20150319

『1995年』

あれから20年経った。

阪神・淡路大震災が起き、引き続いてオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。

この2つの出来事だけでも、1995年は記憶に深く刻み込まれた特別な年だった。

20年目の節目という動機から、1995年を振り返ってみようと思った。
漠然とあの年に何かが終わったと言う感触を持っていたからだ。それが何か確かめたかったのだ。

最初に速水健朗の『1995年』を読んだ。期待していなかったが、その予想は当たり、さほど深い内容を持った本ではなかった。新書なので仕方がないか。とも思ったが、1995年という年を中心に何が起きたのかは網羅されており、それをチェックするには都合の良い本だった。

それよりも期待していたのは中西新太郎・編『1995年─未了の問題圏』の方だった。
この本は横浜市立大学教授の文化社会学者中西新太郎が、雨宮処凛、中島岳志、湯浅誠、栗田隆子、杉田俊介の5人と対談し、

95年をエポックとして何が変わったのかを検討(対論を終えて)

しようとする意欲的な対談集だった。

しかし奇妙な本だった。

1995年に焦点を定めて語れば語るほどに1995年が後景化してしまう奇妙な対談集だったのだ。

湯浅誠を除いて他の4人は1995年に二十歳だった論客が並ぶ。そこで語られるものは労働(生きること)性(フェミニズム)そして政治・文化(マンガ・サブカルチャー)など多岐に及ぶ。
近過去を様々な局面から振り返る事が目的ならば、この対談は成功している。

しかし何度も1995年に立ち戻ろうと苦心惨憺しているが失敗している。

何故か?

気分や雰囲気は確かに1995年何かが終わったと言う実感にあるのだが、具体的に検討を始めると時代の分岐点はそこになかったことが白日の下に明らかになってしまうのだ。

その為に実質的にこの対談集は90年代後半から2000年付近で何が起きたのかを回顧する内容になってしまっている。


本の題名は素晴らしいのだ。
確かに1995年に起きた出来事はどれもが未了の問題として放置されている。

だがそれは怠惰の結果として放置されているのだろうか?

そうではなく、誰もが1995年に何が終わって何が始まったのか?何から何への変化だったのかを探し求め、しかし見付けられずに途方に暮れてきた「問題圏」なのではないだろうか?

1995年が時代の節目だったという実感が実は虚妄のものではなかったのかという史実に気付くという予想外の結果を遺してこの本は終わっている。

勿論本にはそうは書いてないのだが。

20150308

『自閉症者の魂の軌跡』

叢書・魂の脱植民地化のシリーズにはどの本にも貫かれているひとつの特徴がある。それは途方も無いほど誠実に繰り広げられる自己との対面というドラマだ。
今回読了した真鍋祐子『自閉症者の魂の軌跡─東アジアの「余白」を生きる』もまた、鬼気迫ると表現したくなるほど、壮絶に、真摯に、そして真剣に自分と向かい合うことで、「余白」という鍵概念に到達し、そこを起点として自己と世界を模索し探索する事を可能にした精神の高みに到達した論考になっている。

著者は東京大学東洋文化研究所に籍を置く朝鮮シャーマニズムの研究者である。
だが、ここ迄の道のりは決して平坦なものではなかった。むしろ常人より遙かに厳しい道程を歩んできたとも言える。

それは小学生の頃のベテラン女性教師からの「虐待」とそれを切っ掛けとする級友たちからのいじめに始まり、院生・ポスドク時代のアカデミックハラスメントやフィールドである韓国で受けた政治的な迫害など遭遇した障碍には枚挙にいとまがない。

5年ほど前にはアスペルガー症候群の診断も受けている。

むしろ著者はアスペルガー症候群によって受けた様々な仕打ちに対して他罰的になることを許されず、それ故に自己処罰的に対処することによって、つまり勉強は嘘をつかないからという理由で、「勉強でみかえしてやる」と自らの心と身体を痛めつける事で辛うじて生き延びてきたのだろう。

