無意味なことをして来たのかも知れない。
しかし、私はそう思ってはいない。
日本最古の映画館と言われる長野相生座・ロキシーのプレミアム会員になっている。
会員券の更新があった。
どうせ行くのなら1本くらい映画を観てきたい。
で、選んだのがジャン=リュック・ゴダール監督の最新作『さらば、愛の言葉よ』だった。
ゴダールが3Dに挑戦した映画だと言うことだけは知っていた。だが、さすがに日本最古の映画館では2Dでしか上映していなかった。
この映画を2Dで観ることは殆ど意味がない。帰ってきて様々なサイトで評論を読むと軒並みそう書いてある。
つまりゴダール監督がこの映画で何をやりたかったかと言うと3Dの常識を覆すことだという辺りで見解はまとまっていたのだ。
異議は別にない。
娯楽の最終兵器のように扱われている3D映画を解体したい。そうした意気込みは2Dで観ても十分に伝わってきた。
恐ろしく引用が多用されている。
台詞だけでもフローベールの『感情教育』に始まり、ドストエフスキー、レヴィナス、サルトル、ボルヘス、リルケに、ジャック・デリダ。ハワード・ホークスに、フリッツ・ラング等々。それに加えて音楽もスラブ行進曲やベートーヴェンの第7などが繰り返し立ち現れては途切れる。
それに加えて斬新な映像がこれまた立ち現れては途切れる。
つまりこの映画は全体がコラージュなのだ。
そして3Dに加えて多重露出の映像も入る。
映画は2部構成になっており、それぞれよく似た容姿の女と男が出会い、すれ違い、ぶつかり合う。
よく似た二組の男女のよく似た物語。
つまりそこに主題があるように、私には思えた。
3Dが殆ど同じ画面の視差差を利用して画面を立体的に見せるのと同じように、この映画では殆ど同じ男女(そして犬)の物語の僅かなずれを見せる事によって、物語そのものを「立体的に」構成しようとしているのではないだろうか?
それは3Dを解体することによって得られる豪華な遊びだ。
その意味でこの映画を3Dで観ることが出来なかったのはくれぐれも残念だった。監督の施した遊びが殆ど味わえなかったからだ。
だが、2Dだったから気付けた主題だったようにも思えるのだ。
原題は"ADIEU AU LANGAGE"
直訳すると『さらば、言葉』という事になるのだろうか?
それにしてはコラージュされている言葉は豊潤だった。それを追っていると何も理解出来ずに映画を見終えてしまうことになりかねないのだが。
83歳になるジャン=リュック・ゴダール監督の若々しい意欲作だと思う。この映画を残して下さった事に最大級の賛辞を送りたい。
20150418
20150415
『サイコパス・インサイド』
この本も都合3回読み直す事になった。
私は心理の専門家でもなく、脳科学に従事している訳でも無い。門外漢だ。なので友人の臨床心理士にこの本を紹介し、専門家から見たらこの本はどう映るかを確認してから感想を述べようと狡いことを考えていたのだ。
そのうちに時間が経って本の記憶も薄れ、再読したのだが、図書館で借りていたため予約が入り、2度目は途中で中断せざるを得なくなった。
そして今回3度目の再読となった。
最初前回読んだところから読み直せば良いだろうと思っていたのだが、内容をすっかり忘れていたため、最初からの再読となった。
それで良かったと思う。読んだ記憶はあるものの、前回読んだ内容は全くと言って良いほど頭に入っておらず、実に新鮮な気持ちで読み進めることが出来た。それに、3度目でようやく脳科学や解剖学用語が頭に入ってきたのだ。やっと理解したのだと思う。
サイコパスの定義は未だ確立されていない。だが「芸術作品」のようにそれを語ることは出来る。
定義できない。だがそれと分かる。
多くの人びとはサイコパスとして『羊たちの沈黙』のレクター教授を思い浮かべるだろう。
特徴は対人関係における共感性の欠如である。
ある日神経科学者である著者は大量の脳スキャン画像の中に奇妙な特徴を持つ画像を見いだす。それはサイコパスに特徴的な脳の部分的な領域における機能低下を示していた。そして次により驚くべき事実に遭遇する。その脳スキャン画像は著者自身のものだったのだ。
サイコパスの専門家自身がサイコパスの脳を持っていた。
この衝撃的な事実からこの本の物語は始まる。
しかし著者はさほど動じなかった。彼は自分はサイコパスではないという確固たる自信があったのだ。
著者は人殺しや危険な犯罪を犯したことなどなかったし、それどころか科学者として成功し、幸せな結婚生活を送り、3人の子宝にも恵まれていたのである。
この事実は著者の科学的信念を大きく動揺させる。
サイコパスがサイコパスとして存在する条件とは何か?
