『米軍(アメリカ)が最も恐れた男─その名は、カメジロー』を観てきた。
正直に言ってそれ程期待してはいなかった。映画を観たいという気持ちだけがあり、いろいろ探してみたのだが、どの映画館で掛かっている映画も、横並びで、決め手に欠けた。
この映画に決めたのも見に行く寸前の事だった。
「信州と沖縄を結ぶ会」に入っている。
辺野古や高江の問題などを考えている内に居ても立ってもいられない気持になり、集会に参加したのが切っ掛けだった。
11月の中旬にその会の会報No.5が届いた。その封筒には映画のパンフレットも同封されており、それがこの映画のものだった。
背中を押された。この映画にしようと決心した。
正解だったと、今では思える。期待していなかったものの、映画は予想を遙かに超えて良い印象を得ることが出来たからだ。
瀬長亀次郎。この人物を知っていた訳ではない。変な名前の人物。そんな印象しか、抱いていなかった。この名前のせいで、今ひとつ、見る気にならなかったのも正直な話だ。
だが、妙に気になる存在でもあった。この人物をもっと知りたいと、いつの間にか思っていた。
映画は一本のガジュマルの樹から始まる。この樹を瀬長亀次郎は愛した。どの様な嵐にも倒れない。その在り方を沖縄人の姿と重ね合わせていたからだ。
彼が色紙に書く文字はたった二文字。「不屈」。
そのように瀬長亀次郎は生きた。
貧しい農家に生まれた亀次郎に、母は事あるごとにこう言葉を掛けたという。
「ムシルヌ アヤヌ トゥーイ アッチュンドー」
むしろのあやのように真っ直ぐに生きるんだよ。
そのように瀬長亀次郎は生きた。
民衆の前に立ち、演説会を開くと、毎回何万人もの聴衆を集め、人々を熱狂させた。
亀次郎はその人間性そのもの、生き方そのもので沖縄人の心を鷲づかみにしたのだ。
終戦から間もない1952年4月1日、首里城跡地で亀次郎と米軍の闘いの原点とも言える出来事があった。
琉球王国のシンボルだった首里城は、米軍によって、徹底的に破壊され、代わりに琉球大学の校舎が建てられていた。
沖縄を占領していた米軍は、日本への復帰運動などを抑える為、アメリカが指名した行政官による琉球政府を設立することにした。
この日行われた創立式典では、星条旗と並んで将官旗がはためき、アメリカ陸軍軍楽隊の演奏が響き渡っていた。
ビートラー米民政府副長官がこう挨拶した。
「アメリカには植民地的野望はなく、不安定な国際情勢下に太平洋の前衛地としての当地に駐屯を余儀なくされている」
式典の最後に、代表の議員が宣誓文を読み上げ、それぞれが立って脱帽し一礼する。
その中で帽子も取らず、立ち上がることもしなかった人物がただひとりいた。最後列の席で、ひとり座ったまま。
会場にどよめきが拡がる。
亀次郎だった。
亀次郎のこの行動は、ハーグ条約を法的な根拠としたものだった。
「占領された市民は、占領軍に忠誠を誓うことを強制されない」
そうした条文がある。
実はこの前日、立法院の職員が亀次郎の自宅に来て、何度も宣誓書への捺印を迫っていた。
既に亀次郎を除く全ての立法院議員の捺印が済んでいたが、亀次郎は最後まで説得に応じなかった。
亀次郎は、「立法院議員は、米国民政府と琉球住民に対し、厳粛に誓います」という条文の「米国民政府」の部分を削らないと宣誓書への捺印を行わないと言う。
「これはひとり沖縄人だけの問題ではなく、日本国民に対する民族的侮辱であり、日本復帰と平和に対する挑戦状だ」
困り果てた職員は宣誓書をいったん持ち帰るほかなかった。
再度見せられた宣誓書には、亀次郎の要求通り「米国民政府」の文字が消えていた。
しかし、これには見え透いたからくりがあった。宣誓書には、英語で書かれたものと、日本語で書かれたもののふたつがあり、英文を確認すると、こちらの方には「米国民政府」がしっかり残されていたのだ。
宣誓の場で、何度名前を呼ばれても、亀次郎が返事をすることも立ち上がることもなかったのには、そういった訳があった。
この日から亀次郎は「アメリカが最も恐れる男」「沖縄抵抗運動のシンボル」となる。
全てがこの調子だった。亀次郎の行動は、シンプルで「むしろのあやのように」真っ直ぐ。そして何より不屈だった。
亀次郎の影響力を恐れた米軍は、理由をごり押しして亀次郎を勾留するなどして、妨害しようとしたが、それらは悉く失敗に終わる。妨害にはならず、かえって亀次郎のカリスマ性を高めてしまったのだ。
彼、瀬長亀次郎は確かにひとりで米軍─アメリカを翻弄していた。
映画は豊富な史料を駆使して、亀次郎の生き方を克明に描き出して行く。そして、現在の沖縄で闘われている反基地闘争に、亀次郎の不屈の言葉がそのまま生きている事を示す。
今年は沖縄返還45年であり、日本国憲法施行70年であり、何よりも瀬長亀次郎生誕110年に当たる年だ。
その記念すべき年に、この映画が作られたと言う事は、日本の民主主義の前進にとって、大きな記念碑になるだろう。
亀次郎の生き方は、現在の沖縄に地続きで繋がっているのだ。
20171211
20170512
『わたしはダニエル・ブレイク』
六文錢さんのブログによるレビュー、『ケン・ローチ『わたしはダニエル・ブレイク』(I,Daniel Blake)を観る』を読んだ時から、この映画は観ようと心に決めていた。諸般の事情により、観るのが遅れたが、昨日(11日)ようやく観てきた。
ケン・ローチ監督は前作『ジミー、野を駆ける伝説』を最後に映画界からの引退を表明していたが、「いま、どうしても伝えなければならない物語がある」と引退を撤回。イギリスや世界中で拡大しつつある格差と貧困をテーマにメガホンを取った。
ケン・ローチ監督は言う。
これ程人をイラつかせるヴィヴァルディの「春」を聞いたことがない。映画の中でお役所仕事を象徴する電話の保留音がそれだ。
実直に働き、税金を納めてきたことを誇りにしているダニエル・ブレイクは59歳。心臓発作でドクターストップが掛かり大工の仕事を続けられなくなった彼は国の援助を受けようとする。だが政府から業務を委託された「専門家」の不条理な質問の結果失業手当が打ち切りになる。不服申し立てのために役所に電話をするが、保留音の「春」を1時間48分も聞かされた挙げ句、認定者からの電話を待てと突き放される。
職安で申請書を貰おうとするが、全てがオンライン。IT弱者のダニエルは「俺は大工だ。家なら建てる。でもパソコンは知らない」と叫ぶが「デジタル化ですから」のひと言でお終いだ。呆れた彼が「電話番号は?」と問いかければ「サイトにあります」。
かつてイギリスは「ゆりかごから墓場まで」のスローガンを掲げ、国民の最低限の生活を保障する福祉国家(安全保障や治安維持などに限定するのではなく、社会保障制度の整備からも国民の生活の安定を図る国家モデル)を誇っていたが、現在、その1945年以来最も弱者に過酷な時代を迎えているという。
財政赤字削減を公約に掲げたイギリス保守党デービット・キャメロンが首相になった2010年以来5年以上に及ぶ緊縮財政(福祉、住宅手当、社会保障の削減)と福祉保障制度改革の結果、「片手に指が1本でもあれば就労可能」と皮肉られる程に、イギリスにおける保障の認定基準は厳しくなった。
この映画に描かれたダニエル・ブレイクが、とりわけ不幸な訳ではない。
悪戦苦闘する中、ダニエルは求職者手当の申請をする為、職業安定所を訪れる。そこで彼は父親が違うふたりの子ども─姉のデイジーと弟のディラン─を連れたシングルマザー、ケイティ・モーガンと出会う。彼女は遅刻したせいで給付金を受けられないばかりか、減額処分になる違反審査にかけられると言われる。引っ越したばかりで道に迷ったと釈明しても受け容れられない。ダニエルも加勢し、抗議するが一緒に追い出される事になってしまう。
ケイティの荷物を持って送ってやるダニエル。そこで彼はケイティの悲惨な事情を打ち明けられる。ダニエルは自分の困窮も忘れてケイティたちの面倒を見る。
ケン・ローチ監督の作品が、いつも同じ様なテーマを扱っていながらマンネリに陥らないのは、彼の視点がいつも弱者と共にあるからだろう。そこにはいつもほっとする暖かみがある。
こうしてダニエルとケイティたちの弱者同士の絆は深められて行ったのだが…。
残念ながら映画の中でも、登場人物は誰ひとりとして実際に救われる訳ではない。ダニエルも、思い余った行動から、一瞬ヒーローになるが、それも長続きするものではない。
そこには救い難い現実がある。
けれどケン・ローチ監督はメッセージを込めて、この映画を作り上げたのだと思う。それは社会の変革を声高に訴えるのではなく、「人生は変えられる。隣の誰かを助けるだけで。」という地道で、だがとても強力なメッセージだ。
ケン・ローチ監督は前作『ジミー、野を駆ける伝説』を最後に映画界からの引退を表明していたが、「いま、どうしても伝えなければならない物語がある」と引退を撤回。イギリスや世界中で拡大しつつある格差と貧困をテーマにメガホンを取った。
ケン・ローチ監督は言う。
人を人と思わない。人を辱めるようなことも、人を罰することも平気でする。まじめに働く人たちの人生が混乱したり、援助を受ける人たちが食べられなくなったりすることを武器のように使う、政府の意識的な冷酷さに突き動かされました。
*
これ程人をイラつかせるヴィヴァルディの「春」を聞いたことがない。映画の中でお役所仕事を象徴する電話の保留音がそれだ。
実直に働き、税金を納めてきたことを誇りにしているダニエル・ブレイクは59歳。心臓発作でドクターストップが掛かり大工の仕事を続けられなくなった彼は国の援助を受けようとする。だが政府から業務を委託された「専門家」の不条理な質問の結果失業手当が打ち切りになる。不服申し立てのために役所に電話をするが、保留音の「春」を1時間48分も聞かされた挙げ句、認定者からの電話を待てと突き放される。
職安で申請書を貰おうとするが、全てがオンライン。IT弱者のダニエルは「俺は大工だ。家なら建てる。でもパソコンは知らない」と叫ぶが「デジタル化ですから」のひと言でお終いだ。呆れた彼が「電話番号は?」と問いかければ「サイトにあります」。
かつてイギリスは「ゆりかごから墓場まで」のスローガンを掲げ、国民の最低限の生活を保障する福祉国家(安全保障や治安維持などに限定するのではなく、社会保障制度の整備からも国民の生活の安定を図る国家モデル)を誇っていたが、現在、その1945年以来最も弱者に過酷な時代を迎えているという。
財政赤字削減を公約に掲げたイギリス保守党デービット・キャメロンが首相になった2010年以来5年以上に及ぶ緊縮財政(福祉、住宅手当、社会保障の削減)と福祉保障制度改革の結果、「片手に指が1本でもあれば就労可能」と皮肉られる程に、イギリスにおける保障の認定基準は厳しくなった。
英デイリーミラー紙は2016年5月12日、頭蓋骨の半分を失って重度の記憶障害と半身麻痺を抱える男性に対し、英労働年金省(DWP)が「就労可能」と裁定したことを報じた。理不尽きわまりない話に聞こえるが、活動家たちはこのような決定を耳にしてもショックを受けない。もはや当たり前になっているからだ。
(財政赤字を本気で削減するとこうなる、弱者切り捨ての凄まじさ-Newsweek)
この映画に描かれたダニエル・ブレイクが、とりわけ不幸な訳ではない。
悪戦苦闘する中、ダニエルは求職者手当の申請をする為、職業安定所を訪れる。そこで彼は父親が違うふたりの子ども─姉のデイジーと弟のディラン─を連れたシングルマザー、ケイティ・モーガンと出会う。彼女は遅刻したせいで給付金を受けられないばかりか、減額処分になる違反審査にかけられると言われる。引っ越したばかりで道に迷ったと釈明しても受け容れられない。ダニエルも加勢し、抗議するが一緒に追い出される事になってしまう。
ケイティの荷物を持って送ってやるダニエル。そこで彼はケイティの悲惨な事情を打ち明けられる。ダニエルは自分の困窮も忘れてケイティたちの面倒を見る。
ケン・ローチ監督の作品が、いつも同じ様なテーマを扱っていながらマンネリに陥らないのは、彼の視点がいつも弱者と共にあるからだろう。そこにはいつもほっとする暖かみがある。
こうしてダニエルとケイティたちの弱者同士の絆は深められて行ったのだが…。
残念ながら映画の中でも、登場人物は誰ひとりとして実際に救われる訳ではない。ダニエルも、思い余った行動から、一瞬ヒーローになるが、それも長続きするものではない。
そこには救い難い現実がある。
けれどケン・ローチ監督はメッセージを込めて、この映画を作り上げたのだと思う。それは社会の変革を声高に訴えるのではなく、「人生は変えられる。隣の誰かを助けるだけで。」という地道で、だがとても強力なメッセージだ。
生きるためにもがき苦しむ人々の普遍的な話を作りたいと思いました。死に物狂いで助けを求めている人々に国家がどれほどの関心を持って援助しているか、いかに官僚的な手続きを利用しているか。そこには、明らかな残忍性が見て取れます。これに対する怒りが、本作を作るモチベーションとなりました。
ケン・ローチ
出典:公式サイト
20170430
『海街diary8恋と巡礼』
ほっとした。それが今回の正直な感想だ。
少し注文するのが遅れた。今日の午後、『海街diary』8巻「恋と巡礼」が届いていた。
ニーチェも中山元も高橋昌一郎も押しのけて読み始め、貪るように一気に読み切ってしまった。
7巻の終わりで、主人公たちの香田家に大きな転機が訪れる事は予想出来た。上手く行って欲しいという願いはあれど、どの様に展開されるのか分からない不安で、7巻を読み終わるや否や、この第8巻が待ち遠しくて仕方がなかった。最大の不安は、ありがちな、安易で杜撰な展開になってしまうのではないかと言う事だった。いくらでもあざといドラマにできる展開だったからだ。
さすがにそれはなかった。
それどころか、読み終わって、充実した読後感に浸り、物語の背後でバックグラウンドミュージックのように啼く蝉の声を感じ、本棚に並ぶ背表紙を眺めながら、第1巻からの展開を振り返っていた。
実際、この巻が最終回であっても構わないと思える程、いつもより内容の濃い巻だった。
今回は今迄どちらかと言うと地味な扱いで、物思いや屈託と無縁の存在だった三女千佳が、一躍主役に踊り出て来た感がある。彼女を、そして彼女に起きた事を軸として物語は展開する。
海街diaryの主人公たちは、互いに大切な家族、友人、恋人、知人を思いやり、相手の心に一歩も二歩も踏み込んで意見する。日常に波風を立てまいとするのも、そうした思いやりの一種なのだろうが、「事件」は波風を立てずに済む訳もなく、問題を抱えた当人も、問題から逃げる事なく向かい合い、解決してゆく。こうして「事件」は丸ごと家族の日常に引き戻され、日常の一部として、包含されてゆく。それが家族の強靱さであり、日常の分厚さなのだろう。
海街diaryの持つ鮮明なリアリティーは、そうした強靱さや分厚さを、見事に描き出し、それが私たちの人生と一致するものを持っているところから生まれて来るのだろう。
諭す側も決して説教臭くならないのは、それぞれが別の弱点を抱え、それ故に互いに支え合う関係にあるからだと思う。
強靱さや分厚さは、自然にそうなっているのではなく、また誰かひとりの手柄としてそうあるのでもない。ひとりひとりがさりげなく努力し、その努力によってひとりひとりが互いに支え合い、助け合う。そうした作業の積み重ねの上に成り立っているのだ。つくづくこの頃そう思う事が多い。
海街diaryの主人公たちもそれぞれが、新しい門出を迎えている。
それぞれの人生が鎌倉の四季の移ろいと共に変化して行き、これから先も様々なドラマを演じてくれるのだろう。
鎌倉という街は、有名所だが、私にとっても決して縁のない、単なる観光地としてあった訳ではない。深く、いろいろな個人的な思い出が染みついている。
作品の所々に現れてくる、詳細なスケッチは、どれも正確無比で、私の記憶が、逆にスケッチから呼び起こされる事すらある程だ。
その鎌倉という土地の自然や風物が、描かれる人間模様と相俟って、独得の風合いを醸し出している。
帯に書かれていて知った事だが、作者の吉田秋生さんは今年で画業40周年を迎えるのだという。なかなか出来ることではない。その区切りを、この海街diaryで迎えるという事が、なぜか運命的なものを感じるのは私だけなのだろうか?