そうした著者はテンプル・グランディンやエリック・ホッファーに強く共感するようになる。

例えばテンプル・グランディンの自伝

牧師は講壇から離れて、参拝者たちの前に立った。そして言った。
『あなた方一人ひとりの前に、天国に続く扉があるのです。開きなさい。そうすれば救われます』
(略)多くの自閉症児がそうであるように、私はすべてを文字どおりにとった。私の心はひとつのことに集中した─『扉』。天国へ続く扉。通り抜ければ私を助けてくれる扉。賛美歌の歌声が『歓喜と愛への永久なる証、この扉こそ祝福あれや』と、聞こえた時、私はほんとうにこの扉を探し出さねば─と確信したのだった。
(略)
そしてある日、夕食から自分の部屋へ戻る途中、私たちの寮のそばに別棟が建設中なのに気がついた。だれも働いていなかったので、その棟の周りを歩いてみた。そこから小さな渡しが突き出ていたので、上がってみた。足を踏み入れた場所は小さな物見塔であった。山々を望む三つの観察窓があった。
解放感が私の体にあふれた。何か月ぶりに、初めて、その時点での安らぎと将来への希望を感じた。愛と歓喜が私を包み込んだ。やっと探し当てた!『私の天国』へ続く扉を。

自閉症者であるグランディンは自分の人生の『扉』を感じるために、実際の扉を探し当てねばならなかったのだ。

著者はグランディンが扉に辿り着いたのと同じように、恐山に辿り着き、イタコと向かい合い、朝鮮シャーマニズムの研究に我が身を駆り立てる。

そして辿り着いたのが「余白」という鍵概念だ。

「余白」のイメージは村上靖彦が論じた「すき間」、或いは「裏側」の概念をヒントにしている。

定型発達においては、非イメージ的な意味を焦点として空間は濃淡をもち、イメージを欠いたすき間もまた意味を持つ。(略)自閉症児は意味を持たないのではなく、感覚的な形こそが意味である。それゆえ自閉症児にとって、形の不在は意味の不在・無意味であり、これは侵襲的なイメージである。だから、彼らは可能な限り明瞭で安定した形を持つ時空間を要求するのである。

朝鮮半島の政治力学の狭間で生き、そして死んだ者たちはこの「余白」に存在したのではないか?そして著者自身の生もまた東アジアの「余白」に存在していたのではないか?

そしてまた、私たちの生も死も。

つまり

構造と構造の狭間に埋もれた「余白」とは、言葉にはならない「経験」の多様な真実が吹き溜まった面と面のあわいを指す。

ここに至るまでの論考は決してスマートに一筋ではなく、紆余曲折を経ている。それはこの本の欠点でもあるが、同時に抗い難い魅力にもなっていると感じた。


もうひとつこの本を読んで深く共感した部分がある。それを引用しておく。

あるいは、震災直後から巷間に流れ始めた「花は咲く」の歌詞(岩井俊二作詞)はどうだろうか。「叶えたい夢もあった/変わりたい自分もいた」、「傷ついて傷つけて/報われず泣いたりして」という現在の「私の生」と3.11での「誰かの死」、「いつか生まれる君」と表現される未来の「誰かの生」は、実は決定的に断絶されているはずである。本来そこにあるべき「死者=死体」から目を背け、これを「花」という口当たりのよい比喩に置き換えることで、「誰かの歌が聞こえる/誰かを励ましている/誰かの笑顔が見える」と根拠のない「妄想」をささやきかけてくる。歌は続けて「誰かの笑顔」や「誰かの未来」は「悲しみの向こう側に」見えると語るのだが、その「悲しみ」とは一体誰のものなのか。もし、夢かなわず変わりたくても変われぬ自分や、傷つき傷つけられ報われず泣いた自分の「悲しみ」を、地震と津波で命をもぎとられてしまった人びとや、そこに遺された人びとの「悲しみ」に重ねたとすれば、それは死に対する何という冒涜であろうか。

