20130416

輪郭を取り戻そう

これは瓜南直子さんの言葉だ。

2011年の11月1日、twitterでつぶやかれている。

輪郭を取り戻そう。人として。

2年近く経って、今私も同じ思いでいる。


昨日はBlogを休んだ。
今年に入ってから、意識してBlogを毎日付ける事を自分に課していた。昨年迄、余りにもBlogを放置してきたと思えたからだ。


継続は力なり。その言葉を信じて来た。
ある一定の努力を継続して支払うこと。それで、私は人生をしのいできたとも思っている。

取り敢えず2ヶ月は、毎日更新し続けた。そして、全てのBlogを動かす事も出来た。これは正当に評価したい。

だが、どうなのだろう?
継続することが自己目的化してしまい、私自身が急かされてやっている。そうした傾向はなかっただろうか?


昨日、銀行から支払い請求が来た。
いつの間にか、残高が足りなくなっていたのだ。

そんな筈は…!

しかし現実は思い込みを打破する。

いつの間にか、それ程迄に私は買い物を続けていた。


主に本だ。
それも、Blogに載せる為に読んだものが多い。

毎日書く為に、1日最低1冊は読んできた。それは良いだろう。しかし、ちょっと時間がかかりそうな本は後回しにもしてきた。
更に既にBlogに載せてしまった本は、気になっても再読しないようになっていた。

読んだ本についてBlogで紹介するという域を超えて、Blogを書く為に本を読む状態になっていたのだ。

明らかに本末転倒である。



躁病の時期にある。

破滅を爪先で堪えている。
そんな感覚は持ってきた。

自分なりに精一杯の自制心を働かせもして来た。

だが、小さな破滅はやって来た。


支払えない金額ではない。
株にも手は出していないし、無論、映画を作ろうとかもしていない。

破滅とは程遠いかも知れない。

それでも身の丈に合ったお金の使い方からは逸脱していたようだ。


躁病で、幾つも被害は出ていた。


躁病の時の困った点は、何事かをしでかしてしまうことだ。


鬱ならば、殆ど生きた屍なので、何も出来ない。
何も出来ないまま時は過ぎてゆくので、苦しいが実生活の被害は意外と少ない。

しでかした失敗の傷跡はきちんと後に残る。

躁状態に陥って、その影響で大切な人が何人去ってしまった事か。

それでも死にたくならないのは鬱ではないありがたさなのだが、しんどさは変わらず感じ続ける。


躁状態で困るのは、それを宣言しても、廻りの人が誤解して、楽しい時期なのだと思ってしまう事だ。
苦しさは、鬱状態と余り変わらない。
頭の中を強引にかき混ぜられるような混乱が続き、時に悲鳴をあげる。

踊り続けるしかない赤い靴を履かされているように、様々な事が止められなくなるのだ。

物事に強迫的に急き立てられ、自分がコントロール出来なくなる。


或いはBlogも同じように強迫的に続けている事のひとつだったかも知れない。


夜中、眠れないままに、そうした自分の中の強迫的なものを数え上げていた。


流石に自分の異常さに気が付いた。
変えよう!そう決心したのだ。

そして、瓜南さんのBlogを開いてみた。
もう一度 蜻蛉島の美しさを。

(済みません瓜南さん。絵も一緒に引用させて頂きます。)

これは2011年の3月27日、東日本大震災の殆ど直後に書かれたエントリだ。この文章に今とても共感する。

この絵は

面の中に閉じ込められていた娘が、まじないを解かれて初めて自分の目で世界を見た、と言うイメージを描いてみた。
と瓜南さんは言う。

Blogを書き続けるという「まじない」から解かれて、私はようやく自分を取り戻す事が出来たのかも知れない。

Blogを書かないでいる事が苦痛である程に、私は私に「まじない」を掛けていた。


更に瓜南さんはBlogに書いている。

1995年のオウムと神戸の震災の時にあふれる情報から身を守る方法を見つけた。
それは単にテレビを切ることだった。

これでもかと押し寄せてくる映像の波にのまれ、テレビの前から動けなくなった私は、一日中ベッドの中でテレビを見ていた。
頭の中は痛ましい映像に埋めつくされ、2ヶ月くらい何もできなかった。
オウムがワイドショーや特番で繰り返されるようになって、ようやく自分のおかしさに気がついた。
「目をそらしてはいけない」思いだけにとらわれていたのだ。
そして私はモジュール線をはさみで切った。それきりテレビを見ていない。
もちろん、現実を確認することは大切だ。
けれど、被災者の現実がテレビで共有できるわけではない。
へとへとになって自分の思い上がりに気が付いた。
自分の立っている場所で、なすべきことをするしかないのだ。
もちろん、痛い思いはみな同じ。
けど、立ち直れる人から立ち直って、すべきことをするしかない。
のまれてしまっては一歩も進めない。


読んだばかりの時は凄いな…と思っただけで、保存もしなかったのだが、今回とても気になって探し出した。

これは、まさに今の私への警告だ!

私は震災直後の思いを取り戻そうとして、のまれていた。

確かに、のまれてしまっては一歩も進めないのだ。


同時にtwitterの使い方を大幅に変える事にした。

今迄蕎麦屋に通っている事と体重の増減をしつこく記録していた。それを止める!


先ず、今日から蕎麦屋「山とも庵」への日参を止める事にした。

ここはとても美味しいお蕎麦屋さんなのだが、その為に通っていると言うよりは、ゲームに勝利したい為に通っていたようなものだ。

ここの店の良さは、伝わる人には十分伝わっただろう。


そして体重。

これも朝夕生真面目に記載し続けた。断煙の影響で、かなり増えた時期もあったが、それは過去の事だ。もう十分だ。それにこれを読んで、 面白がる人が果たしているだろうか?


このふたつを理由に私から去って行った人の方が遙かに多いだろう。

私は何故このふたつを続けていたのだろうか?


失ったものは二度と戻っては来ない。
それは無慈悲な現実というものの恒であろう。

取り戻す事は殆ど諦めた方が良さそうだ。

だが、ここで人としての輪郭を取り戻しておかないと、本当に私は破滅するだろう。


独り身だったらいくら破滅しても構わない…事はないか。破滅はよした方が良い。

だが、共同生活を営んでくれる人がいるのに、おめおめと破滅する事は許されない。


これから銀行に行き、不足分のお金を入金する。

不安定な将来の為にして来た貯金を切り崩し、それを支払いに充てる。2、3ヶ月は買い物も出来ないだろう。


しかし、本棚に、Kindleの中に、溢れかえる程の本は既にあるのだ。


ようやく目が醒めた。

だが、だからと言ってすぐにBlogが変わるとは思えない。

この先、何度も覚醒を繰り返すような気がする。今回で終わりではない。これを覚醒の始まりと認識すべきだろう。

もう2度と自分に「まじない」を掛けないように!



このBlogも、どちらかと言うと空疎なお喋りに堕していたところがあるかも知れない。言葉のゴミ箱を開陳しようなんぞ、大した失敬だ。

お喋りが上手な人は確かにいる。だが、私はそうした軽妙なお喋りの人ではない。どちらかと言うとお喋りは苦手だ。黙っている方が性に合う。そんな私の無駄なお喋りは人を疲れさせるだけだろう。

それを気付かせてくれた幾多の方々には感謝のしようもない。


さて、行動だ!

人としての輪郭を取り戻す為に、行動を開始しよう!!

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