家族のあり方を描いて来た吉田秋生さんの、集大成と言ってよい作品になって来ていると思う。
少し注文するのが遅れた。今日の午後、『海街diary』8巻「恋と巡礼」が届いていた。
ニーチェも中山元も高橋昌一郎も押しのけて読み始め、貪るように一気に読み切ってしまった。
7巻の終わりで、主人公たちの香田家に大きな転機が訪れる事は予想出来た。上手く行って欲しいという願いはあれど、どの様に展開されるのか分からない不安で、7巻を読み終わるや否や、この第8巻が待ち遠しくて仕方がなかった。最大の不安は、ありがちな、安易で杜撰な展開になってしまうのではないかと言う事だった。いくらでもあざといドラマにできる展開だったからだ。
さすがにそれはなかった。
それどころか、読み終わって、充実した読後感に浸り、物語の背後でバックグラウンドミュージックのように啼く蝉の声を感じ、本棚に並ぶ背表紙を眺めながら、第1巻からの展開を振り返っていた。
実際、この巻が最終回であっても構わないと思える程、いつもより内容の濃い巻だった。
今回は今迄どちらかと言うと地味な扱いで、物思いや屈託と無縁の存在だった三女千佳が、一躍主役に踊り出て来た感がある。彼女を、そして彼女に起きた事を軸として物語は展開する。
海街diaryの主人公たちは、互いに大切な家族、友人、恋人、知人を思いやり、相手の心に一歩も二歩も踏み込んで意見する。日常に波風を立てまいとするのも、そうした思いやりの一種なのだろうが、「事件」は波風を立てずに済む訳もなく、問題を抱えた当人も、問題から逃げる事なく向かい合い、解決してゆく。こうして「事件」は丸ごと家族の日常に引き戻され、日常の一部として、包含されてゆく。それが家族の強靱さであり、日常の分厚さなのだろう。
海街diaryの持つ鮮明なリアリティーは、そうした強靱さや分厚さを、見事に描き出し、それが私たちの人生と一致するものを持っているところから生まれて来るのだろう。
諭す側も決して説教臭くならないのは、それぞれが別の弱点を抱え、それ故に互いに支え合う関係にあるからだと思う。
強靱さや分厚さは、自然にそうなっているのではなく、また誰かひとりの手柄としてそうあるのでもない。ひとりひとりがさりげなく努力し、その努力によってひとりひとりが互いに支え合い、助け合う。そうした作業の積み重ねの上に成り立っているのだ。つくづくこの頃そう思う事が多い。
海街diaryの主人公たちもそれぞれが、新しい門出を迎えている。
それぞれの人生が鎌倉の四季の移ろいと共に変化して行き、これから先も様々なドラマを演じてくれるのだろう。
鎌倉という街は、有名所だが、私にとっても決して縁のない、単なる観光地としてあった訳ではない。深く、いろいろな個人的な思い出が染みついている。
作品の所々に現れてくる、詳細なスケッチは、どれも正確無比で、私の記憶が、逆にスケッチから呼び起こされる事すらある程だ。
その鎌倉という土地の自然や風物が、描かれる人間模様と相俟って、独得の風合いを醸し出している。
帯に書かれていて知った事だが、作者の吉田秋生さんは今年で画業40周年を迎えるのだという。なかなか出来ることではない。その区切りを、この海街diaryで迎えるという事が、なぜか運命的なものを感じるのは私だけなのだろうか?
家族のあり方を描いて来た吉田秋生さんの、集大成と言ってよい作品になって来ていると思う。
20170423
『ニーチェの顔』
前々回の「『大いなる正午』」に引き続き、氷上英廣の本を紹介する。
今回紹介するのは『ニーチェの顔』。岩波新書青版である。言わずと知れるだろうが古い。ちなみにamazonで氷上英廣を検索しても、『大いなる正午』も『ニーチェの顔』もヒットしない。偶々、県立長野図書館に蔵書があったお蔭で、読むことが可能になった。だが、読んでいて全く古さを感じなかった。
この様な本を読んでいると、本物のインテリの話は面白いと素直に思えてくる。洋の東西を問わない、広く深い知識と教養が本から泉のようにこんこんと湧き出てくるような気がしてくるのだ。
今回の『ニーチェの顔』は70年代前半に書かれた、ニーチェに関するエッセイを集めたものだ。
ニーチェの容貌や声、孤独とデカダンス、エピクロスやヘーゲルとの関係、西洋と東洋、ゾロアスターや仏教キリスト教、ニーチェが生きた時代のドイツと日本の知的風土、といった様々な角度から光をあて、ニーチェという希有な思想家の迫力と魅力を、生き生きと描き出している。
ニーチェが書いたままの原語で、ニーチェを読むことができる事へのうらやましさを含めて、これだけ教養があると、ニーチェを読んでいても、私が読む場合の数十倍、いや数百倍は愉しいだろうと想像する。
私が読む場合、一寸先だけ見えていてその先は闇、の状態に近いが、もっと広い遠近感を持ちながら、確固とした全体像を持ってニーチェを読むことができると思えるからだ。
例えば「犀・孤独・ニーチェ」から引用すると
こうしたことを分かっていて読むのと、全く知らずに読むのでは、同じ文章を読んでも、汲むことができる意味の量が全く違ってくる。
氷上英廣の本はこうした事の連続なのだ。
これだけの知識と教養がありながら、氷上英廣が『ツァラトゥストラはこう言った』を、注釈なしで訳した事実に、私は改めて驚嘆せざるを得ない。
ところが意外にも氷上英廣ができなかったことも、できるようになって来ている事に、今回気が付いた。
表題にも使われている文章「ニーチェの顔」の冒頭はこう始まる。
今我々はWebを使うことができる。Vercingetorixを画像検索してみると、主に銅像でだがその肖像を簡単に見出すことができる。
ウェルキンゲトリクス(Wikipedia)
氷上英廣ができなかったことも、簡単にやってのける事ができるのだ。
時代は確実に便利になっている。
しかし、『ニーチェの顔』を読まなければ、Vercingetorixなる人物の名すら知らずに過ごしていたのであろう。所詮は氷上英廣の手のひらの上で探検をしている気分を味わっているに過ぎないのだ。
今回紹介するのは『ニーチェの顔』。岩波新書青版である。言わずと知れるだろうが古い。ちなみにamazonで氷上英廣を検索しても、『大いなる正午』も『ニーチェの顔』もヒットしない。偶々、県立長野図書館に蔵書があったお蔭で、読むことが可能になった。だが、読んでいて全く古さを感じなかった。
この様な本を読んでいると、本物のインテリの話は面白いと素直に思えてくる。洋の東西を問わない、広く深い知識と教養が本から泉のようにこんこんと湧き出てくるような気がしてくるのだ。
今回の『ニーチェの顔』は70年代前半に書かれた、ニーチェに関するエッセイを集めたものだ。
ニーチェの容貌や声、孤独とデカダンス、エピクロスやヘーゲルとの関係、西洋と東洋、ゾロアスターや仏教キリスト教、ニーチェが生きた時代のドイツと日本の知的風土、といった様々な角度から光をあて、ニーチェという希有な思想家の迫力と魅力を、生き生きと描き出している。
ニーチェが書いたままの原語で、ニーチェを読むことができる事へのうらやましさを含めて、これだけ教養があると、ニーチェを読んでいても、私が読む場合の数十倍、いや数百倍は愉しいだろうと想像する。
私が読む場合、一寸先だけ見えていてその先は闇、の状態に近いが、もっと広い遠近感を持ちながら、確固とした全体像を持ってニーチェを読むことができると思えるからだ。
例えば「犀・孤独・ニーチェ」から引用すると
ところで、「われはさまよう、ただひとりの犀のごとくに」の句は、引用の手紙であきらかなように、ゲルスドルフから贈られたインドの箴言集のなかにあるのではなく、仏典スッタ・ニバータに由来するものであり、英訳のスッタ・ニバータのなかに出て来るリフレーンをニーチェが自家用に独訳したものだ。
こうしたことを分かっていて読むのと、全く知らずに読むのでは、同じ文章を読んでも、汲むことができる意味の量が全く違ってくる。
氷上英廣の本はこうした事の連続なのだ。
これだけの知識と教養がありながら、氷上英廣が『ツァラトゥストラはこう言った』を、注釈なしで訳した事実に、私は改めて驚嘆せざるを得ない。
ところが意外にも氷上英廣ができなかったことも、できるようになって来ている事に、今回気が付いた。
表題にも使われている文章「ニーチェの顔」の冒頭はこう始まる。
ニーチェの顔といえば、まず思いだすのはあの大きな口ひげである。シュテファン・ツヴァイクがニーチェを論じたもののなかにVercingetorixのひげという語が使ってあるが、このヴェルツィンゲートリクスというのはガリア人の勇猛な族長でシーザーと戦い、敗北し、ローマで首をはねられた人物らしい。私はいまその肖像をさがす便宜がないので、おそらくニーチェのようなひげを持った人物なのだろうと思うよりほかない。
今我々はWebを使うことができる。Vercingetorixを画像検索してみると、主に銅像でだがその肖像を簡単に見出すことができる。
ウェルキンゲトリクス(Wikipedia)
氷上英廣ができなかったことも、簡単にやってのける事ができるのだ。
時代は確実に便利になっている。
しかし、『ニーチェの顔』を読まなければ、Vercingetorixなる人物の名すら知らずに過ごしていたのであろう。所詮は氷上英廣の手のひらの上で探検をしている気分を味わっているに過ぎないのだ。
春を撮った
現実の春は、紹介する写真より、一歩も二歩も先に進んでしまった。早くupしないと本当に時機を逸する。
自宅の近くを撮ったので、あまり見栄えは良くない。
部屋から見える桜。
なかなか咲かなかったが、ちらほらと咲き始めたと思っていたら、次は8分咲きになっていた。
その隣の欅。
遠目から欅の葉の芽だと思っていたのだが、撮影しようと近付いて、花芽である事に気が付いた。まだ開いてはいない。
近所では最も立派な桜。咲くのも早かった。もう葉が出始めている。
近くの公園の桜並木。今が見頃だ。
鴨脚樹の葉はまだ鴨の脚と言うより雀の脚程度の大きさ。
つい最近梅も満開だった。信州の春は爆発的だ。刻々とその姿を変えている。
自宅の近くを撮ったので、あまり見栄えは良くない。
部屋から見える桜。
なかなか咲かなかったが、ちらほらと咲き始めたと思っていたら、次は8分咲きになっていた。
その隣の欅。
遠目から欅の葉の芽だと思っていたのだが、撮影しようと近付いて、花芽である事に気が付いた。まだ開いてはいない。
近所では最も立派な桜。咲くのも早かった。もう葉が出始めている。
近くの公園の桜並木。今が見頃だ。
鴨脚樹の葉はまだ鴨の脚と言うより雀の脚程度の大きさ。
つい最近梅も満開だった。信州の春は爆発的だ。刻々とその姿を変えている。
20170412
『大いなる正午』
良い随筆集であった。
読む前から本の佇まいに感動していた。1979年の12月に発行された本だ。その頃には既にこの様な佇まいを持つ本は珍しいものになっていたのではなかっただろうか?
小豆色の布張りの表紙。背に金の明朝体で題字が記されているのみ。
読む為に本を触っているだけでとても気持ちが良い。
この感触を味わっていたくて(それだけが理由ではないが)ゆっくりと読んだ。
「あとがき」でも触れられているが、副題に「ニーチェ論考」とあるが、ニーチェについてのみ論じている本ではない。構成としてはIはだいたいニーチェが、IIは茂吉、鴎外、草田男が、IIIはゲーテとドイツ・ロマン派が主題となっている。
しかし、いずれの文章でもニーチェの名はひょっこりと飛び出して来るので、副題に偽りはないだろう。
表題になっている大いなる正午という言葉は、『ツァラトゥストラ』などに頻繁に出て来る、印象深い言葉であり、何と言っても『ツァラトゥストラ』は
とツァラトゥストラが叫ぶシーンで終わっている。
その大いなる正午を論じるエッセーでこの本『大いなる正午─ニーチェ論考』は始まっている。
ほう!と思わせて、著者氷上英廣はその知的で広大な世界に私たちを引きずり込む。
驚かされたのが、著者の和歌・俳諧に対する造詣の深さだ。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を、最初に注釈なしで訳した事がクローズアップされた事により、ドイツ文学の専門家と見られがちだが、ヨーロッパの著作と同程度に和歌・俳諧が引用されている。
博学とはこの様な人のことを言うのであろう。
困ったのは、茂吉とニーチェの関係を論じた文章などに顕著だったのだが、訳もなしにいきなりドイツ語の詩が引用され、論じられている部分だった。久し振りにドイツ語の辞書を本棚から引っ張り出した。
著者の知的な文章に触れ、ものがはっきり見えてくる快感に浸ることができた。
読む前から本の佇まいに感動していた。1979年の12月に発行された本だ。その頃には既にこの様な佇まいを持つ本は珍しいものになっていたのではなかっただろうか?
小豆色の布張りの表紙。背に金の明朝体で題字が記されているのみ。
読む為に本を触っているだけでとても気持ちが良い。
この感触を味わっていたくて(それだけが理由ではないが)ゆっくりと読んだ。
「あとがき」でも触れられているが、副題に「ニーチェ論考」とあるが、ニーチェについてのみ論じている本ではない。構成としてはIはだいたいニーチェが、IIは茂吉、鴎外、草田男が、IIIはゲーテとドイツ・ロマン派が主題となっている。
しかし、いずれの文章でもニーチェの名はひょっこりと飛び出して来るので、副題に偽りはないだろう。
表題になっている大いなる正午という言葉は、『ツァラトゥストラ』などに頻繁に出て来る、印象深い言葉であり、何と言っても『ツァラトゥストラ』は
これは俺の朝だ。俺の昼がはじまるぞ。さあ、来い、来い、大いなる正午よ!
とツァラトゥストラが叫ぶシーンで終わっている。
その大いなる正午を論じるエッセーでこの本『大いなる正午─ニーチェ論考』は始まっている。
古代ギリシアでは正午のころに物の怪が出没したらしい。
ほう!と思わせて、著者氷上英廣はその知的で広大な世界に私たちを引きずり込む。
驚かされたのが、著者の和歌・俳諧に対する造詣の深さだ。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』を、最初に注釈なしで訳した事がクローズアップされた事により、ドイツ文学の専門家と見られがちだが、ヨーロッパの著作と同程度に和歌・俳諧が引用されている。
博学とはこの様な人のことを言うのであろう。
困ったのは、茂吉とニーチェの関係を論じた文章などに顕著だったのだが、訳もなしにいきなりドイツ語の詩が引用され、論じられている部分だった。久し振りにドイツ語の辞書を本棚から引っ張り出した。
著者の知的な文章に触れ、ものがはっきり見えてくる快感に浸ることができた。
20170330
『道徳の系譜学』
ようやく読み切った。
『ツァラトゥストラ』を読み終わった時から、この本は、いつか読まねばと思い続けてきた。どの解説書を読んでも、必ず読むように奨めてくる本だったからだ。
実は『善悪の彼岸』と共に、この本はかなり昔、購入したものだった。ずっと積ん読状態だったが、『ツァラトゥストラ』を読破した事を切っ掛けに、ニーチェに浸り切り、満を侍して手に取った。
ニーチェ著・中山元訳『道徳の系譜学』を取り敢えず、読み切った。
この本は、『ツァラトゥストラ』が売れなかった事から書かれた『善悪の彼岸』が、ニーチェが思ったようには受け容れられず、その事から、ニーチェが自分の思想を解説する必要性に迫られて、書かれたもののようだ。
得意のアフォリズムは封印され、ニーチェには珍しく、論文形式で書かれている。
それ故、恐れをなして逃げ続けていたのだが、読んでみると、むしろアフォリズム集より分かり易く、面白く読めた。ニーチェの論考はそれ自体が恐ろしくダイナミックなものであり、思考の安住をどこにも許さないものだった。
構成は
序
第1論文:「善と悪」と「良いと悪い」
第2論文:「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題
第3論文:禁欲の理想の意味するもの
と、なっている。
このうち第2論文は2度読んだが、他は1度しか読んでいない。
いくら分かり易かったとは言え、それは他の文章に比べての話であり、何と言っても天下のニーチェ。一度や二度読んだところで、読みこなせる訳がない。
何とか要約をまとめてみるつもりだが、当然それは分かったつもりの範囲内のことであり、読解の行き届かなかった所、誤読は当たり前のように存在する。その事は何度言っても言い足りないくらいに厳重に言っておきたい。
この本の目的は、善悪の判断が生まれてきた理由や善悪の判断そのものの価値を明らかにするために、道徳の意味を時代を遡って仮説的に(=系譜学的に)考察することにある。
ここで大切なのは、ニーチェは実証的に史実に基づいて道徳の起源を示そうとしているのではなく、あくまでもひとつの仮説を置こうとしているに過ぎないと言う事だ。何らかの起源を想定すること自体がニーチェの思想の基本姿勢に反する事だ。「ニーチェの主張する事実は、歴史上存在したことがない」と反論する事は、ニーチェの議論に正面から応える事にはならない。
第1論文から。
ニーチェの道徳論の重心は、ひとつには私たちが何が道徳的であるかをしばしばルサンチマン(怨恨)によって規定してしまうという点に置かれている。
ありがちなことだ。
そして冷水を浴びせかけられたような気分になる。
ルサンチマンが根本にあると言う事は、私たちの道徳が、実は全くの偽善であることになってしまうからだ。
ニーチェは「良い」という判断の起こりは「良い人」たち自身が彼らより劣った人たちと比べ、自分の行為を「良い」と評価したことにあると言う。つまり「良い」の判断は自己肯定の表現から現れたのだと言うのだ。
「良い」の語源は、どの言語に於いても、身分的な意味での「貴族」や「高貴」が基本にあり、そこから派生して、貴族的とか卓越性としての「良い」が発展してきた。と言う。
それと並行してもうひとつの発展があった。野暮とか低級といった概念が「悪い」schlechtの意味を持つようになってしまった。始めそれは単に素朴さ(schlechtwegsは「率直に」という意味を持つ)を指していたに過ぎない。しかし次第にそれは現在の意味、つまり善と対置される「悪」das Böseへと変化させていった。
身分的な意味でしか使われていなかった「良い」と「悪い」が次第にその意味を変化させる際には「僧侶階級」が大きな役割を担った。彼らは最初は政治的に最も高位にある階級に過ぎなかった。しかし次第に精神的な意味でも、最も優越していると考えられるようになった。
僧侶階級と対照的なのが「戦士階級」だ。僧侶階級が沈鬱的であり行動忌避的なのに対して、戦士階級は健康、力強さ、自由で快活である事を前提としている。
僧侶階級は敵対者である戦士階級に対して仕返しをするために、一切の価値の転換、すなわちルサンチマンによる価値創造を行った。ただし彼らはこれを現実の行為によってではなく、想像上の復讐として行ったのだ。
この過程で生み出されたのがルサンチマンの道徳だ。ニーチェはこれを奴隷道徳と呼び、それに対して、戦士階級の道徳、自己肯定の表現としての道徳を貴族道徳と呼んだ。
一切の貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対し奴隷道徳は否定から生まれる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンは否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが奴隷道徳の本質的な条件なのだ。
かつての「良い」は自然な自己肯定の表現だった。しかし、ルサンチマンは「良い」のが悪く、「悪い」のが良いのだと言うように、価値基準をいつの間にか逆転させ、反動的に「善人」とイメージを思い描くようになる。
次に第2論文。
「自由な人間」が登場した背景には「習俗の論理」の存在がある。習俗の論理は人間を一様に数え上げられるようにするが、最終的には、習俗の論理から再び解き放たれた個人、つまり「主権者的な個体」が現れるに至るという。
「主権者的な個体」とは自分の意志を持ち、約束をきちんと守り、相手も自分も裏切らないような個人の事を指している。
「主権者的な個体」は自律的で自己固有の意志を持つ人間のことだ。彼は自由の意識、自己と運命を支配する権力の意識に満ちあふれている。
そして大切な事は、彼は約束出来る人間であると言う事だ。彼は責任についての強い自覚を持ち、自分がしっかりと約束を守る事が出来る能力があることを知っている。こうした能力を所謂「良心」と呼ぶのだ。
一方約束する能力に由来するのではなく、後ろめたさや「罪悪感」「負い目」に支えられている良心もある。これがニーチェの言う「疚しい良心」だ。
この「疚しい良心」は「申し訳なさの良心」と言い換えるとより分かり易いと思う。
「お金持ちで申し訳ない」「五体満足で申し訳ない」…等々。
負い目Schuldの概念は、負債Schuldenに由来して生まれてきた。
その一方で、刑罰から報復が生まれてきた。
刑罰は負い目を呼び起こすものと見做されて来たが、実際にはむしろそれを発達させないように抑制もして来た。
刑罰の効果は次の所にある。つまり刑罰は自己批判をさせ、改善させる効果を持つ。それは恐怖と用心深さを増し、欲望を制御させることで人を飼い馴らさせる。
第3論文。
ここでニーチェは禁欲的な理想が生まれてきた背景について論じている。
これまでの哲学者は概して官能を拒否し、禁欲的理想に対して愛着を見せてきた。禁欲的な理想は哲学者が存在するための前提であり、哲学それ自体が存続するための条件でさえもあったと言う。
ここでニーチェは「禁欲的司牧者」がルサンチマンの方向を転換し、疚しい良心を生み出したという説を立てる。
ルサンチマンに侵されている人は「私が苦しいのは誰かのせいに違いない」と考える。ここで彼らを従える「禁欲的司牧者」は次のように告げる。
「その通りだ、それは誰かのせいに違いない。しかし、その誰かとは、まさしく君たち自身なのだ。苦しいのは君たち自身のせいなのだ!」
ルサンチマンはその方向を転換したのだ。
こうして彼は、罪悪感に支えられた疚しい良心を抱くようになる。
学問はどうなのだろうか?
