今回は間が空いた事を認めざるを得ない。まるまる1週間空けないように慌てて書いている。
テレンス・リアルの『男はプライドの生きものだから』(講談社,2000,原題:I Don't Want To Talk About It)を読み始める。
最初原書を読み始めたのだがすぐに日本語訳が出版されている事を知り、慌てて入手した。たまに図書館なんぞに行くとこういう事になる。
だが、原書が図書館にあるということが分かっただけ良かったかも知れない。…読まないだろうけれど。
読むうちに、男になると言う事は「男を病む」と言う事なのかも知れないと思い始める。
それがこの本の主題なのだろう。
えこまさんのBlog「悟り方 女と男の違い」を読む。
男と女では(と、きっぱりと分けることが出来るかどうかはとりあえず置いといて)悟り方が違うのだそうだ。
読み始めた本と呼応して身体の中にストンと腑に落ちるものがあった。
だがこの会話が東京下町の言葉を無理やり標準とした(アメリカみたいだな…)標準語で書かれていたら大いに引っ掛かったであろう事は、容易に想像が付く。話法と言うものは物事の受け止め方の中の重要なファクターだ。と思い知らされもした。
ここでは男、女、とかなり乱暴に言葉を使って話を進めたい。
男は感→知→徳→→悟と進むのだそうだ。矢印がふたつあるのはそこをなかなか乗り越えにくい事を示す。(Blogでは図で示されていてわかりやすい)。
それに対して女は感→悟と直接進むことが出来るのだそうだ。事の真偽は女になったことが無いので分からない。
その大切な要素として家や子供の世話をすること、つまり愛情無しではやり切れない事柄を背負う事があるとの事。説得力あり。だが…う~ん、中には愛情無しでやっている人も多いのではないのかなぁ。
とりあえず、子育ては愛情無しではやりきれないだろう。だから子供と遊べない女たちが増えてきている。
男は子育てに関してはどうか?…どうしようもない。が現状だろう。子供と遊べない男たちが増えてきたとは報道されない。そんなの当たり前だからだ。
男には人を愛する能力があるのだろうか?
かなり前に真剣にその事を考えた。無いのはないか?或いは奪われているのか?
この事を裏付ける事例は豊富に知っている。
テレンス・リアルは言う。「伝統的な男女の社会化は女の子から『声』を奪い、男の子から『心』を奪う」
精神病院に通っていると女性の患者が多いことに気付かされる。
中には(以前通っていた大きな病院ほどではないが)待ち時間に耐えられず、椅子に寝転がってしまっている方も居る。
テレンス・リアルさんの本にもあったが、鬱病の患者の数は女性の方が遥かに多いと言う。
ならば男性は鬱病に罹りにくいのか?
そうとは全く思えない。
何故ならば、自殺者の数は男性の方が圧倒的に多いからだ。
自殺者の全てが鬱病だと決め付ける訳にはゆくまい。だが、鬱状態でない自殺者と言うものを想像する事は、わたしには困難なのだ。
男は精神的にも強い自分を装う。子供に対しては怒っていれば良い。所謂パターナリズムと言う奴がここで厄介な現象を引き起こす。父は強く、正しいのだ。だから息子は父親の外傷性転移、またはacting outを丸裸の状態でまともに受け止め、父親の病気をそのまま受け継ぐ。
自分を精神病だと認められない男が多い。それは自分の弱さを認めることにも繫がっていると考えるのかも知れない。
だから頑張ってしまう。頑張って、自分の病気を認めず、ころっと自殺してしまう。傍迷惑な事夥しい。
椅子に寝転がっている患者さんは殆ど全てが女性だ。男性は待合室でも頑張っている。こんな事を観察しているとリアルさんの言う事の妥当性を認めたくなる。寝転がってしまえば良いのに…わたしはそう思う。思いつつ、きちんと坐って本を読んでいる。大差ない。
少し暖かくなった。最低気温も0℃を下回ることがこのところ無い。
身体は楽なのだが、精神状態は途端に不安定になった。これは実は順番が逆で、急に鬱状態に突入してしまった事に困惑していたのだが、その時期と寒さが緩んだ時期とが完全に重なる事に、今日気が付いた。
11月中旬に沢山雪が降った。めっきり寒さに弱くなったわたしは、あまりに早い冬の到来に畏れを抱いた。不安が原因の躁鬱病ならば、ここで鬱状態に突入しても何の不思議も無い。けれど逆に精神状態は安定した。
かなり困った事だ。もはや子供の頃と違って冬は大の苦手になってしまった。その苦手な季節にしか動けないようではどうしようもない。それも、ほんの少し暖かくなった途端、乱れ始めるような安定の仕方ではどの様に生きて行ったら良いのか思案に暮れる。
子供の頃、男社会からころころと転がり落ちてしまった。この事は幸か不幸か?
コメントをするのが難しく、放置状態になってしまってすみません。
返信削除悟りの方法についてはどうだろうと思うところがありますが、男性の感性のなさにはずっと悩んでいました。これは特に、自分の親、夫、外で見かけるカップルの会話などを聞いていて思うことです。女性が感じたことを表現しようとすると男性はすぐ知識に持っていってしまう。会話の中でも感じるという部分が完全に抜け落ちている。これはどうしようもない病だという気がしていたのですが、いけださんに初めて出会ったとき、違った感性の持ち主だなと思って驚いたのを覚えています。以前葉祥明さんの話を聞いたときも、男性らしからぬ話し方に驚いたのを覚えています。その違いは何かと思うと、全てを論理にこじつけないでも安心していられる自由さ、そして、男性の共通言語に頼らないで話せるということなのかなと思いました。
もちろん、いけださん自身はそう感じていないのでしょうが、幼いときに男性社会から転がり落ちたとおっしゃるいけださんが今までの価値観とは違う何かを見せてくれているような気がします。
申し訳ありません。コメントが付いていた事に全く気が付いていませんでした。
返信削除どうもわたしは自分が書くものが他人に読まれているという自覚に欠けるところがあっていけません。
>いけださん自身はそう感じていないのでしょうが
はい、確かに…。
敗北者意識はあるのですよ。人間としてというより生物として淘汰される側になってしまったという、より根源的な敗北者意識です。
こう見えても知識欲と論理癖は人一倍あると思います。何しろ地質学者になろうとしていたのですから。
むしろ、その過程で論理の役割というものを感じて来たように思っています。論理で分かるものは論理で、そうでないものはそうでないもので対応して行かなければ論理そのものが生きてこない。
ただ、この考え方がわたしを敗北者に追いやったのかなぁ…という気もしています。
何しろ使い物にならない。
よく言われる事ですが、男はコミュニケーションに解決を求める。そうではないコミュニケーションというものをわたしは女たちから学んだように思っています。
それは一言で言えば愛という事になるのでしょうが、関係でも良い。
何の解決ももたらさない宙ぶらりんの状態のまま続けられる会話というものもあって良い。
そう感じています。