20170315

『善悪の彼岸』

未だに『ツァラトゥストラ』の余震が続いている。

丘沢訳『ツァラトゥストラ』で、『100分de名著:ツァラトゥストラ』で、ニーチェの『道徳の系譜学』を読むよう導かれる。だが、『道徳の系譜学』の巻頭には「最近刊行された『善悪の彼岸』を補足し、説明するための書物として」とあり、中山元訳『道徳の系譜学』の腰巻きには「本書は『善悪の彼岸』の結論を引き継ぎながら、キリスト教的道徳観と価値観の伝統を鋭い刃で腑分けしたものであり、新しい道徳と新しい価値の可能性を探るものとして、いまも大きな刺激を与え続けている。」とある。『善悪の彼岸』を読まざるを得ないではないか。

取り敢えず読破した。比較的長めのアフォリズムが集められている。その集められ方、配列の仕方には、どこかきちんとした体系がある事が感じられる。

だが分かったのか?と問われれば、甚だ心許ない。分かったとは即答しかねる。

『ツァラトゥストラ』に負けず劣らず理解しにくい本だった。中山元が言うようにある断章と別の断章は、いわばニーチェの思考の峰々なのだ。読者は、ニーチェの思考の糸をたどるためには、ニーチェが語ろうとして語らなかったことまでも、読み込んでみる必要があるのだろう。

峰と峰の間には谷がある。
ニーチェの谷はどこ迄も深く切り込まれている。

そこをこそ読み込みたいと願ったのだが、こちらの頼りない思考力がニーチェの思考について行けず、謎は謎のまま残った。

沢を一本踏破したと言ったところか?詰めることは出来たが、ニーチェというマップは未だに描かれる事を拒絶している。

ニーチェがなのか19世紀という時代がなのか、分からないが、強さを強さとして全面的に肯定出来る感性が、色濃く打ち出されていることを感じた。

ニーチェはまず、何よりも自らが強者である事を求めたのだろう。

そして魂の貴族趣味。

貴族道徳こそが本来の道徳であるにもかかわらず、奴隷道徳が現代で通用していることへの不満。
その原因としてルサンチマンを観ている。

思い切り乱暴に要約すればそう言うことになるのではないだろうか?


さて、次は何を読むか?だ。

このまま予定通りニーチェ著・中山元訳『道徳の系譜学』を読むか?それとも、ニーチェの考えが分からないまま読むのをここで一旦止め、ニーチェの解説書を読むか?(永井均『これがニーチェだ』と竹田青嗣『ニーチェ入門』を用意した)或いは思い切り路線を変更し、ラカンの解説書に走るか?迷っている。

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