学問は司牧者に敵対し、彼らの「間違った」信念を次々と破壊してきたではないか?
しかしニーチェの批判は学問そのものにも向かう。
では、なぜ人びとは禁欲的な理想を受け容れ、禁欲的司牧者に従うのだろうか?なぜ彼を拒否しなかったのだろうか?
それは、これまで唯一禁欲的な理想のみが人間に生の意味を与える事が出来たからだ。
彼が禁欲的な理想を抱くようになった理由。それは人間が本質的に生の意味を求める存在だからだ。彼にとっては苦悩それ自体が問題なのではない。むしろ苦悩に意味が欠けている事、これこそが問題なのだ。
禁欲的な理想は人びとに苦悩の意味、目的を与えた。それによって人びとは何かを意欲する事が出来るようになったのだ。
しかし禁欲的な理想は、人間に苦悩の意味を与えるのと同時に、新たな苦悩ももたらした。「虚無への意志」がそれだ。動物的なものに対する憎悪、官能に対する、また理性に対する嫌悪、微に対する恐怖─そうしたものすべてが禁欲的な理想によって生み出されたのだ。
『ツァラトゥストラ』を読み終わった時から、この本は、いつか読まねばと思い続けてきた。どの解説書を読んでも、必ず読むように奨めてくる本だったからだ。
実は『善悪の彼岸』と共に、この本はかなり昔、購入したものだった。ずっと積ん読状態だったが、『ツァラトゥストラ』を読破した事を切っ掛けに、ニーチェに浸り切り、満を侍して手に取った。
ニーチェ著・中山元訳『道徳の系譜学』を取り敢えず、読み切った。
この本は、『ツァラトゥストラ』が売れなかった事から書かれた『善悪の彼岸』が、ニーチェが思ったようには受け容れられず、その事から、ニーチェが自分の思想を解説する必要性に迫られて、書かれたもののようだ。
得意のアフォリズムは封印され、ニーチェには珍しく、論文形式で書かれている。
それ故、恐れをなして逃げ続けていたのだが、読んでみると、むしろアフォリズム集より分かり易く、面白く読めた。ニーチェの論考はそれ自体が恐ろしくダイナミックなものであり、思考の安住をどこにも許さないものだった。
構成は
序
第1論文:「善と悪」と「良いと悪い」
第2論文:「罪」「疚しい良心」およびこれに関連したその他の問題
第3論文:禁欲の理想の意味するもの
と、なっている。
このうち第2論文は2度読んだが、他は1度しか読んでいない。
いくら分かり易かったとは言え、それは他の文章に比べての話であり、何と言っても天下のニーチェ。一度や二度読んだところで、読みこなせる訳がない。
何とか要約をまとめてみるつもりだが、当然それは分かったつもりの範囲内のことであり、読解の行き届かなかった所、誤読は当たり前のように存在する。その事は何度言っても言い足りないくらいに厳重に言っておきたい。
この本の目的は、善悪の判断が生まれてきた理由や善悪の判断そのものの価値を明らかにするために、道徳の意味を時代を遡って仮説的に(=系譜学的に)考察することにある。
ここで大切なのは、ニーチェは実証的に史実に基づいて道徳の起源を示そうとしているのではなく、あくまでもひとつの仮説を置こうとしているに過ぎないと言う事だ。何らかの起源を想定すること自体がニーチェの思想の基本姿勢に反する事だ。「ニーチェの主張する事実は、歴史上存在したことがない」と反論する事は、ニーチェの議論に正面から応える事にはならない。
第1論文から。
ニーチェの道徳論の重心は、ひとつには私たちが何が道徳的であるかをしばしばルサンチマン(怨恨)によって規定してしまうという点に置かれている。
ありがちなことだ。
そして冷水を浴びせかけられたような気分になる。
ルサンチマンが根本にあると言う事は、私たちの道徳が、実は全くの偽善であることになってしまうからだ。
ニーチェは「良い」という判断の起こりは「良い人」たち自身が彼らより劣った人たちと比べ、自分の行為を「良い」と評価したことにあると言う。つまり「良い」の判断は自己肯定の表現から現れたのだと言うのだ。
「良い」の語源は、どの言語に於いても、身分的な意味での「貴族」や「高貴」が基本にあり、そこから派生して、貴族的とか卓越性としての「良い」が発展してきた。と言う。
それと並行してもうひとつの発展があった。野暮とか低級といった概念が「悪い」schlechtの意味を持つようになってしまった。始めそれは単に素朴さ(schlechtwegsは「率直に」という意味を持つ)を指していたに過ぎない。しかし次第にそれは現在の意味、つまり善と対置される「悪」das Böseへと変化させていった。
身分的な意味でしか使われていなかった「良い」と「悪い」が次第にその意味を変化させる際には「僧侶階級」が大きな役割を担った。彼らは最初は政治的に最も高位にある階級に過ぎなかった。しかし次第に精神的な意味でも、最も優越していると考えられるようになった。
僧侶階級と対照的なのが「戦士階級」だ。僧侶階級が沈鬱的であり行動忌避的なのに対して、戦士階級は健康、力強さ、自由で快活である事を前提としている。
僧侶階級は敵対者である戦士階級に対して仕返しをするために、一切の価値の転換、すなわちルサンチマンによる価値創造を行った。ただし彼らはこれを現実の行為によってではなく、想像上の復讐として行ったのだ。
この過程で生み出されたのがルサンチマンの道徳だ。ニーチェはこれを奴隷道徳と呼び、それに対して、戦士階級の道徳、自己肯定の表現としての道徳を貴族道徳と呼んだ。
一切の貴族道徳は肯定から生まれてくる。これに対し奴隷道徳は否定から生まれる。なぜなら奴隷道徳の基礎にあるルサンチマンは否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定こそが奴隷道徳の本質的な条件なのだ。
かつての「良い」は自然な自己肯定の表現だった。しかし、ルサンチマンは「良い」のが悪く、「悪い」のが良いのだと言うように、価値基準をいつの間にか逆転させ、反動的に「善人」とイメージを思い描くようになる。
次に第2論文。
「自由な人間」が登場した背景には「習俗の論理」の存在がある。習俗の論理は人間を一様に数え上げられるようにするが、最終的には、習俗の論理から再び解き放たれた個人、つまり「主権者的な個体」が現れるに至るという。
「主権者的な個体」とは自分の意志を持ち、約束をきちんと守り、相手も自分も裏切らないような個人の事を指している。
「主権者的な個体」は自律的で自己固有の意志を持つ人間のことだ。彼は自由の意識、自己と運命を支配する権力の意識に満ちあふれている。
そして大切な事は、彼は約束出来る人間であると言う事だ。彼は責任についての強い自覚を持ち、自分がしっかりと約束を守る事が出来る能力があることを知っている。こうした能力を所謂「良心」と呼ぶのだ。
一方約束する能力に由来するのではなく、後ろめたさや「罪悪感」「負い目」に支えられている良心もある。これがニーチェの言う「疚しい良心」だ。
この「疚しい良心」は「申し訳なさの良心」と言い換えるとより分かり易いと思う。
「お金持ちで申し訳ない」「五体満足で申し訳ない」…等々。
負い目Schuldの概念は、負債Schuldenに由来して生まれてきた。
その一方で、刑罰から報復が生まれてきた。
刑罰は負い目を呼び起こすものと見做されて来たが、実際にはむしろそれを発達させないように抑制もして来た。
刑罰の効果は次の所にある。つまり刑罰は自己批判をさせ、改善させる効果を持つ。それは恐怖と用心深さを増し、欲望を制御させることで人を飼い馴らさせる。
第3論文。
ここでニーチェは禁欲的な理想が生まれてきた背景について論じている。
これまでの哲学者は概して官能を拒否し、禁欲的理想に対して愛着を見せてきた。禁欲的な理想は哲学者が存在するための前提であり、哲学それ自体が存続するための条件でさえもあったと言う。
ここでニーチェは「禁欲的司牧者」がルサンチマンの方向を転換し、疚しい良心を生み出したという説を立てる。
ルサンチマンに侵されている人は「私が苦しいのは誰かのせいに違いない」と考える。ここで彼らを従える「禁欲的司牧者」は次のように告げる。
「その通りだ、それは誰かのせいに違いない。しかし、その誰かとは、まさしく君たち自身なのだ。苦しいのは君たち自身のせいなのだ!」
ルサンチマンはその方向を転換したのだ。
こうして彼は、罪悪感に支えられた疚しい良心を抱くようになる。
学問はどうなのだろうか?
学問は司牧者に敵対し、彼らの「間違った」信念を次々と破壊してきたではないか?
しかしニーチェの批判は学問そのものにも向かう。
彼らはまだまだ自由な精神とは言いがたい。というのは彼らはまだ真理というものを信じているからである。
では、なぜ人びとは禁欲的な理想を受け容れ、禁欲的司牧者に従うのだろうか?なぜ彼を拒否しなかったのだろうか?
それは、これまで唯一禁欲的な理想のみが人間に生の意味を与える事が出来たからだ。
彼が禁欲的な理想を抱くようになった理由。それは人間が本質的に生の意味を求める存在だからだ。彼にとっては苦悩それ自体が問題なのではない。むしろ苦悩に意味が欠けている事、これこそが問題なのだ。
禁欲的な理想は人びとに苦悩の意味、目的を与えた。それによって人びとは何かを意欲する事が出来るようになったのだ。
そして禁欲的な理想は人間に、一つの意味を提供したのである!これが人間の生のこれまでの唯一の意味だった。まるで意味がないことと比較すると、どんな意味でもあるだけまだましだったのだ。禁欲的な理想はどの点からみても、かつて存在したうちでもっとも優れた「何もないよりはましな代用品」だったのである。苦悩はここにおいて解釈されたのであり、これによって巨大な空隙が埋められたようにみえた。あらゆる自滅的なニヒリズムへの扉が閉ざされた。
しかし禁欲的な理想は、人間に苦悩の意味を与えるのと同時に、新たな苦悩ももたらした。「虚無への意志」がそれだ。動物的なものに対する憎悪、官能に対する、また理性に対する嫌悪、微に対する恐怖─そうしたものすべてが禁欲的な理想によって生み出されたのだ。
そしてわたしが[この論文の]最初に述べたことを、最後にもう一度繰り返すとすれば、人間は何も意欲しないよりは、むしろ虚無を意欲する事を望むものである…。
20170327
就労一周年
昨日26日で、イオンBIG、マックスバリュ長野三輪店で働き始めてから丁度1年となった。
もう少し、特別な感慨が押し寄せてくると思っていたのだが、そうでも無く、かなり淡々と仕事をこなし、一周年を過ごした。
これがマルクスが賞賛し、猿と人間を分ける重要な要素と考えた労働というものなのだろうか?そのような事を考えながら、過ごした1年だった。
1日の仕事を何とかやり過ごし、日々を淡々と重ねていっただけの1年だったとも言える。
今日の仕事は充実していた。と胸を張ることが出来る日は、未だ来ていない。どこかしらやり残し感を覚えながら、1日を終わらせる事の繰り返しになってしまった。
しかし、首にもならず何とか1年をやり過ごす事は出来た。
それは、直接自信には繋がらないが、それでももっと自己評価を高くしても良い根拠にはなると思う。
いやいややり続ける事が出来ない。
仕事をしたくないと自覚すると、本当にしなくなってしまう。そうした自分の性格は、自分が一番良く知っている。
だから、何とか仕事に面白味を見出そうと、努力もして来た。その結果として、今自分がやっている仕事は、それ程無意味なものではないという自覚は生まれている。
しかし、やはり面白味がないのだ。
放っておけば、自分の部屋すら掃除しない私が、掃除の仕事をしている。確かに不向きなのだと感じる。だが、私に与えられているのは、この仕事しかないのだ。
この1年。多くの人が辞めていった。その後を追いたい気持を持った自分がいる。だが、この仕事に就く前に、どれ程多くの仕事で不採用になって来たことか。
それを考えるとおいそれとは辞められない事も自覚出来る。
この歳になると、もはや仕事を選んではいられないのが現実なのだ。
今日も仕事だ。頑張って出掛けよう。何とか今日一日をやり過ごすのだ。こうやって、これからも一日一日を過ごしてゆくのだろう。
一周年の実感が今ひとつ湧かないのは、今年の寒さも影響していると思う。
昨年の今頃はもう少し「春」だったように記憶しているのだ。
今年は、寒い。
もう少し、特別な感慨が押し寄せてくると思っていたのだが、そうでも無く、かなり淡々と仕事をこなし、一周年を過ごした。
これがマルクスが賞賛し、猿と人間を分ける重要な要素と考えた労働というものなのだろうか?そのような事を考えながら、過ごした1年だった。
1日の仕事を何とかやり過ごし、日々を淡々と重ねていっただけの1年だったとも言える。
今日の仕事は充実していた。と胸を張ることが出来る日は、未だ来ていない。どこかしらやり残し感を覚えながら、1日を終わらせる事の繰り返しになってしまった。
しかし、首にもならず何とか1年をやり過ごす事は出来た。
それは、直接自信には繋がらないが、それでももっと自己評価を高くしても良い根拠にはなると思う。
いやいややり続ける事が出来ない。
仕事をしたくないと自覚すると、本当にしなくなってしまう。そうした自分の性格は、自分が一番良く知っている。
だから、何とか仕事に面白味を見出そうと、努力もして来た。その結果として、今自分がやっている仕事は、それ程無意味なものではないという自覚は生まれている。
しかし、やはり面白味がないのだ。
放っておけば、自分の部屋すら掃除しない私が、掃除の仕事をしている。確かに不向きなのだと感じる。だが、私に与えられているのは、この仕事しかないのだ。
この1年。多くの人が辞めていった。その後を追いたい気持を持った自分がいる。だが、この仕事に就く前に、どれ程多くの仕事で不採用になって来たことか。
それを考えるとおいそれとは辞められない事も自覚出来る。
この歳になると、もはや仕事を選んではいられないのが現実なのだ。
今日も仕事だ。頑張って出掛けよう。何とか今日一日をやり過ごすのだ。こうやって、これからも一日一日を過ごしてゆくのだろう。
一周年の実感が今ひとつ湧かないのは、今年の寒さも影響していると思う。
昨年の今頃はもう少し「春」だったように記憶しているのだ。
今年は、寒い。
20170325
『未来を花束にして』
ようやく地元の映画館松竹相生座が上映を始めてくれた。
映画『未来を花束にして』を観た。
ここ長野市では今日から上映が始まったばかりだが、全国的にはもうかなり観た人も多いだろう。かなりのネタばれを含んだ書き方をする。
六文錢さんが書かれた優れた評論があるので、まだ観ていない方はここからそちらへ移り、映画をご覧になってからこの文章の続きをお読み下さると幸いです。
舞台は1912年のイギリス・ロンドン。たかだか100年前のことなのだ。
当時、民主主義の先進国イギリスでさえも女性には選挙権も親権も与えられていなかった。7歳から洗濯工場で働く一児の母モード・ワッツは同僚の夫サニー・ワッツと3人で暮らしていた。
ある日モードは怪我をした友人バイオレットの代わりとして、公聴会で意見を述べる。この頃の彼女はまだ、選挙権についてどう思うかと問われても、持っていないので意見はないと答えていた。だが、この陳述を切っ掛けとして「(選挙権があれば)別の生き方があるのではないか」と思うようになり、次第にWSPU(女性社会政治同盟)の運動に深入りしてゆく。
このWSPUがとる戦術は、過激派もびっくりの過激なもの。街頭のガラスを割る暴動めいた行動は当たり前で、ポストに爆弾を投げ入れて通信網などインフラを破壊する、大臣の別荘は爆破すると非合法活動のオンパレードなのだ。
だが、これまでの長い間、女性たちの声は見向きもされず、男性中心の世の中で無視され続けてきたのだ。彼女らは自分たちの主張に耳を傾けてもらうためだけに、過激な行動に訴えるようになったのであり、理は彼女らにあるように思う。だからこそ平凡な母親だったモードにも、WSPUの言葉は説得力を持ったのだろう。
しかし夫のサニーはこれを良く思わず、モードがデモを起こしたことで逮捕勾留されたことを切っ掛けにモードを家から追い出し、愛する息子との接見も禁止してしまう。
失意のモード。しかしWSPUのリーダー、パンクハーストの演説は彼女に勇気を与え、モードは刑務所で拷問に近い扱いを受けながらも、自分の意志を貫くために、活動を続ける。
そんなモードに最大の不幸が訪れる。
モードの行動を白眼視する世間の目と育児に疲れ果てた夫のサニーが、最愛のひとり息子ジョージをモードの許可なしで、養子に出してしまったのだ。
大臣の別荘の爆破も、新聞はベタ記事扱いで殆ど無視。彼女らの活動は注目もされず、WSPUの活動も行き詰まり感を覚えていた。
そこで最終手段として、イギリス国王が訪問するダービー会場に忍び込み、テレビに向かって全世界に女性参政権を訴える作戦を計画する。
WSPUの仲間エイミーとダービー会場を訪れたモードだったが、しかしなかなか警戒は厚く、国王に近付くことも出来ない。業を煮やしたエイミーは競走馬が駆け回るレースの最中に自ら突っ込んで、自分たちの主張を訴えようとする。しかしエイミーは無残にも馬に跳ねられ命を落としてしまう。
モードたちはエイミーの葬儀を執り行う。これには注目が集まり、数千人が訪れた。
ここで映像は、モノクロの当時のフィルムにチェンジする。今迄語られてきた事は絵空事ではなかったのだ。実際の葬儀のフィルムであり、映画が実話を元にしたものである事が明らかにされる。
女性選挙権はまさに命がけの闘いの果てに勝ち取られたものだったのだ。
彼女らの願いが叶いイギリスで女性選挙権(30歳以上を対象としたものだったが)が得られるのは1928年のことだった。
エンドロールには世界各国で女性の選挙権が与えられた年が列挙されていた。それを見て、その歴史が意外に浅いものである事に驚いた人も私だけではあるまい。
学生の頃、私は理科系だったが、ある時社会の諸制度がどの様な議論や歴史を経て、現在あるような形に至ったのか調べようとした事があった。
その時感じたのは、日本の諸制度はその殆どが戦後、進駐軍の指導の下に与えられたものであるということへの言いようのない空しさだった。
日本の諸制度は議論も闘いも経ていない。
これはある意味で救いようのない弱点だと思う。大切な諸制度を大切に出来ていない原因のひとつは確かにそこに求められるのだろう。
だが、全ての国々でイギリスの女性たちが蒙ったような犠牲は必要なのだろうか?
