動揺した。
郵便が届いたのは昨日(9日)の夕刻のこと。折からドストエフスキーの『悪霊』に浸りきっており、丁度佳境を迎えつつあったので、そのままそれを読み続け、章の切れ目あたりで『海街diary』を読もうと決めていた。
しかし、梱包を開け、中の本を取り出した時、目に飛び込んで来た文字に釘付けになった。
「完結!!」
写真を見れば分かる通り、『海街diary9─行ってくる』の帯には、確かにそう書いてあった。
その文字に意味を見いだすのに、少し時間が掛かった。
遂にこの日を迎えてしまったのだ。意味を理解しても、実感が伴うには、更に時間が必要だった。
終わるのなら前の巻でも良かったのではないか?
そんな思いが胸をよぎった。
吉田秋生さんはいつも、安定したストーリーテラーだった。けれど、万が一と言う事がある。引き摺って、蛇足を描いてしまうのではないか。その事が怖かった。
慌てて『悪霊』を机の上に放り出し、『海街diary9』を手に取った。
夢中で読んだ。
杞憂だった。
吉田秋生さんはこの作品を、きちんと終わらせていた。
見事だ。
連載開始から12年が経つと言う。
長い時間だ。
けれど、私は初めて『海街diary』を目にした時の感動を、昨日の事のように覚えている。
衝撃的だった。
物語は巻を重ねるにつれ深みを増していった。
本棚の一番上、天井に届くばかりの場所に、全ての巻が置かれている。
そのひとつひとつに深い思い出がある。
背表紙だけで内容を思い浮かべる事が出来る。
12年。私の傍らにはいつも『海街diary』があった。
新しい巻が出版され、それを買い、読み終える頃、いつも、次はどうなるかが気に掛かった。
その「次」がもうない。
一抹の寂しさは隠せない。けれどそれを補う清々しさが心を占めている。
登場人物は皆、驚く程成長し、それぞれの道に旅立ったのだ。
物語の終わりに、私は精一杯の言祝ぎを贈りたい思いだ。
おめでとう。ありがとう。
『海街diary9─行ってくる』を読んでいる最中。
Twitterに兼高かおるさんが逝去されたという報せが流れた。
90歳だったという。
確実に、ひとつの時代が終わったのだ。
その事を胸に刻んだ。
天井に近い本棚の一番上に、『海街diary9─行ってくる』を、そっとしまい込んだ。
20190110
20190102
歩行のレッスン
まず姿勢。
頭のてっぺんから糸が出ていて、それに体全体がぶら下がっているイメージで、立つ。そうすることで脱力する事と、真っ直ぐ立つ事が両立出来る。
次にその姿勢を維持したまま、臍から糸が出ていて、それに引っ張られるイメージで歩く。
そうすることで、無駄な力を掛けずに、速く歩く事が出来る。
後は手を勢い良く、大きく振って、投げ出された脚を、踵から地面に着く事を意識して歩を進める。
これが、私が毎日歩く時、意識している内容の全てだ。
簡単なようでいて、なかなかに難しい。
意識してすぐは出来ていても、5分もすると乱れてきて、いつの間にか、背は丸まり、脚を引き摺るように歩いている。
これではいけない!とまた姿勢からイメージを作り上げ、手を大きく振って歩き出す。
その繰り返しだ。
毎日、家の近くの公園を、2、3周する。
感心してしまうのは、その公園の歩道が、落ち葉などで蔽われておらず、雪が降った翌日などは、きちんと雪掻きが施されていることだ。
どなたかが、毎日手入れをされているのだろう。
頭が下がる。
その好意に甘えたまま、歩行のレッスンをしている。
普通の人ならば幼児の時に、このレッスンは修了しているのだろう。だが、私は小学生2年の時、脚の手術をした時から、意識的な歩く練習を繰り返している。
大学は地質学を専攻したが、その時も、痛切に意識させられたのが、自分から歩く事の重要性だった。
私は人生の中で、歩行のレッスンを繰り返して来たような気がする。
2019年が明けた。
今年の目標として、美しく歩く事を上げてみたらどうだろうかと考えている。
毎日のリハビリに、ひとつ目標を加えてみるのだ。
