20151110

『私家版・ユダヤ文化論』

養老さんが推すだけのことはある。そう思った。よく考えられている。どれだけ理解出来たかは甚だ心許ないが、緻密でダイナミックな思考がとんでもない深さで展開されていることは分かった。
ユダヤ人という人びとが存在して、彼らは歴史的にも現実的にも差別されている。このことを私たちは漠然と、当たり前の事のように考えている。

そうなのだろうか?

この本は「ユダヤ人とは誰のことか?」という問いで始まる。

分からないのだ。

そこで著者は本の目的を変更する。

小論において、私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは「ユダヤ人というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ、そして、この概念を理解するためには、私たち自身を骨がらみにしている民族誌的偏見を部分的に解除することが必要であるということ、この二点である。

ユダヤ人がユダヤ人であるのは、彼を「ユダヤ人である」とみなす人がいるからである。

私たちはユダヤ人の定義としてこの同語反復意外のものを有していない。

ユダヤ人は国民ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことでもない。

サルトルは語る
「ユダヤ人とは他の人びとが『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである」

この様にこの本はユダヤ人とは誰のことかという問いは回答不能であるということの記述から始まり、見事な文化論になっている。

その中でも、人間は不正をなしたがゆえに有責であるのではない。人間は不正を犯すより先にすでに不正について有責なのである。というレヴィナスの「アナクロニズム」の考え方を元に展開される考察はフロイトの「原父殺害」のシナリオに付きまとう不自然感に見事に答えている。

ユダヤ人とは?という問いは、「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合かという問いにも置き換えることが出来るのだろう。

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