20071111

古本屋三昧

この頃、古本屋ばかり覗いている。

駅前には大きな本屋があるのだが、同時に古書センターも近くに出している。
たまに新刊本で買った本が、古書センターにあると断腸の思いに駆られる。

先月、その古書センターで岩波書店が昔出していた『漱石全集』を購入した。これは安価い買い物だったのだが、総額としてはかなりの出費を強いられる結果となった。そのあおりを受けてなかなか本を買う事が出来ない。
そうした状況の中では、「断腸の思い」は避けたいので最初に古書センターに入る。

当然そこにも本は売るほどある訳で、中には滅多にお目に掛からない様な本もある。

今度来た時に買おう。そう思ったまま2度とお目に掛からなくなった本は一体どの位あるのだろう。
そうした経験を積み重ねているうちに、「これは!」と思う本は衝動買いする癖が付いた。明らかな悪癖だと思う。

従って、予算が少ない時には、新刊本屋に辿り着く前に資金が尽きる。

昨日も同じパターンだった。
しかも、それが無駄遣いであることはわたし自身が充分に自覚している。何しろ既に持っていて、本棚のどこにあるのかさえも覚えている本を2冊も購入したのだ。

無論、全く同じ本ではなく文庫本やペーパーバックでは持っているが、出来れば単行本で読みたかったと常々思っていた、まさにその単行本が古書センターに待ち受けていたのだ。

1冊はJ.R.ヒメネスの『プラテーロとわたし』(伊藤武好,伊藤百合子・訳,理論社,1970)。最初は印刷だと思い込んでいたのだが、この本に描かれている長 新太のイラストが何故かカラーだった。肉筆らしい。しかも相当手馴れた筆遣いと色彩のセンスを感じさせる。

どうでも良いが、わたしはスペイン語版を含め、既に『プラテーロとわたし』を何冊か持っている。それぞれに少しずつ異なる。ギター演奏による『プラテーロとわたし』もある。認めたくはないが、わたしは『プラテーロとわたし』コレクターになりつつある。ライバルの出現がないことを望むばかりだ。

もう1冊はヘルマン・ヘッセの著作の中から蝶に関する話を抽出してフォルカー・ミヒェルスが編集した『蝶』(岡田朝雄・訳,朝日出版社,1984)。本を厳選し、いざこれからレジに向かおうとした瞬間、目に飛び込んで来た。逆らい切れなかった。

本屋には、本の背表紙を読むという楽しみもあるような気がする。

最近は本屋にも個性がなくなってきたが、それぞれの本屋にはそれなりの「顔」がある。或いはあった。
新刊本屋には現代に触れると言う楽しみもあるのかも知れない。

現代に触れるのは悪くない。だが、わたしの周囲には何故か読書家が多く、それらの方々が進めて下さる本を全て買っていたら恐らく図書館が必要になる。現実的にはそれ以前に破産すると思う。

最近古本屋しか覗かなくなって、どうも読書傾向が自分の過去に遡っているような気がする。

北 杜夫だの辻 邦生だの、挙句の果てにはダンテ、ロマン・ロランなどの古典ばかり読んでいた時期もあった。
古典だとまだ格好も付くのだが、「どくとるマンボウ」シリーズに現を抜かしていた時は自分でも恥ずかしかった。…ちなみにその古臭い時期や恥ずかしい時期はまだ過去のものではない。

昨日は山村暮鳥の詩集も買った。この詩人の詩を読むのは何十年ぶりだろう。

高校の一時期熱中した小川国夫の『アポロンの島』も手に入れた。

これだけ買えばどれ程安価でも、資金は尽きる。

にもかかわらず、諦めた本。新刊本屋にあることが分かっている本が気になって仕方がない。

『アポロンの島』はやはり良い。
かなりの知識と読解力を要求する本だと思う。まだ、本の僅かしか分かっていない実感がある。けれど、その行間から立ち昇って来る「そぎ落とされたもの」が再読を誘う。

しかし、ここに描かれたヨーロッパも日本も、現代のものではない。

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