20170215

『バックラッシュ!』

山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い─フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(以下『…戸惑い』と略す)の補完として、そして前史を知るために読んだ。半ば義務的に読んだのだが、思いのほか良い読書体験になったと思っている。

この本『バックラッシュ!─なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』は06年7月に出版されている。『…戸惑い』より、遙か昔に出された本なのだが、読む順番としても、『…戸惑い』を先に読んでおいて良かったと思わされる事が多かった。

例えば、この本は宮台真司氏のインタビュー記事「バックラッシュとは何か?」から始まるのだが、これが難物だった。
難しかったのだ。この本を読むエネルギーの半分近くは、この記事を読むために費やされた。
どこがバックラッシュの話なのだろう?と度々戸惑ったが、宮台真司が、フェミニズムが直面したバックラッシュの問題を、社会運動が迷い込んだ隘路とそこからの脱出法の問題として捉えていると考えれば、話は通じる。

これは『…戸惑い』に於いて強調されている視点だ。これを知らなかったら、宮台真司氏の記事を読み進める事も出来なかったかも知れない。

『…戸惑い』は06年当時、まだ整理されていなかった論点を、整理し、問題点を明らかにしてくれていた。これは私にとって、フェミニズムやバックラッシュを考えて行く上で、格好の思考の地図となってくれた。


錚々たるメンバーの論考によって、この本は成り立っている。

ターゲットは00年代に起きたフェミニズムへのバックラッシュ。
だが、そのバックラッシャーたちの議論を具体的に書き起こして、いちいち反論を試みるような記事は、この本には見当たらない。
誰もが、バックラッシャーたちの言説を、反論するに値しないものとして総括している。

その為だろうか、読み始めの頃どうしても隔靴掻痒の感が否めなかった。

その感じが一気に無くなったのは、山口智美さんを聞き手として編まれたジェーン・マーティンとバーバラ・ヒューストンのインタビュー記事『ジェンダーを考える』からだった。

バックラッシャーたちから攻撃の的として扱われていたジェンダーフリーという語は、バーバラ・ヒューストンの論文から引かれたものだったが、それは該当論文を誤読して用いられ、その後も女性学者、ジェンダー学者を含めて、原典に立ち戻る事もなく、誤用されたまま引用され続けた用語である事を、山口智美さんは発見し、問題視して来た。

その為にジェンダー・フリーという用語は使用する人によって様々に定義され、混乱を招いていた。

バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーではなく、ジェンダー・センシティブを重要視するべきだと主張していたのだ。

そこで山口智美さんはジェンダー・センシティブの提唱者ジェーン・マーティンとそれを引用したバーバラ・ヒューストンを訪ね、インタビューを試みている。

このインタビュー記事の中でジェンダー・フリーという概念は問題があると言う事。つまりそれではジェンダーの平等を達成する事が決して可能な状況にならないという事が指摘されている。

バーバラ・ヒューストンはジェンダー・フリーという言葉は、freedom from Gender biasの方が適していると指摘し、そこからバイアスとは何を意味するのかの議論も行われている。

短いながらも、深みのあるインタビュー記事になっている。

それに続く山口智美さんの「「ジェンダー・フリー」論争とフェミニズムの失われた10年」は、この本を読もうと思った直接の動機となった論考だ。この記事は『…戸惑い』にも数多く引用されており、この本と『…戸惑い』を連結する重要な論考として、私は位置付けたいと思う。

この論考の末尾で山口さんは

「ジェンダー・フリー」はそれまでの「女の運動の歴史」を消すことから生まれた概念だった、と私は思う。だからこそ、行政と学者が連携してつくり出した「ジェンダー・フリー」の歴史を振り返ることは、「女たちの運動の歴史」が消され、忘れられ、ないものにされていかないようにするためにも、重要なことなのではなかろうか。

と述べている。

重要な指摘だと思う。


次のV章、「バックラッシュの争点を探る」の冒頭に置かれた、小山エミさんの論考「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」を読んで、私はほとほと感心してしまった。

この難しい問題に対して、長からぬ文章の中で、よくぞここ迄論点を整理し、解説し、バックラッシャーたちへの反論として手際よくまとめてあるものだ。

『ブレンダと呼ばれた少年』とは医療ミスによりペニスを破壊された少年の個人史を綴った本の題名だ。心理学者ジョン・マネーの指導するままに女児ブレンダとして育てられた少年は、10代半ばで誰に教えられることもなく「女性」である事を拒絶し、デイヴィッドと名乗る男性として生きることを選択した。「双子の症例」と呼ばれる事件のことで、バックラッシャーから、「ジェンダー=社会的・文化的に形成された性差」という論理の非科学性を暴く証拠として採り上げられてきた。

この事件を、私は困った実例として認識していた。そして意識的に無視する態度も取ってきた。

この論考の中で小山エミさんはまず、バックラッシャーのジェンダー理解が誤読、或いは曲解である事を示し、その上で「双子の症例」をどの様に解釈するのがより科学的な態度であるかを論じている。

「ジェンダーがセックスを規定する」とは、「育ちによって男女の生物学的な性別も決まるのだという主張」(バックラッシャーたちはそう主張している)ではなく、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)というものが「自分は男性(もしくは女性、その他)である」という自己認識である以上、それは言語体系や社会のなかで自分がどこに位置付けられるかという認識であり、つねに社会的・文化的な文脈に依存したものであるほかあり得ないと言うことだ。

この小山エミさんの論考によって、私はようやく「困った実例」をジェンダー論の文脈の中で、科学的に位置付けることに成功した。


この本には他にも魅力的な論考が目白押しなのだが、具体的に採り上げるのはこの程度にしておきたい。その方が先入観なしでこの本を読む手助けになると考えるからだ。

バックラッシュは少なからぬ衝撃と動揺をフェミニズムに与えた。だがその一方でフェミニズムはそれ程時間を掛けずして、この様な深みのある論考集を出版することにも成功していたのだ。それは只単にバックラッシャーたちに反論するだけに留まらず、フェミニズム自らが抱えていた限界も見据え、突破して行く契機ともなった。

したたかでしなやかな女たちに拍手を送りたい。

実り多き論考集だと思う。

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