イギリスの女性たちは闘い、勝ち取った。それはとても価値のある事。私たちは先鞭を付けた彼女らの闘いに思いを馳せ、その闘いを我が事のように大切に扱わなければならないのではないだろうか?この運動で逮捕勾留された女性の数は千人を超えるという。
その「事実」を知る上で、とても良く出来た映画だと思う。
『未来を花束にして』。原題は"Suffragette"。女性参政権論者(Suffragist)の中でも過激な活動家を示す言葉だ。あまりにも落差の激しい邦題に異論がある。だが、目を瞑ろう。
映画『未来を花束にして』を観た。
ここ長野市では今日から上映が始まったばかりだが、全国的にはもうかなり観た人も多いだろう。かなりのネタばれを含んだ書き方をする。
六文錢さんが書かれた優れた評論があるので、まだ観ていない方はここからそちらへ移り、映画をご覧になってからこの文章の続きをお読み下さると幸いです。
舞台は1912年のイギリス・ロンドン。たかだか100年前のことなのだ。
当時、民主主義の先進国イギリスでさえも女性には選挙権も親権も与えられていなかった。7歳から洗濯工場で働く一児の母モード・ワッツは同僚の夫サニー・ワッツと3人で暮らしていた。
ある日モードは怪我をした友人バイオレットの代わりとして、公聴会で意見を述べる。この頃の彼女はまだ、選挙権についてどう思うかと問われても、持っていないので意見はないと答えていた。だが、この陳述を切っ掛けとして「(選挙権があれば)別の生き方があるのではないか」と思うようになり、次第にWSPU(女性社会政治同盟)の運動に深入りしてゆく。
このWSPUがとる戦術は、過激派もびっくりの過激なもの。街頭のガラスを割る暴動めいた行動は当たり前で、ポストに爆弾を投げ入れて通信網などインフラを破壊する、大臣の別荘は爆破すると非合法活動のオンパレードなのだ。
だが、これまでの長い間、女性たちの声は見向きもされず、男性中心の世の中で無視され続けてきたのだ。彼女らは自分たちの主張に耳を傾けてもらうためだけに、過激な行動に訴えるようになったのであり、理は彼女らにあるように思う。だからこそ平凡な母親だったモードにも、WSPUの言葉は説得力を持ったのだろう。
しかし夫のサニーはこれを良く思わず、モードがデモを起こしたことで逮捕勾留されたことを切っ掛けにモードを家から追い出し、愛する息子との接見も禁止してしまう。
失意のモード。しかしWSPUのリーダー、パンクハーストの演説は彼女に勇気を与え、モードは刑務所で拷問に近い扱いを受けながらも、自分の意志を貫くために、活動を続ける。
そんなモードに最大の不幸が訪れる。
モードの行動を白眼視する世間の目と育児に疲れ果てた夫のサニーが、最愛のひとり息子ジョージをモードの許可なしで、養子に出してしまったのだ。
大臣の別荘の爆破も、新聞はベタ記事扱いで殆ど無視。彼女らの活動は注目もされず、WSPUの活動も行き詰まり感を覚えていた。
そこで最終手段として、イギリス国王が訪問するダービー会場に忍び込み、テレビに向かって全世界に女性参政権を訴える作戦を計画する。
WSPUの仲間エイミーとダービー会場を訪れたモードだったが、しかしなかなか警戒は厚く、国王に近付くことも出来ない。業を煮やしたエイミーは競走馬が駆け回るレースの最中に自ら突っ込んで、自分たちの主張を訴えようとする。しかしエイミーは無残にも馬に跳ねられ命を落としてしまう。
モードたちはエイミーの葬儀を執り行う。これには注目が集まり、数千人が訪れた。
ここで映像は、モノクロの当時のフィルムにチェンジする。今迄語られてきた事は絵空事ではなかったのだ。実際の葬儀のフィルムであり、映画が実話を元にしたものである事が明らかにされる。
女性選挙権はまさに命がけの闘いの果てに勝ち取られたものだったのだ。
彼女らの願いが叶いイギリスで女性選挙権(30歳以上を対象としたものだったが)が得られるのは1928年のことだった。
エンドロールには世界各国で女性の選挙権が与えられた年が列挙されていた。それを見て、その歴史が意外に浅いものである事に驚いた人も私だけではあるまい。
学生の頃、私は理科系だったが、ある時社会の諸制度がどの様な議論や歴史を経て、現在あるような形に至ったのか調べようとした事があった。
その時感じたのは、日本の諸制度はその殆どが戦後、進駐軍の指導の下に与えられたものであるということへの言いようのない空しさだった。
日本の諸制度は議論も闘いも経ていない。
これはある意味で救いようのない弱点だと思う。大切な諸制度を大切に出来ていない原因のひとつは確かにそこに求められるのだろう。
だが、全ての国々でイギリスの女性たちが蒙ったような犠牲は必要なのだろうか?
イギリスの女性たちは闘い、勝ち取った。それはとても価値のある事。私たちは先鞭を付けた彼女らの闘いに思いを馳せ、その闘いを我が事のように大切に扱わなければならないのではないだろうか?この運動で逮捕勾留された女性の数は千人を超えるという。
『未来を花束にして』。原題は"Suffragette"。女性参政権論者(Suffragist)の中でも過激な活動家を示す言葉だ。あまりにも落差の激しい邦題に異論がある。だが、目を瞑ろう。
20170316
『これがニーチェだ』
またしても理解しないうちに、書評を書き始めている。
ニーチェと言えばフーコーやドゥルーズに影響を与えた現代思想最大の震源地である。そのように言われる場合が多い。しかしこの本ではそうした価値をニーチェに与えていない。
という立場で書かれた、個性的な、そして徹頭徹尾哲学的なニーチェ像だ。極端なことを言えばこの本で開陳されているのは、永井均という人が行った、ニーチェの勝手読みだ。だが、深く読み込まれたそれは、ニーチェを読解する上で、とても魅力的で説得力のある解説になっている。
ニーチェを理解するために第1から第3迄の3つの「空間」という比喩を導入している。
この比喩の背景には筆者の、哲学は主張ではないという問題意識がある。哲学は問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探求であると言う。
筆者がこの本で行っているのは、ニーチェがキリスト教の僧侶や道徳に対して行ったのと同じ作業をニーチェに対して行うということなのだろうと思う。
ニーチェ的観点からのニーチェ批判である。
つまりニーチェの問いへの深い共感から永井均のニーチェを語っているのだ。その手さばきはニーチェのそれのように鋭く、容赦がない。
批判はニーチェへの信奉者にも向かう。ニーチェを必要とする人は、強さに焦がれる弱者だと断罪する。
しかしその批判はあくまでもニーチェへの共感から行われるものであり、同時に讃歌でもあるのだろう。
ニーチェの偉大さを証明するために、ニーチェ批判を行っているように、私には思える。
ニーチェと言えばフーコーやドゥルーズに影響を与えた現代思想最大の震源地である。そのように言われる場合が多い。しかしこの本ではそうした価値をニーチェに与えていない。
ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。
という立場で書かれた、個性的な、そして徹頭徹尾哲学的なニーチェ像だ。極端なことを言えばこの本で開陳されているのは、永井均という人が行った、ニーチェの勝手読みだ。だが、深く読み込まれたそれは、ニーチェを読解する上で、とても魅力的で説得力のある解説になっている。
ニーチェを理解するために第1から第3迄の3つの「空間」という比喩を導入している。
すべての対立はある空間の内部でのみ意味を持つ。しかし、空間どうしもまた─複数の空間を位置づけるより大きな空間の内部で─対立する。
この比喩の背景には筆者の、哲学は主張ではないという問題意識がある。哲学は問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探求であると言う。
筆者がこの本で行っているのは、ニーチェがキリスト教の僧侶や道徳に対して行ったのと同じ作業をニーチェに対して行うということなのだろうと思う。
ニーチェ的観点からのニーチェ批判である。
つまりニーチェの問いへの深い共感から永井均のニーチェを語っているのだ。その手さばきはニーチェのそれのように鋭く、容赦がない。
批判はニーチェへの信奉者にも向かう。ニーチェを必要とする人は、強さに焦がれる弱者だと断罪する。
しかしその批判はあくまでもニーチェへの共感から行われるものであり、同時に讃歌でもあるのだろう。
ニーチェの偉大さを証明するために、ニーチェ批判を行っているように、私には思える。
20170315
『善悪の彼岸』
未だに『ツァラトゥストラ』の余震が続いている。
丘沢訳『ツァラトゥストラ』で、『100分de名著:ツァラトゥストラ』で、ニーチェの『道徳の系譜学』を読むよう導かれる。だが、『道徳の系譜学』の巻頭には「最近刊行された『善悪の彼岸』を補足し、説明するための書物として」とあり、中山元訳『道徳の系譜学』の腰巻きには「本書は『善悪の彼岸』の結論を引き継ぎながら、キリスト教的道徳観と価値観の伝統を鋭い刃で腑分けしたものであり、新しい道徳と新しい価値の可能性を探るものとして、いまも大きな刺激を与え続けている。」とある。『善悪の彼岸』を読まざるを得ないではないか。
取り敢えず読破した。比較的長めのアフォリズムが集められている。その集められ方、配列の仕方には、どこかきちんとした体系がある事が感じられる。
だが分かったのか?と問われれば、甚だ心許ない。分かったとは即答しかねる。
『ツァラトゥストラ』に負けず劣らず理解しにくい本だった。中山元が言うようにある断章と別の断章は、いわばニーチェの思考の峰々なのだ。読者は、ニーチェの思考の糸をたどるためには、ニーチェが語ろうとして語らなかったことまでも、読み込んでみる必要があるのだろう。
峰と峰の間には谷がある。
ニーチェの谷はどこ迄も深く切り込まれている。
そこをこそ読み込みたいと願ったのだが、こちらの頼りない思考力がニーチェの思考について行けず、謎は謎のまま残った。
沢を一本踏破したと言ったところか?詰めることは出来たが、ニーチェというマップは未だに描かれる事を拒絶している。
ニーチェがなのか19世紀という時代がなのか、分からないが、強さを強さとして全面的に肯定出来る感性が、色濃く打ち出されていることを感じた。
ニーチェはまず、何よりも自らが強者である事を求めたのだろう。
そして魂の貴族趣味。
貴族道徳こそが本来の道徳であるにもかかわらず、奴隷道徳が現代で通用していることへの不満。
その原因としてルサンチマンを観ている。
思い切り乱暴に要約すればそう言うことになるのではないだろうか?
さて、次は何を読むか?だ。
このまま予定通りニーチェ著・中山元訳『道徳の系譜学』を読むか?それとも、ニーチェの考えが分からないまま読むのをここで一旦止め、ニーチェの解説書を読むか?(永井均『これがニーチェだ』と竹田青嗣『ニーチェ入門』を用意した)或いは思い切り路線を変更し、ラカンの解説書に走るか?迷っている。
丘沢訳『ツァラトゥストラ』で、『100分de名著:ツァラトゥストラ』で、ニーチェの『道徳の系譜学』を読むよう導かれる。だが、『道徳の系譜学』の巻頭には「最近刊行された『善悪の彼岸』を補足し、説明するための書物として」とあり、中山元訳『道徳の系譜学』の腰巻きには「本書は『善悪の彼岸』の結論を引き継ぎながら、キリスト教的道徳観と価値観の伝統を鋭い刃で腑分けしたものであり、新しい道徳と新しい価値の可能性を探るものとして、いまも大きな刺激を与え続けている。」とある。『善悪の彼岸』を読まざるを得ないではないか。
取り敢えず読破した。比較的長めのアフォリズムが集められている。その集められ方、配列の仕方には、どこかきちんとした体系がある事が感じられる。
だが分かったのか?と問われれば、甚だ心許ない。分かったとは即答しかねる。
『ツァラトゥストラ』に負けず劣らず理解しにくい本だった。中山元が言うようにある断章と別の断章は、いわばニーチェの思考の峰々なのだ。読者は、ニーチェの思考の糸をたどるためには、ニーチェが語ろうとして語らなかったことまでも、読み込んでみる必要があるのだろう。
峰と峰の間には谷がある。
ニーチェの谷はどこ迄も深く切り込まれている。
そこをこそ読み込みたいと願ったのだが、こちらの頼りない思考力がニーチェの思考について行けず、謎は謎のまま残った。
沢を一本踏破したと言ったところか?詰めることは出来たが、ニーチェというマップは未だに描かれる事を拒絶している。
ニーチェがなのか19世紀という時代がなのか、分からないが、強さを強さとして全面的に肯定出来る感性が、色濃く打ち出されていることを感じた。
ニーチェはまず、何よりも自らが強者である事を求めたのだろう。
そして魂の貴族趣味。
貴族道徳こそが本来の道徳であるにもかかわらず、奴隷道徳が現代で通用していることへの不満。
その原因としてルサンチマンを観ている。
思い切り乱暴に要約すればそう言うことになるのではないだろうか?