久し振りに出会った人が、歩き方がかわったなと思ったら大成功。
歩くという、基本的な動作に、これ程拘らなければならなかった人生に、今度は積極的に挑んでみるのだ。
今年は、私にとっては珍しく、新年の誓いが出来た。
頭のてっぺんから糸が出ていて、それに体全体がぶら下がっているイメージで、立つ。そうすることで脱力する事と、真っ直ぐ立つ事が両立出来る。
次にその姿勢を維持したまま、臍から糸が出ていて、それに引っ張られるイメージで歩く。
そうすることで、無駄な力を掛けずに、速く歩く事が出来る。
後は手を勢い良く、大きく振って、投げ出された脚を、踵から地面に着く事を意識して歩を進める。
これが、私が毎日歩く時、意識している内容の全てだ。
簡単なようでいて、なかなかに難しい。
意識してすぐは出来ていても、5分もすると乱れてきて、いつの間にか、背は丸まり、脚を引き摺るように歩いている。
これではいけない!とまた姿勢からイメージを作り上げ、手を大きく振って歩き出す。
その繰り返しだ。
毎日、家の近くの公園を、2、3周する。
感心してしまうのは、その公園の歩道が、落ち葉などで蔽われておらず、雪が降った翌日などは、きちんと雪掻きが施されていることだ。
どなたかが、毎日手入れをされているのだろう。
頭が下がる。
その好意に甘えたまま、歩行のレッスンをしている。
普通の人ならば幼児の時に、このレッスンは修了しているのだろう。だが、私は小学生2年の時、脚の手術をした時から、意識的な歩く練習を繰り返している。
大学は地質学を専攻したが、その時も、痛切に意識させられたのが、自分から歩く事の重要性だった。
私は人生の中で、歩行のレッスンを繰り返して来たような気がする。
2019年が明けた。
今年の目標として、美しく歩く事を上げてみたらどうだろうかと考えている。
毎日のリハビリに、ひとつ目標を加えてみるのだ。
久し振りに出会った人が、歩き方がかわったなと思ったら大成功。
歩くという、基本的な動作に、これ程拘らなければならなかった人生に、今度は積極的に挑んでみるのだ。
今年は、私にとっては珍しく、新年の誓いが出来た。
20190101
ブッダの教え
実は2年前から、この本『ブッダの教え 一日一話』を読んでいた。
一日半ページの教えを、読んで思惟する。これが基本だ。
最初の年は、この一日半ページというペースがなかなか掴めず、つい読み忘れて、1週間分を纏めて読むような読み方になってしまった。
それが悔しくて、昨年ペースを守る事を主眼に置いて、再び読むようにしていた。
これはなかなか強い意志が必要な読み方であって、纏め読みしそうな日が何度かあった。
特に、脚の手術で入院した時は、危なかった。
だがどうにかこうにか、昨年は一日半ページをきちんと守って読み切る事が出来た。
内容は、ブッダの教えを、日常生活に生かせる形で、順不同で教えるというもの。
簡単な言葉で書かれているので、肩肘張らずに読んで行ける。
だが、それを実践するのはそう容易い事では無い。なかなか深い内容の教えが説かれている。
仏教は実践的である。その事をよく理解することが出来た。
面白い読書体験が出来た。
一日半ページの教えを、読んで思惟する。これが基本だ。
最初の年は、この一日半ページというペースがなかなか掴めず、つい読み忘れて、1週間分を纏めて読むような読み方になってしまった。
それが悔しくて、昨年ペースを守る事を主眼に置いて、再び読むようにしていた。
これはなかなか強い意志が必要な読み方であって、纏め読みしそうな日が何度かあった。
特に、脚の手術で入院した時は、危なかった。
だがどうにかこうにか、昨年は一日半ページをきちんと守って読み切る事が出来た。
内容は、ブッダの教えを、日常生活に生かせる形で、順不同で教えるというもの。
簡単な言葉で書かれているので、肩肘張らずに読んで行ける。
だが、それを実践するのはそう容易い事では無い。なかなか深い内容の教えが説かれている。
仏教は実践的である。その事をよく理解することが出来た。
面白い読書体験が出来た。