もう、昨日の事になってしまった。午前中、激しく天候が変わった。
朝、雨だったが本格的な雪になった。大粒の湿った雪だ。…と書いているうちに霙になり、止み始めている。Blogを書くのも大変だ。天候を書くだけでもどんどん変わってゆく。午後にはすっかり晴れ上がってしまった。ホワイトクリスマスが夢であるような、「普通の」冬に戻って来ているのかも知れない。
世の中はクリスマスだ。
過去に縛られているのだろうか?この時期になると気が沈む。
この時期になると収入が減るという要因も大きいと思う。世の中の人は三連休があり、年末年始の休みがあり、嬉しいのかも知れないが、わたしにとってはこの休みは失業を意味する。
そんな生き方を、若い頃からずっとして来た。東京にいる時にはしょうがないのでバイトを入れた。
殆どの時間、からかいの対象になる。世の中の人ははしゃいでいるので自分だけが軽口を叩いているのだと思うのかも知れないが、そんな客ばかりを相手にケーキを売る。または松飾りを売る。デパートの催事も良い収入源だった。
そのように土俵際でこらえて食費を確保し、独りの部屋に帰る。それが年末年始だった。
地方に来て困った事にそれらがない。単純な年末年始失業者となる。困り方も単純になった。
世の中は…そうなのだ、いつの頃からか世の中に揉まれながら、世の中に入れないような生き方になってしまった。なかなか居場所を作る事が難しい。
数年前から女房殿とふたりでクリスマスイブを祝うようになった。喜ばしい事だ。だが、それにまだ巧く付いてゆけない自分も感じている。慣れていない。
年末年始失業者なので祝い方は実に質素だ。その質素さは年々著しくなる。今年はスパゲッティーと鳥の足、それにポトフ。それでもゴージャスに感じる。こんなに贅沢していいのか?という気分になる。
どこか、ぎこちない。ここはわたしの居場所ではないと、誰かに告げられているような気分が押し寄せる。そんな筈はない。ここがわたしの居場所なのだ。
年末年始は夏目漱石を読みながら過ごす事になりそうだ。彼も、居場所を探し続けた。
20071224
20071220
意外に大切な宙ぶらりん
妙な時間に寝てしまった。お蔭で妙な時間にBlogを書き初めている。妙に宙ぶらりんな気分だ。
最近、この宙ぶらりんという状態は意外に大切なのではないかと思い始めた。
拙速な答えを出すくらいならば、宙ぶらりん状態に耐えている方が遥かに生産的だ。…生産的か?
人間にとって宙ぶらりん状態で耐えているというのは結構厳しいものがある。
肉親が重い病気を患って入院していると、例えば、その病気が癌であれば癌の本を夢中で貪り読む。何らかの答えが欲しいのだと思う。だが、大抵本には答えは書いてない。ただ、傍らに佇むしかない自分に耐えられず、病気を放ったらかしにして病気の本を読んでいるだけだ。
ならば、病んでいる人のそばに佇んで、宙ぶらりんの状態のまま看病を続けていた方が良い。これは自分自身に対しても当て嵌まる。
今日も、宙ぶらりんな日だったので、仕方なく仕事をする。
仕事時間が過ぎたら本を読む。
mixiに的外れなコメントを書く。
殆ど外に出なかった。
外に出た時、久し振りに遠くの山々が見えた。今迄雲に隠れていたのだが、その雲が上がると絵の具が塗られたようにくっきりと境を作って、見えていなかった所の白が濃くなっている。
衛星画像ではほんの小さな雲なのだが、その小さな雲は、確実にひとつ深い冬を伝える。
何故、部屋から見ないのか?
暖房費を節約する為にカーテンを閉め、防寒具を着込んで仕事をしているからだ。我ながら情けない状態だと思う。世の中ではこれを引き蘢りと言う。実際にそうだと思う。否定出来ない。
その内に、宙ぶらりんと寒さに耐えられず、布団の中に潜り込んでしまった。寝転がって本を読もうと思っていたのだが、寒くて手を出す気になれない。で、妙な時間に眠り込んでしまった。
宙ぶらりんは意外に大切だと書いたが、それはその状態を耐えて初めて言える事だとつくづく感じた。耐えられなければ単なる怠惰な状態に変貌する。
最近、この宙ぶらりんという状態は意外に大切なのではないかと思い始めた。
拙速な答えを出すくらいならば、宙ぶらりん状態に耐えている方が遥かに生産的だ。…生産的か?