それを探求し始めた頃、母から次なる衝撃的な事実を聞かされることになる。
父方の家系に数多くの殺人者が存在し、そのいずれもが近親者を殺害した疑いがあるという事実だった。
彼は遺伝的にも犯罪者の家系に属していたのだ。
著者は「三脚スツール」という名の理論を確立していく。サイコパスの要因となる3本の脚とは、
①前頭前野皮質眼窩部と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機 能低下
②いくつかの遺伝子のハイリスクな変異体
③幼少期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待、異常
である。それは著者自身の人生との間にも、十分 に折り合いを付けられるものであった。
この研究成果発表に乗じたカミングアウトもまた、パンドラの箱を開ける行為であった。ある日講演前の打ち合わせにおいて、同席した医師から双極性障害を患っているのではないかという指摘を受けるのだ。
この瞬間、彼の人生で起こってきた出来事、喘息、アレルギー、パニック発作、強迫性障害、高度の宗教性、不眠、快楽主義、個人主義...。様々な症候群が、一本の線でつながり出す。
やがて彼は、自分自身が向社会的サイコパスであることを受け入れる。たしかに反社会的な特性はなく、怒りをコントロールすることが可能で、犯罪歴がないことも紛れもない事実であった。だが、対人関係的特性、情動的特性、そして行動的特性に関して、サイコパスの特性となる項目の多くが該当していたのである。
これまでの人生における自己認識そのものを疑う必要性に迫られた彼は、自分に共感が欠けていたことを確信し、周囲の人間に自分の人物像を聞き回っていく。 自らが主観と客観の架け橋となり、同一性のギャップを埋めようとしていく様は、それ自体が数奇な物語であり、自分探しのための巡礼の旅でもあった。
この本は自己発見、自己理解、自己変革を遂げてゆく波乱に満ちた自伝であると共に、最新の脳科学の解説と科学的発見─その挑戦と冒険の物語になっている。溢れかえる脳科学の用語、特に解剖学用語にはかなり翻弄されたがお蔭で脳科学の知識が飛躍的に増えた。
私は心理の専門家でもなく、脳科学に従事している訳でも無い。門外漢だ。なので友人の臨床心理士にこの本を紹介し、専門家から見たらこの本はどう映るかを確認してから感想を述べようと狡いことを考えていたのだ。
そのうちに時間が経って本の記憶も薄れ、再読したのだが、図書館で借りていたため予約が入り、2度目は途中で中断せざるを得なくなった。
そして今回3度目の再読となった。
最初前回読んだところから読み直せば良いだろうと思っていたのだが、内容をすっかり忘れていたため、最初からの再読となった。
それで良かったと思う。読んだ記憶はあるものの、前回読んだ内容は全くと言って良いほど頭に入っておらず、実に新鮮な気持ちで読み進めることが出来た。それに、3度目でようやく脳科学や解剖学用語が頭に入ってきたのだ。やっと理解したのだと思う。
サイコパスの定義は未だ確立されていない。だが「芸術作品」のようにそれを語ることは出来る。
定義できない。だがそれと分かる。
多くの人びとはサイコパスとして『羊たちの沈黙』のレクター教授を思い浮かべるだろう。
特徴は対人関係における共感性の欠如である。
ある日神経科学者である著者は大量の脳スキャン画像の中に奇妙な特徴を持つ画像を見いだす。それはサイコパスに特徴的な脳の部分的な領域における機能低下を示していた。そして次により驚くべき事実に遭遇する。その脳スキャン画像は著者自身のものだったのだ。
サイコパスの専門家自身がサイコパスの脳を持っていた。
この衝撃的な事実からこの本の物語は始まる。
眼窩皮質(目の上あたり)と扁桃体周囲の活動低下がよく分かる。
著者は人殺しや危険な犯罪を犯したことなどなかったし、それどころか科学者として成功し、幸せな結婚生活を送り、3人の子宝にも恵まれていたのである。
この事実は著者の科学的信念を大きく動揺させる。
サイコパスがサイコパスとして存在する条件とは何か?
