20240116

四つの未来

始まったばかりだが、今年読んだ最もショッキングな本になる予感が強くある。

資本主義が限界を迎えつつある。それを指摘する本は数多ある。だが、それでは資本主義の次に来る社会は何か?と言う問いに十分な説得力を持って展望している本は少ない。

本書はその少ない本の中でも、最も説得力とリアリティを持った本のひとつに数えられるだろう。


本書では、既に資本主義の限界を強く訴えない。それは既定の事として、認識されている様に思う。筆者が現代の問題として挙げるのは、エコロジカルな破局と自動機械(オートマトン)の隆盛と言う事実(!)だ。その上で筆者は資本主義後の社会として、コミュニズム、レンティズム、ソーシャリズム、エクスターミニズムの四類型を挙げている。つまり資本主義後の世界として、ふたつのユートピアとふたつのディストピアを想定しているのだ。

だが(筆者が「結論」で強調している様に)この著作は未来予測(フューチャーリズム)の試みではない。

何故ならば、そうした予言と言うものは、これまでに相当外れてきたし、それだけではなく、予言は、宿命のオーラを醸し出し、それによって私たちを傍観者にし、運命を受動的に甘受する様に促してしまうからだ。

本書がひとつの未来ではなく、四つの未来を描いた理由は、自動的に起きる事など何もないと言う事を示す為だと言う。前途を定めるのは、私たち自身なのだ。

本書を読めば、レンティズムとエクスターミニズムが悪の側、ソーシャリズムとコミュニズムが善の側の希望を表現していると考えるだろう。だが、これらのどれもが純粋な形態で可能であることはない。端的に、歴史はそうするには余りに複雑なものだからだ。そして、現実の社会は、いかなる理論的モデルのパラメーターを超えている。

それ故、私たちは最終的な目的地の正確な性格よりも、こうしたユートピアやディストピアに向かう過程に特に関心を寄せるべきなのだ。とりわけユートピアに向かう道のりは、必ずしもそれ自体がユートピアではないが故にそうなのだ。

豊かさと平等の世界への移行は、波乱と抗争に充ちたものになるだろう。富裕層が自らの特権を自発的に手放す事がない(その可能性の方が大きい)とすれば、実力で没収せねばならないのだが、そうした闘争は双方の側に、悲惨な結果をもたらす可能性がある。フリードリヒ・ニーチェが有名なアフォリズムに於いて述べたように「怪物と闘う者は、そのため己自身も怪物とならぬよう気をつけるが良い。お前が永い間深淵を覗き込んでいれば、深淵もまたお前を覗き込む」。

だが筆者が四類型を提出する中で、エクスターミニズム(絶滅主義と訳せば良いだろうか?)の記述が持つ、既に始まっているのではないか?とすら思わせる、切羽詰まるようなリアリティは何なのだろうか?

繰り返しになるが、本書は読者に対し、歴史の傍観者になる事を、強く拒否するよう促す。現在進行中の資本主義の崩壊を傍観しているのならば、その後に訪れるのは、エクスターミニズムのそれに他ならないのだ。

本書は未来を建設する上で、読者にその主体である事を強く促している。私はそのメッセージを、確かに受け取った。決して心地よくはない、本書の読後感と共に、その決意は強くある。

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