人間にとって宙ぶらりん状態で耐えているというのは結構厳しいものがある。
肉親が重い病気を患って入院していると、例えば、その病気が癌であれば癌の本を夢中で貪り読む。何らかの答えが欲しいのだと思う。だが、大抵本には答えは書いてない。ただ、傍らに佇むしかない自分に耐えられず、病気を放ったらかしにして病気の本を読んでいるだけだ。
ならば、病んでいる人のそばに佇んで、宙ぶらりんの状態のまま看病を続けていた方が良い。これは自分自身に対しても当て嵌まる。
今日も、宙ぶらりんな日だったので、仕方なく仕事をする。
仕事時間が過ぎたら本を読む。
mixiに的外れなコメントを書く。
殆ど外に出なかった。
外に出た時、久し振りに遠くの山々が見えた。今迄雲に隠れていたのだが、その雲が上がると絵の具が塗られたようにくっきりと境を作って、見えていなかった所の白が濃くなっている。
衛星画像ではほんの小さな雲なのだが、その小さな雲は、確実にひとつ深い冬を伝える。
何故、部屋から見ないのか?
暖房費を節約する為にカーテンを閉め、防寒具を着込んで仕事をしているからだ。我ながら情けない状態だと思う。世の中ではこれを引き蘢りと言う。実際にそうだと思う。否定出来ない。
その内に、宙ぶらりんと寒さに耐えられず、布団の中に潜り込んでしまった。寝転がって本を読もうと思っていたのだが、寒くて手を出す気になれない。で、妙な時間に眠り込んでしまった。
宙ぶらりんは意外に大切だと書いたが、それはその状態を耐えて初めて言える事だとつくづく感じた。耐えられなければ単なる怠惰な状態に変貌する。
20071218
白き山
歯医者から帰って来る途中、北に見える飯縄山、東に見える横手山など高い山々が白く雪化粧しているのが見えた。
「なかなかいいものではないか」
そう考えた。
東京から戻って来て初めての事かも知れない。
この3・4年、冬は恐れの対象でしかなかった。戻って来た最初の冬、19年振りという大雪だったからかも知れない。その翌年にはもっと降った。ほぼ完全に、わたしは冬に敗北した。
冬は毎年やって来る災害に等しかった。
例え遠い山々であったとしても、雪が付くと恐れを抱いた。
現在も10m程高い場所に移動すれば既に積雪ゾーンに入るかも知れない。低い山々にも積雪が認められる。一昨年はこの状態になってから「止まない雪」が降り続きとんでもない事になった。我が家は豪雪地帯にすっぽりと包まれた。
もともとそれ程雪に対して備えがある家の造りを、この辺りはしていない。ここ数年雪がなかったのだろうか?1階の屋根と2階の窓との間が、ほんの10cm程しかないような「新しい造りの」家々も目立って増えていた。それらの家は、大雪の後、必ずと言って良い程、窓から雪が溶けた水を汲み出していた。まるで船だ。
iMacが来る迄、我が家の最も高価い品物は、ダイニングキッチンに置かれた大きなストーブだった。私たちはそれを「主」と読んで敬っていた。最初の2年は本当にこのストーブで救われたと思っている。
わたしたちの借家はパチンコ屋の上にある。パチンコ屋には広い駐車場があり、来る人の殆どは車でやって来る。あの豪雪の時期にパチンコ屋にやって来る人々は雪の中で毎朝行列を作っていた。
「この人達はもしかすると、働き者なのではないか?」そう思わせる迫力があった。
それらの人々の為に、毎朝、除雪車がやって来る。最初のうちは5時頃から除雪が始まった。これは拷問に等しい。多分、他の住民から苦情が出たのだろう、そのうちに除雪は6時頃から始まるようになったが、それでも静かだった雪の朝に響き渡る除雪車の轟音は苦痛だった。
今でも朝方トラックがガラガラと音を立てて駐車場に入ってくると反射的に窓から外を見る。