我が意を得たり。

20150207

『魂の脱植民地化とは何か』

出会うべくして出会った本を読むべくして読んだ。読了した時それを感じた。以前から気になっていたのだがようやく読んだ。その意味では満を侍してという言葉が似合うだろう。
深尾葉子さんの著書。叢書・魂の脱植民地化の第1巻として出版されていた『魂の脱植民地化とは何か』である。

この本の前提は、人間の魂は本来自由に、自己の生命をまっとうすべく作動するものであるという確信にある。これを肯定したところから始めないと、人間という存在は魂の植民地状態から永遠に脱却することは不可能であるという結論に導かれてしまう。

そうした人間の本来性。生命には自分自身の存在を十全なものとし、その生命をまっとうする意欲と力が備わっているというテーゼを証明するためにこの本はある。

第1章の冒頭付近に幾つかの用語が定義されている。この概念は魂の植民地状態を理解する上で重要なので、引用しつつ紹介したいと思う。

本来自由であるべき魂は、その成長や存在過程の中でゆがめられ、外界との相互関係の中で、他者の意図によって操作される。そう著者は訴える。

それを「魂が植民地化され」た状態と呼ぶが、それは次のように定義されている。

「魂が植民地化され」た状態:それは他者との相互作用の結果といえるが、それによって自分の内在的な感覚を否定し、他者から押し付けられた視点で自分を見つめ、その結果、その目線を内部にとりこんで自分自身を監督し、行動を律するようになること。

つまり魂の植民地化とは呪縛された状態にある人間とする事が出来るだろう。

ここで言われている呪縛とは

呪縛:自分自身の置かれている状況、自分自身のありかた、についてフィードバックがなく、何ものかにとりつかれたように目の前の変化にのみついてゆく。

と定義されている。

しかし他者に何かを強要されても、あるいは外的規範や支配しようとする意図によって操作されても、必ずしも魂の自立性が損なわれているというわけではない。それによって、自らの感覚へのフィードバックが断たれているかどうかが重要なのだ。

外界と真の自分の間に遮断が敢行され、本来の自己は出口を塞がれている。

つまり魂は蓋をされた状態にあると言える。

ここでは

蓋:自分自身の感覚との接続を部分的に断ち切り、あるいは長期にわたって知覚できないように押さえ込む装置ないし機構

と定義されている。

「蓋」によって魂と分離された、感情の装着と偽装的行為とは、自らの身体だけでなく、他者に対しても加虐的な作用をもたらすと著者は言う。

魂の植民地状態にある者は他者を理解する時、「憑依」によってそれを行うからだ。

憑依:コミュニケーションする相手、あるいは理解しようとする他者の感情になぞらえて自己の中でシミュレートすること。

これは一見有効な他者理解の方法と思えるかも知れない。しかし、真に自らの魂を通わせて、他者との共感を達成しているのではない。
自分自身の魂に蓋をして、偽装的に他者の心の動きをなぞろうとするものであり、その過程にはいくつもの危険が潜んでいる。

そもそも、人間の魂は、他の魂やその人の本来の魂でないものを宿してしまうのだ。その結果、やはり肝心の自己はより厳重に蓋の下に閉じ込められ、その存在に注意を払われることが極めて少なくなり、自分自身の身体の宿り主たる自分自身の魂が存在することすら、ろくに注意を払われなくなる。

以上、本分の引用を主に用いて基本的な概念を説明してみた。

本書はこれらの基本的な概念を用いて、ゼミで出会った学生や研究者の魂の遍歴を丁寧に描き出す。

ここで行われている魂の脱植民地化の作業とは、植民地状態にある自分の魂を自覚し、植民地状態がいかなるメカニズムによって引き起こされたかを分析しつつ、呪縛、蓋、憑依などの概念を使ってそれを具体的に図示し、自らの魂の植民地状態をカミングアウトすること。そしてその行為によって植民地状態からの脱出をはかるという事だったと理解している。

この本の白眉のひとつは、「分かりにくい」「説明不足」と評されることの多かった宮崎駿監督の映画『ハウルの動く城』を魂の脱植民地化プロセスを可視化した作品として見た場合。透徹した一貫性に貫かれ、徹底した描写、完璧なまでのストーリー展開と人物配置で構成された映画として理解出来るかを示した第五章だろう。