さて、次は何を読むか?だ。
このまま予定通りニーチェ著・中山元訳『道徳の系譜学』を読むか?それとも、ニーチェの考えが分からないまま読むのをここで一旦止め、ニーチェの解説書を読むか?(永井均『これがニーチェだ』と竹田青嗣『ニーチェ入門』を用意した)或いは思い切り路線を変更し、ラカンの解説書に走るか?迷っている。
20170308
『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』
まだ『ツァラトゥストラ』の周辺でうろうろしている。
今度は村井則夫『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』を読んだ。
この本を読み始めた理由は、甚だ不純な動機によるものだった。ニーチェの『ツァラトゥストラ』があまりよく分からなかったので、この本を読んで、それを要約して自分の感想としてブログに載せようと考えていたのだ。
高を括っていた。どうせ新書だから、それ程深い内容ではないだろうと考えたのだ。
甘かった。
この本は質量共に、新書のレベルを遙かに凌駕するものだった。
哲学書としての『ツァラトゥストラ』の解説をすると言うよりは、それ以前の神話的小説として読み解こうとしているように思える。
知識量の多さにまず驚かされた。
『ツァラトゥストラ』を読み解く上で、古代ギリシアの古典から、現代思想までが総動員される。
遠近法主義の解説では光学が語られる。奇妙な登場人物をアルチンボルトの肖像画で例える。ヒュー・ケストナーの『ストイックなコメディアン』を引用して『ユリシーズ』と比較してみせる。など、実に多芸なのだ。
奇書として『ツァラトゥストラ』を位置付け、その源流を古代ギリシアの風刺小説のジャンルであるメニッペアに求めるあたりは、まさに目から鱗が落ちた。
そうなのだ。ニーチェはまず有能な文献学者であったのだ。
この本は第1部として「ニーチェのスタイル」が語られ、『ツァラトゥストラ』読解のための道具立てが行われ、第2部「『ツァラトゥストラはこう語った』を読む」で、具体的な読解が試みられる構成になっている。
そのために時に過剰とも思われるような深読みが開陳されるが、大いに説得力を持つ仕掛けとなっている。
途中、ありがちな誤読の例が具体的に示されるが、まさにそのように私は読んでいた。思わず顔を赤くした。
まえがきに示されたこの問題意識が、この本を貫く基本思想なのだろう。そして明らかに題名はここから採られている。
2種類の翻訳で読んだにせよ、私は未だ1回しか『ツァラトゥストラ』を読破していない。今度はこの本を地図として、再び挑戦してみようという気にさせられた。初読とは全く違った『ツァラトゥストラ』が立ち現れるに違いない。
この本の参考文献でも、『100分de名著:ツァラトゥストラ』でも、岩波文庫版の氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう語った』を勧めていた。今度はそれを読んでみるつもりだ。
実に刺激的な解説書だ。
今度は村井則夫『ニーチェ─ツァラトゥストラの謎』を読んだ。
この本を読み始めた理由は、甚だ不純な動機によるものだった。ニーチェの『ツァラトゥストラ』があまりよく分からなかったので、この本を読んで、それを要約して自分の感想としてブログに載せようと考えていたのだ。
高を括っていた。どうせ新書だから、それ程深い内容ではないだろうと考えたのだ。
甘かった。
この本は質量共に、新書のレベルを遙かに凌駕するものだった。
哲学書としての『ツァラトゥストラ』の解説をすると言うよりは、それ以前の神話的小説として読み解こうとしているように思える。
知識量の多さにまず驚かされた。
『ツァラトゥストラ』を読み解く上で、古代ギリシアの古典から、現代思想までが総動員される。
遠近法主義の解説では光学が語られる。奇妙な登場人物をアルチンボルトの肖像画で例える。ヒュー・ケストナーの『ストイックなコメディアン』を引用して『ユリシーズ』と比較してみせる。など、実に多芸なのだ。
奇書として『ツァラトゥストラ』を位置付け、その源流を古代ギリシアの風刺小説のジャンルであるメニッペアに求めるあたりは、まさに目から鱗が落ちた。
そうなのだ。ニーチェはまず有能な文献学者であったのだ。
この本は第1部として「ニーチェのスタイル」が語られ、『ツァラトゥストラ』読解のための道具立てが行われ、第2部「『ツァラトゥストラはこう語った』を読む」で、具体的な読解が試みられる構成になっている。
そのために時に過剰とも思われるような深読みが開陳されるが、大いに説得力を持つ仕掛けとなっている。
途中、ありがちな誤読の例が具体的に示されるが、まさにそのように私は読んでいた。思わず顔を赤くした。
『ツァラトゥストラはこう語った』という著作は、およそ出来合いの思想の解説や伝達を目指すものではなく、むしろ読者に対して幾重もの謎を仕掛け、読者がそこで躓き、思いあぐね、手探りで出口を探すような体験を求めている。
まえがきに示されたこの問題意識が、この本を貫く基本思想なのだろう。そして明らかに題名はここから採られている。
2種類の翻訳で読んだにせよ、私は未だ1回しか『ツァラトゥストラ』を読破していない。今度はこの本を地図として、再び挑戦してみようという気にさせられた。初読とは全く違った『ツァラトゥストラ』が立ち現れるに違いない。
この本の参考文献でも、『100分de名著:ツァラトゥストラ』でも、岩波文庫版の氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう語った』を勧めていた。今度はそれを読んでみるつもりだ。
実に刺激的な解説書だ。
20170228
『ツァラトゥストラ』
関東と北陸で春一番が吹いた日、部屋でFM放送を聴いていたら、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』が掛かった。壮大な曲だ。
聴いている内にそう言えばニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は本棚にあったかな?と気に掛かった。探してみたのだがない。売ってしまったのだろうか?そうも思ったが、気になる。そもそも買ってあったのだろうか?
フィードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は、高校の時読もうと試みて挫折している。
難解さは勿論の事、その注釈の多さに辟易した記憶がある。
調べてみると、文庫で持っていた筈の件の本は、買った記憶すらない代物である事が分かった。
どうしても読みたくなった。
信頼を置いている光文社古典新訳文庫から『ツァラトゥストラ』という題名で出ている。それを選んで購入した。丘沢静也という人が訳していた。
本は3日ほどで届いた。
上巻の裏表紙にこうあった。
恐れをなした。際物ではないのか?
従来のイメージを覆す訳。それを光文社古典新訳文庫はいつも狙っている。読みやすくなって随分助けられている。だが、最初に読むツァラトゥストラとして適しているのだろうか?
スタンダードなツァラトゥストラも欲しくなった。
探してみた。
河出文庫からも『ツァラトゥストラかく語りき』が出されていることが分かった。光文社古典新訳文庫版は2010年の発行だが、河出文庫版は2015年の発行だ。
光文社古典新訳文庫版が余りにも従来のイメージを覆してしまったので、その反動として求められたスタンダードな訳なのではないか?
勝手な憶測だが、そう思いもしてみた。
amazonの商品の説明にはこうあった。
この売り文句に惹かれた。古書が余り安くなかったのでKindle版を購入した。
佐々木中という人が訳していた。
さて、どちらを読み始めようか?
少し迷って、最初のうちは両方を交互に読んで行こうと決めた。そのうちに気に入る方が決まって来るだろう。
だが、この考え方は甘かった。私は遂に最後までどちらか一方に焦点を当てることが出来ず、両方の本を同時に読み終えることとなった。私には両方の訳が必要だったのだ。
それで良かったのだと今では思っている。とても一回読んだだけで理解出来る本ではなかった。読んでいるうちに、例外は多々あったが、章または節毎に、最初に丘沢訳を読み、続けて佐々木訳を読むパターンが確立した。ニーチェに対するイメージの豊かさは丘沢静也氏に軍配が上がるが、ドイツ語の知識は佐々木中氏の方に豊富さを感じたのだ。なので全体的な雰囲気を丘沢訳からくみ取り、細かなドイツ語の正確性などを佐々木訳に求める結果となった。
どれ程異なった訳をしているか、冒頭の部分を引いてみよう。
─光文社古典新訳文庫版丘沢静也訳─
─河出文庫版佐々木中訳─
随分違う。
だがどうだろう。このふたつを続けて読むことによって、よりドイツ語に近付くこと、つまりよりニーチェに近付くことが可能になるような気がしてこないだろうか?
両方の訳に共通しているところもある。注釈が(丘沢訳には少しだけあるが)ない。これは思い切った訳し方だ。
『ツァラトゥストラ』は聖書のパロディーでもある。だからその気になればいくらでも注釈を付けてなぜニーチェはここでこの様な言い方をしているのかを解説することが出来る。また、そうしたくなる。
私たちの文化には、暗唱する程聖書を読み込む習慣がない。なので『ツァラトゥストラ』を読んでもどこがどの様な聖書のパロディーなのか判別がなかなか付かない。
その知識が全く得られないのは、残念と言えば残念だが、それをした訳を、私は高校の頃読んでいる。《原文が、解釈のなかに隠れてしまった》(丘沢訳『ツァラトゥストラ』上巻「訳者あとがき」より)ような訳だった。
思い切って注釈を省略した丘沢・佐々木両氏の英断に感謝したい。この事によって、私はツァラトゥストラの物語に全神経を集中させることが出来たと思っている。
この本はツァラトゥストラが旅をしながらみずからの思想を説くというスタイルを取っている。その思想とは、神は死んだであり、神の死以後のニヒリズムを超克するための超人思想であり、超人に至るために必要な永遠回帰の思想である。
しかしニーチェはなぜこれらの思想を文学的な「ツァラトゥストラの語り」として発表したのか?
それを解く鍵はニーチェ自身の生い立ちを理解する必要があるのだろう。
天才の名を欲しいままにした少青年時代。その後の27歳で味わった『悲劇の誕生』の発表と学会からの無視。ルー・ザロメへの恋と大失恋。
これらのことから抱かざるを得なかったルサンチマンを克服するために、ニーチェには物語が必要だったのだ。
ツァラトゥストラとはニーチェ自身のことだろう。
時代も行き詰まっていたし、ニーチェ自身も行き詰まっていた。それだけに、その混迷を抜け出す新秩序を無から生み出しうるのは自分しかいない。そのようにニーチェは考えていたのだろう。則ち彼はツァラトゥストラを通して時代と格闘したのだ。
キリスト教の道徳はもはや何も解決しなくなっていた。(キリスト教の)神は死んだ。永遠回帰という究極のニヒリズムから運命愛に至り、無から新価値を創造・確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んだ。しかし19世紀という時代はまだ、キリスト教の道徳にガチガチに縛られた時代だった。そうした時代背景の中で神の死を主張し、それ以後の価値体系を説くことは、それ迄無視され続けた自分の思想以上に、危険な賭だったのだろう。
それ故ニーチェはツァラトゥストラという自分の代理人に思想を文学的に語らせるという手段を選んだのだと思う。
キリスト教という弱者の道徳から、超人という強者の道徳へ。その姿勢は、時代によって翻弄され、ファシズムに利用されもした。そうした事実を含め、ニーチェは全身全霊を傾けて時代と格闘した。そのように思えてならない。
ニーチェがやったのは聖書のパロディーではなかったのかも知れない。新しい聖書を、無から創造しようとして、『ツァラトゥストラ』を書いた。そのように今は思える。
少し間を開けて再考を要する。
聴いている内にそう言えばニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は本棚にあったかな?と気に掛かった。探してみたのだがない。売ってしまったのだろうか?そうも思ったが、気になる。そもそも買ってあったのだろうか?
フィードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』は、高校の時読もうと試みて挫折している。
難解さは勿論の事、その注釈の多さに辟易した記憶がある。
調べてみると、文庫で持っていた筈の件の本は、買った記憶すらない代物である事が分かった。
どうしても読みたくなった。
信頼を置いている光文社古典新訳文庫から『ツァラトゥストラ』という題名で出ている。それを選んで購入した。丘沢静也という人が訳していた。
本は3日ほどで届いた。
上巻の裏表紙にこうあった。
「人類への最大の贈り物」「ドイツ語で書かれた最も深い作品」とニーチェが自負する永遠の問題作。神は死んだ?超人とは?……。キリスト教の道徳を激しく批判し、おごそかさや重さをせせら笑い、歌い、踊る。これまでのイメージを覆す、まったく新しいツァラトゥストラの誕生!
恐れをなした。際物ではないのか?
従来のイメージを覆す訳。それを光文社古典新訳文庫はいつも狙っている。読みやすくなって随分助けられている。だが、最初に読むツァラトゥストラとして適しているのだろうか?
スタンダードなツァラトゥストラも欲しくなった。
探してみた。
河出文庫からも『ツァラトゥストラかく語りき』が出されていることが分かった。光文社古典新訳文庫版は2010年の発行だが、河出文庫版は2015年の発行だ。
光文社古典新訳文庫版が余りにも従来のイメージを覆してしまったので、その反動として求められたスタンダードな訳なのではないか?
勝手な憶測だが、そう思いもしてみた。
amazonの商品の説明にはこうあった。
「わたしはこの本で人類への最大の贈り物をした」(ニーチェ)。あかるく澄み切った日本語による正確無比な翻訳で、いま、ツァラトゥストラが蘇る。現在もっとも信頼に足るグロイター版ニーチェ全集原典からの初の文庫完全新訳。読みやすく、しかもこれ以上なく哲学的に厳密な、ツァラトゥストラ訳の新標準が、遂にあらわれた。―この危機の時代のために。ふたたび。諸君、ニーチェは、ここにいる。
この売り文句に惹かれた。古書が余り安くなかったのでKindle版を購入した。
佐々木中という人が訳していた。
さて、どちらを読み始めようか?
少し迷って、最初のうちは両方を交互に読んで行こうと決めた。そのうちに気に入る方が決まって来るだろう。
だが、この考え方は甘かった。私は遂に最後までどちらか一方に焦点を当てることが出来ず、両方の本を同時に読み終えることとなった。私には両方の訳が必要だったのだ。
それで良かったのだと今では思っている。とても一回読んだだけで理解出来る本ではなかった。読んでいるうちに、例外は多々あったが、章または節毎に、最初に丘沢訳を読み、続けて佐々木訳を読むパターンが確立した。ニーチェに対するイメージの豊かさは丘沢静也氏に軍配が上がるが、ドイツ語の知識は佐々木中氏の方に豊富さを感じたのだ。なので全体的な雰囲気を丘沢訳からくみ取り、細かなドイツ語の正確性などを佐々木訳に求める結果となった。
どれ程異なった訳をしているか、冒頭の部分を引いてみよう。
─光文社古典新訳文庫版丘沢静也訳─
ツァラトゥストラの前口上
1
30歳のとき、ツァラトゥストラは故郷を捨て、故郷の湖を捨てて、山に入った。そこで自分の精神を楽しみ、孤独を楽しんで、10年間、退屈することがなかった。だがとうとう心が変わった。──ある朝、朝焼けとともに起きて、太陽にむかって立ち、こう言った。
「おお、大きな星よ!お前に照らされる者がいなかったら、お前は幸せだろうか!
この10年、お前はこの洞窟のところまで昇ってきた。俺や、俺の鷲や、俺の蛇がいなかったら、お前は自分の光とその軌道にうんざりしていただろう。
だが、俺たちは毎朝お前を待ち、お前からあふれ出るものを受け取り、感謝して、お前を祝福した。
ほら!俺は自分の身につけた知恵に飽きてきた。蜂蜜を集めすぎた蜂のように。俺の知恵を求めて差し出される手が、必要なのだ。
賢い人間が自分の愚かさに気づいて喜ぶまで、貧しい人間が自分の豊かさに気づいて喜ぶまで、俺は知恵をプレゼントしたい。分配したいのだ。
そのためには、俺が下まで降りていくしかない!お前は、あまりにも豊かな星だから、日暮れには、海のむこうに沈み、下界に光をもたらしているだろう。
─河出文庫版佐々木中訳─
ツァラトゥストラの序説
一
ツァラトゥストラは三十路になったとき、故郷と故郷のみずうみをすてて山に入った。そこでみずからの精神をよろこび、孤独を楽しんで、十年のあいだ倦むことがなかった。しかし、ついに心が変わった。──ある朝、朝焼けて赤い空の光とともに起き上がって、太陽に向かってあゆみ出ると、こう語りかけた。
「君よ、大いなる星よ。いったい君の幸福もなにものであろうか、もし君にひかり照らす相手がいなかったならば。
十年間、君はここまで昇り、わたしの洞窟までやって来てくれた。もしそこにわたしと私の鷲と蛇がいなかったら、君はみずからの光にも、その歩んできた道のりにも、倦々(あきあき)してしまったことだろう。
しかし、われわれは夜あけごとに君を待って、君のあり余る充溢を引き受けると、そのような君をよろこんで祝福した。
見よ。わたしもみずからの知恵に飽きた。あまりにも夥(おびただ)しく蜜を集めた蜜蜂のように、わたしは手を必要とする、わたしの知恵にむかってさしのべられるあまたの手を。
贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいてよろこぶに至るまで。
そのためなら、わたしは低い所へとくだっていかねばならない。君も暮れ方になれば海の彼方に沈み、昏(くら)い下界にも光をもたらしているように、君よ、豪奢なまでにゆたかな星よ。
随分違う。
だがどうだろう。このふたつを続けて読むことによって、よりドイツ語に近付くこと、つまりよりニーチェに近付くことが可能になるような気がしてこないだろうか?