除雪車の騒音が響き渡ると言う事は、車の除雪も行わなければならないと言う事だ。
まず女房度の車の屋根、ボンネット、窓などから雪を落とし、その雪を然るべき場所に運ぶ。次にわたしの車が停めてある駐車場まで行き、除雪を行う。この駐車場には雪を運ぶべき「然るべき場所」が無い。ひと掬い毎に10m以上の距離を歩いて駐車場の隅に運ばなければならない。どんなに寒い朝でも身体が熱くなる。尤もその熱さはすぐに醒め、汗は瞬く間に冷たい水になる。
次は家の前の除雪を行う。
豪雪の年は雪掻きをして振り返るとかなりの雪が既に積もっていた。足元から1mも離れると10cm位ある。まるで賽の河原だ。
かくして雪景色は拷問の象徴となった。
山に雪が着くと心の中にいや〜な気分が芽生えるようになった。
雪に覆われた遠い山を見て、「いいものだな」と思ったのは何年振りだろう?少し冬に慣れて来たのかも知れない。
尤もこれは遠くから見て、という条件付きの「いいものだな」である。
豪雪の年以来、肩と腰を痛めた人は何人居るだろう。わたしはもたもたしながらやっていたので身体的な被害は被っていない。
またまた北から寒気団が押し寄せて来た。善光寺平は寒気団の縁に位置している。さて、どうなる?
とりあえず遠くの白き山を見て、「美しい」と雪への感性を取り戻そうと思っている。
考えてみると大雪が降った後の朝、すっかり晴れ上がった雪映えが好きだった。
「なかなかいいものではないか」
そう考えた。
東京から戻って来て初めての事かも知れない。
この3・4年、冬は恐れの対象でしかなかった。戻って来た最初の冬、19年振りという大雪だったからかも知れない。その翌年にはもっと降った。ほぼ完全に、わたしは冬に敗北した。
冬は毎年やって来る災害に等しかった。
例え遠い山々であったとしても、雪が付くと恐れを抱いた。
現在も10m程高い場所に移動すれば既に積雪ゾーンに入るかも知れない。低い山々にも積雪が認められる。一昨年はこの状態になってから「止まない雪」が降り続きとんでもない事になった。我が家は豪雪地帯にすっぽりと包まれた。
もともとそれ程雪に対して備えがある家の造りを、この辺りはしていない。ここ数年雪がなかったのだろうか?1階の屋根と2階の窓との間が、ほんの10cm程しかないような「新しい造りの」家々も目立って増えていた。それらの家は、大雪の後、必ずと言って良い程、窓から雪が溶けた水を汲み出していた。まるで船だ。
iMacが来る迄、我が家の最も高価い品物は、ダイニングキッチンに置かれた大きなストーブだった。私たちはそれを「主」と読んで敬っていた。最初の2年は本当にこのストーブで救われたと思っている。
わたしたちの借家はパチンコ屋の上にある。パチンコ屋には広い駐車場があり、来る人の殆どは車でやって来る。あの豪雪の時期にパチンコ屋にやって来る人々は雪の中で毎朝行列を作っていた。
「この人達はもしかすると、働き者なのではないか?」そう思わせる迫力があった。
それらの人々の為に、毎朝、除雪車がやって来る。最初のうちは5時頃から除雪が始まった。これは拷問に等しい。多分、他の住民から苦情が出たのだろう、そのうちに除雪は6時頃から始まるようになったが、それでも静かだった雪の朝に響き渡る除雪車の轟音は苦痛だった。
今でも朝方トラックがガラガラと音を立てて駐車場に入ってくると反射的に窓から外を見る。
除雪車の騒音が響き渡ると言う事は、車の除雪も行わなければならないと言う事だ。
まず女房度の車の屋根、ボンネット、窓などから雪を落とし、その雪を然るべき場所に運ぶ。次にわたしの車が停めてある駐車場まで行き、除雪を行う。この駐車場には雪を運ぶべき「然るべき場所」が無い。ひと掬い毎に10m以上の距離を歩いて駐車場の隅に運ばなければならない。どんなに寒い朝でも身体が熱くなる。尤もその熱さはすぐに醒め、汗は瞬く間に冷たい水になる。