そしてもうひとつは東日本大震災によって引き起こされた原発事故とその後の対応が、いかに非人間的なものであったかを分析した第六章にあると思う。

そこでは、「共同体の大義」を共有することこそが「価値」であり、自ら思考し、行動することは「共同体の秩序を乱す」反社会的行為である、という「レッテル」が貼られ、社会全体の多元性が著しく低下し、また状況に応じて柔軟な対応をするという性質が失われ、人々は「大本営」(国家の情報発信の中枢)が出す情報のみに反応し、自らものを考えない、という「集団的思考停止状況」に追い込まれる。さらに恐ろしいのは、こういう「 集団的思考停止状況」を作り出す権力は、おのずと自分の思考も「目的硬直型」となり「状況に応じた」適切なフィードバックの回路を断つ、同じ「集団的思考停止状況」に陥るということである。

この『叢書・魂の脱植民地化』は続々と成果を出しつつある。
しかしその速度以上に今こそ魂の脱植民地化は急がれていると感じた。
私が焦っているからではないと思う。


20150129

Black Dog

最初に知ったのはYouTube動画だった。

I had a black dog, his name was depression

鬱を黒い犬に例えている。その表現の的確さに驚嘆した。
キャプションを日本語訳したサイト


も存在する。

調べてみると元は絵本だったらしい。日本語訳も出版されているようなので長野市立図書館から借りてきた。
訳は抄訳というか意訳。だが意図は伝わる。

鬱という黒い犬とどう付き合っていったら良いのか?
それが語られている。

続編もすぐ見付かった。

Living With a Black Dog
こちらも絵本になっている。
 『ぼくのなかの黒い犬』が鬱病者の立場から語られているのに対し、この続編『わたしとあなたと、黒い犬』は、鬱病者とその家族がいかに対処していったら良いのかが描かれている。

と言うより、鬱病者が家族にどう接して貰いたいかが描かれていると言った方が正確かも知れない。

これ程パーフェクトに振る舞える家族はそう滅多にいるものではあるまい。

だが、こうした出版物が世に出ていることは鬱病者である私にはとても心強い。

と言うか、嬉しかったのだ。

この頃ようやく私も躁鬱病から段々寛解しつつあることを自覚している。何よりもそれに向かって私を促し支えてくれた周囲の方々に感謝したい。

多分、この作者も鬱病からかなり恢復しつつあるのだろう。

そうで無ければこれだけ客観的に鬱を見つめることなど出来はしない。

ひとりでも多くの鬱病者とその家族にこれらの動画や出版物が届くことを祈りたい。

20141211

iMacがやって来た!

それ程手放しで喜べない日になってしまった昨日、11時頃遂にiMacが我が家にやって来た。

開封の儀の写真を撮るつもりだったが、箱と格闘している内に忘れ、気が付いたらTime Capsuleからのデータ転送を行っていた。

2時間半ほどそれに費やしただろうか。

私の机の上にiMacが復活した。

どれ程この瞬間を待ち望んだことだろう。


16日の朝起きたらiMacが壊れていた。

起動して画面が明るくなってもカチカチ音がするだけで、きちんと起動してくれない。暫く経つとはてなマークの描かれたフォルダのアイコンだけが出る。

調べてみるとどうやらHDDが壊れた徴らしい。何度か再起動を試みたが駄目。

ヤマダ電機に持ち込んで修理できないか訊いてみるとAppleのサポートセンターの電話番号を教えてくれただけだった。試しにK's電機に電話しても同じ。

Appleのサポセンに電話してみるときちんと3番を押したにも拘わらず矢鱈待たされた挙げ句にiPhoneの係に繋がってしまった、これは以前にもあったことだ。電話機が古すぎるのだろう。また矢鱈待たされて、その挙げ句に分かったのは、最初予想したとおり部品がもうないので修理できないというお達しだった。

意を決したのは18日になってからだった。新しいiMacを買うことにした。

けれど、以前の環境を取り戻すことが出来るのか、ずっと不安だった。Time Capsuleでデータをこまめに保存はしてあったが、新しいiMacできちんと作動してくれるかどうか分からない。

不慣れなWindows環境では、どうもモチベーションを保つことが出来ず、ブログを更新する事も無く、3週間、ただひたすら新しいiMacがやってくるのを待ち続けていた。

私はMacでなければ駄目だと言う事をつくづく痛感させられた3週間だった。


そして遂に来たのだ!

