暫く前に、リンク集、「大気圏」に『みゃるの避難日記』を置いた。
2000年の三宅島噴火は奇妙な噴火だった。
火山には大抵、それぞれ固有の癖があり、大まかに見ると大体いつも同じような噴火の形式を踏んで、同じような経路を辿る。
三宅島の直前に噴火した有珠山はその好例で、次に起こる事が大体予想出来た。
三宅島は噴火が始まると、小規模な爆発はあるが、基本的には大量の熔岩流を噴出させ、大まかな火山活動は収束に向かう。
2000年の時も大方の学者は、そしてわたしも、そのような経路を辿るものと思っていた。
だが、地下からあがって来た熔岩流は地上で流れ出す事はなく、三宅島の地下で、神津島の方向に岩脈となって入り込み、ほんの一部は海底で噴火を起こしたものの、大方のマグマは地下に留まった。
2000年三宅島噴火は、余り例のない爆発的噴火を繰り返す形の噴火となった。
『みゃるの避難日記』には三宅島の島民であるみゃるさんが、最初の噴火から、全島民避難に至るまでの貴重な、余りにも貴重なドキュメントだ。
毎年、目を通す。
2000年の噴火が起きたのは、みゃるさんが三宅島に住み始めてから8年経った時だったと『…避難日記』には書かれている。
あの日から8年が過ぎた。噴火の年に産まれた子供も、小学2年生になっている筈だ。
だが、それ程昔の事とはとても思えない。
そして、いつも戸惑う。あの日から、と、毎年思うのだが…
あの日とは、いつのことなのだろう?
最初の噴火の日からなのか、低温火砕流が流れ出し、みゃるさんがそれに巻き込まれた大噴火の日からなのか?それとも全島民避難の日からなのだろうか?
地震と異なり、火山噴火災害は、長期間に及ぶ。三宅島の島民は、全島民避難の日から5年間、三宅島に帰る事が出来なかった。
遂に帰らなかった島民も居る。
その5年間の間に亡くなってしまった方々。或いは、新しい生活を、新しい土地で始めた方々。三宅島の人口は大幅に減り、かつ、高齢化が進んでいる。
みゃるさんは三宅島にかなり早い時期に帰り、その日からの記録をBlogにまとめてもいる。
島は、容易に噴火以前には戻らない。
わたしはみゃるさんから同じ災害と言うものはふたつとしてない、と言う事を教えられた。
仮に2000年の三宅島噴火が、通常の、熔岩流を噴出させるタイプの噴火であったとしても、この事は変わりがないだろう。ただ、その事が見えにくくなるだけだ。
災害があるたびに、「…年前の教訓が生かされなかった」と、安易に書かれた新聞記事を良く目にする。
だが、…年前と「今回」は常に異なる。その事は余り触れられない。
そして、わたしも2000年三宅島噴火が起こる迄、三宅島とは、第一に火山島であり、そこに暮らす人々が居る事を忘れがちだった。
20080714
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