20210830

書評はまったくむずかしい

 最初の章「つれづれの書想」で、筆者は書評を書くことの難しさを語る。曰く

著者も出版社も雑誌メディアも、誰もが暗黙のうちに、その本の商品価値が高まることばかり期待している。真っ向からの批評など、むしろ禁じ手なのである。

だが、具体的にどの様な書評を書いて来たかを示す続く章を読み進めるうちに、筆者は書評が批評であることを、全く諦めていない事が分かる。


筆者の専門は民俗学である。なので自ずからテーマは民俗学を巡るものに収斂してゆく。この姿勢は、どの本を紹介する中でも、全くブレることがない。

どの本を扱っていても、筆者の脳裏を掠めるのは、民俗学の祖である柳田國男であり、折口信夫である。彼らをいつの日か、乗り越える事を望んでいるように読める。

しかもその乗り越え方は、あくまでも正攻法にである。

従って、柳田や折口を批判している本を論ずる時にも、その評は必然的に辛口になる。批判の方法が鈍(なまくら)だと容赦なくその批判を批判する。

筆者の取り上げる本のうち、読んだ事があるのは、半数もない。なので筆者の「批判の批判」が妥当なものであるかどうかについては、私には断定する材料がない。ただその姿勢の正しさに心を打たれるのを感じるだけだ。

批判はあるものの、取り上げられた本の書評は、概ね穏当なものであり、頭ごなしに否定している書評は皆無だった。私はむしろその本を読んでみたくなった。立派にその本の商品価値を上げていると思える。

心打たれると書いた筆者の姿勢とは、筆者が書評に対峙する時の、生真面目で誠実な態度の事だ。

筆者は、常に真剣に書評を書いているのが分かる。

だが筆者は「あとがきにかえて」で、

みずからが物した書評に群れをこうして一堂に並べてみると、まさに転びの光景ばかりで、我が事ながら胸が痛む。

と謙遜する。

同じ章で筆者は

のたうつような思いで原稿を書いて

いると白状もしている。

図書館で借りて読むべき本を、毎日ノートに付けている。

この本を読んで、そのノートに加わった本は3ページに及んだ。どの本も筆者の真摯な書評に心動かされ、どうしても読みたいと思った本ばかりだ。

良い書評は良い読書体験を保障してくれる。

日本はまだ、きちんとした書評文化が根付いているとはとても言えない状況にある。書評の書き手は十分に報われる事なく、「のたうつ」思いで、書評と向きあっているのだろう。

これからは、そうした書評の書き手の苦労に思いを馳せて、こちらも真摯に書評と向き合ってゆこうと感じさせられた。

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