20170316

『これがニーチェだ』

またしても理解しないうちに、書評を書き始めている。

ニーチェと言えばフーコーやドゥルーズに影響を与えた現代思想最大の震源地である。そのように言われる場合が多い。しかしこの本ではそうした価値をニーチェに与えていない。

ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするための、役に立たない。

という立場で書かれた、個性的な、そして徹頭徹尾哲学的なニーチェ像だ。極端なことを言えばこの本で開陳されているのは、永井均という人が行った、ニーチェの勝手読みだ。だが、深く読み込まれたそれは、ニーチェを読解する上で、とても魅力的で説得力のある解説になっている。

ニーチェを理解するために第1から第3迄の3つの「空間」という比喩を導入している。

すべての対立はある空間の内部でのみ意味を持つ。しかし、空間どうしもまた─複数の空間を位置づけるより大きな空間の内部で─対立する。

この比喩の背景には筆者の、哲学は主張ではないという問題意識がある。哲学は問いであり、問いの空間の設定であり、その空間をめぐる探求であると言う。

筆者がこの本で行っているのは、ニーチェがキリスト教の僧侶や道徳に対して行ったのと同じ作業をニーチェに対して行うということなのだろうと思う。
ニーチェ的観点からのニーチェ批判である。

つまりニーチェの問いへの深い共感から永井均のニーチェを語っているのだ。その手さばきはニーチェのそれのように鋭く、容赦がない。

批判はニーチェへの信奉者にも向かう。ニーチェを必要とする人は、強さに焦がれる弱者だと断罪する。

しかしその批判はあくまでもニーチェへの共感から行われるものであり、同時に讃歌でもあるのだろう。
ニーチェの偉大さを証明するために、ニーチェ批判を行っているように、私には思える。

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