それを探求し始めた頃、母から次なる衝撃的な事実を聞かされることになる。
父方の家系に数多くの殺人者が存在し、そのいずれもが近親者を殺害した疑いがあるという事実だった。
彼は遺伝的にも犯罪者の家系に属していたのだ。
著者は「三脚スツール」という名の理論を確立していく。サイコパスの要因となる3本の脚とは、
①前頭前野皮質眼窩部と側頭葉前部、扁桃体の異常なほどの機 能低下
②いくつかの遺伝子のハイリスクな変異体
③幼少期早期の精神的、身体的、あるいは性的虐待、異常
である。それは著者自身の人生との間にも、十分 に折り合いを付けられるものであった。
この研究成果発表に乗じたカミングアウトもまた、パンドラの箱を開ける行為であった。ある日講演前の打ち合わせにおいて、同席した医師から双極性障害を患っているのではないかという指摘を受けるのだ。
この瞬間、彼の人生で起こってきた出来事、喘息、アレルギー、パニック発作、強迫性障害、高度の宗教性、不眠、快楽主義、個人主義...。様々な症候群が、一本の線でつながり出す。
やがて彼は、自分自身が向社会的サイコパスであることを受け入れる。たしかに反社会的な特性はなく、怒りをコントロールすることが可能で、犯罪歴がないことも紛れもない事実であった。だが、対人関係的特性、情動的特性、そして行動的特性に関して、サイコパスの特性となる項目の多くが該当していたのである。
これまでの人生における自己認識そのものを疑う必要性に迫られた彼は、自分に共感が欠けていたことを確信し、周囲の人間に自分の人物像を聞き回っていく。 自らが主観と客観の架け橋となり、同一性のギャップを埋めようとしていく様は、それ自体が数奇な物語であり、自分探しのための巡礼の旅でもあった。
この本は自己発見、自己理解、自己変革を遂げてゆく波乱に満ちた自伝であると共に、最新の脳科学の解説と科学的発見─その挑戦と冒険の物語になっている。溢れかえる脳科学の用語、特に解剖学用語にはかなり翻弄されたがお蔭で脳科学の知識が飛躍的に増えた。
20150412
『複雑さを生きる』
安冨歩の本『複雑さを生きる─やわらかな制御』を読んだ。
この本で旅をする世界は非常に広い。だが、主張している事は一貫している。
世界は複雑系で出来ている。その複雑さを生きる為に必要な事は、頭で考える前に感じなければならないと言うことだ。その感覚を信じ抜いた上で考える事によって初めて私たちは宮沢賢治が言う「因果交流電灯」のひとつとしてたしかに灯り続けることが出来るのだろう。
この本の内容から少し離れるが、ひとはしばしば数学なんて社会に出たら役に立たないと言う。確かに2次方程式を解くと言うような機会は日常生活でそう滅多に訪れるものではない。本当に役に立たないのだろうか?
そうでは無いのではないか。この本を読みながら、ふとそのようなことを考えた。
この本は人間同士の様々なコミュニケーションにまつわる問題を、カオスや複雑系を導入することによって解決可能なものに出来る事を示している。
そればかりかそれは発展の契機となる可能性も示唆している。
それは「知る」という行為についての考察に始まり、コミュニケーションの持つダイナミズムとそれに潜むハラスメントの可能性にどの様に対処してゆくかという問題圏を経て、殆ど訳に立たない計画制御の代替案として「やわらかな制御」を提案し、その果てに現在の資本主義的な市場も関係を断ち切る敵対的なマーケットではなく「物資と情報と人間関係が入り乱れて飛び交う」バザールとして成立していること。それ故に未来に希望を繋ぐことが出来る事を示している。
複雑系を通して世の中を見ると、それは途方も無くダイナミックで柔軟性と躍動感に溢れた魅力的なものとして映る。複雑系は実際に世の中で役に立つ。それを理解するためにも基礎数学を学ぶ価値がある。そう実感することが出来た。
他の本の中で端的に表現されていた幾つかの概念の内実を、私はこの本を読むことでようやく納得する形で理解することが出来た。
安冨歩の思想の核を形成する本のひとつだと思う。
この本で旅をする世界は非常に広い。だが、主張している事は一貫している。
世界は複雑系で出来ている。その複雑さを生きる為に必要な事は、頭で考える前に感じなければならないと言うことだ。その感覚を信じ抜いた上で考える事によって初めて私たちは宮沢賢治が言う「因果交流電灯」のひとつとしてたしかに灯り続けることが出来るのだろう。
この本の内容から少し離れるが、ひとはしばしば数学なんて社会に出たら役に立たないと言う。確かに2次方程式を解くと言うような機会は日常生活でそう滅多に訪れるものではない。本当に役に立たないのだろうか?