両方の訳に共通しているところもある。注釈が(丘沢訳には少しだけあるが)ない。これは思い切った訳し方だ。
『ツァラトゥストラ』は聖書のパロディーでもある。だからその気になればいくらでも注釈を付けてなぜニーチェはここでこの様な言い方をしているのかを解説することが出来る。また、そうしたくなる。
私たちの文化には、暗唱する程聖書を読み込む習慣がない。なので『ツァラトゥストラ』を読んでもどこがどの様な聖書のパロディーなのか判別がなかなか付かない。
その知識が全く得られないのは、残念と言えば残念だが、それをした訳を、私は高校の頃読んでいる。《原文が、解釈のなかに隠れてしまった》(丘沢訳『ツァラトゥストラ』上巻「訳者あとがき」より)ような訳だった。
思い切って注釈を省略した丘沢・佐々木両氏の英断に感謝したい。この事によって、私はツァラトゥストラの物語に全神経を集中させることが出来たと思っている。
この本はツァラトゥストラが旅をしながらみずからの思想を説くというスタイルを取っている。その思想とは、神は死んだであり、神の死以後のニヒリズムを超克するための超人思想であり、超人に至るために必要な永遠回帰の思想である。
しかしニーチェはなぜこれらの思想を文学的な「ツァラトゥストラの語り」として発表したのか?
それを解く鍵はニーチェ自身の生い立ちを理解する必要があるのだろう。
天才の名を欲しいままにした少青年時代。その後の27歳で味わった『悲劇の誕生』の発表と学会からの無視。ルー・ザロメへの恋と大失恋。
これらのことから抱かざるを得なかったルサンチマンを克服するために、ニーチェには物語が必要だったのだ。
ツァラトゥストラとはニーチェ自身のことだろう。
時代も行き詰まっていたし、ニーチェ自身も行き詰まっていた。それだけに、その混迷を抜け出す新秩序を無から生み出しうるのは自分しかいない。そのようにニーチェは考えていたのだろう。則ち彼はツァラトゥストラを通して時代と格闘したのだ。
キリスト教の道徳はもはや何も解決しなくなっていた。(キリスト教の)神は死んだ。永遠回帰という究極のニヒリズムから運命愛に至り、無から新価値を創造・確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んだ。しかし19世紀という時代はまだ、キリスト教の道徳にガチガチに縛られた時代だった。そうした時代背景の中で神の死を主張し、それ以後の価値体系を説くことは、それ迄無視され続けた自分の思想以上に、危険な賭だったのだろう。
それ故ニーチェはツァラトゥストラという自分の代理人に思想を文学的に語らせるという手段を選んだのだと思う。
キリスト教という弱者の道徳から、超人という強者の道徳へ。その姿勢は、時代によって翻弄され、ファシズムに利用されもした。そうした事実を含め、ニーチェは全身全霊を傾けて時代と格闘した。そのように思えてならない。
ニーチェがやったのは聖書のパロディーではなかったのかも知れない。新しい聖書を、無から創造しようとして、『ツァラトゥストラ』を書いた。そのように今は思える。
少し間を開けて再考を要する。
20170215
『バックラッシュ!』
山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い─フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(以下『…戸惑い』と略す)の補完として、そして前史を知るために読んだ。半ば義務的に読んだのだが、思いのほか良い読書体験になったと思っている。
この本『バックラッシュ!─なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』は06年7月に出版されている。『…戸惑い』より、遙か昔に出された本なのだが、読む順番としても、『…戸惑い』を先に読んでおいて良かったと思わされる事が多かった。
例えば、この本は宮台真司氏のインタビュー記事「バックラッシュとは何か?」から始まるのだが、これが難物だった。
難しかったのだ。この本を読むエネルギーの半分近くは、この記事を読むために費やされた。
どこがバックラッシュの話なのだろう?と度々戸惑ったが、宮台真司が、フェミニズムが直面したバックラッシュの問題を、社会運動が迷い込んだ隘路とそこからの脱出法の問題として捉えていると考えれば、話は通じる。
これは『…戸惑い』に於いて強調されている視点だ。これを知らなかったら、宮台真司氏の記事を読み進める事も出来なかったかも知れない。
『…戸惑い』は06年当時、まだ整理されていなかった論点を、整理し、問題点を明らかにしてくれていた。これは私にとって、フェミニズムやバックラッシュを考えて行く上で、格好の思考の地図となってくれた。
錚々たるメンバーの論考によって、この本は成り立っている。
ターゲットは00年代に起きたフェミニズムへのバックラッシュ。
だが、そのバックラッシャーたちの議論を具体的に書き起こして、いちいち反論を試みるような記事は、この本には見当たらない。
誰もが、バックラッシャーたちの言説を、反論するに値しないものとして総括している。
その為だろうか、読み始めの頃どうしても隔靴掻痒の感が否めなかった。
その感じが一気に無くなったのは、山口智美さんを聞き手として編まれたジェーン・マーティンとバーバラ・ヒューストンのインタビュー記事『ジェンダーを考える』からだった。
バックラッシャーたちから攻撃の的として扱われていたジェンダーフリーという語は、バーバラ・ヒューストンの論文から引かれたものだったが、それは該当論文を誤読して用いられ、その後も女性学者、ジェンダー学者を含めて、原典に立ち戻る事もなく、誤用されたまま引用され続けた用語である事を、山口智美さんは発見し、問題視して来た。
その為にジェンダー・フリーという用語は使用する人によって様々に定義され、混乱を招いていた。
バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーではなく、ジェンダー・センシティブを重要視するべきだと主張していたのだ。
そこで山口智美さんはジェンダー・センシティブの提唱者ジェーン・マーティンとそれを引用したバーバラ・ヒューストンを訪ね、インタビューを試みている。
このインタビュー記事の中でジェンダー・フリーという概念は問題があると言う事。つまりそれではジェンダーの平等を達成する事が決して可能な状況にならないという事が指摘されている。
バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーという言葉は、freedom from Gender biasの方が適していると指摘し、そこからバイアスとは何を意味するのかの議論も行われている。
短いながらも、深みのあるインタビュー記事になっている。
それに続く山口智美さんの「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズムの失われた10年」は、この本を読もうと思った直接の動機となった論考だ。この記事は『…戸惑い』にも数多く引用されており、この本と『…戸惑い』を連結する重要な論考として、私は位置付けたいと思う。
この論考の末尾で山口さんは
と述べている。
重要な指摘だと思う。
次のV章、「バックラッシュの争点を探る」の冒頭に置かれた、小山エミさんの論考「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を読んで、私はほとほと感心してしまった。
この難しい問題に対して、長からぬ文章の中で、よくぞここ迄論点を整理し、解説し、バックラッシャーたちへの反論として手際よくまとめてあるものだ。
『ブレンダと呼ばれた少年』とは医療ミスによりペニスを破壊された少年の個人史を綴った本の題名だ。心理学者ジョン・マネーの指導するままに女児ブレンダとして育てられた少年は、10代半ばで誰に教えられることもなく「女性」である事を拒絶し、デイヴィッドと名乗る男性として生きることを選択した。「双子の症例」と呼ばれる事件のことで、バックラッシャーから、「ジェンダー=社会的・文化的に形成された性差」という論理の非科学性を暴く証拠として採り上げられてきた。
この事件を、私は困った実例として認識していた。そして意識的に無視する態度も取ってきた。
この論考の中で小山エミさんはまず、バックラッシャーのジェンダー理解が誤読、或いは曲解である事を示し、その上で「双子の症例」をどの様に解釈するのがより科学的な態度であるかを論じている。
「ジェンダーがセックスを規定する」とは、「育ちによって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張」(バックラッシャーたちはそう主張している)ではなく、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)というものが「自分は男性(もしくは女性、その他)である」という自己認識である以上、それは言語体系や社会のなかで自分がどこに位置付けられるかという認識であり、つねに社会的・文化的な文脈に依存したものであるほかあり得ないと言うことだ。
この小山エミさんの論考によって、私はようやく「困った実例」をジェンダー論の文脈の中で、科学的に位置付けることに成功した。
この本には他にも魅力的な論考が目白押しなのだが、具体的に採り上げるのはこの程度にしておきたい。その方が先入観なしでこの本を読む手助けになると考えるからだ。
バックラッシュは少なからぬ衝撃と動揺をフェミニズムに与えた。だがその一方でフェミニズムはそれ程時間を掛けずして、この様な深みのある論考集を出版することにも成功していたのだ。それは只単にバックラッシャーたちに反論するだけに留まらず、フェミニズム自らが抱えていた限界も見据え、突破して行く契機ともなった。
したたかでしなやかな女たちに拍手を送りたい。
実り多き論考集だと思う。
この本『バックラッシュ!─なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』は06年7月に出版されている。『…戸惑い』より、遙か昔に出された本なのだが、読む順番としても、『…戸惑い』を先に読んでおいて良かったと思わされる事が多かった。
例えば、この本は宮台真司氏のインタビュー記事「バックラッシュとは何か?」から始まるのだが、これが難物だった。
難しかったのだ。この本を読むエネルギーの半分近くは、この記事を読むために費やされた。
どこがバックラッシュの話なのだろう?と度々戸惑ったが、宮台真司が、フェミニズムが直面したバックラッシュの問題を、社会運動が迷い込んだ隘路とそこからの脱出法の問題として捉えていると考えれば、話は通じる。
これは『…戸惑い』に於いて強調されている視点だ。これを知らなかったら、宮台真司氏の記事を読み進める事も出来なかったかも知れない。
『…戸惑い』は06年当時、まだ整理されていなかった論点を、整理し、問題点を明らかにしてくれていた。これは私にとって、フェミニズムやバックラッシュを考えて行く上で、格好の思考の地図となってくれた。
錚々たるメンバーの論考によって、この本は成り立っている。
ターゲットは00年代に起きたフェミニズムへのバックラッシュ。
だが、そのバックラッシャーたちの議論を具体的に書き起こして、いちいち反論を試みるような記事は、この本には見当たらない。
誰もが、バックラッシャーたちの言説を、反論するに値しないものとして総括している。
その為だろうか、読み始めの頃どうしても隔靴掻痒の感が否めなかった。
その感じが一気に無くなったのは、山口智美さんを聞き手として編まれたジェーン・マーティンとバーバラ・ヒューストンのインタビュー記事『ジェンダーを考える』からだった。
バックラッシャーたちから攻撃の的として扱われていたジェンダーフリーという語は、バーバラ・ヒューストンの論文から引かれたものだったが、それは該当論文を誤読して用いられ、その後も女性学者、ジェンダー学者を含めて、原典に立ち戻る事もなく、誤用されたまま引用され続けた用語である事を、山口智美さんは発見し、問題視して来た。
その為にジェンダー・フリーという用語は使用する人によって様々に定義され、混乱を招いていた。
バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーではなく、ジェンダー・センシティブを重要視するべきだと主張していたのだ。
そこで山口智美さんはジェンダー・センシティブの提唱者ジェーン・マーティンとそれを引用したバーバラ・ヒューストンを訪ね、インタビューを試みている。
このインタビュー記事の中でジェンダー・フリーという概念は問題があると言う事。つまりそれではジェンダーの平等を達成する事が決して可能な状況にならないという事が指摘されている。
バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーという言葉は、freedom from Gender biasの方が適していると指摘し、そこからバイアスとは何を意味するのかの議論も行われている。
短いながらも、深みのあるインタビュー記事になっている。
それに続く山口智美さんの「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズムの失われた10年」は、この本を読もうと思った直接の動機となった論考だ。この記事は『…戸惑い』にも数多く引用されており、この本と『…戸惑い』を連結する重要な論考として、私は位置付けたいと思う。
この論考の末尾で山口さんは
「ジェンダー・フリー」はそれまでの「女の運動の歴史」を消すことから生まれた概念だった、と私は思う。だからこそ、行政と学者が連携してつくり出した「ジェンダー・フリー」の歴史を振り返ることは、「女たちの運動の歴史」が消され、忘れられ、ないものにされていかないようにするためにも、重要なことなのではなかろうか。
と述べている。
重要な指摘だと思う。
次のV章、「バックラッシュの争点を探る」の冒頭に置かれた、小山エミさんの論考「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を読んで、私はほとほと感心してしまった。
この難しい問題に対して、長からぬ文章の中で、よくぞここ迄論点を整理し、解説し、バックラッシャーたちへの反論として手際よくまとめてあるものだ。
『ブレンダと呼ばれた少年』とは医療ミスによりペニスを破壊された少年の個人史を綴った本の題名だ。心理学者ジョン・マネーの指導するままに女児ブレンダとして育てられた少年は、10代半ばで誰に教えられることもなく「女性」である事を拒絶し、デイヴィッドと名乗る男性として生きることを選択した。「双子の症例」と呼ばれる事件のことで、バックラッシャーから、「ジェンダー=社会的・文化的に形成された性差」という論理の非科学性を暴く証拠として採り上げられてきた。
この事件を、私は困った実例として認識していた。そして意識的に無視する態度も取ってきた。
この論考の中で小山エミさんはまず、バックラッシャーのジェンダー理解が誤読、或いは曲解である事を示し、その上で「双子の症例」をどの様に解釈するのがより科学的な態度であるかを論じている。
「ジェンダーがセックスを規定する」とは、「育ちによって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張」(バックラッシャーたちはそう主張している)ではなく、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)というものが「自分は男性(もしくは女性、その他)である」という自己認識である以上、それは言語体系や社会のなかで自分がどこに位置付けられるかという認識であり、つねに社会的・文化的な文脈に依存したものであるほかあり得ないと言うことだ。
この小山エミさんの論考によって、私はようやく「困った実例」をジェンダー論の文脈の中で、科学的に位置付けることに成功した。
この本には他にも魅力的な論考が目白押しなのだが、具体的に採り上げるのはこの程度にしておきたい。その方が先入観なしでこの本を読む手助けになると考えるからだ。
バックラッシュは少なからぬ衝撃と動揺をフェミニズムに与えた。だがその一方でフェミニズムはそれ程時間を掛けずして、この様な深みのある論考集を出版することにも成功していたのだ。それは只単にバックラッシャーたちに反論するだけに留まらず、フェミニズム自らが抱えていた限界も見据え、突破して行く契機ともなった。
したたかでしなやかな女たちに拍手を送りたい。
実り多き論考集だと思う。
20170206
『幸福な王子/柘榴の家』
巻末に置かれた青山学院大学准教授田中裕介氏の解説が優れている。とても私の手ではこれ以上の紹介を書く事は出来ない。
けれど本を手にする迄はその文章を読む事が出来ない。私の書評も少しは存在価値があろうと言うものだろう。
この所読む本に当たりが多い。今回のワイルド著・小尾芙佐訳による『幸福な王子/柘榴の家』も大当たりだった。
著者は勿論の事、訳者、解説者、編集者各人がそれぞれとても良い仕事をされているのが分かった。
訳者あとがきで小尾芙佐さんは意気込みを語っている。
そこに秘められているもろもろとは何だろうか?
仮に、ワイルドの童話集が子どものために書かれたものであるとするならば、これらの作品はこれ程迄に怪しい光を放ってはいなかったのではないだろうか?
もっとストレートに、身勝手を戒め、思いやりの大切さを説く、道徳的な教訓に即した童話として書かれたのではなかろうか?
ワイルドの童話にはそうした道徳的な教訓を説くという目的から、大きくはみ出す過剰な愛が描かれている。
そして人間にたいするセンチメンタルなペシミズムと失望と皮肉な絶望にみちみちている(St. Jhon Ervinem, Oscar Wild. S Present Time Appraisal, p.124. 1951)
子どもに読み聞かせるために書かれたとするならば、余りにも毒が効きすぎているのだ。
その毒は、また大人の鑑賞に堪えうる厚みと深さを物語に与えている。
ワイルドの童話は、そうした読みが可能になるだけの、批判的な視点を必要とする。それを獲得する以前の子どもには、読解の難しい作品群と言えるのではないだろうか?
翻訳でまず目に付くのは、外来語を主として用いられている漢字の多さだ。蒼玉(サファイア)、紅玉(ルビー)、燐寸(マッチ)、蛋白石(オパール)、馴鹿(トナカイ)、天鵞絨(ビロード)、仙人掌(サボテン)…など用例には事欠かない。
これらを漢字で表現する事によって、訳者は物語全体に、不思議なロマンティシズムを与える事に成功している。また、ワイルドの英文の格調高さを、日本語に移植する事にも成功しているように思える。
また、子どもを意識したですます調ではなく、常体を用いた事も、物語全体を締まりのある堅牢な構造の元にまとめ、凜とした美しさを演出することに成功している。
これが敬体で書かれたとするならば(そうした訳が従来殆どだったのだが)、物語はもっと安易なセンチメンタリズムに流れてしまっただろう。
この本の登場によって、ワイルドの格調高さを持った、大人のための童話集を、我々はようやく手に入れる事が出来た。この書評を書くに当たって、もう一度この本を読みかえしたのだが、そこには水晶のように硬質に輝く美しい文章があった。
読んでいて、この童話を通してワイルドは、何が言いたかったのだろうか?と戸惑う事も多かったが、再読してみて、何よりもこの本はワイルドが醸し出した美しさをまず感じ、味わう事が大切なのだと思い至った。
驚くべき美しさである。
けれど本を手にする迄はその文章を読む事が出来ない。私の書評も少しは存在価値があろうと言うものだろう。
この所読む本に当たりが多い。今回のワイルド著・小尾芙佐訳による『幸福な王子/柘榴の家』も大当たりだった。
著者は勿論の事、訳者、解説者、編集者各人がそれぞれとても良い仕事をされているのが分かった。
訳者あとがきで小尾芙佐さんは意気込みを語っている。
ワイルドはこの童話集を子どもたちに話してきかせるため、そして繊細な心をもつ大人たちに読んでもらうために書いたといわれているが、ワイルドが意図するところは、あくまでも繊細な心をもつ大人たちのためということではなかったかと思われてならない。これを読みおえたとき、わたしの大人のこころが感じたままに訳してみたいという思いが湧いた。本来の童話という形から外れるかもしれないが、そこに秘められているもろもろを、わたしなりに世の大人たちに伝えたいとおごがましくも考えたのである。
そこに秘められているもろもろとは何だろうか?
