20170202

『社会運動の戸惑い』

ジェンダーという言葉を知ったのは80年代、イヴァン・イリイチの著作からだったと記憶している。フェミニストから見れば鼻持ちならないと思われるかも知れないが、事実だから仕方がない。

ともあれ、イリイチが説く女と男の世界に驚愕し、彼の現代社会批判は深く私に突き刺さった。

以来、ジェンダーに関して、セクシュアリティに関して、敏感であろうとして来た。

その中でフェミニズムにも出会い、何故か分からないが密かに共感しても来た。

そうした私にとって、00年代の所謂フェミニズムに対するバックラッシュは、とても他人事では済まされない現象だった。

保守層にとって、ジェンダーフリーは、何故そこ迄危機意識を持って迎えられなければならない概念なのか理解の範囲を超えていた。

私もバックラッシュを前にして、戸惑い続けていたのだ。

山口智美、斉藤正美、荻上チキ『社会運動の戸惑い─フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』をようやく読了した。

この本は出るべくして出た本であり、私にとっては読むべくして読んだ本と言えるのではないだろうか?

読んでいて、出て来る具体例に対して、あ、これはあの時だ、と分かるものがとても多く、まるで知り合いが書いている文章を読んでいるような感触を、幾たびか感じ取った。

とりわけmixiなどインターネット上の議論に関しては、私自身が積極的に関わった事例であって、出て来る人物名も、既知の親しみのある人物のものが多く、懐かしさすら感じた。


この本のタイトルには複雑な思いが込められていると筆者等は言う。

フェミニズムという学問および社会運動は、00年代にいったいどの程度の効果を果たしたのか。保守運動とフェミニズムという二つの社会運動の衝突は、いったい誰を幸福にするためのものだったのか。この係争で明らかになったのは、フェミニストたちが自らの社会運動の歴史と役割を忘却しつつある、ということではないか。自らの隘路に戸惑っている社会運動の姿を記述していく作業もまた、私たち筆者にとっては戸惑いの連続だった。

からだ。


後に保守層からフェミニズムへの激しい攻撃に用いられる事になったジェンダーフリーという言葉が日本に於いて最初に使われたのは1995年、東京女性財団のハンドブック、『Gender Free 若い世代の教師のために─あなたのクラスはジェンダーフリー?』(東京女性財団1995)、およびプロジェクト報告書『ジェンダーフリーな教育のために』(東京女性財団1995)だと言う。

この文献の作成には心理学者の深谷和子、教育学者の田中統治、精神医学を専門とする田中毅という3名の学者が関わり、意外な事にフェミニズムを専門とする学者は加わっていなかった。

つまりジェンダーフリーという言葉は
(1)学校教育を対象に
(2)制度面ではなく意識・態度的側面の問題として
(3)女性運動の歴史を捨象したうえで
(4)行政指導の言葉として
1995年の日本に登場したと言う訳だ。

ラディカルさとは程遠く、反発を逃れたいが為に考案された言葉でもあった。

またこの言葉そのものが、バーバラ・ヒューストンの論文の誤読から用いられ、その後に女性学・ジェンダー学者たちが無批判に、更にその誤読を広めていった過程が述べられている。

それに対する保守層の批判も、決して学習していない訳ではないのだが、「革命」や「全体主義」、「マルクス主義」という名詞のついたタイトルが多く並び、フェミニストの左翼性を暴くという単調な形式の論調が続く。

筆者等はこの間のバックラッシュに対し、「失われた時代」と表現するしかない程なすすべなく後退し続けたフェミニズム側の言動に、実証的な研究や調査に基づく記述が見当たらない事に注目する。

そしてバックラッシュの先鋒でもあった日本時事評論の関係者や運動家、行政担当者への聞き取り作業を始める。

当初、「バックラッシュ派」は恐ろしい、おぞましいというイメージに取り憑かれていた筆者等だったが、実際に会ってみると、腰が低く、にこやかで穏やかな人であったりして、「バックラッシャー」の恐ろしい攻撃的なイメージは、自分たちが勝手に抱いていたものである事を理解していった。

また「バックラッシュ」は司令塔を持つ全国組織によるものというイメージも現実とは解離しており、柱のひとつだった男女共同参画条例づくりへの批判は地方から始まり、各地へ拡がった運動だった。

以下、そうした「草の根」の保守運動がどの様に展開されたのかが、詳しく述べられている。また、バックラッシュ派も含めて、運動を広めるに当たってインターネットをどの様に駆使したか、しなかったかも語られている。

「草の根保守運動」は勝ったのだろうか?
ジェンダーフリーという言葉は使われなくなり、条例も明らかにフェミニストたちが望んでいたものとはかけ離れた保守寄りのものになった。

だが、その間保守の側も運動が衰退したり、保守の間で分裂が起きたりしていて、とても勝利を謳う程の成果を上げていない。


筆者等がこの本で何をしたかったのかは明白だ。

「失われた時代」00年代。その無力感から何かしら取り戻せるものがあるのではないかという問いかけへの返答を試みているのだ。

その為に困難な聞き取り作業も敢行したのだろう。


この本は、丁寧なフィールドワークに基づき、バックラッシュによって「失われた時代」と考えられている時期をフェミニストの視点から振り返り、実証的に考察した労作だ。

フェミニズムに欠けていたのは実証的な検証作業であるという著者等の反省がこの本を産んだのだと思う。

極めて重要な文献だ。

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