そうでは無いのではないか。この本を読みながら、ふとそのようなことを考えた。
この本は人間同士の様々なコミュニケーションにまつわる問題を、カオスや複雑系を導入することによって解決可能なものに出来る事を示している。
そればかりかそれは発展の契機となる可能性も示唆している。
それは「知る」という行為についての考察に始まり、コミュニケーションの持つダイナミズムとそれに潜むハラスメントの可能性にどの様に対処してゆくかという問題圏を経て、殆ど訳に立たない計画制御の代替案として「やわらかな制御」を提案し、その果てに現在の資本主義的な市場も関係を断ち切る敵対的なマーケットではなく「物資と情報と人間関係が入り乱れて飛び交う」バザールとして成立していること。それ故に未来に希望を繋ぐことが出来る事を示している。
複雑系を通して世の中を見ると、それは途方も無くダイナミックで柔軟性と躍動感に溢れた魅力的なものとして映る。複雑系は実際に世の中で役に立つ。それを理解するためにも基礎数学を学ぶ価値がある。そう実感することが出来た。
他の本の中で端的に表現されていた幾つかの概念の内実を、私はこの本を読むことでようやく納得する形で理解することが出来た。
安冨歩の思想の核を形成する本のひとつだと思う。
20150405
『最後の親鸞』
2度ほど、読むことを放棄している。
3月25日の日記には
その後何とか読了したものの、殆ど内容を把握することが出来ず、辛うじて末尾のテープ起こし「『最後の親鸞』ノート」でようやく意味を拾い上げることが出来た有様だった。
友人から親鸞のなにに魅力を感じているのか?と問うメールを頂き、それを探すために読みかえしてみた。
ようやく理解出来た。
深く頷ける。
吉本隆明はこの本で、記録されることがないままに放置されている親鸞の「到達点」を、記録された文言から再構成する事を試みているのだろう。
親鸞がその思想を築き上げていた時代、世の中は平穏ではなかった。災害や飢饉が頻発し、それに対する人間の側の力は無に等しかった。
極言すれば親鸞は飢えて死につつある人びとに向かって、どんな自力の計らいをも捨てよ。〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が阿弥陀の本願に近づきやすいのだと説いていたのだ。
しかも親鸞は宗教という一種の組織人としては恐ろしく大胆な宣言も発している。
これはどの様に解釈したら良いのだろうか?
無論、そのままを読めば良いという立場も十分に成り立つだろう。
だが、これを言いながら親鸞は教えを「広め」つつあったのだ。
それが両立したのはいかなる〈業縁〉だったのだろうか?
信徒を突き放すような言動はこれに留まらない。
もはや念仏を唱えよという教えすら放棄している。
宗派人としての親鸞の、自己放棄を意味する言葉でもある。
思えば自力作善というものは、それ自体が自我への深い執着なのではないか?それが私が他力の思想に惹かれた最初の気付きだった。
親鸞はその他力の思想を極限まで突き詰めた。
その結果として組織としての宗教性をも解体する境地にまで達したのではないだろうか?
つまり称名念仏そのものにも自力の匂いをかぎ分けてしまうほどに。
そこまで達してしまった親鸞という人物の言動が(完全に親鸞のみの言動とは断定できないのかも知れないが)現代にまで生き延びてきたと言う事は、それ自体が奇蹟のように、私には思えるのだ。
3月25日の日記には
心に響いてこないので中断とすら書かれている。
その後何とか読了したものの、殆ど内容を把握することが出来ず、辛うじて末尾のテープ起こし「『最後の親鸞』ノート」でようやく意味を拾い上げることが出来た有様だった。
友人から親鸞のなにに魅力を感じているのか?と問うメールを頂き、それを探すために読みかえしてみた。
ようやく理解出来た。
深く頷ける。
吉本隆明はこの本で、記録されることがないままに放置されている親鸞の「到達点」を、記録された文言から再構成する事を試みているのだろう。
親鸞がその思想を築き上げていた時代、世の中は平穏ではなかった。災害や飢饉が頻発し、それに対する人間の側の力は無に等しかった。
極言すれば親鸞は飢えて死につつある人びとに向かって、どんな自力の計らいをも捨てよ。〈知〉よりも〈愚〉の方が、〈善〉よりも〈悪〉の方が阿弥陀の本願に近づきやすいのだと説いていたのだ。
しかも親鸞は宗教という一種の組織人としては恐ろしく大胆な宣言も発している。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなり(歎異抄)
これはどの様に解釈したら良いのだろうか?
無論、そのままを読めば良いという立場も十分に成り立つだろう。
だが、これを言いながら親鸞は教えを「広め」つつあったのだ。
それが両立したのはいかなる〈業縁〉だったのだろうか?
信徒を突き放すような言動はこれに留まらない。
念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々のおんはからひなりと云々
もはや念仏を唱えよという教えすら放棄している。
宗派人としての親鸞の、自己放棄を意味する言葉でもある。
思えば自力作善というものは、それ自体が自我への深い執着なのではないか?それが私が他力の思想に惹かれた最初の気付きだった。
親鸞はその他力の思想を極限まで突き詰めた。
その結果として組織としての宗教性をも解体する境地にまで達したのではないだろうか?
