイコパスとして『羊たちの沈黙』のレクター教授を思い浮かべるだろう。

特徴は対人関係における共感性の欠如である。

ある日神経科学者である著者は大量の脳スキャン画像の中に奇妙な特徴を持つ画像を見いだす。それはサイコパスに特徴的な脳の部分的な領域における機能低下を示していた。そして次により驚くべき事実に遭遇する。その脳スキャン画像は著者自身のものだったのだ。

サイコパスの専門家自身がサイコパスの脳を持っていた。

この衝撃的な事実からこの本の物語は始まる。
眼窩皮質(目の上あたり)と扁桃体周囲の活動低下がよく分かる。

しかし著者はさほど動じなかった。彼は自分はサイコパスではないという確固たる自信があったのだ。

著者は人殺しや危険な犯罪を犯したことなどなかったし、それどころか科学者として成功し、幸せな結婚生活を送り、3人の子宝にも恵まれていたのである。

この事実は著者の科学的信念を大きく動揺させる。

サイコパスがサイコパスとして存在する条件とは何か?

それを探求し始めた頃、母から次なる衝撃的な事実を聞かされることになる。

父方の家系に数多くの殺人者が存在し、そのいずれもが近親者を殺害した疑いがあるという事実だった。

彼は遺伝的にも犯罪者の家系に属していたのだ。

著者は「三脚スツール」という名の理論を確立していく。サイコパスの要因となる3本の脚とは、
①前頭前野皮質眼窩部と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機 能低下
②いくつかの遺伝子のハイリスクな変異体
③幼少期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待、異常
である。それは著者自身の人生との間にも、十分 に折り合いを付けられるものであった。

この研究成果発表に乗じたカミングアウトもまた、パンドラの箱を開ける行為であった。ある日講演前の打ち合わせにおいて、同席した医師から双極性障害を患っているのではないかという指摘を受けるのだ。

この瞬間、彼の人生で起こってきた出来事、喘息、アレルギー、パニック発作、強迫性障害、高度の宗教性、不眠、快楽主義、個人主義...。様々な症候群が、一本の線でつながり出す。

やがて彼は、自分自身が向社会的サイコパスであることを受け入れる。たしかに反社会的な特性はなく、怒りをコントロールすることが可能で、犯罪歴がないことも紛れもない事実であった。だが、対人関係的特性、情動的特性、そして行動的特性に関して、サイコパスの特性となる項目の多くが該当していたのである。

これまでの人生における自己認識そのものを疑う必要性に迫られた彼は、自分に共感が欠けていたことを確信し、周囲の人間に自分の人物像を聞き回っていく。 自らが主観と客観の架け橋となり、同一性のギャップを埋めようとしていく様は、それ自体が数奇な物語であり、自分探しのための巡礼の旅でもあった。

この本は自己発見、自己理解、自己変革を遂げてゆく波乱に満ちた自伝であると共に、最新の脳科学の解説と科学的発見─その挑戦と冒険の物語になっている。溢れかえる脳科学の用語、特に解剖学用語にはかなり翻弄されたがお蔭で脳科学の知識が飛躍的に増えた。

20150412

『複雑さを生きる』

安冨歩の本『複雑さを生きる─やわらかな制御』を読んだ。

この本で旅をする世界は非常に広い。だが、主張している事は一貫している。
 世界は複雑系で出来ている。その複雑さを生きる為に必要な事は、頭で考える前に感じなければならないと言うことだ。その感覚を信じ抜いた上で考える事によって初めて私たちは宮沢賢治が言う「因果交流電灯」のひとつとしてたしかに灯り続けることが出来るのだろう。

この本の内容から少し離れるが、ひとはしばしば数学なんて社会に出たら役に立たないと言う。確かに2次方程式を解くと言うような機会は日常生活でそう滅多に訪れるものではない。本当に役に立たないのだろうか?
そうでは無いのではないか。この本を読みながら、ふとそのようなことを考えた。

この本は人間同士の様々なコミュニケーションにまつわる問題を、カオスや複雑系を導入することによって解決可能なものに出来る事を示している。
そればかりかそれは発展の契機となる可能性も示唆している。

それは「知る」という行為についての考察に始まり、コミュニケーションの持つダイナミズムとそれに潜むハラスメントの可能性にどの様に対処してゆくかという問題圏を経て、殆ど訳に立たない計画制御の代替案として「やわらかな制御」を提案し、その果てに現在の資本主義的な市場も関係を断ち切る敵対的なマーケットではなく「物資と情報と人間関係が入り乱れて飛び交う」バザールとして成立していること。それ故に未来に希望を繋ぐことが出来る事を示している。

複雑系を通して世の中を見ると、それは途方も無くダイナミックで柔軟性と躍動感に溢れた魅力的なものとして映る。複雑系は実際に世の中で役に立つ。それを理解するためにも基礎数学を学ぶ価値がある。そう実感することが出来た。

他の本の中で端的に表現されていた幾つかの概念の内実を、私はこの本を読むことでようやく納得する形で理解することが出来た。

安冨歩の思想の核を形成する本のひとつだと思う。