次は家の前の除雪を行う。
豪雪の年は雪掻きをして振り返るとかなりの雪が既に積もっていた。足元から1mも離れると10cm位ある。まるで賽の河原だ。
かくして雪景色は拷問の象徴となった。
山に雪が着くと心の中にいや〜な気分が芽生えるようになった。
雪に覆われた遠い山を見て、「いいものだな」と思ったのは何年振りだろう?少し冬に慣れて来たのかも知れない。
尤もこれは遠くから見て、という条件付きの「いいものだな」である。
豪雪の年以来、肩と腰を痛めた人は何人居るだろう。わたしはもたもたしながらやっていたので身体的な被害は被っていない。
またまた北から寒気団が押し寄せて来た。善光寺平は寒気団の縁に位置している。さて、どうなる?
とりあえず遠くの白き山を見て、「美しい」と雪への感性を取り戻そうと思っている。
考えてみると大雪が降った後の朝、すっかり晴れ上がった雪映えが好きだった。
20071211
男を病む
今回は間が空いた事を認めざるを得ない。まるまる1週間空けないように慌てて書いている。
テレンス・リアルの『男はプライドの生きものだから』(講談社,2000,原題:I Don't Want To Talk About It)を読み始める。
最初原書を読み始めたのだがすぐに日本語訳が出版されている事を知り、慌てて入手した。たまに図書館なんぞに行くとこういう事になる。
だが、原書が図書館にあるということが分かっただけ良かったかも知れない。…読まないだろうけれど。
読むうちに、男になると言う事は「男を病む」と言う事なのかも知れないと思い始める。
それがこの本の主題なのだろう。
えこまさんのBlog「悟り方 女と男の違い」を読む。
男と女では(と、きっぱりと分けることが出来るかどうかはとりあえず置いといて)悟り方が違うのだそうだ。
読み始めた本と呼応して身体の中にストンと腑に落ちるものがあった。
だがこの会話が東京下町の言葉を無理やり標準とした(アメリカみたいだな…)標準語で書かれていたら大いに引っ掛かったであろう事は、容易に想像が付く。話法と言うものは物事の受け止め方の中の重要なファクターだ。と思い知らされもした。
ここでは男、女、とかなり乱暴に言葉を使って話を進めたい。
男は感→知→徳→→悟と進むのだそうだ。矢印がふたつあるのはそこをなかなか乗り越えにくい事を示す。(Blogでは図で示されていてわかりやすい)。
それに対して女は感→悟と直接進むことが出来るのだそうだ。事の真偽は女になったことが無いので分からない。
その大切な要素として家や子供の世話をすること、つまり愛情無しではやり切れない事柄を背負う事があるとの事。説得力あり。だが…う~ん、中には愛情無しでやっている人も多いのではないのかなぁ。
とりあえず、子育ては愛情無しではやりきれないだろう。だから子供と遊べない女たちが増えてきている。
男は子育てに関してはどうか?…どうしようもない。が現状だろう。子供と遊べない男たちが増えてきたとは報道されない。そんなの当たり前だからだ。
男には人を愛する能力があるのだろうか?
かなり前に真剣にその事を考えた。無いのはないか?或いは奪われているのか?
この事を裏付ける事例は豊富に知っている。
テレンス・リアルは言う。「伝統的な男女の社会化は女の子から『声』を奪い、男の子から『心』を奪う」
精神病院に通っていると女性の患者が多いことに気付かされる。
中には(以前通っていた大きな病院ほどではないが)待ち時間に耐えられず、椅子に寝転がってしまっている方も居る。
テレンス・リアルさんの本にもあったが、鬱病の患者の数は女性の方が遥かに多いと言う。
ならば男性は鬱病に罹りにくいのか?