つまり称名念仏そのものにも自力の匂いをかぎ分けてしまうほどに。
そこまで達してしまった親鸞という人物の言動が(完全に親鸞のみの言動とは断定できないのかも知れないが)現代にまで生き延びてきたと言う事は、それ自体が奇蹟のように、私には思えるのだ。
20150319
『1995年』
あれから20年経った。
阪神・淡路大震災が起き、引き続いてオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。
この2つの出来事だけでも、1995年は記憶に深く刻み込まれた特別な年だった。
20年目の節目という動機から、1995年を振り返ってみようと思った。
漠然とあの年に何かが終わったと言う感触を持っていたからだ。それが何か確かめたかったのだ。
最初に速水健朗の『1995年』を読んだ。期待していなかったが、その予想は当たり、さほど深い内容を持った本ではなかった。新書なので仕方がないか。とも思ったが、1995年という年を中心に何が起きたのかは網羅されており、それをチェックするには都合の良い本だった。
それよりも期待していたのは中西新太郎・編『1995年─未了の問題圏』の方だった。
この本は横浜市立大学教授の文化社会学者中西新太郎が、雨宮処凛、中島岳志、湯浅誠、栗田隆子、杉田俊介の5人と対談し、
しようとする意欲的な対談集だった。
しかし奇妙な本だった。
1995年に焦点を定めて語れば語るほどに1995年が後景化してしまう奇妙な対談集だったのだ。
湯浅誠を除いて他の4人は1995年に二十歳だった論客が並ぶ。そこで語られるものは労働(生きること)性(フェミニズム)そして政治・文化(マンガ・サブカルチャー)など多岐に及ぶ。
近過去を様々な局面から振り返る事が目的ならば、この対談は成功している。
しかし何度も1995年に立ち戻ろうと苦心惨憺しているが失敗している。
何故か?
気分や雰囲気は確かに1995年何かが終わったと言う実感にあるのだが、具体的に検討を始めると時代の分岐点はそこになかったことが白日の下に明らかになってしまうのだ。
その為に実質的にこの対談集は90年代後半から2000年付近で何が起きたのかを回顧する内容になってしまっている。
本の題名は素晴らしいのだ。
確かに1995年に起きた出来事はどれもが未了の問題として放置されている。
だがそれは怠惰の結果として放置されているのだろうか?
そうではなく、誰もが1995年に何が終わって何が始まったのか?何から何への変化だったのかを探し求め、しかし見付けられずに途方に暮れてきた「問題圏」なのではないだろうか?
1995年が時代の節目だったという実感が実は虚妄のものではなかったのかという史実に気付くという予想外の結果を遺してこの本は終わっている。
勿論本にはそうは書いてないのだが。
阪神・淡路大震災が起き、引き続いてオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。
この2つの出来事だけでも、1995年は記憶に深く刻み込まれた特別な年だった。
20年目の節目という動機から、1995年を振り返ってみようと思った。
漠然とあの年に何かが終わったと言う感触を持っていたからだ。それが何か確かめたかったのだ。
最初に速水健朗の『1995年』を読んだ。期待していなかったが、その予想は当たり、さほど深い内容を持った本ではなかった。新書なので仕方がないか。とも思ったが、1995年という年を中心に何が起きたのかは網羅されており、それをチェックするには都合の良い本だった。
それよりも期待していたのは中西新太郎・編『1995年─未了の問題圏』の方だった。
この本は横浜市立大学教授の文化社会学者中西新太郎が、雨宮処凛、中島岳志、湯浅誠、栗田隆子、杉田俊介の5人と対談し、
95年をエポックとして何が変わったのかを検討(対論を終えて)
しようとする意欲的な対談集だった。
しかし奇妙な本だった。
1995年に焦点を定めて語れば語るほどに1995年が後景化してしまう奇妙な対談集だったのだ。
湯浅誠を除いて他の4人は1995年に二十歳だった論客が並ぶ。そこで語られるものは労働(生きること)性(フェミニズム)そして政治・文化(マンガ・サブカルチャー)など多岐に及ぶ。
近過去を様々な局面から振り返る事が目的ならば、この対談は成功している。
しかし何度も1995年に立ち戻ろうと苦心惨憺しているが失敗している。
何故か?
気分や雰囲気は確かに1995年何かが終わったと言う実感にあるのだが、具体的に検討を始めると時代の分岐点はそこになかったことが白日の下に明らかになってしまうのだ。
その為に実質的にこの対談集は90年代後半から2000年付近で何が起きたのかを回顧する内容になってしまっている。
本の題名は素晴らしいのだ。
確かに1995年に起きた出来事はどれもが未了の問題として放置されている。
だがそれは怠惰の結果として放置されているのだろうか?
そうではなく、誰もが1995年に何が終わって何が始まったのか?何から何への変化だったのかを探し求め、しかし見付けられずに途方に暮れてきた「問題圏」なのではないだろうか?
