20140426

『わたしの非暴力』

それ程頻繁に起こることではないが、時折それまでの全ての読書、全ての体験が一冊の本に収斂してゆく瞬間を持つことがある。その本を読むために全てがあったように感じるのだ。
今回この本、マハトマ・ガンディーの『わたしの非暴力』がそれだった。

考えてみるとジーン・シャープの『非暴力行動の198の方法』を訳した私が、今迄この本を読んでいなかったことは、私の思考がいかに不十分だったかを物語るものと指摘されても私は反論できないに違いない。

活字が予想以上に細かなものであったにせよ、この本はそれ程浩瀚な本ではなかったし、選ばれている言葉も驚く程難解なものではなかった。しかし結果として私は4月というひと月をこの本を読むことに費やした。

それはこの本が深い内容を持ち、ひとつひとつの文章を読み終える度に長い思考の時間を持つことを必要としたことが主な理由だ。

抵抗運動を実践するに当たって、暴力をどの様に考えて行くかは私にとって長い間大きな懸案事項だった。

しかしその課題もそろそろ結論を得ることが出来たように思っている。

無論容易い選択でないことは、この本を読了した今、以前に増して理解出来るようになっている。だが宣言して構わないだろう。

非暴力を!

それが、ようやく獲得できた結論だ。

時代もやっとマハトマ・ガンディーに追い付くことが出来てきたのではないだろうか?

そんな感触を持っている。


この2冊の本の中で、とりわけどこを読んだら良いのかと問われたら、私は迷うことなく第69項の「クイット・インディア(インドを出て行け)」決議の演説を上げるだろう。

これはガンディーの生涯にわたる反英抗争の最後を飾る、しかもイギリスのインドからの即時撤退を要求する「最後通牒」だった。

ガンディーは何よりも、民族の統一戦線の急務を呼びかけ、20年間蓄積してきた大衆のエネルギーを非暴力の内に結集し、まさに「行動か死か」のスローガンのもとに新しい大衆非協力運動を開始しようとしていたのだ。

この演説は、この本の中の圧巻であるばかりではなく、インド独立運動史の一大記念碑である事は疑いない。


しかしどうしても気になるのはその直前に置かれた第67項「すべての日本人に」だ。

この項はこうして始まる。

最初にわたしは、あなたがた日本人に悪意をもっているわけではありませんが、あなたがたが中国に加えている攻撃を極度にきらっていることを、はっきり申し上げておかなければなりません。あなたがたは、崇高な高みから帝国主義的な野望にまで堕してしまわれたのです。あなたがたはその野心の実現に失敗し、ただアジア解体の張本人になり果てるかも知れません。

私たちは私たちがガンディーから、このように見られていたことを再度自覚しなければならないだろう。

ガンディーは更に言う。

情け容赦のない戦争がだれの独占物でもないことに、あなたがたが気づかれていないというのは驚くべき事に思われます。たとえそれが連合国でなくとも、どこか他の国が、きっとあなたがたの方法に改良を加え、あなたがた自身の武器をもってあなたがたを打ち負かすことでしょう。かりにあなたがたが戦争に勝ったとしても、国民が誇りに思うような遺産をなに一つ遺すことにはならないでしょう。どんなに巧妙に演出されても、残忍な行為の独演会に国民は誇りをもつことはできないからです。また、かりにあなたがたが戦争に勝ったとしても、それは、あなたがたが正しかったということの証明にはならないでしょう。それはただ、あなたがたの破壊力のほうがまさっていたことを示すだけです。


この本の最後の100ページには頻繁に「死」という言葉が出て来る。それはガンディーが殆ど死と隣り合わせに生きていたことを示しているのだろう。

非暴力は弱者の方法では無い。ガンディーは何度もその言葉を繰り返している。

確かに非暴力は常に死と隣り合わせに存在する、命がけの行為なのだ。


1948年1月30日午後5時過ぎに、ガンディーは夕べの祈祷集会に出るためにビルラ邸の庭に出た。そこには500人位の会衆が待っていた。ガンディーの姿を見て、ある者は立ち上がり、ある者は身を低くして敬意を表した。ガンディーは合掌のあいさつを以て応えた。その時、ひとりの若者が群衆をかき分けて進み出ると、ガンディーの前に跪くようにして身をかがめた。誰の目にもガンディーの祝福を受けに出たように思われた。その瞬間、男はやにわにピストルを取り出すと引き金を引いた。
小さな自動装置のピストルから3発続けて銃弾が発射された。
ガンディーの合掌していた手はだらりと下がり、その場に崩れ落ちるように斃れた。斃れる瞬間ガンディーは「ヘー・ラーマ(おお、神よ!)」とかすかに神の名を呟いたという。
ガンディーはピストルを発射した男に対し、額に手を当て、「あなたを許します」というサインを送っていたとされている。
享年79歳だった。

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