そうとは全く思えない。
何故ならば、自殺者の数は男性の方が圧倒的に多いからだ。
自殺者の全てが鬱病だと決め付ける訳にはゆくまい。だが、鬱状態でない自殺者と言うものを想像する事は、わたしには困難なのだ。
男は精神的にも強い自分を装う。子供に対しては怒っていれば良い。所謂パターナリズムと言う奴がここで厄介な現象を引き起こす。父は強く、正しいのだ。だから息子は父親の外傷性転移、またはacting outを丸裸の状態でまともに受け止め、父親の病気をそのまま受け継ぐ。
自分を精神病だと認められない男が多い。それは自分の弱さを認めることにも繫がっていると考えるのかも知れない。
だから頑張ってしまう。頑張って、自分の病気を認めず、ころっと自殺してしまう。傍迷惑な事夥しい。
椅子に寝転がっている患者さんは殆ど全てが女性だ。男性は待合室でも頑張っている。こんな事を観察しているとリアルさんの言う事の妥当性を認めたくなる。寝転がってしまえば良いのに…わたしはそう思う。思いつつ、きちんと坐って本を読んでいる。大差ない。
少し暖かくなった。最低気温も0℃を下回ることがこのところ無い。
身体は楽なのだが、精神状態は途端に不安定になった。これは実は順番が逆で、急に鬱状態に突入してしまった事に困惑していたのだが、その時期と寒さが緩んだ時期とが完全に重なる事に、今日気が付いた。
11月中旬に沢山雪が降った。めっきり寒さに弱くなったわたしは、あまりに早い冬の到来に畏れを抱いた。不安が原因の躁鬱病ならば、ここで鬱状態に突入しても何の不思議も無い。けれど逆に精神状態は安定した。
かなり困った事だ。もはや子供の頃と違って冬は大の苦手になってしまった。その苦手な季節にしか動けないようではどうしようもない。それも、ほんの少し暖かくなった途端、乱れ始めるような安定の仕方ではどの様に生きて行ったら良いのか思案に暮れる。
子供の頃、男社会からころころと転がり落ちてしまった。この事は幸か不幸か?
テレンス・リアルの『男はプライドの生きものだから』(講談社,2000,原題:I Don't Want To Talk About It)を読み始める。
最初原書を読み始めたのだがすぐに日本語訳が出版されている事を知り、慌てて入手した。たまに図書館なんぞに行くとこういう事になる。
だが、原書が図書館にあるということが分かっただけ良かったかも知れない。…読まないだろうけれど。
読むうちに、男になると言う事は「男を病む」と言う事なのかも知れないと思い始める。
それがこの本の主題なのだろう。
えこまさんのBlog「悟り方 女と男の違い」を読む。
男と女では(と、きっぱりと分けることが出来るかどうかはとりあえず置いといて)悟り方が違うのだそうだ。
読み始めた本と呼応して身体の中にストンと腑に落ちるものがあった。
だがこの会話が東京下町の言葉を無理やり標準とした(アメリカみたいだな…)標準語で書かれていたら大いに引っ掛かったであろう事は、容易に想像が付く。話法と言うものは物事の受け止め方の中の重要なファクターだ。と思い知らされもした。
ここでは男、女、とかなり乱暴に言葉を使って話を進めたい。
男は感→知→徳→→悟と進むのだそうだ。矢印がふたつあるのはそこをなかなか乗り越えにくい事を示す。(Blogでは図で示されていてわかりやすい)。
それに対して女は感→悟と直接進むことが出来るのだそうだ。事の真偽は女になったことが無いので分からない。
その大切な要素として家や子供の世話をすること、つまり愛情無しではやり切れない事柄を背負う事があるとの事。説得力あり。だが…う~ん、中には愛情無しでやっている人も多いのではないのかなぁ。
とりあえず、子育ては愛情無しではやりきれないだろう。だから子供と遊べない女たちが増えてきている。
男は子育てに関してはどうか?…どうしようもない。が現状だろう。子供と遊べない男たちが増えてきたとは報道されない。そんなの当たり前だからだ。
男には人を愛する能力があるのだろうか?