仮に、ワイルドの童話集が子どものために書かれたものであるとするならば、これらの作品はこれ程迄に怪しい光を放ってはいなかったのではないだろうか?
もっとストレートに、身勝手を戒め、思いやりの大切さを説く、道徳的な教訓に即した童話として書かれたのではなかろうか?
ワイルドの童話にはそうした道徳的な教訓を説くという目的から、大きくはみ出す過剰な愛が描かれている。
そして人間にたいするセンチメンタルなペシミズムと失望と皮肉な絶望にみちみちている(St. Jhon Ervinem, Oscar Wild. S Present Time Appraisal, p.124. 1951)
子どもに読み聞かせるために書かれたとするならば、余りにも毒が効きすぎているのだ。
その毒は、また大人の鑑賞に堪えうる厚みと深さを物語に与えている。
ワイルドの童話は、そうした読みが可能になるだけの、批判的な視点を必要とする。それを獲得する以前の子どもには、読解の難しい作品群と言えるのではないだろうか?
翻訳でまず目に付くのは、外来語を主として用いられている漢字の多さだ。蒼玉(サファイア)、紅玉(ルビー)、燐寸(マッチ)、蛋白石(オパール)、馴鹿(トナカイ)、天鵞絨(ビロード)、仙人掌(サボテン)…など用例には事欠かない。
これらを漢字で表現する事によって、訳者は物語全体に、不思議なロマンティシズムを与える事に成功している。また、ワイルドの英文の格調高さを、日本語に移植する事にも成功しているように思える。
また、子どもを意識したですます調ではなく、常体を用いた事も、物語全体を締まりのある堅牢な構造の元にまとめ、凜とした美しさを演出することに成功している。
これが敬体で書かれたとするならば(そうした訳が従来殆どだったのだが)、物語はもっと安易なセンチメンタリズムに流れてしまっただろう。
この本の登場によって、ワイルドの格調高さを持った、大人のための童話集を、我々はようやく手に入れる事が出来た。この書評を書くに当たって、もう一度この本を読みかえしたのだが、そこには水晶のように硬質に輝く美しい文章があった。
読んでいて、この童話を通してワイルドは、何が言いたかったのだろうか?と戸惑う事も多かったが、再読してみて、何よりもこの本はワイルドが醸し出した美しさをまず感じ、味わう事が大切なのだと思い至った。
驚くべき美しさである。
20170202
『社会運動の戸惑い』
ジェンダーという言葉を知ったのは80年代、イヴァン・イリイチの著作からだったと記憶している。フェミニストから見れば鼻持ちならないと思われるかも知れないが、事実だから仕方がない。
ともあれ、イリイチが説く女と男の世界に驚愕し、彼の現代社会批判は深く私に突き刺さった。
以来、ジェンダーに関して、セクシュアリティに関して、敏感であろうとして来た。
その中でフェミニズムにも出会い、何故か分からないが密かに共感しても来た。
そうした私にとって、00年代の所謂フェミニズムに対するバックラッシュは、とても他人事では済まされない現象だった。
保守層にとって、ジェンダーフリーは、何故そこ迄危機意識を持って迎えられなければならない概念なのか理解の範囲を超えていた。
私もバックラッシュを前にして、戸惑い続けていたのだ。
山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い─フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』をようやく読了した。
この本は出るべくして出た本であり、私にとっては読むべくして読んだ本と言えるのではないだろうか?
読んでいて、出て来る具体例に対して、あ、これはあの時だ、と分かるものがとても多く、まるで知り合いが書いている文章を読んでいるような感触を、幾たびか感じ取った。
とりわけmixiなどインターネット上の議論に関しては、私自身が積極的に関わった事例であって、出て来る人物名も、既知の親しみのある人物のものが多く、懐かしさすら感じた。
この本のタイトルには複雑な思いが込められていると筆者等は言う。
からだ。
後に保守層からフェミニズムへの激しい攻撃に用いられる事になったジェンダーフリーという言葉が日本に於いて最初に使われたのは1995年、東京女性財団のハンドブック、『Gender Free 若い世代の教師のために─あなたのクラスはジェンダーフリー?』(東京女性財団1995)、およびプロジェクト報告書『ジェンダーフリーな教育のために』(東京女性財団1995)だと言う。
この文献の作成には心理学者の深谷和子、教育学者の田中統治、精神医学を専門とする田中毅という3名の学者が関わり、意外な事にフェミニズムを専門とする学者は加わっていなかった。
つまりジェンダーフリーという言葉は
(1)学校教育を対象に
(2)制度面ではなく意識・態度的側面の問題として
(3)女性運動の歴史を捨象したうえで
(4)行政指導の言葉として
1995年の日本に登場したと言う訳だ。
ラディカルさとは程遠く、反発を逃れたいが為に考案された言葉でもあった。
またこの言葉そのものが、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読から用いられ、その後に女性学・ジェンダー学者たちが無批判に、更にその誤読を広めていった過程が述べられている。
それに対する保守層の批判も、決して学習していない訳ではないのだが、「革命」や「全体主義」、「マルクス主義」という名詞のついたタイトルが多く並び、フェミニストの左翼性を暴くという単調な形式の論調が続く。
筆者等はこの間のバックラッシュに対し、「失われた時代」と表現するしかない程なすすべなく後退し続けたフェミニズム側の言動に、実証的な研究や調査に基づく記述が見当たらない事に注目する。
そしてバックラッシュの先鋒でもあった日本時事評論の関係者や運動家、行政担当者への聞き取り作業を始める。
当初、「バックラッシュ派」は恐ろしい、おぞましいというイメージに取り憑かれていた筆者等だったが、実際に会ってみると、腰が低く、にこやかで穏やかな人であったりして、「バックラッシャー」の恐ろしい攻撃的なイメージは、自分たちが勝手に抱いていたものである事を理解していった。
また「バックラッシュ」は司令塔を持つ全国組織によるものというイメージも現実とは解離しており、柱のひとつだった男女共同参画条例づくりへの批判は地方から始まり、各地へ拡がった運動だった。
以下、そうした「草の根」の保守運動がどの様に展開されたのかが、詳しく述べられている。また、バックラッシュ派も含めて、運動を広めるに当たってインターネットをどの様に駆使したか、しなかったかも語られている。
「草の根保守運動」は勝ったのだろうか?
ジェンダーフリーという言葉は使われなくなり、条例も明らかにフェミニストたちが望んでいたものとはかけ離れた保守寄りのものになった。
だが、その間保守の側も運動が衰退したり、保守の間で分裂が起きたりしていて、とても勝利を謳う程の成果を上げていない。
筆者等がこの本で何をしたかったのかは明白だ。
「失われた時代」00年代。その無力感から何かしら取り戻せるものがあるのではないかという問いかけへの返答を試みているのだ。
その為に困難な聞き取り作業も敢行したのだろう。
この本は、丁寧なフィールドワークに基づき、バックラッシュによって「失われた時代」と考えられている時期をフェミニストの視点から振り返り、実証的に考察した労作だ。
フェミニズムに欠けていたのは実証的な検証作業であるという著者等の反省がこの本を産んだのだと思う。
極めて重要な文献だ。
ともあれ、イリイチが説く女と男の世界に驚愕し、彼の現代社会批判は深く私に突き刺さった。
以来、ジェンダーに関して、セクシュアリティに関して、敏感であろうとして来た。
その中でフェミニズムにも出会い、何故か分からないが密かに共感しても来た。
そうした私にとって、00年代の所謂フェミニズムに対するバックラッシュは、とても他人事では済まされない現象だった。
保守層にとって、ジェンダーフリーは、何故そこ迄危機意識を持って迎えられなければならない概念なのか理解の範囲を超えていた。
私もバックラッシュを前にして、戸惑い続けていたのだ。
山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い─フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』をようやく読了した。
この本は出るべくして出た本であり、私にとっては読むべくして読んだ本と言えるのではないだろうか?
読んでいて、出て来る具体例に対して、あ、これはあの時だ、と分かるものがとても多く、まるで知り合いが書いている文章を読んでいるような感触を、幾たびか感じ取った。
とりわけmixiなどインターネット上の議論に関しては、私自身が積極的に関わった事例であって、出て来る人物名も、既知の親しみのある人物のものが多く、懐かしさすら感じた。
この本のタイトルには複雑な思いが込められていると筆者等は言う。
フェミニズムという学問および社会運動は、00年代にいったいどの程度の効果を果たしたのか。保守運動とフェミニズムという二つの社会運動の衝突は、いったい誰を幸福にするためのものだったのか。この係争で明らかになったのは、フェミニストたちが自らの社会運動の歴史と役割を忘却しつつある、ということではないか。自らの隘路に戸惑っている社会運動の姿を記述していく作業もまた、私たち筆者にとっては戸惑いの連続だった。
からだ。
後に保守層からフェミニズムへの激しい攻撃に用いられる事になったジェンダーフリーという言葉が日本に於いて最初に使われたのは1995年、東京女性財団のハンドブック、『Gender Free 若い世代の教師のために─あなたのクラスはジェンダーフリー?』(東京女性財団1995)、およびプロジェクト報告書『ジェンダーフリーな教育のために』(東京女性財団1995)だと言う。
この文献の作成には心理学者の深谷和子、教育学者の田中統治、精神医学を専門とする田中毅という3名の学者が関わり、意外な事にフェミニズムを専門とする学者は加わっていなかった。
つまりジェンダーフリーという言葉は
(1)学校教育を対象に
(2)制度面ではなく意識・態度的側面の問題として
(3)女性運動の歴史を捨象したうえで
(4)行政指導の言葉として
1995年の日本に登場したと言う訳だ。
ラディカルさとは程遠く、反発を逃れたいが為に考案された言葉でもあった。
またこの言葉そのものが、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読から用いられ、その後に女性学・ジェンダー学者たちが無批判に、更にその誤読を広めていった過程が述べられている。
それに対する保守層の批判も、決して学習していない訳ではないのだが、「革命」や「全体主義」、「マルクス主義」という名詞のついたタイトルが多く並び、フェミニストの左翼性を暴くという単調な形式の論調が続く。
筆者等はこの間のバックラッシュに対し、「失われた時代」と表現するしかない程なすすべなく後退し続けたフェミニズム側の言動に、実証的な研究や調査に基づく記述が見当たらない事に注目する。
そしてバックラッシュの先鋒でもあった日本時事評論の関係者や運動家、行政担当者への聞き取り作業を始める。
当初、「バックラッシュ派」は恐ろしい、おぞましいというイメージに取り憑かれていた筆者等だったが、実際に会ってみると、腰が低く、にこやかで穏やかな人であったりして、「バックラッシャー」の恐ろしい攻撃的なイメージは、自分たちが勝手に抱いていたものである事を理解していった。
また「バックラッシュ」は司令塔を持つ全国組織によるものというイメージも現実とは解離しており、柱のひとつだった男女共同参画条例づくりへの批判は地方から始まり、各地へ拡がった運動だった。
以下、そうした「草の根」の保守運動がどの様に展開されたのかが、詳しく述べられている。また、バックラッシュ派も含めて、運動を広めるに当たってインターネットをどの様に駆使したか、しなかったかも語られている。
「草の根保守運動」は勝ったのだろうか?
ジェンダーフリーという言葉は使われなくなり、条例も明らかにフェミニストたちが望んでいたものとはかけ離れた保守寄りのものになった。
だが、その間保守の側も運動が衰退したり、保守の間で分裂が起きたりしていて、とても勝利を謳う程の成果を上げていない。
筆者等がこの本で何をしたかったのかは明白だ。
「失われた時代」00年代。その無力感から何かしら取り戻せるものがあるのではないかという問いかけへの返答を試みているのだ。
その為に困難な聞き取り作業も敢行したのだろう。
この本は、丁寧なフィールドワークに基づき、バックラッシュによって「失われた時代」と考えられている時期をフェミニストの視点から振り返り、実証的に考察した労作だ。
フェミニズムに欠けていたのは実証的な検証作業であるという著者等の反省がこの本を産んだのだと思う。
極めて重要な文献だ。
20170127
『読書について』
遮二無二に、兎に角沢山本だけは読んできた。
引っ越しを機に蔵書を整理し、1/3程にまで減らしたが、それでも部屋の壁は本で埋め尽くされている。
読書はプラスの面だけでは無いのではないか?
薄らとそう感じたのは2年を費やした受験期と大学時代の事だった。
高校時代迄は勉強はしなかったが、何でも創意工夫次第で、自力で出来ると言う自信は揺るぎなくあった。これで勉強が出来れば、完璧だとすら思っていた。
受験期と大学時代、遅ればせながら私はガリガリと勉強をした。
勉強は出来るようになったが、明らかに独自性を喪失したという実感がある。
自分で考えると言う事をしなくなった。
何でも出来る筈の自分は姿を消し、何も出来ない自分が残滓のように残っているだけだった。
それなりの情熱を傾けて書いた論文は、オリジナルなアイデアのない、教科書のような代物になってしまった。
ショーペンハウアーが『読書について』という本を書いている。
読んでみて、やはりそうだったか!と感じ入った。
この本は
「自分の頭で考える」
「著述と文体について」
「読書について」
の3編から成っている。
岩波文庫からも出されているが、今回は読みやすさを優先して、分かり易い訳で定評のある光文社古典新訳文庫版を選んだ。
訳者は鈴木芳子さん。
訳者あとがきの冒頭で鈴木さんは
とショーペンハウアーの原文を評している。
とある。
この見解には諸手を挙げて同意したい。
3編のうち「著述と文体について」は、私には評する力量がない。この文章で、ショーペンハウアーはドイツ語の乱れに関して、豊富な具体例を挙げて警告しているのだが、その具体例を逐一理解出来る程、私にはドイツ語の文法や用法に関する知識がある訳ではないからだ。しかも19世紀のドイツの文化事情や社会的背景については、殆ど知識がない。
訳者自身による解説にあるように、
ショーペンハウアーはドイツ語の名人でもあったのだ。
後の2編はほぼ同じ事を言っている。
「読書について」の第2パラグラフ冒頭でショーペンハウアーは
と喝破している。
耳の痛い話とはこの様な言葉を言う。
私の頭の中には、雑多な知識は豊富に存在しているが、それは雑学と称されるものであって、真に生きる上で必要な知恵は、そこからは生まれてこない。
ナイーブに多読を美徳として信じていた訳ではない。けれど、心のどこかで読書する事は、無批判に良い事だと信じる私がいた事は否定出来ない。
何か事が起きると、すぐ本に答えを探していた。それは確かに考える事を放棄し、他者に委ねてしまう行為だった。
抜き書きしてみると只単に手厳しく、耳の痛い話だけの話になってしまうのだが、この本を通読してみると、そこにショーペンハウアーが抱いている、他者に対する深い愛情がある事が分かる。それをヒューマニズムと言っても良い。
それがあるが故に、この本は
と言いたくなる作品に仕上がっているのだろう。
知的な笑いがこみ上げてくる本にもなっている。
古典の教養に裏付けられ、それが滲み出るショーペンハウアーの文体はあくまでも凜とした佇まいを感じさせ、しかも比喩がこの上なく巧みだ。
気を付けたいのはショーペンハウアーは本を読むなと言っているのではないと言う事だ。彼自身大変な読書名人として知られている。肝要なのは、あくまでも自分の頭で感じ、考えよと言う事なのだ。
良い本を読んだ。
引っ越しを機に蔵書を整理し、1/3程にまで減らしたが、それでも部屋の壁は本で埋め尽くされている。
読書はプラスの面だけでは無いのではないか?
薄らとそう感じたのは2年を費やした受験期と大学時代の事だった。
高校時代迄は勉強はしなかったが、何でも創意工夫次第で、自力で出来ると言う自信は揺るぎなくあった。これで勉強が出来れば、完璧だとすら思っていた。
受験期と大学時代、遅ればせながら私はガリガリと勉強をした。
勉強は出来るようになったが、明らかに独自性を喪失したという実感がある。
自分で考えると言う事をしなくなった。
何でも出来る筈の自分は姿を消し、何も出来ない自分が残滓のように残っているだけだった。
それなりの情熱を傾けて書いた論文は、オリジナルなアイデアのない、教科書のような代物になってしまった。
ショーペンハウアーが『読書について』という本を書いている。
読んでみて、やはりそうだったか!と感じ入った。
この本は
「自分の頭で考える」
「著述と文体について」
「読書について」
の3編から成っている。
岩波文庫からも出されているが、今回は読みやすさを優先して、分かり易い訳で定評のある光文社古典新訳文庫版を選んだ。
訳者は鈴木芳子さん。
訳者あとがきの冒頭で鈴木さんは
端正で切れ味鋭く、濃密
とショーペンハウアーの原文を評している。
耳に痛い話も少なくないのに、なぜか爽快!