1995年が時代の節目だったという実感が実は虚妄のものではなかったのかという史実に気付くという予想外の結果を遺してこの本は終わっている。
勿論本にはそうは書いてないのだが。
20150308
『自閉症者の魂の軌跡』
叢書・魂の脱植民地化のシリーズにはどの本にも貫かれているひとつの特徴がある。それは途方も無いほど誠実に繰り広げられる自己との対面というドラマだ。
今回読了した真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡─東アジアの「余白」を生きる』もまた、鬼気迫ると表現したくなるほど、壮絶に、真摯に、そして真剣に自分と向かい合うことで、「余白」という鍵概念に到達し、そこを起点として自己と世界を模索し探索する事を可能にした精神の高みに到達した論考になっている。
著者は東京大学東洋文化研究所に籍を置く朝鮮シャーマニズムの研究者である。
だが、ここ迄の道のりは決して平坦なものではなかった。むしろ常人より遙かに厳しい道程を歩んできたとも言える。
それは小学生の頃のベテラン女性教師からの「虐待」とそれを切っ掛けとする級友たちからのいじめに始まり、院生・ポスドク時代のアカデミックハラスメントやフィールドである韓国で受けた政治的な迫害など遭遇した障碍には枚挙にいとまがない。
5年ほど前にはアスペルガー症候群の診断も受けている。
むしろ著者はアスペルガー症候群によって受けた様々な仕打ちに対して他罰的になることを許されず、それ故に自己処罰的に対処することによって、つまり勉強は嘘をつかないからという理由で、「勉強でみかえしてやる」と自らの心と身体を痛めつける事で辛うじて生き延びてきたのだろう。
そうした著者はテンプル・グランディンやエリック・ホッファーに強く共感するようになる。
例えばテンプル・グランディンの自伝
自閉症者であるグランディンは自分の人生の『扉』を感じるために、実際の扉を探し当てねばならなかったのだ。
著者はグランディンが扉に辿り着いたのと同じように、恐山に辿り着き、イタコと向かい合い、朝鮮シャーマニズムの研究に我が身を駆り立てる。
そして辿り着いたのが「余白」という鍵概念だ。
「余白」のイメージは村上靖彦が論じた「すき間」、或いは「裏側」の概念をヒントにしている。
朝鮮半島の政治力学の狭間で生き、そして死んだ者たちはこの「余白」に存在したのではないか?そして著者自身の生もまた東アジアの「余白」に存在していたのではないか?
そしてまた、私たちの生も死も。
つまり
ここに至るまでの論考は決してスマートに一筋ではなく、紆余曲折を経ている。それはこの本の欠点でもあるが、同時に抗い難い魅力にもなっていると感じた。
もうひとつこの本を読んで深く共感した部分がある。それを引用しておく。
我が意を得たり。
今回読了した真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡─東アジアの「余白」を生きる』もまた、鬼気迫ると表現したくなるほど、壮絶に、真摯に、そして真剣に自分と向かい合うことで、「余白」という鍵概念に到達し、そこを起点として自己と世界を模索し探索する事を可能にした精神の高みに到達した論考になっている。
著者は東京大学東洋文化研究所に籍を置く朝鮮シャーマニズムの研究者である。
だが、ここ迄の道のりは決して平坦なものではなかった。むしろ常人より遙かに厳しい道程を歩んできたとも言える。
それは小学生の頃のベテラン女性教師からの「虐待」とそれを切っ掛けとする級友たちからのいじめに始まり、院生・ポスドク時代のアカデミックハラスメントやフィールドである韓国で受けた政治的な迫害など遭遇した障碍には枚挙にいとまがない。
5年ほど前にはアスペルガー症候群の診断も受けている。
むしろ著者はアスペルガー症候群によって受けた様々な仕打ちに対して他罰的になることを許されず、それ故に自己処罰的に対処することによって、つまり勉強は嘘をつかないからという理由で、「勉強でみかえしてやる」と自らの心と身体を痛めつける事で辛うじて生き延びてきたのだろう。
そうした著者はテンプル・グランディンやエリック・ホッファーに強く共感するようになる。
例えばテンプル・グランディンの自伝
牧師は講壇から離れて、参拝者たちの前に立った。そして言った。
『あなた方一人ひとりの前に、天国に続く扉があるのです。開きなさい。そうすれば救われます』
(略)多くの自閉症児がそうであるように、私はすべてを文字どおりにとった。私の心はひとつのことに集中した─『扉』。天国へ続く扉。通り抜ければ私を助けてくれる扉。賛美歌の歌声が『歓喜と愛への永久なる証、この扉こそ祝福あれや』と、聞こえた時、私はほんとうにこの扉を探し出さねば─と確信したのだった。
(略)
そしてある日、夕食から自分の部屋へ戻る途中、私たちの寮のそばに別棟が建設中なのに気がついた。だれも働いていなかったので、その棟の周りを歩いてみた。そこから小さな渡しが突き出ていたので、上がってみた。足を踏み入れた場所は小さな物見塔であった。山々を望む三つの観察窓があった。