かなり前に真剣にその事を考えた。無いのはないか?或いは奪われているのか?
この事を裏付ける事例は豊富に知っている。
テレンス・リアルは言う。「伝統的な男女の社会化は女の子から『声』を奪い、男の子から『心』を奪う」
精神病院に通っていると女性の患者が多いことに気付かされる。
中には(以前通っていた大きな病院ほどではないが)待ち時間に耐えられず、椅子に寝転がってしまっている方も居る。
テレンス・リアルさんの本にもあったが、鬱病の患者の数は女性の方が遥かに多いと言う。
ならば男性は鬱病に罹りにくいのか?
そうとは全く思えない。
何故ならば、自殺者の数は男性の方が圧倒的に多いからだ。
自殺者の全てが鬱病だと決め付ける訳にはゆくまい。だが、鬱状態でない自殺者と言うものを想像する事は、わたしには困難なのだ。
男は精神的にも強い自分を装う。子供に対しては怒っていれば良い。所謂パターナリズムと言う奴がここで厄介な現象を引き起こす。父は強く、正しいのだ。だから息子は父親の外傷性転移、またはacting outを丸裸の状態でまともに受け止め、父親の病気をそのまま受け継ぐ。
自分を精神病だと認められない男が多い。それは自分の弱さを認めることにも繫がっていると考えるのかも知れない。
だから頑張ってしまう。頑張って、自分の病気を認めず、ころっと自殺してしまう。傍迷惑な事夥しい。
椅子に寝転がっている患者さんは殆ど全てが女性だ。男性は待合室でも頑張っている。こんな事を観察しているとリアルさんの言う事の妥当性を認めたくなる。寝転がってしまえば良いのに…わたしはそう思う。思いつつ、きちんと坐って本を読んでいる。大差ない。
少し暖かくなった。最低気温も0℃を下回ることがこのところ無い。
身体は楽なのだが、精神状態は途端に不安定になった。これは実は順番が逆で、急に鬱状態に突入してしまった事に困惑していたのだが、その時期と寒さが緩んだ時期とが完全に重なる事に、今日気が付いた。
11月中旬に沢山雪が降った。めっきり寒さに弱くなったわたしは、あまりに早い冬の到来に畏れを抱いた。不安が原因の躁鬱病ならば、ここで鬱状態に突入しても何の不思議も無い。けれど逆に精神状態は安定した。
かなり困った事だ。もはや子供の頃と違って冬は大の苦手になってしまった。その苦手な季節にしか動けないようではどうしようもない。それも、ほんの少し暖かくなった途端、乱れ始めるような安定の仕方ではどの様に生きて行ったら良いのか思案に暮れる。
子供の頃、男社会からころころと転がり落ちてしまった。この事は幸か不幸か?
20071205
12月になった
5日も過ぎてから何を言い出すのか?わたしもそう思う。随分間を空けてしまったとこの前書いてから1週間が過ぎた。
5日か6日にはもっと冷え込むらしい。と書いたその5日になったが、…冷え込んでいる。
朝、外に出て、北に見える飯縄山を見た。真っ白だった。這々の体で部屋に逃げ込んだ。
4日の雪の予報は少なくとも山沿い地方では当たっていたらしい。盆地部では一瞬霙になったが、雪と称する天候にはならなかった。その一瞬の霙時間に、わたしはわざわざ通院していたのだが…。…お蔭で、待ち時間は全くなかった。
1週間も何をしていたのかと言うと、ただ本を読み続けていた。あ、仕事もしていました。ほんの少し…。
本を読むという行為が、どうしても宜しくない習慣のように思える。
大抵、本を読み続けている時、あまりものを考えていない。
と、言うと語弊があるかも知れない。本の内容を理解する為にかろうじて頭は使っているようだ。だが、それと「ものを考えている」という行為は、どこか違うような気がするのだ。
途中、Bolg『冬の砦』に「Mummified dinosaur」を書いていたので、実はBlogの間が空いたという実感はないのだ。
とは言えそれも3日の事。全体的に精神活動が低調だったという事実は確かなようだ。
何をするにも億劫で、灯油が少なくなるのも気掛かりになり点けずに過ごす。
春や夏程ではないが、頭の中がごしゃごしゃしていてかなり苦しい。このような時期には何故か精神医学や心理学の本を読んだりする。
本をはじめとして、文書を読む時、感情移入は避けられない。加えて、ただ結論が断定的に書かれているものより、基礎的なデータ、この場合臨床例という事になるのだろうが、それが含まれている本を、わたしは好む。
臨床例が頭の中に侵入して来るような気分になる。
鬱傾向は更に悪化する。
読む事への体力が無くなって来たのだろうか?