驚いたのは起動直後の設定画面でTime Machineからの転送という項目が出た事だ。これは予想外だった。真っ新の画面を確認できないのは惜しいがそれに代え難い嬉しさがある。

Time Capsuleからのデータ転送は巧く行き、私は11月15日以前の環境を再び取り戻すことが出来た。とても嬉しい。


写真を見れば分かる人には分かるかも知れないが、Track Padを付けた。結構便利だ。マウスと併用して使うつもりだ。

これを導入する時、Magic Mouseは古いものを流用するつもりでいた。だが、何となく不安になってMouseも同時に購入した。

これが大正解だった。

古いMagic Mouseは何故かどうやっても接続出来なかったのだ。


何よりも画面の美しさが際立つ。
Retina Display。

そしてそれ以上に驚いたのが、処理速度の圧倒的な速さだ。

新しくなったのだからある程度は処理能力も向上しているだろうと予想していたが、古いiMacと比較して、これ程の差が出るとは夢にも思っていなかった。

iMacがなかった頃に様々な事が起きた。
大きな地震もあった。

そして昨日、大切な人が亡くなったという知らせを受けた。

正直、未だに体が崩れ落ちそうな気分ではある。

過去は狼のように追いかけて、私に襲いかかってくる。それを一匹一匹撃ち殺しながら、未来へ進んで行かねばならない。

そんな詩があったと記憶している。

新しいiMacと共に、未来へ橇を走らせよう。

20141104

『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』

クラシック界最大のピアニストのひとり。そう呼んでもそれ程異論はなかろう。アルゼンチンで生まれ、スイスで育った天才、マルタ・アルゲリッチの事だ。
そのマルタ・アルゲリッチを実の娘のステファニー・アルゲリッチが映画にした。これは観に行かなければファンとして話になるまい。

自分の肉親を映画にする。それがいかに困難な作業かは少し想像するだけで、理解出来る。日本語の題名は『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』とあって、鵜呑みにすると彼女の演奏が主体になっているのかと思うが、原題を知るとそうは行くまいと思えてくる。"Bloody daughter"がこの映画の題名である。「厄介な娘」と訳せば良いのだろうか?

しかし、観てみるとそれ程の緊張感はない。
湿り気もなく、適切な距離感を保って、母を描いている。


とは言えやはり平凡ではありえなかった母を持つことの複雑さはそこここにほの見える。

演奏会の場面で
「母の演奏会を何回も見た。おそらくは何百回も。子どもの頃の私には、演奏会とは母のいない時間。母を失う時間だった。」

サイン会の場面で
「昔はなぜサインに時間を費やすのか分からなかった。ファンに献身する母の姿は私を苛立たせた。ファンに噛み付いたことも─」

「今はファンの姿が私を感動させ、子どもの頃の確信を思い出す─」
「母は超自然的な存在で、常人には手の届かない高みにいる。」
「つまり私は女神の娘なのだ」

などのナレーションにそれは見え隠れする。

女神の娘。だから厄介な娘なのだろうか?