解放感が私の体にあふれた。何か月ぶりに、初めて、その時点での安らぎと将来への希望を感じた。愛と歓喜が私を包み込んだ。やっと探し当てた!『私の天国』へ続く扉を。
自閉症者であるグランディンは自分の人生の『扉』を感じるために、実際の扉を探し当てねばならなかったのだ。
著者はグランディンが扉に辿り着いたのと同じように、恐山に辿り着き、イタコと向かい合い、朝鮮シャーマニズムの研究に我が身を駆り立てる。
そして辿り着いたのが「余白」という鍵概念だ。
「余白」のイメージは村上靖彦が論じた「すき間」、或いは「裏側」の概念をヒントにしている。
定型発達においては、非イメージ的な意味を焦点として空間は濃淡をもち、イメージを欠いたすき間もまた意味を持つ。(略)自閉症児は意味を持たないのではなく、感覚的な形こそが意味である。それゆえ自閉症児にとって、形の不在は意味の不在・無意味であり、これは侵襲的なイメージである。だから、彼らは可能な限り明瞭で安定した形を持つ時空間を要求するのである。
朝鮮半島の政治力学の狭間で生き、そして死んだ者たちはこの「余白」に存在したのではないか?そして著者自身の生もまた東アジアの「余白」に存在していたのではないか?
そしてまた、私たちの生も死も。
つまり
構造と構造の狭間に埋もれた「余白」とは、言葉にはならない「経験」の多様な真実が吹き溜まった面と面のあわいを指す。
ここに至るまでの論考は決してスマートに一筋ではなく、紆余曲折を経ている。それはこの本の欠点でもあるが、同時に抗い難い魅力にもなっていると感じた。
もうひとつこの本を読んで深く共感した部分がある。それを引用しておく。
あるいは、震災直後から巷間に流れ始めた「花は咲く」の歌詞(岩井俊二作詞)はどうだろうか。「叶えたい夢もあった/変わりたい自分もいた」、「傷ついて傷つけて/報われず泣いたりして」という現在の「私の生」と3.11での「誰かの死」、「いつか生まれる君」と表現される未来の「誰かの生」は、実は決定的に断絶されているはずである。本来そこにあるべき「死者=死体」から目を背け、これを「花」という口当たりのよい比喩に置き換えることで、「誰かの歌が聞こえる/誰かを励ましている/誰かの笑顔が見える」と根拠のない「妄想」をささやきかけてくる。歌は続けて「誰かの笑顔」や「誰かの未来」は「悲しみの向こう側に」見えると語るのだが、その「悲しみ」とは一体誰のものなのか。もし、夢かなわず変わりたくても変われぬ自分や、傷つき傷つけられ報われず泣いた自分の「悲しみ」を、地震と津波で命をもぎとられてしまった人びとや、そこに遺された人びとの「悲しみ」に重ねたとすれば、それは死に対する何という冒涜であろうか。
我が意を得たり。
20150207
『魂の脱植民地化とは何か』
出会うべくして出会った本を読むべくして読んだ。読了した時それを感じた。以前から気になっていたのだがようやく読んだ。その意味では満を侍してという言葉が似合うだろう。
深尾葉子さんの著書。叢書・魂の脱植民地化の第1巻として出版されていた『魂の脱植民地化とは何か』である。
この本の前提は、人間の魂は本来自由に、自己の生命をまっとうすべく作動するものであるという確信にある。これを肯定したところから始めないと、人間という存在は魂の植民地状態から永遠に脱却することは不可能であるという結論に導かれてしまう。
第1章の冒頭付近に幾つかの用語が定義されている。この概念は魂の植民地状態を理解する上で重要なので、引用しつつ紹介したいと思う。
本来自由であるべき魂は、その成長や存在過程の中でゆがめられ、外界との相互関係の中で、他者の意図によって操作される。そう著者は訴える。
それを「魂が植民地化され」た状態と呼ぶが、それは次のように定義されている。
つまり魂の植民地化とは呪縛された状態にある人間とする事が出来るだろう。
ここで言われている呪縛とは
と定義されている。
しかし他者に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自立性が損なわれているというわけではない。それによって、自らの感覚へのフィードバックが断たれているかどうかが重要なのだ。
外界と真の自分の間に遮断が敢行され、本来の自己は出口を塞がれている。
つまり魂は蓋をされた状態にあると言える。
ここでは
と定義されている。
「蓋」によって魂と分離された、感情の装着と偽装的行為とは、自らの身体だけでなく、他者に対しても加虐的な作用をもたらすと著者は言う。
魂の植民地状態にある者は他者を理解する時、「憑依」によってそれを行うからだ。
深尾葉子さんの著書。叢書・魂の脱植民地化の第1巻として出版されていた『魂の脱植民地化とは何か』である。
この本の前提は、人間の魂は本来自由に、自己の生命をまっとうすべく作動するものであるという確信にある。これを肯定したところから始めないと、人間という存在は魂の植民地状態から永遠に脱却することは不可能であるという結論に導かれてしまう。
そうした人間の本来性。生命には自分自身の存在を十全なものとし、その生命をまっとうする意欲と力が備わっているというテーゼを証明するためにこの本はある。