バランスを保とうと、詩や小説、ヨーガの本、なども読む。
しかし、いつの間にか論文が最も読みやすい頭になっている自分に気付く。
論文にはきちんと引用文献が示されている。そうすると重要な文献というものが自ずから分かって来る。J.L.ハーマンの『心的外傷と回復』は、どの論文にも引用されている。これは読みたい。しかし、…高価い。
Webでこの本のダイジェストというか、輪読の為のレジュメが載せられているものを見付けた。最初はありがたいと思ったが、それを読んでいるとなおの事本をきちんと読みたくなる。
本を読みつつ、このサイトで自分の理解度を確かめたくなるのだ。
また、灯油の値段が上がった。
夕食に、シチューを食べる。少し、身体が暖かい。
5日か6日にはもっと冷え込むらしい。と書いたその5日になったが、…冷え込んでいる。
朝、外に出て、北に見える飯縄山を見た。真っ白だった。這々の体で部屋に逃げ込んだ。
4日の雪の予報は少なくとも山沿い地方では当たっていたらしい。盆地部では一瞬霙になったが、雪と称する天候にはならなかった。その一瞬の霙時間に、わたしはわざわざ通院していたのだが…。…お蔭で、待ち時間は全くなかった。
1週間も何をしていたのかと言うと、ただ本を読み続けていた。あ、仕事もしていました。ほんの少し…。
本を読むという行為が、どうしても宜しくない習慣のように思える。
大抵、本を読み続けている時、あまりものを考えていない。
と、言うと語弊があるかも知れない。本の内容を理解する為にかろうじて頭は使っているようだ。だが、それと「ものを考えている」という行為は、どこか違うような気がするのだ。
途中、Bolg『冬の砦』に「Mummified dinosaur」を書いていたので、実はBlogの間が空いたという実感はないのだ。
とは言えそれも3日の事。全体的に精神活動が低調だったという事実は確かなようだ。
何をするにも億劫で、灯油が少なくなるのも気掛かりになり点けずに過ごす。
春や夏程ではないが、頭の中がごしゃごしゃしていてかなり苦しい。このような時期には何故か精神医学や心理学の本を読んだりする。
本をはじめとして、文書を読む時、感情移入は避けられない。加えて、ただ結論が断定的に書かれているものより、基礎的なデータ、この場合臨床例という事になるのだろうが、それが含まれている本を、わたしは好む。
臨床例が頭の中に侵入して来るような気分になる。
鬱傾向は更に悪化する。
読む事への体力が無くなって来たのだろうか?
バランスを保とうと、詩や小説、ヨーガの本、なども読む。
しかし、いつの間にか論文が最も読みやすい頭になっている自分に気付く。
論文にはきちんと引用文献が示されている。そうすると重要な文献というものが自ずから分かって来る。J.L.ハーマンの『心的外傷と回復』は、どの論文にも引用されている。これは読みたい。しかし、…高価い。
Webでこの本のダイジェストというか、輪読の為のレジュメが載せられているものを見付けた。最初はありがたいと思ったが、それを読んでいるとなおの事本をきちんと読みたくなる。
本を読みつつ、このサイトで自分の理解度を確かめたくなるのだ。
また、灯油の値段が上がった。
夕食に、シチューを食べる。少し、身体が暖かい。