だがその他のシーンでは、母と娘の複雑な関係は表立って現れてこない。むしろ長年接してきた者でなければ撮れなかったであろう貴重なシーンが目を引く。


日常を撮っている。

だが、それを逆から見れば日常的に撮り・撮られるという関係にあると言う事だ。そうした母と娘とは一体どんな感じなのだろう?と不思議にも思えてくる。
つまり、余りにも自然なステファニーの距離の取り方が逆に気に掛かってくるのだ。

この映画を撮って、ステファニーは
「母がもっと好きになった」
と語っている。

それはそれで良いのだろうが、どことなくステファニーには、母マルタから離れられないものを、この映画を通して感じてしまった。そこにやや不安を感じてならない。

「音楽は説明するものではなく,感じるものであり,言葉を超越するものだ」そうマルタ・アルゲリッチは言う。

この映画は名作ではあるまい。けれど、母と娘という関係も、同様に説明を拒絶するものであって、この映画は家族というものを、そしてその中の母という存在を感じる映画となり、言葉を超越することは出来ているのではないかとふと感じさせられた。

2012年 スイス、フランス
監督    ステファニー・アルゲリッチ
出演    マルタ・アルゲリッチ,スティーヴン・コヴァセヴィッチ,シャルル・デュトワ,リダ・チェン,アニー・デュトワ,ステファニー・アルゲリッチ

20141026

iPadアームスタンド

強力な武器を手に入れた。

期待して購入したものの、使う時手に持たなければならないのが意外に面倒で、iPadは使いこなしているとはとても言えない状態にあった。

確かに便利なのだ。PCと違い、ケータイ感覚で殆ど常時起動していられる。使わない時は特製カヴァーを閉じればスリープ状態にしておくことが出来る。
なので思い立った時すぐに立ち上げることが出来、発想から作業までの距離はぐんと縮まった。

だが、本格的な作業にはスペックが足りない。

最新のものに買い替えれば問題はなくなるようだ。だが金はない!

その為、主に外出時の作業に限定して使うようになっていた。


気になることがあった。

以前からAirDisplayというアプリをiPadとiMacにインストールしてあったのだ。

iPadをiMacのセカンドディスプレイとして使うことが出来る。

便利だと思って導入した。決して安いアプリではなかった筈だ。

だがiMacのディスプレイとの位置関係に問題があった。机の上に置いてこのアプリを使うと微妙に視線が強制的に動かされ、姿勢も安定しない。使っていて疲れる。

いつの間にか使わなくなっていた。


iPad用のアームスタンドがある事は知っていた。だが当時知っていた品物は1万5千円以上するもので、とても手が出なかった。

何とかならないか?

探してみると安いiPad用のスタンドがあった。それを買ってみた。

けれど届いてみて分かったのだが、この商品はカメラの三脚などに付けるヘッドであり、単独では使用できないものだった。

かっとなって三脚も買ってしまった。

けれど冷静になって考えてみると、カメラの三脚を机の上に置いて作業すると言うのは何かと不便だ。置き場所に困ることが予見できた。

何とも諦めが付かず、「iPad アームスタンド」で検索してみた。iMacに取り付けるものではないようだが、よく似た商品が圧倒的に安い値段で存在していることが分かった。

即買った!

その商品が今日先に届いた。
名前は「寝ながら仰向けくねくねタブレットスタンド」という。何ともダサい名前だ。だが商品はイメージ通り。

確かにくねくねとしたアーム。これでタブレットの位置を自由に設定することが出来る。

使ってみて驚いたのは、手が塞がらないことがこれ程便利なこととは想像もしていなかったほど自由なことだった。
姿勢を殆ど変える事なく、iPadを操作できる。

これだけでも十分に便利だ。

早速iMacと並べて設置し、AirDisplayを起動、接続して同期させてみた。
大きなWindowを設定してあるソフトはiMacのディスプレイの大きさに替わってしまうことが分かった。だがWindowの大きさをそれ程必要としないソフトは十分に、ストレスなしに使えることが分かった。

このブログも最近導入したBeitelというアウトラインプロセッサをiPadに表示させ、それを見ながら作成している。

実を言うとAirDisplayがこれ程便利なアプリだとは想像もしていなかった。マルチディスプレイは確かに使い勝手がとても良い。
いちいちアプリを切り替える手間を全く必要としないので、仕事の効率がぐんと上がる。

しかし、三脚はカメラ用に使うこともあるだろうが、最初に間違って買ってしまったiPadホルダーは全くの無駄になってしまうのだろうか?

何か使い途は無いものか?