本来自由であるべき魂は、その成長や存在過程の中でゆがめられ、外界との相互関係の中で、他者の意図によって操作される。そう著者は訴える。
それを「魂が植民地化され」た状態と呼ぶが、それは次のように定義されている。
「魂が植民地化され」た状態:それは他者との相互作用の結果といえるが、それによって自分の内在的な感覚を否定し、他者から押し付けられた視点で自分を見つめ、その結果、その目線を内部にとりこんで自分自身を監督し、行動を律するようになること。
つまり魂の植民地化とは呪縛された状態にある人間とする事が出来るだろう。
ここで言われている呪縛とは
呪縛:自分自身の置かれている状況、自分自身のありかた、についてフィードバックがなく、何ものかにとりつかれたように目の前の変化にのみついてゆく。
と定義されている。
しかし他者に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自立性が損なわれているというわけではない。それによって、自らの感覚へのフィードバックが断たれているかどうかが重要なのだ。
外界と真の自分の間に遮断が敢行され、本来の自己は出口を塞がれている。
つまり魂は蓋をされた状態にあると言える。
ここでは
蓋:自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって知覚できないように押さえ込む装置ないし機構
と定義されている。
「蓋」によって魂と分離された、感情の装着と偽装的行為とは、自らの身体だけでなく、他者に対しても加虐的な作用をもたらすと著者は言う。
魂の植民地状態にある者は他者を理解する時、「憑依」によってそれを行うからだ。
憑依:コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシミュレートすること。
これは一見有効な他者理解の方法と思えるかも知れない。しかし、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではない。
自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心の動きをなぞろうとするものであり、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。
自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心の動きをなぞろうとするものであり、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。
そもそも、人間の魂は、他の魂やその人の本来の魂でないものを宿してしまうのだ。その結果、やはり肝心の自己はより厳重に蓋の下に閉じ込められ、その存在に注意を払われることが極めて少なくなり、自分自身の身体の宿り主たる自分自身の魂が存在することすら、ろくに注意を払われなくなる。
以上、本分の引用を主に用いて基本的な概念を説明してみた。
本書はこれらの基本的な概念を用いて、ゼミで出会った学生や研究者の魂の遍歴を丁寧に描き出す。
ここで行われている魂の脱植民地化の作業とは、植民地状態にある自分の魂を自覚し、植民地状態がいかなるメカニズムによって引き起こされたかを分析しつつ、呪縛、蓋、憑依などの概念を使ってそれを具体的に図示し、自らの魂の植民地状態をカミングアウトすること。そしてその行為によって植民地状態からの脱出をはかるという事だったと理解している。
この本の白眉のひとつは、「分かりにくい」「説明不足」と評されることの多かった宮崎駿監督の映画『ハウルの動く城』を魂の脱植民地化プロセスを可視化した作品として見た場合。透徹した一貫性に貫かれ、徹底した描写、完璧なまでのストーリー展開と人物配置で構成された映画として理解出来るかを示した第五章だろう。
そしてもうひとつは東日本大震災によって引き起こされた原発事故とその後の対応が、いかに非人間的なものであったかを分析した第六章にあると思う。
そこでは、「共同体の大義」を共有することこそが「価値」であり、自ら思考し、行動することは「共同体の秩序を乱す」反社会的行為である、という「レッテル」が貼られ、社会全体の多元性が著しく低下し、また状況に応じて柔軟な対応をするという性質が失われ、人々は「大本営」(国家の情報発信の中枢)が出す情報のみに反応し、自らものを考えない、という「集団的思考停止状況」に追い込まれる。さらに恐ろしいのは、こういう「 集団的思考停止状況」を作り出す権力は、おのずと自分の思考も「目的硬直型」となり「状況に応じた」適切なフィードバックの回路を断つ、同じ「集団的思考停止状況」に陥るということである。
この『叢書・魂の脱植民地化』は続々と成果を出しつつある。
しかしその速度以上に今こそ魂の脱植民地化は急がれていると感じた。
私が焦っているからではないと思う。
私が焦っているからではないと思う。
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