20170423

『ニーチェの顔』

前々回の「『大いなる正午』」に引き続き、氷上英廣の本を紹介する。

今回紹介するのは『ニーチェの顔』。岩波新書青版である。言わずと知れるだろうが古い。ちなみにamazonで氷上英廣を検索しても、『大いなる正午』も『ニーチェの顔』もヒットしない。偶々、県立長野図書館に蔵書があったお蔭で、読むことが可能になった。だが、読んでいて全く古さを感じなかった。

この様な本を読んでいると、本物のインテリの話は面白いと素直に思えてくる。洋の東西を問わない、広く深い知識と教養が本から泉のようにこんこんと湧き出てくるような気がしてくるのだ。

今回の『ニーチェの顔』は70年代前半に書かれた、ニーチェに関するエッセイを集めたものだ。

ニーチェの容貌や声、孤独とデカダンス、エピクロスやヘーゲルとの関係、西洋と東洋、ゾロアスターや仏教キリスト教、ニーチェが生きた時代のドイツと日本の知的風土、といった様々な角度から光をあて、ニーチェという希有な思想家の迫力と魅力を、生き生きと描き出している。

ニーチェが書いたままの原語で、ニーチェを読むことができる事へのうらやましさを含めて、これだけ教養があると、ニーチェを読んでいても、私が読む場合の数十倍、いや数百倍は愉しいだろうと想像する。

私が読む場合、一寸先だけ見えていてその先は闇、の状態に近いが、もっと広い遠近感を持ちながら、確固とした全体像を持ってニーチェを読むことができると思えるからだ。

例えば「犀・孤独・ニーチェ」から引用すると

ところで、「われはさまよう、ただひとりの犀のごとくに」の句は、引用の手紙であきらかなように、ゲルスドルフから贈られたインドの箴言集のなかにあるのではなく、仏典スッタ・ニバータに由来するものであり、英訳のスッタ・ニバータのなかに出て来るリフレーンをニーチェが自家用に独訳したものだ。

こうしたことを分かっていて読むのと、全く知らずに読むのでは、同じ文章を読んでも、汲むことができる意味の量が全く違ってくる。

氷上英廣の本はこうした事の連続なのだ。

これだけの知識と教養がありながら、氷上英廣が『ツァラトゥストラはこう言った』を、注釈なしで訳した事実に、私は改めて驚嘆せざるを得ない。



ところが意外にも氷上英廣ができなかったことも、できるようになって来ている事に、今回気が付いた。

表題にも使われている文章「ニーチェの顔」の冒頭はこう始まる。

ニーチェの顔といえば、まず思いだすのはあの大きな口ひげである。シュテファン・ツヴァイクがニーチェを論じたもののなかにVercingetorixのひげという語が使ってあるが、このヴェルツィンゲートリクスというのはガリア人の勇猛な族長でシーザーと戦い、敗北し、ローマで首をはねられた人物らしい。私はいまその肖像をさがす便宜がないので、おそらくニーチェのようなひげを持った人物なのだろうと思うよりほかない。

今我々はWebを使うことができる。Vercingetorixを画像検索してみると、主に銅像でだがその肖像を簡単に見出すことができる。

ウェルキンゲトリクス(Wikipedia)

氷上英廣ができなかったことも、簡単にやってのける事ができるのだ。

時代は確実に便利になっている。

しかし、『ニーチェの顔』を読まなければ、Vercingetorixなる人物の名すら知らずに過ごしていたのであろう。所詮は氷上英廣の手のひらの上で探検をしている気分を味わっているに過ぎないのだ。

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