20130520

不可解への耐性

FacebookでIさんから問い合わせがあった。

カフカの言葉なのだが、出典は分からないか?

よくぞ私を指名して下さったものだと感激すらした。うっすらと知っている。

「真理をおびて始まるものは、結局は不可解なものとして終わらなければならないのだ」

それは狩猟採集民のコスモロジー 神子柴遺跡 [新刊]と題して記されたBlogのエントリの中にあった。

自分を過大評価する訳ではないが、私以外の人をターゲットにしていたら、おそらく不明のままだったと思う。

私はこの言葉をドイツ語で知っていた。

” Erzählungen Und Kurzprosa Von Franz Kafka "という冊子が家にある。その中で読んだ記憶があった。

" Prometheus "という一文だ。

試しに「カフカ プロメテウス」で検索してみたが、案の定何も引っ掛かってこなかった。

全文を書き出して、拙訳と共に答えとした。


Prometheus

Von Prometheus berichten vier Sagen: Nach der ersten wurde er, Weil er die Göttr and die Menschen verraten hatte, am Kaukasas fest geschmiedet, und die Götter schickten Adler, die von seiner immer wachsenden Leber fraßen.
Nach der zweiten drückte sich Prometheus im Schmerz vor den zuhackenden Schnäbeln immer tiefer in den Felsen, bis er mit ihm eins wurde.
Nach der dritten wurde in den Jahrtausenden sein Verrat vergessen, die Götter vergaßen, die Adler, er selbst.
Nach der vierten wurde man des grundlos Gewordenen müde. Die Götter wurden müde, die Adler wurden müde, die Wunde schloß sich müde.
Blieb das unerklärliche Felsgebirge. - Die Sage versucht das Unerklärliche zu erklären. Da sie aus einem Wahrheitsgrund kommt, muß sie wieder im Unerklärlichen enden.



プロメテウス

プロメテウスについて四つの言い伝えがある。
第一の言い伝えによれば、彼は神々の秘密を人間に洩らしたのでコーカサスの岩に繋がれた。神々は鷲を使わし、その鷲はプロメテウスの肝臓をついばんだ。しかしついばまれても、ついばまれても、そのつどプロメテウスの肝臓はふたたび生え出てきたという。
第二の言い伝えによれば、プロメテウスは鋭いくちばしでついばまれ、苦痛にたえかね、深く深く岩に張り付いた。その結果、ついには岩と一体になってしまったという。
第三の言い伝えによれば、何千年もたつうちに彼の裏切りなど忘れられた。神々も忘れられ、鷲も忘れられ、プロメテウスその人も忘れられた。
第四の言い伝えによれば、誰もがこんな無意味なことがらには飽きてきた。神々も飽きた。鷲も飽きた。腹の傷口さえも、あきあきしてふさがってしまった。
あとには不可解な岩がのこった。言い伝えは不可解なものを解きあかそうとつとめるだろう。だが、真理を帯びて始まるものは、所詮は不可解なものとして終わらなくてはならないのだ。



絶望名人カフカは、言い伝えの放つメッセージを掴みかねて、この最後の言葉を書き記したのかも知れない。

しかし、その言葉の持つメッセージは、言い伝えの放つメッセージと呼応して、深く胸に刻まれる。


アインシュタインは「宇宙に関する最も不可解なことは、それが理解可能であるということである」という言葉を残している。

これは、分かるという事がいかに不思議な現象であるかを指し示している。

私たち現代人は、そして(多分)日本人は分からないことを恥のように感じて、早急に分かることを求めたがる。
だが、分かるとはそれ程迄に浅い行為なのだろうか?

私たちには決定的に不条理や不可解、わからないということへの耐性を欠いていると感じる。分からないの中に佇む時間が、余りにも短すぎるのだ。


恐らく(この本は読んでいないのだが)神子柴遺跡の発掘物をまとめた研究者は、それが持つメッセージの豊穣さに比して、自分が辿り着くことが出来たメッセージの(相対的な)少なさに圧倒されたのではないだろうか?

カフカの短文を手がかりにその思いに思いを馳せてみる。

言い伝えと遺跡が持つコスモロジー。

そしてやはり辿り着く分からないという状態。

恐らく、分からないという事への耐性を育まねば、表現すると言うことに必然的に付いてくる猥雑さを振り払うことは出来ないのだ。

分からないという海に潜り込むことによって、意味の海女たる私たちは、一つかみの真理を深い海底から拾い上げることが出来る。 

圧倒的な海の豊穣さから比べると、そのつかみ取った真理は本当に僅かなものなのかも知れない。

だが、豊穣な海に潜ったという行為が、獲得した真理の有意義さを保証しているように思うのだ。

海に潜るとは、分からないという事に耐性を持つと言うことなのではないか?


ニュートンもこんな言葉を残している。

Newton’s Great Ocean of Truth

I do not know what I may appear to the world, but to myself, I seem to have been only like a boy playing on the seashore, and diverting myself in now and then finding a smother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me.


Sir Isaac Newton


私は、世間からはどう思われているか知らないが、私自身はといえば、目の前に未だ知られざる大いなる真実の海が横たわっているというのに、海辺ですべすべした小石や美しい貝殻を見つける砂遊びに夢中になっている頑是無い子供のようなものにすぎないと思っている。

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