20151122

『近代科学再考』

出会うのが2、30年遅かった様に思う。大学に在籍していたときこの本を読んでいたら、もっとのめり込めたかも知れない。
今私は自然科学から少し距離を置いたところで生きている。
それ故、科学と社会の関係やその歴史について、それ程切実な問題意識を持てずにいる。かつてそれと深く関係したことがある分野。現在の私にとって科学とはそうした存在になっている。

しかし、自然科学は私にとって大切な分野である事は変わりがないだろう。
未だ、地質学の発表などを見聞すると、知らず知らずのめり込んでいる自分を発見することがある。私は本当に地質学が好きだったのだと、自覚する瞬間だ。

何故地質学を続けることが出来なかったか。それを語る事はブログではとても手に負えない問題だが、地質学を使って生きて行く事が、原子力発電所の新増設に荷担することとイコールであった事を無視して語る訳には行かない。

原発産業の落とす金は地質学をも飲み込み、活断層の研究や地盤工学などを生業とする地質コンサルタントなどは、その下請けの形で仕事を貰っていた。

その事で随分私は悩みもした。

その事を思い返しても、やはりこの本ともっと早く出会っていたら、と思わざるを得ない。この本には科学が制度となり、そして体制の一翼を担うようになった過程について、そして、日本の大学理学部の歴史が詳しく語られているからだ。

もっと早く出会っていたら、地質学と原発の問題、つまり科学の体制化の問題などを、より広い見地から考えることが出来たかも知れない。


この本、廣重徹『近代科学再考』は彼が近代科学について書いた4つの文章から成っている。

丁度社会に対する学生の叛乱が起きていた'60年代後半から'70年代にかけて書かれた文章を彼の没後にまとめた本だ。

社会に対する異議申し立ては、核兵器や公害などを生んだ自然科学そのものへの批判も含んでおり、それは時に反科学論として噴出したりもしていた時期だ。

廣重徹はそれらの運動に理解を示しつつも、

そこでいっきょに反科学と非合理に身をまかせてしまうのは、科学に未来をまかせてしまった未来学の流行と同じ軽薄さを逆向きに繰り返すことになろう。

と批判している。

'60年代に世界的な科学技術振興ブームがあり、当時の反科学論はそれへの反発という側面があったのだ。

現在はどうか?

ノーベル賞などで日本人の受賞者が出ると、一瞬、科学はニュースになり、耳目を集める。だがかつてあった科学への信仰心は、正直言ってどこにも見られないように思う。子どもや若者は科学に過度の期待を抱かず、理科離れとして静かに科学に背を向けている。

理科系の大学を選択して進学した若者たちは、金の卵のように大切に扱われ、それぞれの分野ごとの閉鎖的な社会に安住してしまい、自分の選択が社会的にどの様な意味を持つのかといった疑問を抱くことなく、過ごしている。

この本に書かれていることの重要性は、一見浮世離れしているように見える科学も、社会的な現象であり、戦争を含めた世の動きとしっかり連携とって発展してきたことを、豊富な実例を挙げて論証しているところにある。

物理学がルーチン化し、新しい学問的視野を開けなくなっていることに対し、

こんにちの科学を規定している社会基盤にまでつき進むするどい批判こそが何よりも必要

とする彼の結語は現代の科学者にとっても、未だ果たせていない課題として突き付けられている。


しかしよく調べられている。

ニュートンは古典力学をほぼ完成させた偉人として認識されているが、彼は彼の万有引力の法則、また、それを含む力学の体系を正当化する上で、それを神の働きに帰している事など、この本を読むまで全く知らなかった事実だ。

彼の考えによれば

神はいたるところに偏在している。空間とは神の感覚中枢にほかならな。神はこの感覚中枢において物体の運動を感知し、それが法則どおりに行われるようにガイドする。この働きが重力なのである。ニュートンはざっとこのような解釈を、たんなる比喩でなく、文字どおりに確信していた。

のだそうだ。


この『近代科学再考』は2008年に文庫化されたが、今はもう絶版になっており、古書で入手するか図書館に頼るしかない。
私は図書館から借りて読んだが、長野の県立・市立両図書館とも在庫がなく、相互貸借制度を利用してやっと手に取ることが出来た。

内容の深さと豊かさ、そして何より必要性を考えると、余りに残念な現実だ。

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