とある。
この見解には諸手を挙げて同意したい。
3編のうち「著述と文体について」は、私には評する力量がない。この文章で、ショーペンハウアーはドイツ語の乱れに関して、豊富な具体例を挙げて警告しているのだが、その具体例を逐一理解出来る程、私にはドイツ語の文法や用法に関する知識がある訳ではないからだ。しかも19世紀のドイツの文化事情や社会的背景については、殆ど知識がない。
訳者自身による解説にあるように、
いまの日本には頭文字だけを抜き取った省略語や「起きれる」「食べれる」のような「ら」抜き言葉、あるいは匿名によるネットへの書き込みが蔓延しているが、ショーペンハウアー博士がこれを見たら、「ひとつひとつの語を切りつめる手法とは、まったく違う手続き」すなわち「簡明簡潔に考えるという業」「どんなに微細な変化や微妙なニュアンスにも厳密に対応する語を自在にあやつる国語力」を要請し、匿名批評家を「名誉心のかけらもない」と評するのではないだろうか。とあるのを紹介するに留めておきたい。
ショーペンハウアーはドイツ語の名人でもあったのだ。
後の2編はほぼ同じ事を言っている。
「読書について」の第2パラグラフ冒頭でショーペンハウアーは
読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。
と喝破している。
だからほとんど一日中、おそろしくたくさんの本を読んでいると、何も考えずに暇つぶしができて骨休みにはなるが、自分の頭で考える能力がしだいに失われてゆく。
耳の痛い話とはこの様な言葉を言う。
私の頭の中には、雑多な知識は豊富に存在しているが、それは雑学と称されるものであって、真に生きる上で必要な知恵は、そこからは生まれてこない。
「頭の中は本の山
永遠に読み続ける 悟る事なく」
(ホープ『愚人列伝』第三章、194)
ナイーブに多読を美徳として信じていた訳ではない。けれど、心のどこかで読書する事は、無批判に良い事だと信じる私がいた事は否定出来ない。
何か事が起きると、すぐ本に答えを探していた。それは確かに考える事を放棄し、他者に委ねてしまう行為だった。
抜き書きしてみると只単に手厳しく、耳の痛い話だけの話になってしまうのだが、この本を通読してみると、そこにショーペンハウアーが抱いている、他者に対する深い愛情がある事が分かる。それをヒューマニズムと言っても良い。
それがあるが故に、この本は
耳の痛い話も少なくないのに、なぜか爽快!
と言いたくなる作品に仕上がっているのだろう。
知的な笑いがこみ上げてくる本にもなっている。
古典の教養に裏付けられ、それが滲み出るショーペンハウアーの文体はあくまでも凜とした佇まいを感じさせ、しかも比喩がこの上なく巧みだ。
気を付けたいのはショーペンハウアーは本を読むなと言っているのではないと言う事だ。彼自身大変な読書名人として知られている。肝要なのは、あくまでも自分の頭で感じ、考えよと言う事なのだ。
良い本を読んだ。
20170118
大雪、ようやく止む
やっと晴れた。
12日の夜から本格的な雪だった。
この間、少しの間晴れたり日が射す事もあったが、殆ど雪が降り続いていた。
豪雪とは言うまい。豪雪地帯の方々への申し訳が立たない。今回の雪でも1mを超す積雪は方々から報告されている。
それでも気象庁の最新の気象データでは長野市内で一時最深積雪が49cmを記録した。
その為、5日間連続で、毎朝雪掻きに狩り出される事になった。
善光寺平は比較的雪の少ない地域だ。その為に戦国時代はここを領地にする為に幾多の武将が覇権を争った。川中島合戦などはその代表例だ。
そこに50cmに届くかと思われる程の積雪を記録する事は、そう滅多にある事では無い。
辺り一面、銀世界に覆われた。
困ったのは出勤の時使う道が、十分に雪掻きがなされていなかった事だ。
歩道は完全に雪に埋もれ、仕方なく歩く車道は雪が踏み固められ、つるつるに滑る状態になっていた。
夜、そこを車をよけながら、長靴で歩くのはかなりの恐怖を伴った。
車とすれ違う時、安全を考えて一旦立ち止まるのだが、それでも私は何度か滑りそうになったし、車も滑るのだ。
しかし、雪が多かった分、気温はさほど下がらなかった。14日の-5.8℃が、確認した中では最も低い気温だった(この日の最高気温は-2.1℃だった)。最高気温こそ余り上がらなかったが、最低気温も思った程下がらず、気温差の小さな日が続いたと言えるだろう。
今日は最高気温がかなり上がり5℃近くになると予想されている。この日射しと気温で雪もかなり解けるだろう。
だが油断はしていない。雪も完全には解けず、根雪になるだろうし、何と言っても天気予報では今週の金曜日からまた雪が降り続くと発表されているのだ。
さすがに憂鬱になって来た。自分の住処と親の家の3件分の雪掻きは、やはり辛い。
12日の夜から本格的な雪だった。
この間、少しの間晴れたり日が射す事もあったが、殆ど雪が降り続いていた。
豪雪とは言うまい。豪雪地帯の方々への申し訳が立たない。今回の雪でも1mを超す積雪は方々から報告されている。
それでも気象庁の最新の気象データでは長野市内で一時最深積雪が49cmを記録した。
その為、5日間連続で、毎朝雪掻きに狩り出される事になった。
善光寺平は比較的雪の少ない地域だ。その為に戦国時代はここを領地にする為に幾多の武将が覇権を争った。川中島合戦などはその代表例だ。
そこに50cmに届くかと思われる程の積雪を記録する事は、そう滅多にある事では無い。
辺り一面、銀世界に覆われた。
困ったのは出勤の時使う道が、十分に雪掻きがなされていなかった事だ。
歩道は完全に雪に埋もれ、仕方なく歩く車道は雪が踏み固められ、つるつるに滑る状態になっていた。
夜、そこを車をよけながら、長靴で歩くのはかなりの恐怖を伴った。
車とすれ違う時、安全を考えて一旦立ち止まるのだが、それでも私は何度か滑りそうになったし、車も滑るのだ。
しかし、雪が多かった分、気温はさほど下がらなかった。14日の-5.8℃が、確認した中では最も低い気温だった(この日の最高気温は-2.1℃だった)。最高気温こそ余り上がらなかったが、最低気温も思った程下がらず、気温差の小さな日が続いたと言えるだろう。
今日は最高気温がかなり上がり5℃近くになると予想されている。この日射しと気温で雪もかなり解けるだろう。
だが油断はしていない。雪も完全には解けず、根雪になるだろうし、何と言っても天気予報では今週の金曜日からまた雪が降り続くと発表されているのだ。
さすがに憂鬱になって来た。自分の住処と親の家の3件分の雪掻きは、やはり辛い。
20170116
Opera Neonはなかなか良い
Mediumの記事で新しいブラウザOpera NeonがOperaから出た事を知った。
早速ダウンロードして、少し使ってみたが、これがなかなか良いのだ。
デフォルトの状態で起動すると
のようなメイン画面が現れる。
全面表示のウィンドウにデスクトップが表示され、そこに幾つか丸いアイコンが散らばっている。
ここからして、従来のブラウザと設計思想が違う事が分かる。
このアイコンをクリックすると
この様な感じでタブが表示される。
開いているタブは右側にアイコンで示される。
左側のサイドバーにある+(タブ)をクリックするとタブは縮小され、メイン画面に戻る。
タブを開いた状態で、右側のタブアイコンをdragしてゆくとスプリットスクリーンで表示させる事が出来る。
これに一番驚いたし、便利さを感じた。
左側に並んでいるサイドバーにはスクリーンショットを撮ったり、YouTubeなどを再生させたり、ポップアップで表示する機能などが選べる。
拡張機能などには対応していないようだが、本体が持つ機能も元々多く、不便さは感じなかった。
まだ出来たばかりのブラウザで、実際問題点も幾つかあるのでメインブラウザとしては使わず、補助的に活かしてゆこうと考えている。
万人にお奨め出来るブラウザとは言えないかも知れないが、従来のブラウザに不満を抱いている方には、試してみる価値は十分にあるブラウザとしてお奨め出来ると思う。
ブラウザの未来形にひとつの方向性を指し示したブラウザだ。
早速ダウンロードして、少し使ってみたが、これがなかなか良いのだ。
デフォルトの状態で起動すると
のようなメイン画面が現れる。
全面表示のウィンドウにデスクトップが表示され、そこに幾つか丸いアイコンが散らばっている。
ここからして、従来のブラウザと設計思想が違う事が分かる。
このアイコンをクリックすると
この様な感じでタブが表示される。
開いているタブは右側にアイコンで示される。
左側のサイドバーにある+(タブ)をクリックするとタブは縮小され、メイン画面に戻る。
タブを開いた状態で、右側のタブアイコンをdragしてゆくとスプリットスクリーンで表示させる事が出来る。
これに一番驚いたし、便利さを感じた。
左側に並んでいるサイドバーにはスクリーンショットを撮ったり、YouTubeなどを再生させたり、ポップアップで表示する機能などが選べる。
拡張機能などには対応していないようだが、本体が持つ機能も元々多く、不便さは感じなかった。
まだ出来たばかりのブラウザで、実際問題点も幾つかあるのでメインブラウザとしては使わず、補助的に活かしてゆこうと考えている。
万人にお奨め出来るブラウザとは言えないかも知れないが、従来のブラウザに不満を抱いている方には、試してみる価値は十分にあるブラウザとしてお奨め出来ると思う。
ブラウザの未来形にひとつの方向性を指し示したブラウザだ。
20170105
放牧宣言
いきなりの事でかなり面食らった。
いきものがかりが活動を休止する事になったという。彼らのオフィシャルサイトでそう宣言しているとNEWSは伝えていた。
すぐにオフィシャルサイトに行ってみる事にしたが、アクセスが集中していたのだろう。エラーコードが出てしまって、なかなか繋ぐ事が出来なかった。
年末の歌番組などでいきものがかりが昨年デビュー10周年を迎えた事は知っていた。十分長いキャリアを積んでいる。その間、発表された曲はどれも、高い水準をキープしていた。人気、実力共に兼ね備えたグループだと思っていた。
幾つかのNEWSを読み、大体の事は理解出来た。しかしやはり彼ら自身が発表したメッセージを読みたい。
その内にエラーコードが書かれたウインドウを放置しておいたら、急に「いきものがかりからのお知らせ」と書かれたワイプがある彼らのサイトが表示された。
待つ事20数分。ようやく彼らの「放牧宣言」を読む事が出来た。
繋がった当初は、もう当分ここには戻って来られないのではないかと思われたので、急いでスクリーンショットを撮った。
だが、その後確認したところ、NEWSが報じられた当初に比べて、格段に繋がりやすくなっている。
デビューしてから10年。グループを結成してから17年経っている。これだけの時間を3人で一緒に活動してきた事だけでも凄い事だ。
いきものがかりが活動を休止する事になったという。彼らのオフィシャルサイトでそう宣言しているとNEWSは伝えていた。
すぐにオフィシャルサイトに行ってみる事にしたが、アクセスが集中していたのだろう。エラーコードが出てしまって、なかなか繋ぐ事が出来なかった。
年末の歌番組などでいきものがかりが昨年デビュー10周年を迎えた事は知っていた。十分長いキャリアを積んでいる。その間、発表された曲はどれも、高い水準をキープしていた。人気、実力共に兼ね備えたグループだと思っていた。
幾つかのNEWSを読み、大体の事は理解出来た。しかしやはり彼ら自身が発表したメッセージを読みたい。
その内にエラーコードが書かれたウインドウを放置しておいたら、急に「いきものがかりからのお知らせ」と書かれたワイプがある彼らのサイトが表示された。
画像はクリックすると拡大します。
すぐにそれをクリックしたが、またつながりませんの表示。待つ事20数分。ようやく彼らの「放牧宣言」を読む事が出来た。
繋がった当初は、もう当分ここには戻って来られないのではないかと思われたので、急いでスクリーンショットを撮った。
だが、その後確認したところ、NEWSが報じられた当初に比べて、格段に繋がりやすくなっている。
デビューしてから10年。グループを結成してから17年経っている。これだけの時間を3人で一緒に活動してきた事だけでも凄い事だ。
メンバーそれぞれ、
自由になってみようと思います。
宣言にはそう記されている。
それは良い事なのではないだろうか?
わたしにはそう思える。
恐らくこの休止の先に、このままずるずると解散に至る事はないだろう。
それぞれの未来を、もっと広げるために
3人の物語を、もっと長く、
もっと楽しく、続けるために。
「宣言」にそうあるからだ。
更に続けて
いきものがかりは3人が帰ってくる場所です。
またみなさん笑顔で、会いましょう!
それでは行ってきます。
放牧!
と締められている。
休止するというNEWSに驚き、内心大きなショックも感じた私だが
彼らのこの言葉を掛け値なしで信じて、
「行ってらっしゃい!」と声を掛けるしかない。
そうしてやりたい。
芸能界は他人事として捕らえていると信じていた。
だが、今回いきものがかりの「放牧宣言」を知って、激しく動揺している自分がいる事に少し戸惑っている。
私は彼らの音源を1枚も持っていない。
だが、実のところかなり熱烈なファンだったようだ。
いつの日か
「お帰りなさい!」
そう声を掛ける日を待ち望んでいる。
その日がそう遠い事ではないと
期待し、信じ、待ち望んでいる。
朝からちらついていた雪が激しく降り始めた。
20170103
実感のある正月
大晦日も正月も、加えて2日も仕事だった。こうした経験は初めての事。しかも店が早く閉まる為、不断より早く出なければならなかった。
ならば正月という気がしなかったかというとそうでは無い。
むしろ今迄正月に休んでいた頃より遙かに年を改めるという実感が今年は伴っていた。
今迄は、正月は単なる休みの日であって、不断と違う特別な日という実感が全くなかった。
そうした人生を今迄生きてきた。
そしてそれで良しと、達観を気取る気分も確かに私の中にあった。
売らんかなの商業主義的な「特売日としての行事」に刃向かう自分が好きでもあった。
今年も仕事をしている時は、今まで以上に普通の日として正月を味わうのだろう、と思っていた。
しかし、仕事を終え、家に辿り着いて、紅白でも見ようかとTVを点けた辺りから、心の底に不断とは違う静けさが流れていることに気付いた。
それは子どもの頃の、どこか華やいだ新年を迎える気持とは全く別の、それとは対局に位置する、新しさを迎える為の心の真っ直ぐな姿勢だとすぐ分かった。
この心の動きは、生まれて初めての体験だった。
新年がやってくるのを楽しみに身構えているのだ。この私が!
やがて午前0:00はやってきた。
心の中で小さくカウントダウンをしていた。
思うに、今迄の私は社会との接点を殆ど失った状態で生きてきた。
それを取り戻したのが今年だったのではないだろうか?
避けに避けて来た商業施設で働き始めた。
仕事は丁寧さより早さが求められる、最も苦手とする環境である。
叱られてばかりいる。
しかしそれはもしかしたら関係という他者とのあり方の一様態なのではないだろうか?
正月は商業施設もそれを利用するが、何はともあれそれ以前に社会的な約束事の事だ。
私の中にそうした社会との接点が出来てきたので、ようやく正月を正月として実感する事ができてきたのではないだろうか?
だが、定番と言われる正月のTVを見る訳でもない。増して年末年始に行われる、これまた定番の行事を行う訳でもない。特別な事は何一つしていない。
けれど確実に2017年という年の始まりは私の心の中に、大きな区切りを刻みつけていった。
新しい生活の中で新しい年は始まった。
何をしているのかというと、CDやFM放送ばかり聴いている。
今はプーランクを聴いている。
ならば正月という気がしなかったかというとそうでは無い。
むしろ今迄正月に休んでいた頃より遙かに年を改めるという実感が今年は伴っていた。
今迄は、正月は単なる休みの日であって、不断と違う特別な日という実感が全くなかった。
そうした人生を今迄生きてきた。
そしてそれで良しと、達観を気取る気分も確かに私の中にあった。
売らんかなの商業主義的な「特売日としての行事」に刃向かう自分が好きでもあった。
今年も仕事をしている時は、今まで以上に普通の日として正月を味わうのだろう、と思っていた。
しかし、仕事を終え、家に辿り着いて、紅白でも見ようかとTVを点けた辺りから、心の底に不断とは違う静けさが流れていることに気付いた。
それは子どもの頃の、どこか華やいだ新年を迎える気持とは全く別の、それとは対局に位置する、新しさを迎える為の心の真っ直ぐな姿勢だとすぐ分かった。
この心の動きは、生まれて初めての体験だった。
新年がやってくるのを楽しみに身構えているのだ。この私が!
やがて午前0:00はやってきた。
心の中で小さくカウントダウンをしていた。
思うに、今迄の私は社会との接点を殆ど失った状態で生きてきた。
それを取り戻したのが今年だったのではないだろうか?
避けに避けて来た商業施設で働き始めた。
仕事は丁寧さより早さが求められる、最も苦手とする環境である。
叱られてばかりいる。
しかしそれはもしかしたら関係という他者とのあり方の一様態なのではないだろうか?
正月は商業施設もそれを利用するが、何はともあれそれ以前に社会的な約束事の事だ。
私の中にそうした社会との接点が出来てきたので、ようやく正月を正月として実感する事ができてきたのではないだろうか?
だが、定番と言われる正月のTVを見る訳でもない。増して年末年始に行われる、これまた定番の行事を行う訳でもない。特別な事は何一つしていない。
けれど確実に2017年という年の始まりは私の心の中に、大きな区切りを刻みつけていった。
新しい生活の中で新しい年は始まった。
何をしているのかというと、CDやFM放送ばかり聴いている。
今はプーランクを聴いている。